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市長のお仕事

作者: 濱野乱


高価な油絵、壺などの調度品が、市長室の半分を占領している。


前任の市長の趣味がよろしくなかったのであろう。高尚さを求めて、あれもこれもと勧められるまま買い求めたのだ。


現市長はそんな遺物に目もくれず、地上二十階の窓から街を見下ろしていた。


天気がいいと、雲間からわずかに混雑する道路状態がわかる。彼のささやかな楽しみだ。


市長は、御年五十九の、肥満体型の男だ。やかん頭に、皺のよった目はいつも不機嫌そうに細められている。イタリア製のスーツは、パツパツで、いつボタンが吹き飛んでもおかしくなさそうだった。 


ノックがあると、彼はすぐさま執務机につく。飴色の机は木目がさえ渡る。掃除が行き届いている証拠だ。


「失礼します、市長」


秘書が颯爽と現れる。長身スーツ姿、切れ長の目に、細いフレームの眼鏡をかけた妙齢の女性だ。


「判子をお願いします」


ズドンと、机を打ちつけるように、書類の山が築かれた。


市長は書類に視界を塞がれ、目がしょぼしょぼした。

 

「何の書類だ」


「橋に道路にダムにビルに学校に幼稚園に病院にアウトレットの認可を求める書類です」


秘書は、自慢気な声でそう言った。


「昨日もそのまた昨日も同じ書類に判を押した」


「昨日の昨日は、一昨日です。市長」


秘書は細かな間違いを見逃さない。すかさず訂正する。


「……、もういい。下がりなさい」


秘書を部屋から追い出すと、不機嫌な顔で仕事を始めた。書類は格式ばった文言でびっしり、蟻のような細かい字で書かれている。


老眼鏡を買わないといけないなと、市長は思った。最近忘れっぽいので、手のひらに書いておく。眼鏡を買う。


「失礼してもよろしいでしょうか」


お伺いを立てるように、扉の隙間からのぞいていたのは、オーバーオールの少年だった。金髪に鼻の当たりにそばかすが目立つほっそりとした清掃員だ。


市長は彼に気づくと、うんと背筋を伸ばし背もたれに寄りかかった。市長は、市民に対し、常に威厳を保つ責任を負う。


この少年はいつも市長が椅子についてから、清掃の仕事を始める。常識を鑑みるに、市長が姿を表す前に仕事を終えるのがプロというものであろう。


市長は今日こそは不当を訴えると、朝目覚めた時から決めていた。


「ちょっと君!」


少年は壷を空布巾で健気に拭いていたが、その手を機械のごとき精密さで止めた。


「はい、市長」


「どうして儂が注意したかわかるね」


少年は両腿に腕をつけ傾聴していたが、そわそわと革靴のかかとを浮かせ始めた。


「発言よろしいでしょうか」


「いいとも」


「僕は清掃員です。その良心に恥じるようなことは一切していないと誓います」


少年のサファイアのような美しい瞳からは、仕事に対する誇りがありありと感じられた。


「よろしい。仕事に戻りなさい」


市長は疑義を差し挟むのをやめた。少年にも少年の事情があるのだと言い聞かせて。


思えば厄介事を押しつけられて、NOと言えずにいた人生だった。市長にだって、なりたくてなったわけではない。対立候補が女性蔑視的発言をしたため、なし崩し的に椅子に座らせられたに過ぎない。


あまつさえ、清掃員にすら文句を言えないとあっては、ストレスは増すばかりである。


「失礼ながら、市長は、この美術品の数々がどれほどの価値を持つか、おわかりになりますでしょうか」


少年の声変わりしていない声帯は、一種興奮の調子で震えていた。


「儂は好事家じゃあないからな。そんなものガラクタに思えてならないよ」


「いけません」


市長たるもの、ものの価値に敏感でなくてはならない。間違った道路、施設、建物の許可を出せば、困るのは市民であると、自分の半分の年齢にも満たない子供に説教された。市長はもうそれはそれは赤い顔になってしまった。


