王宮からの脱出と襲撃
「あ…あの! 私は確か待っているように言われていたはずですよね?」
私は声を張り上げ、メイドさんたちにそう尋ねました。応接間を出た途端、三人のメイドさんが私の側にぴったりとくっつくように歩かれ、そして先ほどからずっと私を急かしてくるのです。最初は元の食堂に戻るのかと思っていましたが、それはもうとっくに通り過ぎています。そしてこの先にあるのは……どうにも嫌な予感しかしません。
「お急ぎでお部屋にお連れするように言われております」
一人のメイドさんの答えに予感が的中したことを知り、同時に私は慌てました。しかしこの状況…どうにもなりません。三人とも同じような顔で私を見て、そして私を半ば強制的に歩かせようとするのです。私は必死に時間を稼ぐために、口を開きました。
「部屋に? 何かあったのですか!?」
「なにもありません。我らが主様の雨狐様」
真っ先に応えたのは、先ほどの後ろの彼女。赤を強調した服装をしており、私を急かす視線がとても痛く感じます。
「ええ。我らが主様の雨狐様が気にされることではありません」
次は左隣にいる彼女。青を強調した服装をしており、一見して聞くと誠実そうに聞こえるそれは彼女の口から出ると、とても冷たくひやりとしたものを感じます。
「はい。ほんの些細なことです」
最期は右隣にいる彼女。黄色を強調した服装をしており、私を見るその顔にはまるで表情が感じられません。
「では、参りましょう。我らが主様の雨狐様」
そんな三人の声が揃い、私は無理やり移動させられました。…これはまずいです。何がまずいかって、私の部屋には私自身を抜け出せなくする魔法がかかっているからです!!外、または正規以外から入って来たベルンやエマ様は難なく脱出できましたが、魔法の対象になっている私にはそれは不可能。…まったく厄介な魔法をかけてくれたものです。私があの部屋に入った時点で、この城からの脱出はできないではないですか。つまり、逃走のチャンスは部屋に戻るまでの通路ということ。しかし…
「もう少しお急ぎを。我らが主様の雨狐様」
「もう少し足をお速めに。我らが主様の雨狐様」
「もう少しで着きますので、ご辛抱を。我らが主様の雨狐様」
両脇にそれぞれ一人ずつ、それに後ろにもメイドさんがぴったりと私に張り付くようにして歩いているので、逃げる機会なんてないに等しく…正直、そこまで頭が回らなかったというのが事実です。白状するならば、可愛らしいメイドさんたちだと舐めていたんです。可愛らしい背丈に、くりくりとした大きい目。顔立ちもはっきりとしていて芸能人にいそうな華やかな雰囲気に、肩にかからない程度の短い髪。露出は少々多めなメイド服ですが、若い彼女たちにはそれもまた人の目を引く材料でしょう。そんな彼女たちだからこそ、見落としていたんです。
「……なんでいつも私はこうなのでしょう」
また、エマ様に呆れられてしまいます。少しくらい考えれば分かるはずだと。なにせ他ならぬ私がそうなのですから…。でもまさか思わないではないですか。まさか…私と同じく戦闘教育のされたメイドたちがいるだなんて。しかも彼女たちのそれは、確実に人相手を想定したもの。人をどう捕え、逃がさないようにするかの術を確実に身に着けています。実際に彼女たちはたびたび威圧という威圧を私にかけているわけでして…。つまり今のままでは、逃げること、ましては部屋に向かって足を進める以外の行動を起こせないということになります。どうにかしなければ……。ギルが言っていたあの中庭はここから逆の方向であり、そこにつながる通路もここから遠い。外を見ると、白煙の数は増えるばかりで、私の焦りはますます募るのです。
「我らが主様の雨狐様。危険でございますので、前をお向き下さい」
後ろから軽く押されるのを感じながら、私は唇を噛みました。…どうしよう。このままでは部屋に着いてしまいます。…こうなったら…。私は顔を上げました。あまり気は進みませんが、ここで彼女たちを巻くためにも…剣を取って…
「これはこれは。そんなに急いで誰かと思いきや。そんな恰好であるから一瞬見分けがつかなかったぞ」
私が懐の剣へと手を伸ばそうとした時、前から聞き覚えのある嫌な声が耳に入り、私の足は自然に止まりました。ねっとりとした声、耳に触る話し方。…見なくても誰かなんて一瞬で分かってしまいます。なんでまたこんな時に…。そう思いながらも私はゆっくりと前を見ました。
