5
──そしてふたりは、ともに移動していった。
明るくさざめく木もれ陽の中を。水晶を散らしたような星の下を。暁に染まる草原の道を。
セインは、ほかのどこにいたときよりも、この逃避行のさなかのほうがよく笑った。笑うといってもほとんどが微笑なのだが、それでも彼の心がとてもなごんでいることが、姫君には伝わってきた。
──楽しいだなんて、不謹慎だとお思いでしょうね。
おだやかな微笑をうかべて、従者がささやく。
──でも、わたしは楽しんでしまっているようです。姫さまと、こうしてふたりだけでいられることを。
甘えて寄りかかりながら、姫君が言う。
──お城にいるときも、こんなふうにいっしょにいればよかったわ。
──まさか。できるわけがないでしょう、姫さまとわたしとでは身分がちがいすぎますからね。いまだからこそ、こうしていても許されるんですよ。
身分なんて、と姫がくったくなく、ころころ笑う。
──そんなことを気にして、いつも遠慮していたの? わたしはいつだって、あなたが近づいてくれるのを待っていたのに。
夜になると、あいかわらず夢の魔物がやってきた。魔物は、ときには顔が触れんばかりに近く、ときにはひどく遠かった。
近づいたり遠のいたりするその生き物と、あまりに何度も夢の中で会ったために、姫はときどき、それをとても近しいもののように感じることがあった。
そんなはずがない、あんな化け物と近しいなんて。でも以前にも会ったことがある気がする。どこで?
旅の間にふたりの手はすっかり荒れて傷ついたし、陽にさらされた髪もしだいに艶を失っていった。それでも旅が終わればいいとは、ふたりとも考えてはいなかった。
けれど、やはりそのときは訪れたのだった。めざしていた目的地、山のふもとの小さな村で。
その村の入り口では、子どもたちが無邪気にころげまわりながら遊んでいた。
ゆたかな緑の中に並ぶ素朴で小さな家々。仕事に精を出している大人たちの姿も見えた。
姫君の乗った馬が近づいていくと、子どもたちは遊ぶのをやめてきょとんと馬上を見上げた。
「お姫さま?」
と、一番小さな女の子が言った。こんなに汚れているのにそう見えるのかと姫君はおかしくなったが、笑うことはできなかった。
セインが、勢いよく馬の向きを変えたからだ。
彼が手綱をひくのと、家々から罵声があがるのが同時だった。
姫君は、平和そのものだった村の風景をぬりかえるように、レントリアの兵士たちが次々と湧き出してくるのを見た。村はすでにレントリアの支配のもとにあったのだ。
いま来たばかりの道を引き返して、馬は疾走していった。矢のような速さに感じられたが、後ろから放たれてくる本物の矢の雨が、すぐに重なり交わった。
こんなに小さな村のどこにかくれていたのかとあきれるくらい、大人数のレントリア兵だった。あふれるように数をふやしながら、標的を追ってくる。
完全に道をはずれて追いつめられた草地で、突然、馬の脚が折れた。矢がどこかに当たったらしい。
セインが姫君の身体を抱えこもうとする。だが、地面に叩きつけられた瞬間に手が離れた。
投げ出された姫に向かって、敵兵が群がるように駆けてくる。館に攻め込んできたあの夜と同じく、剣を振り立てながら。
その剣を従者の剣が受けとめた。
「お逃げください、姫さま!」
恐怖にすくみあがっていた姫は、セインの声に押されるように走り出そうとした。それとほぼ同時に、乱暴な敵の手が肩にくいこみ押さえつけてきた。
だが、その直後、敵兵の中から別の叫び声が響いた。
「危険だ、さわるんじゃない!」
乱暴な手が、あわてたように離れる。そのすきに姫は走りはじめた。
敵は追ってこなかった。かわりに矢の雨が吹きつけた。草に足をとられてころぶと、大きくひろがった金色の髪の上にたちまち矢が突き立った。
敵の群から抜け出て、セインが姫に馳せ寄ろうとする。だが、その腕を兵士のひとりがつかんで引き止めた。
「行くな!」
耳元で兵士が怒鳴る。
「おまえは何をしているのだ。なぜ、かばう? あれは……」
草の中に倒れたままの姫君めがけて、ふたたび矢が放たれた。
姫の身体が大きくふるえた。だがそれは、矢が当たったためではなかった。
矢とともにぶつかってくる敵意と殺意が、熱風となって姫の身の内に流れ込み、何かを激しくゆさぶってくる。
全身が燃えるように熱かった。心臓がふくれあがって、胸を打ち破るのではないかと思われた。
そしてそれが、はじめての感覚ではないことが、姫をひどくとまどわせた。
かつて何度か、経験したことがある。これは何? どうなってしまったの?