「今日はもう下がりなさい」


「市長……」

 

「下がれい!」


怒りのあまり、机を蹴ってしまう。余りの痛みで、涙がこみ上げた。


その夜、ナイトキャップを被った市長はベッドで考えた。少年の言うことも一理ある。これまで無思慮に判を押していたが、良い結果に繋がっただろうか。


手の平の文字が掠れている。眼鏡を買うのを忘れていた。

 


 2


次の日も、そのまた次の日も、少年は調度を秩序だって並べるのに余念がない。


アンティークの鳩時計が、三時に鳴くのも彼の整備したおかげである。


「粗相があってはいけませんから」


少年は、はにかんで秘密を打ち明けてくれた。


調度品が破損しないかどうか、市長の目の前で仕事をしたいのだそうだ。


市長は感銘を受けた。仕事の邪魔をしているのはむしろ自分なのではないか。


「いっそのこと、寄付でもしようかな」


美術品に詳しい少年によれば、どれも舶来の高価な代物らしい。自分だけが独占するのも忍びないと思うようになった。


「それいいですね。みんな喜ぶと思いますよ」


ねじくれたクラインの壷も、意味深な裸婦像も、すぐさま美術館に搬入されていった。


「いやー、すっきりしたなあ」


鳩時計とキャビネット、机だけになり市長は清々しい気分で仕事が出来そうな気がした。


整理すると気持ちがいいと、手のひらに書いた。その際、眼鏡を買うのを思いだし、仕事を早くに切り上げ塔を出た。


階下の広いロビーでは、スーツ姿の画一的な職員が腰を曲げ見送りに出て来た。


「今日は自転車にしようかな」


たるんだお腹を撫でて、市長は気分のまま行動しようとした。


「でしたら」


抜け目のない秘書が、自転車駐輪場から自転車を引っ張ってきてくれた。


黒服のSPの乗る自転車が、数珠つなぎに市長の後ろを走る。


三年前に建設が完了したハイウェイの真ん中を通過する。風が鼻の頭の稜線をなぞる。


爽快な気分のまま、街にある眼鏡屋に足を踏み入れた。 眼鏡屋はブティックと見間違うほどマネキンで溢れている。マネキンにはロイド眼鏡、ウェリントン、様々なフレームが備え付けられていた。


「いらっしゃい」


アロハシャツの七十代男性が、女のマネキンにしがみついている。総入れ歯の店主だ。


「こんなにあると迷ってしまうな」


天井からミラーボールが吊り下がっていた。市長は目を細め、眼鏡の物色に戻る。


「心の目で見るんだよ」


店主が、気の抜けた声で悟ったようなことを言った。


「そういうの苦手なんだ。選んでくれ」


店主はマネキンから離れようとしない。商売気のない変人だ。入る店を間違えたようだ。


「たくさんあるのが、いけないんだ。捨てちまえばいいんだ。こんなの」


市長は塔にいる気分で放言した。店主にとっては大事な商品なのだから、気分を害されて追い出されても文句は言えない。


「よくぞ言った」


店主が艶っぽいマネキンから体を離した。


「誰かが言ってくれるのを待っていた。さすが市長だ。選択肢が多いと余計に迷ってしまうものな。良い眼鏡を選んであげよう。塔に届けるからね」


市長は釈然としなかった。そんなに大事なものでもないのに、どうして抱え込んでいたのだろう。


店を出てふらふらとしていると、パン屋が路地でゴミ袋を捨てている場面に出くわした。


丸顔のパン屋の親父は、何かを誤魔化すように笑う。

 

「廃棄ロスです。売れ残っちゃって」 

 