「……いったい私に何の御用でしょう…」
そこには三人の手下を引き連れたイッシュバリュート様がいました。彼らはにやにやと私を見ています。襲撃されているこの状況下でなぜそのような顔をしていらっしゃるのでしょう…?裏切り者の彼らをハウヴァーの方々は決して許さないでしょうに…。まさかまだ何か企んで…
「…なぜお前がここにいる?」
私の右側にいたメイドさんが鋭い目でそう言いました。イッシュバリュート様はその目に臆することなく、むしろ鬱陶しそうに彼女たちを見ました。
「メイドごときが俺に口出しをするとはな。俺はこの女に用があるのだ。下がっていろ」
「下がるのはお前の方だ」
ゾクリとする雰囲気が彼女たちを包みました。彼女たちはそれぞれ武器を手に持っており、私の前に立ちました。私は思わず彼女たちから離れるように窓の側へと寄ります。
「お前は我らが主様の雨狐様と口をきく権利は与えられてはいない」
「よってお前の命をきく意味がないのだ」
「まして、我らが主様の雨狐様をその女呼ばわりするだなんて、我らが主様を侮辱しているのか?」
殺気立つ三人のメイドさん。私は彼女たちの後姿しか見えませんが、私がその殺気を向けられたら今頃体の震えが止まらなかったことでしょう。しかし、
「…もう一度言う。そこをどけ。穢れの親玉がどんなに偉かろうが、所詮穢れの者。たかが知れておるわ」
その言葉が三人の殺気を確かなものにしました。
「「「たかが不要種ごときがああ!!!」」」
殺気だった三人の暗殺者がイッシュバリュート様に襲いかかりました。それぞれの武器は目に止まらぬ速さでイッシュバリュート様の首に向かって……
「馬鹿め」
一瞬。私が瞬きをしたほんの一瞬の出来事でした。室内だというのに風が起こり、気が付けば目の前が赤に染まっていました。私はその赤はてっきり攻撃を受けたイッシュバリュート様のかと思っていましたが、実際に倒れたのはメイドさん三人でした。胴体が力尽きたように倒れ、私の足元には目を開いた首が転がってきて…
「ひっ…」
私は声にならない叫びをあげ、そして必死で口を抑えました。逆流してくる胃の中の物を飲み込み、涙目になった目でよくやく顔を上げました。
「これで邪魔無く話せるな。穢れの勇者」
「…なんてことを」
私は絞り出す声でそう言いました。イッシュバリュート様はそんな私にニヤリと笑い、血が付いた剣を拭きながら口を開きました。
「先に仕掛けてきたのはこ奴らの方だ。自分と相手の力量も分からん馬鹿だったようだがな。女は黙って言うことを聞いていればよいのだ」
私は軽蔑の意味を込めて、イッシュバリュート様を睨みました。怒りがふつふつと沸いてきます。
「…なぜハウヴァーを裏切ったのですか?」
「俺はお前が気に入らなかった。お前は穢れの者のくせにかばう者が多すぎる。あのアレクサンドロス王でさえお前の肩を持つのだから驚きだ」
王が?私にはそんな素振り全く見せになられませんでしたが…。動揺する私に構わず、目の前の裏切り者はさらに言葉を続けます。
「これも異世界人の力ということか? 全く忌々しい。まあ、どうせ最後には全員俺の前にひざまずくことになるがな。あのベルンフリート卿も例外ではない」
ひざまずく?ベルンが?自信満々に言うイッシュバリュート様に私はおかしくなりました。ベルンはすでにあなたが裏切り者の一人だと気づいておられます。それなのにあなたといったら…。思わず口に手をあてて、笑ってしまいました。私の笑い声は廊下に響き渡ります。
「……なにがおかしい」
そんな私の行動に不快感をあらわにしたイッシュバリュート様がそう言いました。後ろに控えていた兵士たちが殺気立った目でこちらを見ています。私は開いている窓に軽く腰かけ、そして微笑みました。
「ベルンフリート様があなたごとき卑怯者に、負けるはずないではありませんか。あの方はあなたがお持ちでない力を持っています。あなたのような者が決して持つことのない力です。それなのにあなたは勝つ気でいらっしゃる。これ以上の滑稽な話はありません」
「メイド! 口を慎め!!」
逆上した兵が剣を抜きながら一歩、また一歩と私に近づきます。私はニヤリと微笑みました。
「あなた様の罪にふさわしい罰が下ることを願っております。では、イッシュバリュート様、皆さま…失礼いたします」
