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季節は春。四季のうちでもとりわけゆたかで美しい、エシアの国の春だった。
人里離れた森で咲く、林檎や梨の白い花。薄紅色の桜、
桜によく似たアーモンドの花も、あふれるようにひらいている。
もちろん強い風が吹き荒れ、雨が激しく地面をたたくときもあった。
けれど従者がみつけてくれた岩棚の下や大きな木の洞で、ふたり寄り添いあっていれば、風も雨もいつまでも旅人たちを追い立てたりはしない。
雨のあがった空に、姫は都では見たこともないほど大きな虹の橋がかかるのを見た。
姫が本当に苦しかったのは、起きているときではなく、むしろ眠っているときだったかもしれない。
夢の中で、姫はひとりきりだった。
いや、ひとりではない。魔物がいた。
汚泥のような青灰色の皮膚に全身おおわれ、太い尻尾をだらりとひいた、魔性のけだもの。
魔物は、逃げようとする姫をぬめぬめと光る前脚で引き倒し、巨大な口をすり寄せる。その口を洞窟のようにぽっかりひらいて、姫の足首をくわえ込む。
容赦なく、のどの奥まで吸い込んでいこうとする。
最初にそれが夢にあらわれたのは、館を追われてから数日たった夜のことだった。
姫は飛び起き、泣きながらセインに話そうとしたが、声がふるえてなかなかうまく話せない。
そんな姫君の様子に、セインもとまどったようだった。
彼にしてはめずらしく、動揺したように沈黙していたが、姫がふたたび口をひらこうとすると、それを手で制した。それから、魔物の外見について、ふたことみこと質問した。
思い出すのも嫌だったが、姫が答えを返す。すると彼はうなずいて、それはきっと北の谷に棲んでいるといわれる魔物でしょうと言った。
「北の谷の魔物?」
「はい。エシアは比較的、魔物の少ない国だと思いますが……それでもやはり、多くあらわれる地方もあるのはご存じですね」
「もちろんよ。それで苦労している村も多いと教わったわ。魔物のこともいろいろ聞いて、こわかった」
「夢の中の魔物についても、お聞きになったことがあるのでは?」
「あるかしら……忘れてしまったのかもしれない。覚えているとこわいんだもの」
「忘れていいんですよ」
リュート弾きでもある従者は、弦をつまびくかわりに、姫君のひたいに落ちる金髪をそっとかきわけながら呟いた。
「きっと、姫さまがこわい思いをたくさんなさったせいで、忘れたはずの魔物の姿が呼びおこされてしまったのでしょう。いずれにしても、ただの夢にすぎません」
彼の声は静かでやさしく、昼間と同じように、姫君の心を落ち着かせる力をもっていた。
姫はほっと息をつき、彼の膝に頭をもたせかけると目を閉じた。
「そうね……でもびっくりしたわ。本当のことみたいにはっきりしていたんですもの」
「ただの夢ですよ、姫さま」
「けして現実にあらわれたりはしないわね」
「ええ、姫さま、けして」
彼のたしかな答えに安心して、姫君はふたたび眠りに落ちるのだった。
夜はそんなふうにして、ときどき夢に悩まされたものの、旅の道のりはおおむね順調にすすんでいた。
危険な気配もすっかり遠のき、もう逃げる必要はないかもしれないと思ってしまうほどだった。
活気に満ちた市場のそばを通ったときには、ふたりで思わず馬をおりて、ぼろ布のフードの下にかくれながら、あちこちをまわって歩いた。
姫にはすべてがものめずらしく、店の奥まで入り込もうとしては、従者にひっぱり戻されるのだった。
安宿のベッドでゆっくり眠れる夜もあった。王城の天蓋つきのベッドとはあまりにもちがいすぎることを、従者がしきりに気にかける。けれど戸外で休む暮らしを覚えてしまった姫には、もはやなんということもなかった。
だが、追手は驚くばかりの執念深さでふたりを追っていたのだった。エシアの王族はひとりたりとも逃さない、そんな気迫が感じられる。
安宿に兵士たちが入り込んできた晩に、姫はそのことを嫌でも思い知らされた。
しかも思い知らされたのは、そればかりではなかった。反乱分子たちの勢力がいかに強いものであるのかを、まざまざと見せつけられたのだ。
それは、追手の持つ盾についていた紋章だった。剣をふせぐ程度の大きさしかない盾だったが、王族である姫の目は、ひとめでそれを判別した。
エシアのものではない。隣国レントリアの紋章だ。
まさか──裏切り者たちが隣国と手を結んでいたなんて。
レントリアはエシアの姉妹国。ともに手をたずさえ、協力しあってすすんできたはずなのに。
セインに横抱きにされるようにして逃げながら、姫君は激しく混乱した。
レントリアの兵士がさかんに何かを叫んでいる。聞き取れなかったが、ふたりでなんとか外に飛び出したとき、前に立ちふさがった兵士の声が驚くほど大きく響いた。
「セイン! 気でもちがったのか。なぜ逃げる」
一瞬、セインがすくんだように足をとめた。姫を抱えていた腕がわずかにゆるんで、姫ははっとした。
だが、気のせいだったようだ。その腕は、以前よりもさらに強い力で姫を馬上に押し上げると、館を脱出するときそのままに、敵の間をくぐり抜けたのだった。
一晩走って夜明けを迎えるまでの間、彼はひとことも口をきかなかった。姫君もまた、何も言うことができないまま背中にしがみついていた。
レントリアはエシアの王室を憎んでいたの? どうしてあなたは、レントリア兵と知り合いなの? 問いかけはあふれるようだったが、どんな言葉でそれを口にすればいいのかわからない。
陽がのぼり、さわやかな光が空いっぱいにひろがるころになって、従者はようやく姫君を地面におろした。
それから、ぽつんと言った。
「先ほどの兵士とは……以前レントリアの街角で弾いていたとき知り合いました」
「レントリアの……」
「はい。わたしはそこで生まれ育った者なのです」
セインはそこでいったん言葉を切った。それから姫をじっとみつめて、ここでお別れしましょうか?とたずねた。
思いもかけないことを言われて、姫はひどく驚いた。
「別れる? どうして」
「反乱分子の後ろ盾になっているのは、レントリアにちがいありません。……そんな国の者がおそばにいるなんて、姫さまにあまりにも失礼ではないかと」
「失礼だなんて」
「正直におっしゃってかまいませんよ。そう思われても当然なのですから」
「ばかなことを言わないで」」
姫君の声が、思わず高くうわずった。どんな事情であれ、彼と別れるなんて考えもしないことだった。
たしかに、レントリア出身と聞いて動揺していないといえばうそになる。けれど、そのことで彼への信頼がみじんも揺らいでいないことは、強く伝えておかなければならなかった。
「あなたが助けてくれたおかげで、わたしはこうして生きていられるのよ。生まれた国のことなんて、これっぽっちも気にする必要はないわ。生まれも育ちも関係ない。セイン、あなたはわたしにとって、とても大切な人なのよ」