「作り過ぎなきゃいいじゃないか」


市長がしたり顔で言うと、店主は唇をぎゅっと噛んだ。


「たくさん売らないと生きていけないんですよ。薄利多売って奴でさあ」


街を歩いていると、いらないものがたくさん捨てられていた。食品だけでなく、玩具や、雑誌、ほんのわずかな時間で風化してしまう。脆い存在だ。


スピーカーから流れる音楽も、どこかプラスチックのように味気なくて、誰が歌っているのか市長は知らなかった。多分、誰も聞いていないのだろう。


市長は、眼鏡を買うという項目を消し、無駄を省くと書き直した。

 

 3


次の日から市長は無駄を省こうと様々なものに目を光らせ始めた。


縦横に走る道路や、ショッピングモールは本当に必要だったのか。疑心暗鬼になってくる。資料の納められた地下室に連日籠もり、見直してみた。


「針葉樹を伐採し、山を切り崩しているじゃないか。豪雨があった時どうするんだ」


探せば探すほど無駄が散見され、目を疑う。

最後の確認は自分がしたはずなのに、業腹になった。


ゆゆしき事態だ。市長はもう判子を簡単に押さないと決め、手のひらに書き加えた。


「それは困ります」


秘書が考えなおすように言ってきた。


「この世界には無駄が多いのだ。君だって知っているだろうに」


「無駄なものなどありません。建物を建てる建設会社や、その下請け企業は干上がってしまいます。その社員の生活はどうなるのです?」


秘書は頑として譲らない。市長の声も大きくなる。


「それでは何か! 我々は無駄のために生きているというのか?」


「市長……、お疲れのようですわ。今日はお帰りください」


秘書の方がこめかみを押さえて疲れをやわらげていた。こともあろうに、彼女は市長を塔から締め出した。


市長は納得いかない。明くる日、秘書を辞めさせた。権力は絶対なのだ。


 4

 

市長は次々と無駄を洗い出してはそれを廃止した。職員のボーナスカット、外注していた仕事を職員に回す。すると、新しい視野が広がった。荒れ果てた土地に植林し、水素自動車を積極的にPRし、環境保護都市を目指すことを宣言した。 

 

「楽しそうですね」


いつぞやの清掃員の少年が鳩時計の脇でほほえんでいた。


荒れ野で、市長は苗木を植えようとしている。小さい子供用のスコップで固い土を崩すのは大変だった。

 

「儂は充実しておる」


市長は額に汗して働くことに喜びを覚えていた。


市長の塔は取り壊され、道路も車も廃止。市というコミュニティーは解体された。自給自足、相互扶助の村が点在するのみとなっていた。


「昔の人は言ってましたね。死より恐ろしいものは追放だと」


少年は如雨露で地面に水をまいた。


「物の価値を見極めろと言ったのは、君だ」


「”群”を解体しろとは言ってないけどな。これじゃ無駄はないけど、有理もないですよ」

 

「君は何者だ?」


少年の頭から羊のような巻角が生え、尻からは先端の尖った黒い尻尾が飛び出した。


「僕はマクスウェルの悪魔。観測するのが仕事。市長のおかげで楽が出来そうだったけど、やーめた。この世界はあまりに味気ない」


市長は悪魔に否定された空を仰ぎ見る。


「見よ、空気は冴え、市民は健康そのものだ。他に何がある? 必要だ?」


「それを考えさせるのが市長のお仕事でしょう?」


悪魔が囁き、鳩時計が間抜けな鳴き声で三回時を告げた。


「市長、市長!」


気づけば、市長は執務机ででうつらうつらしていた。骨董品はそのままだ。鳩時計だけが見あたらなかった。さっきのは聞き間違いか。


いつものように目くじらを立てて、秘書ががなりたてる。


「判子を頂きたいのですが」


うずたかく積まれた書類は、市長に今か今かと判子を迫る。


「君」


市長の目は遠くを見ている。諦観とも、未来への期待値を測っているとも取れる深遠な眼差しだ。


「わかっとるよ、それが儂の仕事だからね」

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