第7話
「うう……ぐすっ……」
涙と鼻水を垂れ流しながら、魔王アビスは今しがた了読した本をパタリと閉じました。
「良かった……ミミちゃんが助かって本当に良かったよぉ……。まさか、通信教育でやってた裏プラナリアン拳法の練習が伏線だったなんて……」
読後の余韻にたっぷりと浸りつつ、魔王アビスはティッシュでズビビッと鼻をかみます。ついでに、新しいティッシュで涙も拭い去ります。
「いや、ホント良かったわ……名作だわコレ……。我もいざって時のために、裏プラナリアンやっといた方が良いかもな……そしたら、敵の水垢パンデミック作戦にも対抗出来るわ……」
読み終えた本を棚に戻しつつ、独りごちます。
「いやー、今の我なら案外出来るんじゃないかなー。……行くぜ必殺、偏形ウズムシ竜巻拳! 喰らえ秘奥義、脳だらけ斬裂波――」
「魔王様ぁ――っ!!」
「いやああああああああっ!?」
テンションに任せて必殺技の名前を叫んでいるところへ、ノックもなしにヘルマジシャンが飛び込んで来ます。本に載っていたポーズを決めるところをバッチリ見られた魔王アビスは、悲鳴を上げるのでした。
「な、何勝手に入って来てんだよ!? 数日の間、部屋に引きこもって読書するって言っておいただろ!?」
「知りませんよ! 儀式の準備部下に丸投げしといて、自分はのんべんだらりと過ごすアホ上司の都合とか!」
「お前な、おかげで我の恥ずかしい姿見られちゃったじゃないか! 帰れよ! お前もう二度と我の部屋入んな!」
「思春期男子みたいな事を魔王様の口から聞いても、全然微笑ましい気持ちにはならないんですよ! ……そんな事よりも大変なんです、姫絡みで!」
「……何があった?」
"姫"と言う単語が聞こえた瞬間、魔王アビスの表情が一変します。間抜けで一切の威厳が感じられない表情から、災難を察してビビり気味に備える一切の威厳が感じられない表情へと瞬時に切り替わりました。
「……ああ、部屋の中に遮音の結界張ってましたか。だから、外の異変に全く気が付かなかった訳ですね」
「だから、何があった?」
「私達も最善は尽くしたつもりなんですけれど、なにぶん相手が悪過ぎたと言いますか、止めようがなかったと言いますか……。まあ私達と致しましては、結局のところ安易に許可出した上で、迂闊に事態を姫に一任した魔王様の責任にしとこうって事で、意見が一致していると言いますか」
「いや、そんな気を持たせるなって。何があったんだよ?」
「……全ては、ご自身の目でお確かめ下さい」
ヘルマジシャンに促され、魔王アビスは自室の外へと出ました。
「……はあああああああああっ!?!?!?」
瞬間的に飛び込んで来た光景に、悲鳴が上がります。
端的に言って、魔王城がファンシーな雰囲気へと変わり果てておりました。
壁と言う壁は本来の薄暗い灰色から、白を基調とした清潔感溢れる色合いに塗り替えられておりました。要所要所で用いられているパステルカラーが色彩的な単調さを消し、同時に柔らかく穏やかな雰囲気を生み出しておりました。
ほの暗い蝋燭の炎が揺らめいていた燭台は、全てお洒落で可愛い装飾が施されたランプに取り替えられております。例え夜中でも優しい光が廊下を隅々まで明るく照らし出してくれるでしょうし、昼間である現在は窓から暖かな陽光が差し込み、開放感溢れる空間を演出しておりました。
庭は毒々しい風情の魔界植物が姿を消し、代わりに色とりどりの花が植えられております。小さく愛おしい姿を覗かせる花弁や、鮮やかに青空へと咲き誇る大輪まで、種類も豊富な花壇は見る者の目を豊かに楽しませてくれるようでありました。
各所に設置されていた禍々しい邪神像は、鋭く伸びた角や凶暴な目つき、乱杭に生えた牙が全て改められ、ゆるゆるキュートなデフォルメ調の、見る者をほっこりさせてくれる造形へと変化しておりました。
何と言う事でしょう。
あれほどまでに廃退的雰囲気が漂っていた魔王城は、今や蝶が舞い小鳥が歌を奏でる、平和で安らかなくつろぎ空間へと変貌しているではありませんか。
間違っても、世界の支配を目論む悪の魔王の居城の姿ではありませんでした。
「あ、魔王さーん!」
魔王アビスの姿に気付いた赤ジャージなナナリー姫が、手を振って駆け寄って来ました。
「ナ、ナナリー姫!? これは一体どうした事なの!?」
「お城の事ですか? どうです、可愛くなったでしょう?」
「い、いや確か、我が頼んだのは掃除と修繕のはずなんだけど……」