私はそのまま後ろに倒れ込み、外へと飛び出しました。そして重力に従うままに、私の体は下へと落ちていきます。
「……っ!?」
驚いたように窓から私を見下ろすイッシュバリュート様の顔が見えました。そして、
「急いで王女の身柄を確認しろ!!」
と怒鳴られます。なるほど。だてに十一人衆に抜擢されわけではないようです。さすがに鋭くていらっしゃる。その命令に困惑した部下の方がイッシュバリュート様に何か言われます。
「馬鹿どもが!! あれが王女を置いて逃げるわけないだろう!!! お前たちは俺と共に来い!! 脱走者を捉える!!」
その声を聞きながら私は木の上へと落ちました。葉がクッション代わりになったといっても……流石に痛いですね。もう二度としないようにしなければ。地面に降りた私は中庭へと急ぎました。もうもうすぐそこまで、戦いの音は近づいております。私はその音にぞっとしながらも足を進めました。ここにエマ様がいらっしゃらなくて本当によかったと思いながら。いつも通っていた廊下は今やナノエの兵士が慌てふためいており、私はその混乱に乗じながら先を進みました。約束の中庭まであと少しとなり、あとは…あの大樹を通れば……
「…おい、いたか?」
はっと私はとっさに木の陰に隠れました。こそっと様子を見ると、ハウヴァーの鎧を着た兵士たちがいました。…イッシュバリュート様の部下の方々です。
「いや。やはりもう逃げたのだろう。はぁ。…イッシュバリュート様にも困ったものだ。あんな小娘に執着なさらなくとも、他にいい女は多くいるだろうに」
「口を慎め。あれはただの娘ではないことはお前も身に染みておるだろう。我らが侵入させた魔物どもを奴は一掃してしまったのだからな」
「ああ! そういえばあの娘でしたね。せっかくのチャンスを…っとイッシュバリュート様が歯ぎしりさせていらっしゃいましたからね」
…やはりあの魔物襲撃の件も一枚噛んでいましたか。私は大樹の陰に身を潜めつつ、彼らが去る機会をうかがっていました。…あと少しでギルとの待ち合わせ場所なのに…
「どうだ?」
私はその声に思わずびくっと震える体を抑えました。後ろを振り返ると、先ほど通りかかった廊下からイッシュバリュート様の声が聞こえるではありませんか。…これは…逃げ場を失ってしまいました。しかも声はどんどん近づいてきます。
「…王女の部屋はすでにもぬけの殻…その事実を知ったら、あの穢れの長はどうあれを扱うのだろうな? くくくくくくく!!!」
…しかも、エマ様がいないことが確認されてしまったようです。……しかたありません。上に登るとしましょう。私がそう決断し、木に足をかけたその時、
げこっ
蛙が私の足元におり、そう一声あげたのです。私はもちろん後ずさりをしました。そして…不運にも木の根っこに足を引っかけてしまい、そのまま後ろに倒れてしまったのです。
「…いった………あ…」
場の空気は凍り付いていました。右を見れば、座り込んでいた兵士たち。左を見れば四人の部下に囲まれたイッシュバリュート様がこちらを凝視して……
「…………!!!!」
その顔を見た瞬間、私は足に思いきり力を入れて走っておりました。もちろん右方向に。ギルには悪いですが、このまま敵を引き連れながら逃げましょう。運が良ければ、外にいるハウヴァーの兵士に加勢を期待できるかもしれません。
「何をしている! 捕まえろ!!」
そう言うイッシュバリュート様の声を聞きながら私はほくそ笑みました。ナノエの物よりは軽量とは言え、鎧を付けたまま私の足に付いてくることができるでしょうか。こう見えても私、逃げ足には自信があるのです。前世では脱兎のように速い奴なんて言われてましたっけ。…いまいち褒めているのか微妙なところですけど。……しかし、
「って、速っ!?」
にも関わらず、兵士たちは私との距離をだんだん縮めていくのです。
「クハハ!! そいつらは斥候として優秀な奴らだ! 足に関していえばお前よりも何倍も優秀だぞ!!」
目をぎらつかせながら、追いかけてくる彼らに私は目を疑いました。…二つ名は返上しなければならないようです。…確かに馬が目立つ場において、敵の様子を監視する役目を持つ斥候には身軽さが求められます。しかも、その役目を担っているのはほとんどイッシュバリュート様の部隊だと聞きました。あーー!!今頃思い出すだなんて、私のドあほ!!
