メイドの日常
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異界仮想歴666年。人と魔族が起こした大戦争以来、両者は争うことなく互いに不干渉としてきた。そしてそれから幾分か時は過ぎていくと、人々は魔法や武術を嗜むようになり、世界は平和に包まれていった。さらに幾分か時が過ぎると、今度は人と人との争いが勃発していく。
現在異界仮想歴812年、春。人々は争いからいくつかの大国となり、それぞれの文化を持つようになった。強い王の庇護の元で人々は平穏な暮らしをしていた。しかし、その平穏な日々に終止符が打たれると共に、狂った運命の歯車も少しずつ動き始めていることにまだ誰も気付いていない。
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桜が満開に咲く、暖かな日差しの中。豊かな国、ハウヴァー大国の王宮では一人のメイドが品なく走り回っておりました。
「エマ様ー! エマリア姫様ー! お稽古のお時間です! どこへ行かれたのですか!?」
それが私、姫様直属のメイドのリオと申します。幼い頃運良く拾っていただいた私は、それからずっとこの宮殿で働かせていただいています。
「こっちよ。リオ。」
庭の木に手を置いて、一休みしていると、上から楽しそうな笑い声が。
「姫様、またこのようなところにおられたのですか。」
この方こそ我が主であり、この国の王女、エマリア・カナン様。綺麗な金髪に可愛らしいぱっちりとした緑色の目を持ち、さらに王妃様にそっくりな白い綺麗な肌。まだ結婚するには早い歳でありますが、殿方からの求婚は絶えません。しかし…
「だって、お稽古なんてつまらないんだもん。木遊びしていた方がよっぽど楽しいわ!」
その可愛らしい容姿から想像もできないほど、この姫様のお転婆っぷりには私も長年悩まされております。確かに王妃様になっても料理も掃除も洗濯も全てお付きのメイドがやり、自分で家事などをする機会はないに等しいです。しかしそうは言っても、嗜み程度で幼い頃からやっておかなくてはなりません。それを今日こそ理解して頂かないと。
「ここから見る景色は綺麗なのよ!リオも見ればいいのに。」
「エマ様。あなた様にとって大切なのは……!!?」
お説教の途中でしたが私は言葉を失い、声にならない悲鳴をあげました。姫様が私に虫を投げつけたのです。
「リオ、何それ。面白い悲鳴ね!」
きゃっきゃっと笑うエマ様。私はゆっくりと上を見上げました。私を見て笑顔が消えるエマ様。
「ひーめーさーまー!」
私は木の枝に足をかけてエマ様のところへと登りましたが、エマ様は満足そうに微笑みながら私を見ています。なんですかその顔は!私は怒っているんですよ!
「エマ様!この世の中にはやっていいことと悪いことが……」
「リオ!ほら見て!」
エマ様が私の後ろを指さして言いました。またお得意のアレですか。もうその手には引っかかりません。私は言葉を続けようとしましたが、エマ様に無理やり後ろを向かされました。ため息をつきながら見たその光景に、私は思わず声をあげてしまいました。
「わあ、綺麗!」
王宮で一番高い木とされるここの景色は街々を一望できるところでした。遠くに見える海に光が反射してきらきらと光っています。しばらくその景色に見とれていた私ははっとエマ様を見ますと、隣で私の顔を見てにやりと笑っていました。…やられた。
「……と、とりあえずここは危ないので降りますよ。失礼します。」
私はエマ様を抱きかかえ、下へと飛び降りました。エマ様を地面へと降ろすと、エマ様はにこっと微笑んでいつものように私に言いました。
「リオ、ごめんね!今からお稽古に行ってきます!」
てへっと笑う姫様にいつものように私は何も言えなくなり、ため息ひとつ。おそらく私がこうだから姫様は……。姫様の後姿を見ながら、私は姫様をちゃんと捕まえておかなかったことにいつものように後悔の念を感じるのでした。
「……ほら、あの子よ。あそこで辛気臭そうな顔をしている。」
「ああ。またあのお転婆姫の相手をしていたのね。まあ、あの子にお似合いな仕事だわ」
姫様に頭を悩まされながら書物庫への道を歩いていると、こそこそと聞こえてくる話し声。私はいつもの事なので気にせず足を進めます。この王宮で私のように拾われて来た者は珍しいのです。ごく普通のメイドでも祖父母の代から勤めているもの。よそ者の私を他のメイドたちはあまり良く思っていないようで、何か失敗する度このように陰口を言われてしまいます。特に才にも容姿にも恵まれていない私など、目の上のたんこぶ。彼女たちの陰口を聞きながら、今日も長い一日となりそうだとため息がでました。それにしても今日は外がやけに騒がしい。お祭りだった?
