私の幼なじみ
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綺麗な女人が離れの塔で囚われの身となっている…そんな噂が兵士たちの間で広がっていた。その女人の姿を見た者は、あまりの美しさに心を奪われてしまうという。あるものはその女人を女神の化身だと言い、またあるものは男をたぶらかす魔王の手先だという。あの屈強なハウヴァーの王、アレクサンドロスでさえその女人に心を奪われ、あらゆる貢物を彼女に奉げたというのだ、その噂は真実やもしれぬ…そう兵士たちはゾッとしながら人を寄せ付けようとしない離れの塔を今日も眺めた。
「ご機嫌麗しゅう、マリア様」
その離れに、一人の貴婦人が訪れた。その貴婦人はニコリと微笑み、その部屋へと入った。その部屋の主、マリア・カナン王妃はその貴婦人を一瞥もせず、窓の外を眺め続けていた。
「本日も相も変わらずのその美しさ。聞きましたわ。捕虜の身であるにも関わらず、うちの貴族たちから求婚が絶えないのだとか。全く、自分の国が乗っ取られたというのに、男をたぶらかす余裕があるだなんて」
さすがですわ、とクスクスと笑いながら言うその貴婦人の目は、いつの間にか嫉妬と憎悪の目へと変わっていった。しかし、そんな中、マリアは毅然とした態度で窓の外を眺めていた。それが気に障ったのだろう。彼女に大またで詰め寄る貴婦人の顔は、華やかとはかけ離れた表情をしていた。
「そう! あんたはいつもそうだった!! 私からハウヴァーの王妃の座を取り上げただけじゃ飽き足らず、お兄様までも虜にして! おかげで私は敵国の捕虜として嫁がされ、惨めな思いばかり! 私が…私がこの国の王妃になるはずだったのに…純血をしきたりとするこの国で…余所者の血が入るだなんて!!」
貴婦人は髪を乱しながら近くにあった物を投げつけた。しかし、それをなんなく近くに控えていた使用人に払われ、彼女の怒りが爆発した。
「余所者のあんたが来てから、最悪なことばかりよ!! あの方だって…あんたのせいで死んだのだから!!」
ここで初めてマリアの反応が見られた。彼女はゆっくり、しっかりとした足取りで、貴婦人の前に立った。上から見下ろされるという圧力と彼女の視線の鋭さにたじろぐ貴婦人。
「な…なによ…」
彼女の端麗な顔立ちが怒りという感情を持つと、こんなにも恐ろしくあるものなのか。彼女の宝石のような青い瞳が、恐怖の顔色をしている貴婦人を映し、怒りを帯びる。彼女の薄く桃色の唇が開かれそうになった時、ノック音が部屋に響いた。
「…母上。もうそこまでにしていただけませんか?」
「…テフィアット…」
現れたのはナノエの第二王子、テフィアット。マリアは再び感情のない表情を彼に見せた。彼はちらりとマリアをその瞳に映し、そしてフッと笑った。噂に聞いていたアレクサンドロスを虜にした女…なるほど興味深い。そう心内で思っていた。息子のそのような顔を見た貴婦人は、慌てた様子を見せた。自分の復讐を叶えてくれた愛する息子。他は彼女に奪われたが、それだけは奪われたくない。その思いで心の内は支配された。
「テフィアット! あなた何故このような場所にっ!! ……いえ…母はもう行きます。あなたもこんな場所…早く出ますよ」
足音を鳴らし、貴婦人は部屋を出た。それをチラリと見て、テフィアットはこちらに目線を向けるマリアに向かって口を開いた。
「何故、逃げなかった?」
それはハウヴァーを襲撃した際の話だった。ナノエにとって、ハウヴァーの守護者をあぶりだす罠はいちかばちかの賭けだった。王妃たちが姿を消してから、時間が経ちすぎていたため、あのまま姿を現さない可能性もあった。だが、現にハウヴァーの守護者は現れ、また王妃も抵抗なく自ら姿を現した。あのまま守護者とともに城の外に逃げていれば、守護者は死なず、またこのような囚われの身にはならなかったものの。この城が陥落したのは、彼女のそのような行動が少なからずともあったからだろう。文字通り、傾国の王妃と一部の貴族から呼ばれるのも頷けた。
