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そんな件があってから、セインの態度が以前と同じおだやかなものに戻ったので、とりあえず姫君は安心した。
レントリアのことを気にかけて、彼がいつまでも口をきいてくれなかったらどうしようと、心配していたのだ。
もっとも、もし彼が昼間まったく口をきかなかったとしても、夜になれば話は別だったにちがいない。
姫の夢は、夜ごとに鮮明さをましていた。
魔物は姫の右足首を呑み込み、左足首を呑み込み、両方の膝がしらまで長い舌を巻きつけた。
捕えた足をのどの奥へと引き込むたびに、押しつぶして味わうたびに、魔物の輪郭はよりあざやかになり、その鼓動さえも聞こえてくるようだった。
セインにゆりおこされると、姫君は子どものように彼の胸にしがみつき、涙声で訴えた。
「腰まで食べられてしまったわ」
セインもまた、小さな子どもにするように、背中をさすったり頭をなでたりしながら話しかける。
「夢ですよ、姫さま。大丈夫。魔物なんかどこにもいません」
「全部食べられてしまったら……わたし、どうなるの……?」
「どうなることもありませんよ。ただの悪い夢なのですから」
「どうして魔物はわたしを憎むの? すべてを食いつくしてしまおうとするの? ひどいわ、わたしは何もしていないのに」
「憎んでいるわけではありません……きっと」
そう呟いた従者の声は低く静かで、取り乱していた姫の心にも、するりと入りこむ響きがあった。
「彼らには、彼らが生きるための理があるのです。わたしたちの世に、わたしたちのための理があるように……」
姫君はすすり泣くのをやめると、こわばっていた身体の力を抜いて、彼の胸にもたれかかった。金色の髪が、さざなみのように彼の胸を流れていく。その髪をなでながら、従者はそっとささやきかけた。
「さあ、もうお休みください。夜明けにはまだ間があります」
「眠るのがこわいわ。眠ったらまた夢をみる……」
「今度は大丈夫ですよ」
「でも」
「大丈夫です。わたしがそばにいますから」
彼の声にみちびかれるようにして、姫君は眠りの淵にゆっくりすべりおりていった。するとその言葉のとおり、今度は夢もみないのだった。
そんなふうに眠った次の日は、めざめたときも従者がそばにいてくれるのが普通だったが、ある朝、彼の姿が見えないことがあった。
陽はすでに梢のてっぺん近くまでのぼっていて、新緑の中を小鳥たちが楽しげに飛びまわっている。ずいぶん深く眠りこんでいたようだ。
姫君は、よく眠って元気になった身体を起こすと、従者をさがしてぶらぶら歩きはじめた。
木立の道を少し行くと、あたりがひらけて草の原の斜面があらわれた。その斜面のなかばに、セインが腰をおろして、ぼんやりと宙を眺めていた。
声をかけようとして、姫はふとためらった。彼の瞳が、姫にはおしはかることもできないほど、はるか遠い場所をみつめている気がしたからだ。
やがて、彼が気配を察して振り向いた。そして、いつもと変わりない微笑を姫のほうに向けてきた。
「よくお休みになれましたか?」
「ええ……」
姫君は近づいていくと、彼のとなりに腰をおろし、しばらくの間何も言わずにじっと寄り添っていた。それから、ひとりごとのように呟いた。
「ここにリュートがあればよかったのに。そうしたら、あなたの心が手に取るようにわかるのに……」
「そんなにわかられてしまっては困りますね」
と、セインが応じたが、軽口を言ったわけではなさそうだった。瞳にうかんでいた微笑には、暗い影がさしている。
「音楽だけで、あまり人を信用なさらないほうがよろしいですよ」
姫がきょとんとすると、彼は続けた。
「美しい旋律の曲を弾いているから、弾き手までが美しい人間に見えてしまうのです。もしも、暗くにごった心をあらわす曲があったなら……わたしはそれを、誰よりもうまく奏でてみせるかもしれません」
彼は姫君から目をそらしたが、立ち上がって会話をおわらせようとはしなかった。