「リオ。」
向こうの方から久しい声が聞こえ、私の顔は引きつりました。その声の主はゆっくりと私の方へと歩いてきます。それを見て、こんなにも騒がしい理由に納得しました。遠征から王や兵士たちが帰って来たのです。いつもであったらその前に書庫へと避難するのですが、今日は気づくのが遅すぎました。私は無視するわけにもいかず、引きつっているであろう顔を隠すようにお辞儀をしました。
「お帰りなさいませ。ベルンフリート様。」
「ああ。今回の戦も我らが勝ちだ。」
いつものように青みがかかった銀色の髪を後ろで結っているその方は、誇らしそうに私に言いました。言われずともこの騒ぎならば今回の遠征も勝ったことは容易に想像はついていますし、何よりあのアレクサンドロス王が負けるなどということは想像つきません。
「おめでとうございます。」
そういって私は全身を一通り眺めました。もうこれは癖みたいなもの。両足共に異常なし、体を守る黒い鎧にも新たな傷はなし、黒い兜を持った手は動くようだし、その兜も破損していないよう。そして私を見つめるその吊り上がっている両目も異常なし。さすが、『鬼人の黒騎士』と呼ばれているだけありますね。私はほっと胸をなでおろしました。
「……おい、木登りでもしたのか? 虫がついているぞ。」
「はっ!? どこ? どこどこどこ!?!?」
ベルンが私を指さして言います。私は慌てて全身を見ました。まさか先ほど姫様が投げた虫は一匹ではなかった!?
「動くな。お前に潰されて一生を終えるのは虫も可哀想だ。後ろを向け」
それはどういう意味と思わず反論してしまいそうでしたが、周りに人がいたのでその言葉は飲み込みました。その代わり足でも踏んでやろうかと思いましたが、動いて虫が服の中にでも入ったらそれこそ最悪な事態。私は怒りを我慢しながら、後ろを向きました。彼のごつごつとした武人の指が私の髪に触れ、ゆっくりと髪をすいていきます。私はだんだんと自分の顔が熱くなるのが分かり、ただひたすら床を見ていました。おそらく今の自分はさぞ滑稽な顔をしていることでしょう。早く終われと心の中で念じますが、虫が抵抗しているのだろうかなかなか終わる気配はありません。
「……とれた。稀に見る大きさだな。見るか?」
その言葉にホッとするも、大きな虫なぞ気持ち悪くて見たくもありません。私は大きく横に頭を振りました。
「もう慌ただしい奴に捕まるなよ。命が何個あっても足りんぞ」
そう言って虫を逃がすベルン。…ふうっ。虫もいなくなったことですし、これで手加減は無用。私はその横を通り過ぎようとするふりをして、思いっきり脛を蹴り上げました。
「ぐっ!!」
声をあげなかったことはさすが無敵の強さを誇る黒騎士殿です。どんなに鍛えていらっしゃる方でも、鍛えられないところはあるものです。ベルンは引きつった顔をこちらへと向けました。私はにこっと微笑んで、
「あら。ごめんあそばせ。」
と言い、その場を立ち去ろうとしました。そろそろお姉様方の視線が痛かったですから。
「おい!」
しかし、ベルンは私の手をつかみ引き止めました。まさかそんなことをされるとは思ってもみなかったので私は驚き、止まってしまいました。心臓はばくばくといっています。
「……その手をお放し願いますか?」
「お前の足元に蛙がいるのだが、踏んでもいいのならば離すが?」
その言葉に目線を下に向けると、私の足元には大きな蛙がいました。私は思わず退いてしまい、ベルンの鎧に頭からぶつかる形となってしまいました。ごつんっと鈍い音がして、私は頭を押さえました。
「……。ぶっ!!」