「ギル! ギルギルギル!! すみません一人で逃げて下さぁぁぁいいいいい!!」
魔力で加速しようにも目的の場所は目前。逃げる手立てはギルが知っているので、彼を捕まえなければ逃げるのも無理。私はダメでもギルだけは…。そう思い、私は出る限りの声を出しました。彼からの返事はもちろんなし。無事届いているといいのですが…。…あぁ、もうだめです。彼らの手が私の服を掴み、私は捕らえられる…
「それは聞き捨てありませんな。戦場という場にか弱き女性を一人にさせるだなんて、このギルがするとお思いで?」
透き通るような声が私の耳に入り、気づけば私の足は立ち止まっていました。後ろを振り返ると、そこには兵士たちではなくギルが微笑んでいるではないですか。
「…貴様…詩人か!」
イッシュバリュート様がそう叫ばれると同時に私はギルによって抱きかかえられました。
「…は!?」
「逃げる女性には、こうやって待ち伏せして、抱きしめてあげる方が喜ばれますぞ? だが、どうやら貴殿には難しかったようだがな」
そう言うと、ギルは私にウインクをしました。
「貴様っ!!」
…こんな状況下でも相変わらずそんな調子なのですね。私が呆れてため息をつくのと同時に、ギルの体は上へと引っ張られていきました。
「なっ!?」
「では、貴殿が女性の扱いを心得る日を祈っておこう!」
何をしたのかは分かりませんが、これも詩人ならではの能力なのでしょうか?私はその勢いに思わず目を瞑りました。そして再び目を開けた時、ギルの誇らしげな顔が目に映りました。
「リオ殿、ご安心を。あなた様の騎士が助けに参上いたしました」
きらっとした笑顔を見せるギルに、私は再び呆れました。…確かに絶妙なタイミングではありましたが…なんでしょう?この礼を言いたくないというこの気持ちは。
「おっと、そろそろ降りなければ。ここは目立ちますからな。リオ殿、その可愛らしいお口を開けられぬよう」
「へっ!?」
ひゅっと内臓が動くのが分かり、髪が上へと逆立ちました。ギルは城の屋根から何のためらいもなく地上に飛び降りたのです。階段を使用する以外の方法で降りないでください!!!それに、降りるときくらい一言声をかけるくらいしてくれてもいいでしょう!!!別にジェットコースターなどの絶叫系が苦手ということではなく、むしろ好んでいた方です。しかし、心の準備もないままにそれをするのは嫌です!!といいますか、結構高かったですよあそこ!あなた私を抱きかかえたまま、無事着地できるんですか!様々な思いが錯綜しながら、ギルのよしっと言う声で私は恐る恐る目を開けました。
「……着地…できてる」
ギルは高さなどなかったかのようにしてますし、私の方も振動などはほとんどありませんでした。……本当にどうしたらこんな芸当できるのでしょうか???