敵兵たちの怒声よりも、鼓動のほうがはるかに大きく響いていた。大きく、さらに大きく。
姫は顔を上げた。伏せていられない。
遠巻きにしている敵たちの姿が、赤く染まった視界の中でゆらめいている。
そのゆらめきが、いっせいに矢をつがえるかたちをとったとき、セインの声が、ほかの音を圧して飛び込んできた。
「やめろ! 討たないでくれ」
彼は兵士に押さえつけれていたが、それを振りほどくと、姫のほうに駆け出してきた。
「姫さま」
走り寄って手をさしのべると、姫は泣きそうな顔で彼を見上げた。
「セイン」
ふるえながら、姫は彼にすがりつく。
「わたし……どうしたの……?」
セインは姫の身体を抱き寄せた。
夢をみたあと、いつもそうしていたように、やさしく背中をなでながら言いきかせた。
「どうもしませんよ。大丈夫です」
「おかしいわ。身体が──熱い……」
「大丈夫。なんでもありません」
セインはくり返した。そして右手に握った短剣を、抱きしめている姫の背中に突き立てた。
姫君には、その痛みがセインにあたえられたものだとは、わからなかったにちがいない。ただ、大きな瞳をびっくりしたようにみはって、彼をみつめた。
「なんでもないのです……さあ、もうお休みください。わたしがそばにいますから──」
「……ええ」
と、姫君は呟いた。
いつもと同じように、安心したほほえみをうかべて瞳を閉じた。
唇から、かすかな最期の吐息がもれる。細い身体は力を失い、ゆっくりと従者の腕の中からすべり落ちた。
そして、それは草の上に横たわり、本来の姿を取り戻していった。
汚泥のようなぶあつい皮膚に全身おおわれ、太い尻尾をだらりとひいた、魔物の姿を。
北の谷を棲み家としている魔物の群れが、ときに谷を離れることを、エシアの人々は知らないわけではなかった。
だが、あらわれる場所の予測は困難であり、襲いかかってくる群れとの闘いは、常につらくきびしいものとなった。
魔物たちが本能的な保身の力を持っていたため、討伐隊の兵士でさえ、なかなか打ち勝つことができなかったのだ。
魔物たちは、自分が喰いつくした獲物の姿を、そっくりその身にうつしとるのだった。
完全に呑み込みおわると擬態がはじまり、獲物のすべてをうつしとるまで、けして止まりはしなかった。
顔も身体も声も、その心までも。
悪夢にも似た力をもつ魔物はサキュバスという名で呼ばれ、あまたいる魔物たちの中でもとくに討伐しづらいものとして、人々から恐れられていた。
そのいまわしい群れが、湖畔の別邸に突然としてあらわれたとき、王族や貴族たちはなす術もなく、ただひたすらに逃げまどった。
人々は次々に呑み込まれ、姿かたちを魔物にあたえ、衛兵たちは幻惑されて攻撃の手を思わずゆるめた。
仕えていた高貴な相手と同じ顔を前にして、動揺しない者はいなかったからだ。
魔物にとって別邸の襲撃はあまりにたやすく、そこから逃げ出すこともまた容易だったにちがいない。
群れは高貴な姿のままで村に入り、あるいは街に入り、人間たちにまぎれこんでいこうとした。そしてその企ては、いっとき成功するかに思われた。
けれど──そんな魔物の群れも、もういない。怒りに燃えた討伐隊の兵士たちと、国境いから応援に駆けつけたレントリアの兵士たちが、群れを残らず駆逐した。
そして、逃げ続けていた最後のひとりも、いま討ち果たされたのだった。
草地には、先ほどまでの争いが夢だったかのような静けさがひろがっていた。
役目をおえたエシアとレントリアの編成隊が、武器をおさめて無言で持ち場を離れていく。
かわりに魔物の骸を取り囲んでいるのは司祭たちだった。骸はしかるべき所作にのっとり、炎で清められるしきたりだったのだ。
兵士のひとりがセインに歩み寄ると、腕をとってその場から連れ出そうとした。けれどセインはそれに従わず、立ちつくしたまま処分の様子をじっとみつめていた。
魔物に襲われ、蹂躙されたあの夜に──彼は邸内を走り回って姫の姿をさがしたのだった。
だが、みつけたときには遅すぎた。できることは、魔物を叩き斬るために剣を振りかざすことだけだった。
目の前で擬態を見た以上、ためらう理由などどこにもなかったからだ。
それなのに。
姫君の瞳が彼を見上げたとき、その手が助けを求めてすがりついてきたとき、斬れなかったばかりではない。振り払うことさえできなかった。
そして、おそらくは自分から手をのばし、姫をさらって逃げたのだ。
いつか来る旅のおわりを知ってはいても。おわりをもたらすのが自分であるとわかっていても。
やがて彼は静かに向きを変えると、ひろがる草原のほうに目を向けた。
風がそよいで、緑なす草とそこに咲く小さな花々をやさしくゆらし、彼の長い髪もゆらした。
姫君の愛した銀の髪が、草の上をわたる風に吹かれて、さらさらとなびいた。
お読みいただき、ありがとうございました。
読者様の心に、少しでも残る物語になっていたらいいのですが……。
作中に出てくるサキュバスは一般のイメージとかなりちがいますが、私の勝手な解釈で書かせていただきました。
勝手に解釈したインキュバスが出てくる長編も書いていて、エシアはその物語の前日譚でもあります。
重ねまして、どうもありがとうございました。