【曖昧模糊】
水分を非常に含んだ熱い風が吹いて入った。
世間では恐らくもう夏である。ぎらぎらと自己主張ばかり強い太陽が私の家の真上に在る。そうだと云うのに、私は未だ布団の中で惰眠を貪っている。否、惰眠を貪っていると云っては少々御幣が生じるだろう。眠たい訳でも、寝たい訳でもない。ただ、今日が始まり太陽が昇ってからもずっと私は布団の中にいた。
夏は嫌いだ。
曖昧模糊とした私の存在を、その熱い光と幾重にも重なった重厚な風が明確にさせようとする。低い体温の私の熱を上げて、私を世界に取り込もうとする。夏の世界に。嫌だという私の意志とは無関係に。そして同時に、お前を受け入れてやるからお前も吾を受け入れろと云う。とてつもなく身勝手で、自己中心的だ。
私は体温を夏から守るように再び薄っぺらな布団を掛け直した。温度は低い癖に、私の壊れた発汗作用は更に体温を下げようとして私に余計な不快感を与える。じわりとシャツに浸みる冷たいそれが気持ち悪い。外部との境界が曖昧になっている私は、更に液体という形を留めない物を纏って、より曖昧に夏の空気に溶けていく。
じわ
じわ。
じわり。
少しずつ。
溶けていく。
汗か涙か、どちらともつかない液体が目元を縁取る。その所為で元来他人より距離が近い私の瞼は、その液体に促されるように徐々に、徐々に
閉ざされていった。
私が起き上がったのは、午後七時を回った頃だった。
外はもう薄暗くなってきている。自己主張を続けていた太陽は沈み、その席を月に明け渡しそうとしている。その方がいい、そう思った。
だらだらと籠り続けてたっぷりと熱が籠った布団を退け、私はおよそ一八時間ぶりに身体を縦にした。ひんやりとした夜の空気漂い始めている。湿った身体に心地良い。起きるまでは億劫だったはずが、起きてみれば何ということもない。寝過ぎた所為で重たい感覚は付き纏うものの、顔を洗ってしまえばさっぱりとしたものだった。
然し、もうあとは暗くなるばかりだというのに何やら外がやけに騒がしい。この辺りは目立った街灯もなく、神社が近い為に静かなのが売りで、それがこの借家を選んだ理由というのに、これから昼間になるかように賑やかな気がする。あの廃れた神社で祭をやっているとでも云うのだろうか。
一日締め切られたままだった玄関を開け、私は目を丸くした。
人の往来がある。
否、往来があることにそう驚くことはないのだ。この驚きがどこから来るのかと云えば、普段この家の前が、しかもこの時間帯に人が通る筈はないという私の思い込みから来ている訳で、それは乃ち当てにならないと同義である。私の驚きが多少大袈裟だったとして、それでも昼間のような人通りである。これから出勤すると云った出で立ちの男性や、小さい子供を連れた女性が度々行き来している。
私が普段より多めに瞬きして、なんとかその理由を捻りだそうとしていると、隣家の細君が回覧板を持ってやって来た。
「どうも、こんにちは。」
ふくふくとした愛想の良い顔で、彼女は昼間のようにそんなことを云う。
「あ、こんにちは……。あの、え、今日は、何かあるのですか?」
私はただこの昼間のような人々の行動の理由を問いたかっただけなのだが、隣家の細君はきょとんとした顔で私の分かりにくい問い掛けに首を傾げた。
「何か、ですか? 何もないと思いますけれど……」
「そうなのですか? でも、この人通りは……」
「人通りって? いやですね、当たり前ではありませんか。みなさんお仕事に行かれるのでしょう。」
夜に大勢そろって仕事に行く、というのは訊いたことがなかった。朝ではなく、夜から行動を始めるというのは、まるで昼と夜が逆転してしまったようではないか。私の眠っている間に、世間は妙なことを決めてしまったらしい。
隣家の細君は、それでは、と云って最後まで笑顔を崩すことなく帰って行った。後には寝巻きのままでだらしのない私だけが残る。なんだか取残された気分だ。
