人間ではない者たち
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運命は確実に狂いつつある。人々がその事実に気づいた時には、もう誰もそれを止めることは不可能だった。そう、たとえこの世界を牛耳っている神々であっても。
もうこの世界の者には止められない。変えられるのは他世界から来た、異世界者だけだ。しかし、狂ったこの世界で彼らに課された運命とは…果たして『英雄』というものだけだろうか。すべてを知り、残酷な困難や運命を目の当たりにしたとき、彼らの心は耐えられるのだろうか…。
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目を開けた私は、その不安を目の前で状況を知りうる彼に問い詰めました。
「どういうことですか! まさか私たちをこの場へ連れてきたのは、その罠とやらに利用するつもりで…」
「落ち着いてください。頬が赤くなっております。まずはこれで冷やして…」
しかし、彼…タオゼントは平然と私に濡れた布を手渡してきました。敵であるあなたにとって取るに足らないことなのかもしれませんが…私共にとっては…。私は思わず、その手を払い睨みつけました。
「結構です! それよりも……」
ドンッ!!
突然、大きな音がし砂埃が舞い上がりました。私は手すりに近寄り、闘技場を見ました。中心には、その場にいた異形のものより少々大きい影が蠢いております。砂埃で隠れていたそれはだんだん姿を現し、観客席からの歓声は大きくなっていきました。
「……あれは…」
私はそれの姿を見て息を飲みました。他と比べその容姿にちぐはぐに縫い合わせたようなところはなく、大きさはともかくその外見は犬のような可愛らしさがあります。しかし…その禍々しい雰囲気がその魔物から感じられました。それはじっとその場に立ち、目を閉じました。エマ様がはっと息を飲む音が聞こえ、私はエマ様を見ました。
「…始まったか…」
ぼそっと呟いたタオゼントに私は詰め寄りました。しかし私が口を開く前にエマ様が彼に問いかけました。
「……シュコードウルフ。S級の魔物じゃない。でも彼らは温かい土地には生息していないはずよ。一体あなたは何をするつもりなのかしら?」
「見ていれば分りますよハウヴァーの姫。ほら」
これが答えとばかりに指すその方向に、私は驚愕し思わず手すりから身を乗り出しました。現在ハウヴァーの兵士が闘っているあの場には四方にある檻がかかった出入口があります。しかしそれらには太い鉄格子がかかっており、そこから出ることは不可能でした。そうです、不可能だったのです。今はその鉄格子は上にあげられており、出口が姿を現しております。しかし、兵士たちはそこから出ようとはしません。なぜなら、そこから出てくる多くの人影があったからです。
「さあ、本日の目玉の登場だ」
イッシュバリュート様がにやにやとされた顔でその光景を見られており、私は思わず彼に食って掛かりました。
「目玉!? あれは…ハウヴァーの民ではありませんか!!」
そう。競技場の内部にある四方の檻がかかった出口からは戸惑った様子のハウヴァーの民が大勢姿を現したのです。彼らが出ると、鉄格子は無情にも降ろされ、どのようにしてもそれは開けることはできません。
「ククク…さぁて、ハウヴァーの守護者は何人死ねば姿を現すのだろうな」
「なんてこと…今すぐ止めてください!!」
兵士だけでなく…民まで…これでは大量虐殺ではないですか。下の状況はとてもひどいもので、武器も何も持たない民は異形の者たちの絶好の的でした。エマ様はぎゅっと唇を噛まれ、こぶしを握り締められておりました。
「…先ほどもおっしゃった通り、俺にはこれをどうすることもできません」
私は彼を突き放しました。私は下の状況を見守るしかできませんでした。しかし、再び下に目を戻すと、状況は一変しておりました。
「全兵! 民を守れ!!」
民の登場で兵士たちは多少冷静さを取り戻したようです。市民たちを守るように円を作り、異形のものを倒していきます。兵士たちは言葉も交わさずに、見事なチームプレイで異形のものたちを亡きものにしていきます。
「…すごい…」
私は思わず呟きました。あの異形のものをこうも簡単に…。彼らならば…彼らのこの勢いならば、観覧席やこの方々の期待を裏切る結果に……
「さすがハウヴァー。ただではやられてはくれませんな」
隣で悠々と会話を始めた二人。私は彼らを横目で見ながら、心の中では怒りでいっぱいでした。そして、次の彼の言葉で私の怒りはますます募ることになるのです。
「いえいえ。個々の能力が高いと謳われるハウヴァーですが、それは一部の者を指しているしかすぎません。そしてその一部の者は現在あの場にはおりません。故に、一部から除外されている彼らにとって、ただ必死であがいておるだけにすぎないのです」
