3人の密偵
城から最も近い王都の中央部。姉上たちと別れて、僕らはそこにいた。姉上たちは民の状況を、僕らはナノエについての情報を得るという手筈だった。敵地に乗り込むため、本来ならば僕らは残らなければならない。しかし、僕はフィルマンに無理を言って付いてきたのだ。なぜなら、僕は知りたかったからだ。今のハウヴァーがどんな状況なのか、この目で見ておく必要がある。姉上もそう思ったからこそ、同行したのだろう。しかし、ここについて早々、僕はさっそく目の前の光景に愕然としていた。
「……酷いな…」
呟くベルンフリートの声。僕はその光景を見て思わず口を押えた。苦々しくフィルマンが言葉を口にする。
「……ああ。奴ら、品性の欠片もあったものではないな」
かつては、多くの人が賑わっていたこの場も、今では生気の欠片もない民で溢れていた。皆が皆、虚ろな目をし、その瞳には何も映していなかった。そして、何と言っても僕らが立っている広場の中央には、ハウヴァーの兵士たちの無残な姿があった。ある者は鎖につながれ、ある者は柱に括り付けられ、そしてある者は首を晒されていた。彼らの中に…見知ったものがいるかどうか…僕にそれを確認する勇気なんかあるはずもなく、食べ物が逆流して来ないようにするので精一杯だった。
「殿下、ご無理をなさらないで下さい。フィルマン、ここにおっても何も得られん。場所を移そう…」
「僕は大丈夫だ。だから…少し待って」
僕は涙目になっている目をこすり、ここを離れる前に静かに彼らに祈りを捧げた。僕らを逃がすために…ハウヴァーの勝利のために…戦ってくれた彼らのために。その彼らに敬意を示すわけでもなく、ただただ残忍に命を奪ったナノエに怒りが沸いた。かつて同じ志であった仲間の屍を侮辱し、それを下卑た顔で眺める元ハウヴァーの兵士たちにも。組んだ手に爪が食い込み、血が滲みかけていたことに、僕はベルンフリートから声をかけられるまで気づかなかった。
「……行こう」
もうこれ以上、兵士や民が血や涙を流さないように、一刻も早く女神を探さなければ。そして、そのためにここから情報を集めなければならない。
「…はっ!」
二人は僕に頷き、フードを深くかぶった。鋭い目をさらに光らせてフィルマンは言った。
「この近くに唯一営業しているバーがあるそうです。ナノエの兵士が多く集まっていますので、警戒を怠らないでくださいませ」
それはすぐ近くにあった。中へ入ると、昼間だというのに強いお酒の匂いが充満していた。奥では、恐らくさぼっているのだろう…フィルマンの言う通りナノエの兵士たちが大勢で賭け事をしていた。やつれた店主がこちらを見た。
「…」
フィルマン、ベルンフリートを見て、そして僕に目線は止まった。てっきり何か言われるかと思ったが、店主は何も言わずカウンターにコップを三杯出してくれた。フィルマンが先に奥へと座ったので、僕はそれに詰めて座った。店の奥は大盛り上がりだった。どうやら大勝ちしている者がいるらしい。
「またお前の勝ちかよ!! イカサマでもしてるんじゃねぇか」
「悪いな! 俺にも運が向いて来たんだよ」
そのあと、散々賭け事の話と仕事への愚痴を話していた。いつの間にか、店主はお酒の補充のために地下へと降りてしまっていた。
「……どうする? 出るか?」
ベルンフリートはこれ以上待っても、得られる者はないと判断したようだ。僕は慌てて一口も飲んでいないコップを手に取った。臭いをかいでみたが、どうやらお酒ではなくミルクのようだった。僕はのどが渇いていたことに気づき、それで喉を潤した。
「…いや。まだだ。もうすぐ、彼らも話し始めるさ」
フィルマンが自分のコップを一口飲み、そう笑った。僕は何故そんなに言い切るのか分からず、首を傾げた。その時だった。突然大きな音がしたかと思うと、彼らが賭け事をしていたはずの机が飛んできたのだ。
「お前! やっぱりイカサマしてたんじゃねぇか!!!」
それからは、一方的な暴力のいじめだ。僕は見てられなくて、コップのミルクをじっと見ることに集中していた。そしてしばらくすると、裏口から誰かが追い出されたようだ。そして、戻って来た彼らは、再び賭け事をやり始めた。恐らくお酒も随分回っているのだろう。ほとんど呂律が回っていない。フィルマンは店主にお酒のお代わりをお願いしている。…そんなに飲んで大丈夫なのか。僕はベルンフリートを見た。……ん?生真面目な彼のコップには、まだお酒がなみなみと残っていた。
「ぎゃははは! また勝っちまった!」
「くそっ!さっきから不真面目な奴ばっかり勝っていきやがる」
「あったりまえだろ。真面目に見回りなんてしていたら、ここにいねぇよ」
この時点で、数人は床に酔い潰れていた。顔は真っ赤だが、まだ意識のはっきりしている者たちは、それでも賭け事をやめようとはしなかった。
「あー、そういやお前いいのか? 確か、ハウヴァーの……なんとかっつったか変な頭の騎士の見張り、もうすぐだろ?」
僕はびくっと体を震わせた。フィルマンをちらりと見ると、険しい顔をしていた。
「あ? いいんだよ。どうせ殺す気で拷問されてんだ。戦場でどれだけ名を馳せた奴だろうが、あれだけ痛めつけられたらもうお終いだ…くそっ! お前が仕事の話なんてするから、負けたじゃねえか!!」