家の中に戻ると、私は兎に角着替えねばと何かに急き立てられるようにして箪笥を漁った。あと五時間もすれば日付が変わり、また布団の中に戻ることになるだろうに、実に無駄なことをしている。そもそも、なぜ外へ出るのに着替えなければならないのか。服を着ていないわけではなしに、寝るときと外に出るとき、活動するときの服装を分けるのはなぜだろう。寝巻きとそう変わらない、よれた開襟を引っ張り出して身に付ける。これなら寝巻きで外に出るのと、そう変わらないかもしれない。
宛てもなく、まるで浮浪者のように私は表へ出た。これで無精髭を生やしていようものなら間違いなく職務質問でもされるところだ。意識を宙に浮かせたまま、私の足が向くままに進んでいく。やはり徐々に暗くなっていく空に合わせて、徐々に人が多くなっている気がする。気のせいか。太陽と月はいつものように交代したというのに、どうやら人間の方はその決まりを忘れてしまったらしい。
大通りの方へ行くと、街灯が煌々と点けられていた。そのおかげで夜は昼のように明るい。太陽の光がある間に行動していれば、無駄に光を自分達で生み出す必要もないだろうに。
いつの間にか、大通りから外れていた。人通りも車通りも少なくなっている。私は自動設定で人混みを避けて行動する様にできているのだ。夜は相変わらず夜のままなので、街灯の疎らなこの辺りは足元もおぼつかなくなる。
「おや。」
唐突に薄闇から私の名前を呼ぶ声がした。目を凝らしてみると、薄い街灯に見覚えのある顔が浮かんだ。
「なんだい、君は。まるで寝起きのようにだらしがないな。ああ、それはいつもの事だったか。」
挨拶代わりに私に嫌味を云うことを常にしている友人は、夜闇に隠れるような真っ黒な服を身に付けている。どうやら喪服らしい。
「五月蠅いな。この暗いのに、急に目の前に立たれたんじゃあ誰だかわかったもんじゃない。」
「それこそいつもの事だろう。鳥目の君は、いつだって夜に寝て、昼に起きるじゃないか。否、下手をすれば昼も起きないだろう。」
「わ、私だって起きるときは起きるよ……」
失礼な奴だと思う。それにしても、この偏屈な友人さえ昼夜の区別が逆になっているということは、本当に世界は反対になってしまったらしい。夜に寝て、昼に起きる。その決まりが崩壊している。今、この世の中は夜に起きて、昼に寝るように決められたのだ。
「それはそうと、君はなんだってこんなところにいるんだい? 自分の家から三メートル以上離れようとしない癖に。」
「たまには外に出たい気分の時くらいあるさ……」
「いいや、君はきっと、こんな夜にどうしてたくさん人がいるのか気になって出て来たのだろう?」
「え?」
雲が月を隠した。
顔が見えない友人は、黒い影だけで嗤っている。
「人嫌いなのに好奇心旺盛な君は、昼と夜が本当に反対になってしまったのかと確認に来たのだろう? 昼に起きて、夜に寝る、その決まりはどこへ行ったのか。」
友人は私の心中を見透かしていた。
「な、どうしてわかるんだ!」
「そんな決まりなんて、誰がつくったんだい?」
風が吹き、夜が一層濃くなった。友人の方から吹いてきた風は、線香の匂いを連れている。
葬式の、匂いだ。
「いいじゃないか。明るくても暗くても、どうせやることは一緒だろう。灯りがあれば昼も夜も関係ない。」
「そ、そうだが……」
「ああ、君は忙しいんだな。」
友人は唐突に突き離すようにそう云った。するりと私の隣を通り過ぎる。黒い友人は随分楽しそうな顔をしている。
「君は、影響を受けやすい。精々、気を付けるんだな。」
妙なことを呟いて、私が振り返った頃には、友人はもう夜に消えていた。
眩しいほどに月が煌々と照っていた。
私は思わず目を覆った。
目を覚ますと、私は真白な天井を見上げていた。ふわりと鼻腔を擽るのは、線香の匂いではなく、つんと鼻に残る消毒液の匂いだった。視界に飛び込んでくるものは、これでもかとばかりに白一色だ。清潔感を装った白なのだろうが、所々が色褪せているのであまりその効果を十分発揮しているとは云い難い。長い間日に当てられている。