「おかしなことを言うのですなリオ殿。この俺が可憐な女性を傷つけるなどありえませんよ。そんなことより、俺としては嬉しい状態なのですが、そのままだとリオ殿がきついでしょう?」
何を言っているのでしょう?最初は分からず、ぽかんとしていた私でしたがはっとしました。落ちた瞬間、私は恐怖のあまりとっさに身近にあったものにしがみついていたのです。抱きかかえられていた私にとって身近にあった物……ギルの頭です。つまり、私はギルの首に手を回しているというなんとまあ人様には見られたくない恰好をしており……
「す、すみません!!! もういいので下ろしてください!!」
私は慌ててそう言うと、ギルは残念そうな顔をして私を地面に降ろしました。あっさり降ろしてくれたのでほっとしていると、ギルがにっこりと微笑んでいるのが分かりました。
「リオ殿は照れ屋さんなのですなぁ。俺たちはもうそれ以上のことをして…」
「いませんから!!!」
私はそう言い捨て、先を進みました。このまま談話しているわけにもいきませんし、何より、ギルのペースにこのまま巻き込まれるのはごめんだと思ったからです。
「……っ! リオ殿走りましょう」
何かを察したギルが私の手を引っ張ります。それと同時に、私の横を矢が通り過ぎました。
「もう追手が!? イッシュバリュート様でしょうか!?」
「恐らく。まったく、女性の扱いは全くのくせに野生の勘とやらが働いたのでしょう。あの狐が」
私はギルのその言葉に思わず吹き出してしまいました。イッシュバリュート様が野生動物となり、魚を取っている姿が目に浮かんだのです。
「リオ殿! もうすぐです!」
古びてもう使われなくなった建物を通り過ぎると、開けた光景は…まさに戦場のど真ん中。ハウヴァーとナノエが剣と剣を交えて戦っておりました。
「小娘!! 悪く思うな!!」
呆然とその光景を見ておりましたところ、後ろからそのような声が聞こえて私はハッとしました。
「リオ殿! これにお乗りください!」
しかし、その声の人物はギルによって倒された後でした。ギルの手にはいつの間にか弓矢が握られておりました。ギルはすでに馬に乗っており、弓矢で他の敵を攻撃しています。ギルが私に渡したその馬も敵の馬でした。どうやら作戦通りとはいかなかったようです。私は慌てて、馬に飛び乗りました。
「では、この場を優雅に駆け抜けましょう。そう、かの有名な……リオ殿!?」
「え・・・」
ギルの馬がいきなり全力で行ってしまう音を聞きながら、私の体は下へと落ちていました。私が手綱を取る前に、馬が興奮してしまったようです。……そう言えば私、馬に乗れないんでした。忘れていたわけではありませんでしたが……この状況下でさらに別の国で訓練をうけた馬なら大丈夫だと思ってたのに!!!落ちる体にどうすることもできないまま、受け身をとろうにもどうしようもありません。
「い…痛い」
思いっきり背中を強打する音がしました。…しかし、落馬したにしてはあまりいたくないような…??恐る恐る目を開けると、
「………ひいいいいい!!!! いやあああああ!!!」
無様な悲鳴を上げてしまったのも無理はありません。蟻のような顔、頭に生えた触角、それに動く六本の足。まさに巨大な虫が私を抱きかかえていたのです。私はじたばたと暴れました。しかし巨大虫は私をしっかりと持っていて、離してくれそうにありません。食われる!食われてしまう!口が動いたとき、私は死を覚悟しました。ここまできてまさか…虫に食われるだなんて。私が最も嫌な死に方ではないですかあああ!!!
「今下ろしますから、暴れなさるな。リオ様」
しかし、そこから出たのは私を食べやすくする液ではなくて言葉でした。しかも、その容姿に似合わない少し高い男の声で…。……ん?どこかで聞いたことのある声のような…
「リオ!!」
考えにふけっていた私は、気が付けば誰かの腕に抱えられていました。馬に乗っているのその人は私を後ろ向きに抱えたのを強い力で自分の前に乗せました。
「くそ…あまり損傷を与えられなかったか…。リオ、伏せていろ! 突破する」
「ベル…ぶっ!?」
強い力で私をセンダ―リアに押し付け、ベルンはさらにスピードを上げました。私の初めての乗馬はトラウマになりそうでした。無理!怖い!せめて顔をあげた…
「伏せていろと言っただろう!!」
顔を上げようとした私を、再び強い力で押し付けるベルン。鼻に鈍い痛みを覚えた私は腹立ちましたが、そのとき顔に生温かい感触がしたのが分かりました。これは…血?