私はイッシュバリュート様をにらみました。手すりを掴む手が怒りで震えました。裏切りという行為を犯した方が何を言っていらっしゃるのでしょう。あなたの口から何もきいても負け惜しみにしか聞こえません。しかし、イッシュバリュート様はそんな私の様子を見て、笑われました。
「ククク…そろそろだ。見てみろ。これが証拠だ」
はっと私は目線を戻しました。ゆらりと動く影。それはシュコードウルフと呼ばれる魔物。動き出そうとするシュコードウルフを兵士たちが襲います。私は期待で胸を躍らせました。一斉に三方向から攻撃を仕掛けるところは、さすがハウヴァーの兵士です。上手くいけばそのまま…
「ダメ! シュコードウルフは一度攻撃すると…」
しかし、エマ様が必死で叫ばれた…そのときでした。周りの色が変わったのは。
「…え…」
私はあまりにも突然の出来事に呆然とそれを眺めていました。エマ様も同じでした。三方向から襲った兵士たちは体ごと吹っ飛ばされたかと思うと、地面へと叩き付けられ、ピクリとも動きません。そのとき、確信していた勝利は…粉々に打ち砕かれました。民たちは泣き叫び鉄格子を狂ったように叩き、兵士たちは剣を下ろしてそれぞれ何かを呟きました。
「シュコードウルフは、一日に十時間と睡眠時間が極めて長い。故に起きるのに時間がかかる。だが凶暴性は高く、いったん敵とみなしたら…誰もいなくなるまで攻撃の手をやめることはない。ここから遠い地で生息する魔物だからな。さすがにハウヴァーもその生態を知ることはなかったか」
その混乱の声の中、淡々とシュコードウルフの生態について説明する彼の姿に私は戸惑いを隠しきれませんでした。
「見てのとおりアレクサンドロス王が施された塀のおかげで、この国はそんな凶暴な魔物など無縁の場となりましたからな。よほど勉強熱心な方々くらいしかその存在を知りえないでしょう」
私は思わず声を荒げました。もう我慢の限界です。敵だとは言え、同じ人であるのにも関わらず平気な顔で虐殺し、それを見て喜んだり。武人の誇りも何もないではありませんか!いいえ、相手の尊厳を踏みにじる彼らはもうすでに…人ではありません。生き物ですらありません!!
「なぜそんなにも平然としてられるのですか! 今下におられるのは、昨日まで共に視線を超えて来られた方々なのですよ!」
「心配はいらんよ。俺の部下はあの場にはおらん。それに…無能な蟻が何匹死のうが同じこと。連中にはお似合いの最期だろうよ」
私はイッシュバリュート様のその言葉に怒りが沸点を超えました。とっさに力いっぱいに振り上げた手は、誰かの手に掴まれました。。
「イッシュバリュート殿、先ほどから口が過ぎる。そなたも今置かれている状況がお分かりか。ここで手を上げれば後悔することになるのはそなた…」
「その手を離しなさい。私の許可なく、私のメイドに触ることは許さないわ」
私がその手をふりほどこうとしたとき、ぞっとするような冷たい声がこだましました。エマ様は今までにないような怒りを瞳に宿し、イッシュバリュート様とタオゼントを見られました。それは父であるアレクサンドロス王を思わせるような…気迫。私はぶるっと体が震えるのが分かりました。
「……失礼いたしました。ハウヴァーの姫よ」
すんなりと私の手は離され、その出来事ですっかり頭が冷えた私はエマ様の隣へ戻りました。後ろではピリピリとした視線を感じ、私は警戒しながらエマ様に深々とお辞儀をしました。
「…リオ、あなたも勝手な行動は慎みなさい。私のメイドなんだから」
「…はい。申し訳ありませんでした姫様」
てっきり怒りを宿したまま、再びお叱りを受けるかと思いきや、顔を上げた先にあったのは、精悍な表情をされたエマ様のお顔でした。私はそのお顔を見て、エマ様が今から何をされるのか容易に想像できましたが、私は小さく首を振りました。しかしエマ様はがんとして聞き入れてくださらず、私の手を取られました。
「私はこの国の姫よ。民や兵が傷ついているのに…ただ黙って見ているだけだなんてできないわ」
言葉にこそ出されませんでしたが…エマ様の気持ちは私に伝わってきました。私は迷って闘技場の中を見ました。…。シュコードウルフは兵士たちを攻撃し始め、兵士たちは必死で盾などでそれを防いでおりますが…全滅するのは時間の問題だと思われます。そんな中に…小さく、まだ14になったばかりの非力な少女を放り込むだなんて……私にはできません。私はエマ様の命令であっても聞くことはできない…そう伝えようとエマ様を見ました。しかし、私はそれをすることができませんでした。エマ様の目を見て言葉に詰まってしまったからです。彼女の目には恐怖がない…わけではなく、むしろ恐怖が勝っているようでした。しかし、それでもこの小さい主はあの地獄に行くというのです。それでもなおその目に光を消し去ろうとはしないのです。