ややあって控えめに口をひらき、レントリアからエシアに来るまでの自分のことを、はじめて姫に語ってくれた。
レントリアの街のはずれで育ったが、父親は小さいころに死んだこと。母親とは折り合いが悪く、生家を出てからは居場所を求めてあちらこちらを放浪したこと。
剣士になるための修行をしたこともあるのです、と彼は苦笑しながら告白した。
馬術は得意ではなかったが、腕前しだいで稼ぐことのできる職業だと思い、剣の扱いを訓練した。ところが雇い手が思うようにみつからず、手なぐさみに昔習ったことのあるリュートを弾いてみると、意外にも聴衆が寄ってきた。
そこで、剣士から演奏者に職業を変えてレントリアの街角をまわり、やがて国境いを越えてエシアの都までやってきた……。
「だから、本当はわたしのリュートの腕は、たいしたものではないのです。本格的に師匠についたわけでも、高い志をもっているわけでもない。ただの道楽が生業になってしまったようなものですね」
それは自嘲なのかもしれなかったが、姫君は逆にどうして自分が──自分だけでなく皆が彼の演奏に吸い寄せられてしまったのか、その理由をみつけたような気がした。
「それでわかったわ」
あたたかみのある茶色の瞳を細めながら、姫は従者に語りかけた。
「たくさんの苦労と努力をしてきたからこそ、深い音色を奏でることができるようになったのね」
「え?」
「それに……剣士の修行をしたからこそ、こうしていまも、わたしを連れて逃げのびることができている。修業は無駄じゃなかったのよ。よかった、あなたが努力していてくれて」
セインは無言のまま、じっと姫君をみつめていた。ふつうなら喜んでいいはずの言葉だったにもかかわらず、彼は血の気をなくしているようだった。
なかばうめくような呟きが、その唇からもれた。
「どうして……どうしてそんなふうに、わたしがほしいと思っている言葉を口にできるのですか。あなたは……どうして──」
ふっと彼の右手が上がった。姫の首すじのあたりに向かって、ゆっくりとのびてくる。
見るべき人がそれを見れば、そこに殺気と言えるものがあるのを感じたかもしれない。
けれど姫君は、小首をかしげて彼を見上げているだけだった。
それから、こう言った。
「セイン。わたしをレントリアに渡してもいいのよ」
従者が驚いたように右手をひく。
「何をおっしゃるのです、突然」
「突然じゃないわ。ずっと考えてはいたのよ。だって、わたしを連れているせいで、あなたまで大変な目にあい続けているんですもの。本当なら、あなたは逃げまわったりせず安全に暮らしていけるはずなのに」
「姫さま」
「考えていたけど、言えなかったの。でも、いま言えてよかった。わたしは大丈夫よ。レントリアだってきっと、こんな若い娘ひとりをどうこうしようとは思わない……」
「やめてください、姫さま!」
激しい口調でセインがさえぎった。
それから彼は、長い時間、黙りこんでいた。姫は、自分の言葉が明らかに従者を怒らせてしまったことを感じて不安になったが、次に彼の見せた反応には、さらにとまどった。
長い沈黙のあとに、従者はくつくつと笑い出し、肩をふるわせながら言ったのだ。
「……負けましたよ、姫さま。もういい、よくわかりました」
セインは、何かを振り切ったような動作で立ち上がった。
そして姫のほうを見下ろしたが、その表情は、いままでにないほどすっきりしたものだった。
「姫さま。二度とレントリアのことはおっしゃらないでください。いいですね?」
と、彼はしっかりした口調で言った。
「でも、セイン」
「従者が姫君のおともをするのは当然ですし、わたしもそれ以外の何をするつもりもありません」
「だって……本当にいいの? あなたはそれで」
「あたりまえでしょう。それとも、姫さまはわたしといるのがお嫌なのですか? それなら少し考えますが」
姫君は、はじかれたように立ち上がると、何度も首を振った。
「そんなわけないじゃないの。わたしは……わたしはあなたといるだけで」
従者は、そんな姫をいとおしげにみつめてほほえんだ。
「わたしもですよ、姫さま」