ベルンを見ると、手で口元を隠し笑っていました。……。
「うっ!」
八つ当たりだということは承知の上で私はベルンの足を思いっきり踏みました。靴の上からでもかなり痛かったようで、ベルンはその場にうずくまりました。
「どうも御親切にありがとうございました。ベルンフリート様。次の戦での活躍期待しております。」
私はお辞儀をし、早足でその場から離れました。頭からベルンの笑っている顔が離れませんでした。…いつからこのようになってしまったのか。昔はもっと普通に接することができたのに。雑念を払うかのように頭を振り私は書物庫の扉を開けようとしましたが、そこで誰かから手をつかまれました。またまた逃げ遅れたようです。
「ちょっといいかしら? リオさん」
メイドの中でベルンのファンである方々が鋭い目でこちらを睨み、私の返事も聞かないまま人通りの少ないところへ連れて行きました。
「さっきのどういうつもり? ベルンフリート様に抱き付くなんて。」
先ほどのアレは彼女達の目から見たら、抱き付いているように見えたようです。弁解したいところなのですが……彼女たちは聞き入れてもくれないでしょう。こういうことがあるから私は極力彼に会わないようにしてきたというのに…。
「大体、メイドのくせになれなれしいのよ。ただ、アヒム様のお情けでこの宮殿に入って来れただけっていうのに。身の程をしりなさい。」
アヒム・ヘーゲル様。ベルンの祖父であり、私を拾ってくれた方。彼はこの国の守護者の称号を持つとともに、ベルンたち騎士団長の師匠でもあります。時々、戦場へと赴き、長年培ってきた経験と知恵で味方の手助けをしていらっしゃいます。趣味は読書とおひさまを浴びながらお茶を飲むこと。ベルン曰く、戦いの時は強くて厳しい方。しかし私にとっては優しい方です。あてもなくただふらつく私を導いてくださった御恩は必ず返そうと思います。
「ちょっと! 聞いてるの!!」
不意に肩を押されて、私は壁へと叩き付けられました。痛みから顔が歪みます。
「……出過ぎた真似をして申し訳ありませんでした。」
私は深々とお辞儀をしました。それを見て鼻を鳴らし、彼女たちは口々に私に罵声を浴びせました。これで彼女たちも満足して解放してくれるだろうとホッとしかけたその時、冷たい水が私に降りかかりました。
「汚い孤児は綺麗にしなくちゃだめじゃない」
彼女たちは笑ってその場から立ち去りました。私はため息をつき、周りを見渡して誰もいないことを確認すると、服を乾かすため呪文を唱えました。
『乾燥魔法』
水を吸って重くなり始めていた服が途端に軽くなり、私はほっとしました。そして私は、書庫へとやっと行けるのでした。
「おおっ、やっと来たか。エマ様を見つけるのは大変だったようじゃな。」
書庫ではアヒム様が一人、椅子に座っていらっしゃいました。私はメイドですが、特別にこの部屋へ入ることを許していただいているのです。アヒム様は書物から目を逸らすと、眼鏡を置きながら私にほほ笑みかけました。
「ええ。木の上にいらっしゃいましたが、無事お稽古の方に行かれました。…しかし何故お分かりになられたのですか?」
「お前さんの声がここまできこえたからじゃよ。今日はいつもより長かったの。」
私はアヒム様のその言葉に唖然とし、自分がした行動を頭で再現いたしました。…ここまで聞こえていたということは…結構色々な人に聞かれて…。私は穴があったら入りたい気持ちになりました。
「も、申し訳ございません!!」
「ははっ。カナン王家の血はちゃんと引き継がれておるということじゃよ。王も昔はやんちゃで下のものを困らせておった。」