「…私はここから出られませんから」
マリアはそう答えた。それは王妃という立場から、逃げるわけには行かなかった…ということだろうか。しかし、城が攻め込まれたあの状態であれば、人質となる危険性を避けるためにも逃げ出すほうが賢明な判断のはず…。だが、テフィアットは何か心当たりがあるらしく、ふむっと頷いた。そして、窓の外を眺める彼女の横顔を見て、そして笑った。
「姫には似ていないようだ。…どちらかと言えば、王大使よりだな。王は大層あの王子に手を煩わされたであろう」
マリアがテフィアットを向く。その表情は、先ほどと比べ感情の起伏は感じられない。だが、テフィアットは彼女の瞳が揺らぐのを見て、満足そうに微笑んだ。傾国の王妃も、殻を破ればただの女だな、と笑みを浮かべたテフィアットは、
「この話はまたいずれするとしよう。王子を捕らえたその後、我が願望を叶えてもらうためにも。では、また。伯母上」
と言い終わると共に、静かに扉を閉めた。その扉の先で、蒼白した顔でもたれかかるマリアが見える。テフィアットは笑った。彼の目的は段々近づいていく。
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「……もうすぐ落ち合う場所に着くぞ」
センダーリアを走らせて1時間は経つでしょうか。その間、私たちはただ無言で、ただ前を向いていました。ジーニアス様のおかげでナノエの追っ手は姿を現さず、初めて順調という言葉を使うことができます。……ジーニアス様…。脳裏に思い浮かぶのは、彼と交わした言葉でした。再び目頭が熱くなり、私は唇を噛みました。不意にセンダーリアの速さがゆっくりになり、私は顔を上げました。
「……ベルン?」
ベルンの瞳は私を向いており、その顔は歪んでいました。
「すまん…」
何故、彼が私に許しを請うのでしょうか…。私は見たことのない彼の顔に思わず手を添えそうになりましたが、ベルンの次の言葉で眉をひそめることになりました。
「…俺の力が足りないせいで、お前に辛い思いを……ぶっ!?」
気づけば私は、彼の両頬を思いっきり両手で挟むように叩いていました。バチンっと鈍い音がし、ベルンは瞬きを何度もさせ、私を見ていました。私は彼の顔を引き寄せました。逆さまのベルンの顔が驚きの目で私を映します。
「あなたって昔から何でそう、何でもかんでも自分の力不足のせいにするんですか! 今回の件は、あなたは精一杯やったでしょう! ジーニアス様だって、あなたを認めていたからこそ託したのではないですか!!」
自分の力が足りないせいで、私に辛い思いをさせる?何寝言を言っているんですか。私とあなたは同じハウヴァーの人間のはず。そこに男も女も関係ないでしょうに!本当、昔と何も変わらないんですから!
「私は、あなたにそう思われるほど弱くはありません!! 見くびらないでください」
言いたいことを吐き出し、私はベルンから手を離しました。頭が冷え始めると、ベルンとの距離が鼻先だったということに気づいたからです。しかし、その手をベルンが掴みました。
「っ!? ちょっ!?」
急にセンダーリアのスピードが上がり、私は危うく舌を噛みそうになりました。それと共に、ベルンが私の腰に腕を回します。私はぎょっとしながら彼の腕をはがそうとしましたが、流石馬鹿力。私の力じゃ到底引き剥せるわけもありません。
「ななな何をする……」
動揺する私をよそに、ベルンが震え始め、そしてクククと笑い出します。今の会話のどこに笑う要素があったというのでしょう。すると、ベルンは笑いながら、口を開きました。
「そうだな。昔からお前はそうだ。いつも俺の先を行く」
わけの分からないことを言いながら、ベルンは前を向きながら笑みを浮かべます。振動に合わせてなびく髪が、きらきらと光を反射し、それとともにベルンの端正な顔立ちをより引き立たせます。
「……これだからイケメンは…」
「…? 何か言ったか?」
何も言えなくなった私に、ベルンはそう言いながら微笑むのでした。