「………はぁ…」
私はこらえきれずため息を一つ吐きました。以前、アヒム様がおっしゃっていたことを思い出しました。良き王とは何よりも民や自分の周りにいる者を大切にし、時にはそのためならば何も惜しむことはない…と。私は今…エマ様の王女としての片鱗を見ているということでしょうか。いまだ女性の王はこの国では事例がないことですが…この方ならば…エド様を押しのけてなってしまわれるかもしれませんね。
「……私の負けです姫様」
私は観念して、エマ様に微笑みました。エマ様の王女の芽を摘んでしまうわけにはいきませんものね。…大丈夫です。絶対に…もう私は失敗いたしません。どんなことをしてもあなたを…守って見せますから。
「リオが勝てたためしなんてないのよ」
ふふっと笑うエマ様の体を私は持ち上げました。
「…? 一体何の話を…」
首を傾げるお二人を横目に私は走り出しました。ここは私たちが落ちないように魔法が施されているのが分かったので、目指すはナノエの兵士たちがいるあの観覧席。そこまではさすがに施されてはいないはずと踏んでのことです。
「お待ちください!!」
後ろからタオゼントの部下が何人かが追いかけてくるのが分かりました。しかし、彼らはナノエの特徴である重い武具を身に着けているため、速く走るのは困難であり、たとえそれらを脱いだとしても追いつかれる前に飛び降りる自信はあります。ナノエの兵士たちは夢中になって観覧しているので、こちらに気づくのは私たちが飛び降りた後。…いけます!
「エマ様…しっかりと捕まって…」
手すりの上に飛び乗ろうと地面を蹴ろうとしたとき、いきなり私の足は制止いたしました。
「リオ!?」
「勝手な行動をとられては困ります」
あと少しだったのに…。私はその兵士を苦々しく見つめました。私は魔法陣に囲まれて、足が一歩も動けずにいました。どうやら魔法を操れるものが彼らの中にいたようです。
「さあ、ハウヴァーの姫よ。お戻りを。あなたがどんなにもがこうと何も……」
「え…え!? エマ様!?」
しかし、エマ様は男の言葉など耳も貸さず、私の腕からするりと抜けられ手すりから飛び降りられました。そしてそのまま、民に襲い掛かろうとした魔物をけ飛ばされました。その光景を呆然と見ていた私は、はっと気づき自分の状況を把握いたしました。……エマ様に…………置いていかれました…。少なからずもショックを受けた私は手すりに手を突きました。相変わらず足は一歩も動きません。当のエマ様は、民や兵の士気を上げられ、ふんっと鼻を鳴らされております。私も速く参らなければ…とは思いましたが…足が動かず、私の心も再起不能なほど折られてしまいました。エマ様を守るどころか…役に立たないと置き去りにされてしまうとは…。もう槍やらなんやらが私の胸に突き刺さっておりますとも。ああ…目から大雨が降りそうです。くっ…
「いや…えっと…その…そう気を落とすな」
敵からも慰められる始末です。私は自分が惨めに思えてなりません。そりゃあそうです。ナノエにとってエマ様は貴重な人質。危険な場所に行かせまいとする行動は理にかなっています。しかし、現状はそのメイドは捕まえていても、エマ様ご自身を留めておくことは叶いませんでした。そのため、私を捕まえておく意味がないのです。私たちは顔を見合わせました。
「…これもう意味がないので解いてくださってもよろしいですか…」
「あっ…ああ! お前も早く行くといい」
どうやら話が分かる人のようです。……いえ、同情されたという方が正しいのでしょうか…。私は涙を飲みながら、足元の魔法陣を解くのを見た後、立ち上がりました。
「お待ちを」
しかし、私がその手すりに足をかけようとした瞬間、タオゼントが私の腕を掴みました。
「お放しを。姫様が下に降りられた瞬間から、私をここに引き留めておく理由はないはずです」
「…いいえ、それがあるのですよ。我々にはね」
「それはどういう意味…」
やけに意味深な言葉に私は聞き返しました。しかし、下から悲鳴が聞こえ私は思わず、握ったこぶしを振り上げました。シュコードウルフが兵士たちを薙ぎ払い、ただでさえそうない距離をさらに縮めたからです。
どがっ
鈍い音が辺りに響き渡り、私は自分の腕を掴む力が弱くなったことに気づきました。そして、手すりから飛び降りると、剣を拾い異形のものを真っ二つにしました。エマ様があら、きたのね…というような顔をされ、私は先ほどの光景が頭を過りました。息を吸い込みました。
「エマ様!! 置いていかれるだなんて酷いでは……」
「かかった!! 死牛だ!!」
私がエマ様に半泣きで詰め寄ったときと、その叫びが聞こえたときはほぼ同時でした。