「ケケケ! ありがとよ! そりゃあそうだ。確か、あまりにも吐かないもんだから、今度は馬で王都中引きずり回されたんだっけな?」
「俺それ見てたな。まるで、ボロ雑巾のようだったぜ。でも奴も馬鹿だよなぁ。とっととゲロッちまえば楽になれんのによ」
「イカレてるのさ。なにせあいつ、唯一テフィアット殿下からお声をかけていただきながら、それを断りやがったやつだぜ」
「まじかよ…。恐れ知らずだなそいつ。だから上官たちがピリピリしてたのか」
「当たりも強くなるわけだ。知ってるか? 3周引きずられても、口を割らなかったもんだから、逆に上官たちがビビッちまってよ。東の処刑場の近くに置き去りにしちまったってやつ」
「ということはあいつ、昨日からずっとあそこに放置かよ」
声と共に笑い声も大きくなった。聞いているだけで僕は震えが止まらないというのに、彼らが同じ人間だとはとてもじゃないが思えなかった。
「おいおい、お前らいい加減にしろ。外まで聞こえるぞ」
僕は身を震わせた。新しく兵士が入って来たのだ。兵士はため息をついた。
「ったく。ここは唯一のサボり場だってのに、バレたらどうする………」
僕はひゅっと息を吸いこんだ。兵士が僕らに近づいて来たからだ。
「…おい、お前見かけねぇ顔だな。何故、子供連れてこんなところに来る?」
兵士は僕の顔を覗き込むように、フィルマンに問いただした。僕は慌ててフードを深く被った。フィルマンがにこやかに
「これは失礼を。こいつは人見知りが激しいもので。私は物売りでして、今王宮に物資を届けてきたのでございます」
と言った。僕は必死で下を向いた。この兵士が、何も気づかずどうか早く行ってしまうよう祈った。
「……確かに物資は今日届いたが……怪しいな。物売りにお前のような目立つ顔はいなかったぞ! 御者番号を言え!」
もう駄目だ…僕はフィルマンを見た。逃げるのか…それとも剣を取るのか…僕は覚悟を決めた。どうなろうと彼らの邪魔だけにはなるまいと。
「ほう。したっぱの兵士かと思えば、お主は王宮の兵士なのか。ちょうどいい」
「なにっ!? 貴様、なにも……」
兵士はいきなり体を折り曲げ、そして次に体を起こした時には顔から表情が消えていた。
「え……」
「目立つことはしないんじゃなかったのか?」
いつの間にか奥にいた兵士たちはベルンフリートが床に寝かせていた。パッと見、酔いつぶれたようにしか見えない。まあ、三分の一くらいはそうなんだけど。
「時と場合によるな。それより、そちらはどうだった?」
「上々だ。少し脅したら聞いていないことまで話してくれた」
僕はあまりの手際のよさに驚き、そして聞いた。
「いつ裏口に?」
つまり、僕の隣で飲んでいたはずのベルンフリートは、店から追い出された兵士の話を聞き出すためにいつの間にか裏口へと回ったのだろう。隣にいたはずなのに全く気づかなかった。僕の問いにベルンフリートは笑った。
「その話はあとにいたしましょう。フィルマン、終わったか?」
ベルンフリートの呼びかけに、僕はフィルマンを見た。そう言えば、あの様子のおかしい兵士はどうしたのだろう。急に人形みたいに表情がなくなったように思えた。フィルマンの何個目かの問いかけに、彼はためらうことなくスラスラと答えていた。
「王宮は今、慌しい状況である。ナノエ帝国の王妃がこちらに向かわれているからだ」
僕は彼の言葉に驚いた。ナノエの王妃がハウヴァーに!?
「…いくらなんでも無謀すぎやしないか?」
彼の言葉にベルンフリートが怪訝そうな顔をした。確かに、父上を捕らえた彼らは、ハウヴァーを掌握したといっても過言ではないし、この国の全権は、彼らにあるといっていい。しかし、そうなったのはつい最近のことだ。王族をむやみやたら、自国から出してしまって、もしもの危険を考えなかったのか…。それとも、その危険よりもここにこなければならない理由がナノエの王妃にはあったのか…。僕の頭は疑問でいっぱいになった。
「……なるほど。とりあえず、こちらが手薄な理由が分かった。もうこれ以上こいつに聞くことはないな。『ここに異常なかった。お前は仕事に戻る』繰り返せ」
「………『ここには異状なかった。俺は仕事に戻る』……」
そして、表情筋が全く動かないこの兵士は、ふらふらとした足取りで外へと出て行った。…一体どんな魔法なのだろう。姉上がこの場にいたら、目を輝かせるだろうな。僕は久々にフィルマンの凄さをこの目で見た気がした。だてに世界最高峰の魔術師とよばれていない。
「情報は得られました。もう出ましょう。ここは空気が悪い」
当の本人は、僕の思いを知って知らずか、いつものように微笑みながら、僕の方を見た。僕は慌てて頷き、扉の方を向いた。
「分かった」
そして、外に出ようとしたときだ。大きな影に気づいた。どうやら店主が戻ってきたようだ。
「あ、あんたら………まさか……」
呆然としていた店主が何かに気づいたように僕らを指差した。フィルマンは懐から金貨を数枚取り出し、机に置いた。
「騒がしくしたな。これは代金だ。受け取ってくれ」
そうして、僕らは店を出た。外の空気は久々に吸ったような気になり、澄んでいるようにも思えた。