身を起こすとほぼ同時に、入り口が開いた。
「あ、御目覚めでしたか。」
入ってきたのは若い男だった。医師だろうか。白衣のような物を着て(こちらは清潔そうな真白だ)黒い眼鏡を掛けている。顔は柔和、というより幾分抜けている、といった風な男だ。
「ここは病院ですよ。」
男は私の様子を見て何を思ったのか、当然の説明をした。最も、私の表情というのは、友人に云わせれば常に困惑している顔らしいから、その表情を見て声をかけてくれたのなら、様子を読み間違ったとは云えまい。
「人通りの少ない道で倒れていたところを、たまたま通りすがった人が救急車を呼んだのです。どうやら、脱水症状ということでしたが。」
私がここにいる経緯を端的に説明してくれた男は、体温計を取り出すと私に差し出した。計れということだろう。私は無言のまま受け取る。病室内は全部で四人用らしいが、埋まっていた寝具のは私が寝ていた一つだけで、あとは皺一つ付いていない。
「具合はいかがですか? まだ気分が悪いところなど、あるようでしたら担当医を連れてきますが。」
その言葉に私は面食らった。まさに今、目の前にいる男こそが私を担当している不運な医者だと思っていたのだ。
「あなたが担当ではないのですか?」
不意打ちを食らったようで、私は思わずそう問うた。
「私が? とんでもありません。」
男は大袈裟な身振りと表情で否定した。どうにも自己表現方法が豊富な男である。私とは正反対で、社交的、という言葉が良く似合う。患者という、当然の商店とは違っても、呼び方が違う客相手の商売故だろうか。
「私は看護師です。担当医はきちんと女性の方が担当ですから、ご心配なさらず。」
「女性? 女性が担当医をしているのですか。」
女性の医師がわざわざ男である私を担当するというのはよくあることなのだろうか。看護師が男性、医師が女性というのは珍しい病院だという気がした。然し、男はそんな私の根拠のない予想をいとも簡単に笑顔で否定した。
「ええ。当院は男の医師はいませんし、女の看護師もいませんよ。」
少し抜けた男は、それ以上に呆けた私に当然のようにそう云った。そんなものか、と私は疑いもせず納得する。
医者といえば男で、看護師といえば女で、そういう固定された性別意識というのはもう古いものなのかもしれない。考えてみれば、男でなければ医者ができない訳はなく、それは女にしても同じことで、この固定観念こそ男女平等を説くような団体が活動している理由なのだ。
然し、この病院は私の固定観念とは全く逆になってしまっている。女が看護師をする、ということが性別的役割の固定化による思い込みだというのなら、男女が逆転して男が看護師と固定されることもそれでも、固定観念に固まった私には途切れた記憶の間に近未来に来てしまったように感じる。
そういえば私は何をしていたのだったろう。倒れる前を思い出す。暗い路地で友人に会った。その前は
「終わったようですね。」
体温を計り終わった合図で、男に体温計を返した。じっと黙った後、平熱ですね、と云って男は何やら取り出した用紙に記入した。
「それにしても、暑い日が続きますね。熱中症か脱水症状で倒れたという人がここ一週間で一〇人近くいらっしゃいましたよ。」
「その割には、患者さんは少ないようですね。」
病室に目をやって、思わずそう云った。病院の経営というのはよくわからないが、入院患者がいないということは少なからず影響があるのではないだろうか。
「いや、こんなものですよ。近頃、病気になられる方も少なくなってきていますから。私達のような医療従事者が暇ということは、とても良いことですけど。」
「はあ。病気になる人が少ない、のですか。」
どういうことだろう。