「ハウヴァーの鬼人! 覚悟!!」
ひゅん
「ハウヴァーの黒騎士だな!! ここで殺…」
ひゅん
私は途端に震えが止まらなくなりました。そうです。ここは戦場。そう自覚した途端、周りの音やにおいなどが私の中に入ってきました。金属音、馬や人が出す音、異国の言葉、そして鉄のにおい。それらは私にとってあまり馴染みがないもので…。私はいつの間にかセンダ―リアのたてがみを強く握りしめていました。
「……リオ。もういいぞ」
どれだけ経ったでしょうか。辺りが静かになったかと思うと、ベルンの声が聞こえました。私はゆっくりと体を起こしました。何もしていないのに息が荒れています。
「怪我は……していないな。ったく、戦場のど真ん中に現れる奴があるか! あの魔族のように異様な能力を持つ敵もいるというのにこれでは………どうした?」
だんだん苦しくなる荒い息を私はどうすることもできず、ただ苦しくて咳をしていました。視界が歪むのが分かります。
「リオ、ゆっくり息を吸え。もう心配ない、大丈夫だ」
ベルンが私の背中をさすり、顔を上に上げさせました。そうすると、呼吸がしやすくなり、だんだん落ち着いてくるのが分かります。
「すみ…ませ…」
「いい。よくやった。エド様もエマ様もお前の帰りを今か今かと待っておられる。無事でよかったリオ」
そう言って、微笑むベルン。私はその微笑みにつられ、口元が上がっていくのが分かりました。
「ここでフィルマンと落ち合う予定なのだ」
私が落ち着いたと分かるとベルンはそう説明し、センダ―リアはぶるっと首を振りました。
「…そうですか」
私はどっと疲れ、そのままベルンに寄りかかってしまいそうになりましたが、慌てて体を起こしました。ベルンの方が疲れているに決まっていますから。
「………構わん。いらん遠慮はするな」
腰に手を回され、私の頭がベルンの硬い鎧にあたるのを感じました。…そういえば、久しぶりにこの鎧を見たような気がします。本当に真っ黒…。
「……どうした?」
「いえ。相変わらず趣味が悪いなと思いまして」
魔の物を徹底的に嫌うこの世界で、わざわざそれを全身に身を包むのはあなたぐらいなものです。よっぽど手柄が欲しいのか、それとも自分を恐ろしいものにでも仕立て上げようとしているのか…知りませんけど。あちらの世界でも黒は死の象徴として扱われていましたが、あちらの場合髪の色が黒は普通…みたいなものがありましたからね。…そう考えると、やはり客観的に見てもこの髪の色はあまり気持ちの良いものではないことが改めて分かります。
「……俺は好きだがな」
不意にベルンがぼそっと呟き、私はマヌケな顔でベルンを見ました。
「……え?」
どくんっと胸が高鳴ります。だんだん顔に熱がこもるのが分かりました。隙??いや、話の流れからしておかしい。ということはやはり…好き?ままま待ってください。落ち着いてください。私、何の話をしていましたっけ………そう鎧!鎧です!!鎧の話をしていたんです。そう!この鎧が好きで身に着けている…ってことです。ですから、落ち着いて深呼吸です。それ以外あり得ないではないですか!!そうですよ。それ以外に何が?ええ、ありませんとも。一瞬でも違う意味でなど捉えたりしていませんとも。
「あっ…ち、違う! この色のことだ!! この色が俺は昔から好きで…」
「ええ。理解しております。鎧の事でしょう? それ以外に捉えることなんてないではないですか」
慌てるベルンの言葉に私は冷静に返しました。ばくばくと鳴り続ける心臓の音をごまかしながら、私は笑いました。
「…あ、あぁ。そうだな」
安堵した様子のベルンから目を逸らし、私もまたほっとしました。……危うく変なことを口走って困らせるところでした。危ない危ない。
「………あ……」
ふと、ベルンが何かを言いかけるのが分かり、私はベルンの方に目線を戻しました。
「…どうしました?」
「………リオ……」
「はい?」
しかし、中々その先を言おうとしないベルン。なんでしょう?やけにいつもより真面目そうな顔をしていることから、先ほどのお説教の続きでしょうか?しかしあれは、ギルがしたことで私のせいでは……
「あ!! ギル!!」
そう考えていたことで私ははっとしました。そうです。ギルは無事でしょうか!?私は体を起こし、辺りを見渡しました。周りにあるのは木々ばかりで、人の気配はありません。ギルの事ですから、上手くあの戦場をくぐり抜けているとは思いますが…。でも彼は詩人。戦闘のプロではありませんし…。
「ベルン! ギルはどうしたのか知りませんか!? どうやらフィルマン様に言われて助けに来てくれたようなのですが、はぐれてしまって……聞いているんですか!!」
しかし、ベルンは眉間にしわを寄せ、私の話を聞いている素振りがありません。しかも、
「………気になるのか?」
というなんとも馬鹿な質問までする始末。何を言っているんですかこいつは!?