魔王アビスが、周囲を見渡しながら言います。バスケットに入った花の束や、にっこり笑顔なクマのぬいぐるみなど、可愛い系アイテムも要所に置かれておりました。
「その通りなんですけど、折角こんな動きやすい服をお借りしたものですから、思わず張り切っちゃいまして。頑張って模様替えもしてみました」
「これ模様替え違うから!? 全面的改装って言うから!?」
「私が色々変えちゃって良いのかな、って思いましたけど、手伝ってくれた皆さんも賛成して下さいましたし、何より魔王さんからはあらかじめ『好きにして良い』って言われてましたので。思い切ってみました」
「……補足しますと、ブラックナイト始め多数の魔物がノリノリでゴーサイン出してました」
ヘルマジシャンが指す方を見ますと、アイドルの追っ掛けのような装いのブラックナイト達が、完全に骨抜き状態でナナリー姫の背後に控えていました。
「それと、作業を手伝ってくれたダークゴーレムさんにも、ちょっとお洒落させてみました。ご本人にも気に入って頂けたみたいです」
『…………』
「ダークゴーレムが、何か明るく楽しく子供達にも大人気な感じの姿に!?」
「……補足しますと、作業中の当人はそこはかとなく出来上がりを楽しみにしている様子でした」
ダークゴーレムは全身をカラフルに塗られ、あちこちにモコモコとした装飾を施されておりました。見る者全てを楽しませようと言う気概に満ちた愉快なその外見は、間違っても四天王の一角に収まる恐るべき魔物の姿ではありませんでした。
「……って言うか、こんな大規模改装するための道具とか、一体どこから持って来たんだよ……」
「分かりません。いつの間にか用意されてました。……ナナリー姫の力は、遂に因果をねじ曲げる領域にまで達しているのかも知れません。本人は無自覚でしょうけど」
魔王アビスは目の前が真っ暗になります。
やっている事こそごく平和的な内容ではありますが、それはもはや力量の高低などと言う問題ではありません。まさしく次元の違いです。神々の領域にまで足を踏み入れている、と言っても決して過言ではないでしょう。これではどんなに魔王アビスが足掻いたところで、ナナリー姫を止める事など不可能ではありませんか。仮に全盛期の力を取り戻したとしても、そこから更に儀式の力でパワーアップ出来たとしても、です。
「魔王さん? 魔王さーん?」
物思いにふける魔王アビスを、ナナリー姫の声が引き戻します。
「あ……ああ、何かな?」
「いえ。お顔の色が優れない様子ですけど……もしかして、お気に召しませんでしたか?」
「あー、いや、そうじゃなくて……うん、これで良いんじゃない? 明るくて」
「良かったです! そう言って頂けると嬉しいです!」
「うん、我も嬉しいぞ。こんな素敵な魔王城に生まれ変わって。あっはっはっ
は!」
そうして、魔王アビスは笑います。
ナナリー姫も笑い、周囲の魔物達もそれにつられます。魔王城の庭に、明るい明るい笑い声が響きます。
魔王アビスの笑いに寂しげなものが混ざっている事に気付いたものは、ごく少数でした。
「魔王様。献血の準備が整いましたので、ナナリー姫を呼びましょうか」
「うむ」
ヘルマジシャンの言葉に、玉座に腰を下ろした魔王アビスは答えました。
ちなみに、現在のヘルマジシャンの格好はピンクのナース服です。『ナナリー姫に安心感を与えるため』と言うブラックナイトのやたら熱の籠もった献策を、魔王アビスが『良んじゃね?』と採用した結果です。ヘルマジシャンは、取りあえずブラックナイトに対してあらん限りの攻撃魔法をブチ込んだ後、渋々承諾しました。
「……ところで、姫に献血用の針って刺さるのかな……」
「……やってみなければ何とも。私が見た限り、姫の腕は比較的表面を動脈が通っていますから、採血しやすいタイプなのが幸いですけれど」
「……まあやるだけやってみるか。んじゃ早速――」
「魔王様っ!! 魔王アビス様っ!!」
魔王アビスが腰を浮かせ掛けたところで、突然玉座の間に一体のデーモンが飛び込んで来ました。見るからに狼狽している声色は、何やら尋常ならざる事態が起こっている事を遠回しに伝えておりました。
「どうしたんだお前、そんなに慌てて?」
「そっ、そのっ、一大事です!」
「落ち着きなさい。一体、何がありましたの?」
ヘルマジシャンの問いに、デーモンが答えました。
「侵入者です! "勇者"を名乗る男が、魔王城の中に!」