患者が少ない、というならわかる。この病院が世間的にどのような病院か知らない。だから、患者が少ないと云うならあまり流行っていない、否、病院に流行り廃りも変な話だから、規模の小さな病院なのだろうと勝手に想像するところだ。病気になる人が少ないと云うからには、病院に来る人の絶対数が少ないということだろう。
私の疑問符に、男の看護師は見てください、と病室を見回した。当然、空の寝具が並んでいるだけで、あとは真白な壁だの天上だのしか目に入らない。
「病室、と呼べるような部屋はここのような四人部屋が三つと、個室が二つあるばかりで、入院患者は一人しかいません。」
その一人が私というわけだ。
「老いる、ということがなくなれば、これほどにも病気というものは減るんだなあ、とつくづく思わされますよ。」
「ど、どういう、ことですか。」
「どう、とは?」
「い、いや……」
私の常識が、否、私の世界の常識が通じていない。
老い、とは人間の、生物の変化である。変化があるからこそ、人はその変化に追い付けず、或は変化そのものによって、病気になり衰えていく。それは避けることの叶わない、生きることと不可分なはずの事柄である。
それが、ない、とは。
私は、何故だか無性に恐ろしくなった。
ここは、この世界は、一体どの世界だ。
少なくとも、私の知っている世界ではない。
「老いも死も、人間とは無縁になってしまったのですよ。」
男は笑顔でそう云った。とても嬉しそうである。
私は眩暈がした。目の前が暗くなる。
ぐらりと世界が歪む。
患者さんです、と病室の戸が開いて、
別の看護師が腕に抱いて連れてきたのは
犬、のようだった。
犬は私の隣の寝具に横たえられて、弱々しく鳴いている。足に白い包帯が巻かれている。
ここは病院です、と私が掛けられたのと同じ言葉を犬も掛けられている。同じ体温計で、同じように体温が計られる。
人も、獣も、同じ、だ。
私は、歪んだ世界から目を逸らした。
私が起き上がったのは、午前七時を回った頃だった。
外はもう明るくなっている。ひっそり身を潜めていた太陽はゆっくりと登り、その席に着いている。また太陽の大きな声を聞き続けなければならない一日が始まるのだ。憂鬱だ。そう思った。
ぐったりと倒れ込んで沢山の夢を吸い取った布団を退け、私はいつぶりにか身体を縦にした。むしむしとした昼の空気が漂い始めている。湿った身体に追い打ちを掛けられる。よくもまあ起きられたものだと褒めたくなる程具合が悪い。その上、寝過ぎた所為で重たい感覚が付き纏い、顔を洗ってもさっぱりとした感覚は一瞬だった。
然し、もうこれ以上なく明るいというのに何やら外がやけに静かだ。この辺りは目立つ大きな通りはなく、神社が近い所為もあるかもしれないが、私にとってそれは大変好ましいことなのだが、これから夜に向かっているかのように物音がしない。寺でもあるまいし、あの神社で葬式でもしているかのような、物音を立てるのが憚られる。
締め切られたままだった玄関を開け、私は愕然とした。
隣家の主人が仕事から帰宅した細君を迎えている。
一週間程前に葬式を上げた筈の向かいの主人が縁側に座っている。
私は
私は私の世界に戻って来た訳ではなかった!
ふと、小さな霊柩車が通った。
小さいが、黒塗りの立派な霊柩車だ。
霊柩車が通ると云うことは、誰かが死んだのだ。
私は藁にも縋るような気持ちで、霊柩車の後ろに連なっていた車の中の一台を止めた。涙の跡の残る充血した眼で睨まれても、私は私の為に必死に問うた。
「あの、前の車の、中にいるのは……」
死んだのだと云って欲しかった。不謹慎だが、人が、近しい人が亡くなったのだと云って欲しかった。
ここは私の常識が通じる私の世界だと
云って
「あの車は、うちの死んだ“猫”の物です。」
車は遠ざかっていく。
崩壊した私を、嘲笑うような砂埃を拭きかけながら。
終
大学の文芸部3年の夏に書いた作品です。
今から2年前。
「活動報告」にて作品についてお話していますので、裏話ネタバレ的な話が中心ですが、苦手でなければそちらもご覧ください。