「当たり前です! ギルは私を救出するために、あんなところまで来てくれたのですから! ギルに何かあっては遅いのですよ!!」
大体、新参者のギルに私を助ける義理なんてないに等しいのです。それを危険なめにあっても、見捨てずに城の外まで連れ出してくれたのです。そう簡単に返せるような恩ではありません!!
「……………お前と奴は初対面ではないのか?」
私は頭を抱えました。先ほどからベルンが何を考えているのか分かりません。それは今、この状況で聞く質問ですか!?
「……ええ、最初にギルを部屋まで案内したのは私ですから。そんなどうでもいいことより、まだフィルマン様は来られないのですか? ギルの安否が気になり…」
「私の身を案じてくださっているのですか!? これ以上に嬉しいことはありませんな!!」
聞き覚えのある気取った声が、向こうから聞こえてきました。私はそちらの方向を見ると、そこにはこちらに笑いかけるギルと、安堵した表情のフィルマン様の姿がありました。
「ギル! よかった! フィルマン様もご無事でほっといたしました」
「心配してくださる女性がいる限り、俺は不死身でございますからな。リオ殿もご無事そうで安心しました」
どうやらギルは私とはぐれた後、フィルマン様と合流したようです。フィルマン様は私の顔を見て、微笑まれました。
「リオ殿も無事でなによりでした。リオ殿を連れ出す前に襲撃が始まったときはさすがに肝が冷えたものです」
「ギルが来てくれましたから。本当にありがとうギル」
「礼を言われるのはまだ早いというもの。敵がいないとはいえ、安心はできませんからな。ですが、今のところはこれで」
ギルはにこっと微笑み、私の手を取りました。そして手の甲に唇を近づけます。
「え?」
そ、それってまさか…漫画などによく出てくるあれですか!?貴族の男性が女性にするあれですか!?ちょっと待ってください!私にはそんな気恥ずかしいのは無理……
「………無粋だとは思いませんかな?」
次に温かい唇の感触が来ると思いきや、来たのは鈍い痛みでした。ベルンの手が私の腕を力強く引っ張ったためです。
「……ここはまだ戦場だ。妙なことは止めてもらおう」
何故かとげとげしい雰囲気の二人。何か一触即発するような出来事でもあったのでしょうか。…いえ、そんなことより私にはすることがありました。この筋肉馬鹿に掴まれている腕がみしみしと今まで聞いたことのない音を出しているのです。私は思いっきり腕を掴んでいる手を叩きました。
「痛いです! この筋肉!! 加減を知らないのですか加減を!!」
「すまんつい……筋肉とはまさか俺の事か?」
「筋肉でしょう! ここは戦場といいながら何ギルとじゃれ合っているのですか! 今度から筋肉の騎士とでも改名でもしたらどうです? この脳みそ筋肉!!」
私の言葉に真っ先に吹き出されたのはフィルマン様でした。
「それはいい。お前にぴったりだ。脳筋の黒騎士…おおっ! まさにお前にこそふさわしい名前……」
ここで言葉にならず、お腹を抱えて笑われるフィルマン様。
「残念ながら、俺には男とじゃれ合う趣味はないのです。あなたのような可憐な方と夜のベッドでじゃれ合うのは大歓迎なのですがな。どうです? 今夜にでも?」
こっちはこっちでマイペースにニコニコとしていますし…。頭痛くなりますね。
「その煩わしい口を閉じろというのが……ぐっ!?」
エンドレスな状況となりそうだったので、早々にベルンの口を封じるため、彼の足を思いっきり蹴りました。ベルンの視線がひしひしと伝わってきましたが、睨んで黙らせました。私は一秒でも早く、エド様とエマ様にお会いしたいのです。しかし、今度はにらみ合いが勃発し、私は大きくため息をつきました。このあほ共は放って置きましょう。助けに来ていただいて言うのはあれですが……いいえ、やはり言うまい。私はフィルマン様の方を向きました。
「フィルマン様、あなた様の頭の中にはこれからどうすればよいというのがあるのですか?」
「ん? …あぁ、そうですな。ですがその前に…」
言葉を切り、そして意地の悪そうな笑顔でフィルマン様は言いました。
「リオ殿に服を脱いでいただかなければなりませんな」
…服を…脱ぐ!?!?