あの厳格なアレクサンドロス王からそのような少年期があったとは想像できません。……すると姫様も将来、陛下のようになるのかしら?……命に代えてもそれは防がねば。私はそう心に刻んでいると、外から兵士たちの騒ぎ声が聞こえ始めました。私は思い出したようにアヒム様に問いかけました。
「そう言えば、王が遠征からお帰りになったのはご存知でしたか?」
「わしも今朝知ったばかりじゃ。しかし、あの戦であればもうそろそろお帰りになるだろうとは思っていたよ。…おや? リオ髪が濡れておる。どうした?」
服は乾かしたのですが力加減が難しい髪を乾かすのは避けたので、私の不自然に濡れている髪はアラム様の目に止まったようです。私は笑いながら言いました。
「お茶を運んでいましたところ、転んでしまって。」
アヒム様はおかしそうに笑いました。…嘘は言っていません。姫様を探しに行く前、私はお茶をかぶってしまったのです。それが原因であの騒動が起こってしまったわけなのですが…。
「そうか。しかしそのままだと風邪をひいてしまう。ここへ。」
いつの間にかタオルを持っているアヒム様が微笑んで私に言いました。
「だ、大丈夫です! 私もうそんな歳ではありませんし、自分で拭けます。アヒム様の手をわざわざ煩わせることはありません!」
「わしからしてみればまだまだ子供じゃよ。おいで。」
にこりと微笑むアヒム様。こうなるとアヒム様は頑固です。私は渋々アヒム様の隣にある椅子に座りました。
「髪、いつの間にかこんなに伸びたのか。毎日見ていると気づかんもんじゃな。前は男児みたいな髪をしておったのに。」
私を拾ってきた頃の話をついこの間のような言い方をされ、私は思わずクスリと笑いました。
「女の子らしくしなければ…と思いまして。男の子と間違えられていましたから。」
すると、ぴたっと私の髪を拭くアヒム様の手が止まりました。私が不思議に思っていると、アヒム様は申し訳なさそうに言いました。
「…お前を拾い育てようとしたが、わしは武人でな。本来包丁などを持たせなければならぬところ、お前には剣を握らせてしまった。おかげでお前は他のメイドたちと比べ、料理も洗濯も不出来となってしまって…。」
私は慌てて、後ろを振り向いた。
「いいえ! 私はそれでよかったと思っています。だって、いざというときに私も戦うことができ、姫様を守れることができるのですから。私、感謝しています!」
「……確かにリオは女の身でありながら、才能はあったな。…そう言うなら、仕方ない。王子と共に稽古をつけてやろう。」
……あれ?私もしかして…墓穴を掘った?幼いころ経験した忘れもしない鬼の顔をしたアヒム様を思い出しました。私は話を逸らそうと、口を開きました。
「あっ、えと、その……不出来は言い過ぎではないですか!?」
一瞬ぽかんと私を見るアヒム様。話の脈絡などそっちのけで私は言葉を続けました。
「私だってもう洗濯くらいできますし、料理は……味だけみていただけたらそれほど他の人と変わりありませんし、掃除だってできます!!」
私の言葉に一瞬キョトンとした顔をされ、そして大笑いをされました。
「そうか! そうじゃな! お前は飲み込みもよかったし、頭もそれほど悪くもない。あれからもう十年ほど経つのだ。不出来は言い過ぎじゃったな。今度甘いものでも作ってくれ。いや、悪かった」
そっちであれば、私も嬉しいです。最近はクッキーなどを知り合いに教えてもらっているので、腕がなります。
「では明日の朝、王子と共にランニングから始めよう」
……あれ?