プロローグ
走る、走る、走る!
迷宮[ラビリンス]の中を、走る影がある。
まだ、幼さを残しつつも、はっきりとした紅い双眸に、白い肌、薄桃の唇……。
10人が10人、その顔を見たら、鮮烈な印象に残るであろう美貌の持ち主だ。
身長は130cm程、腰まで届く、青みがかった長い銀髪を、首の辺りで紅い組紐で結わえ、それとは別に左側に1本括っている。
年の頃は11歳程だ。
未だ第2時成長の始まっていない、しなやかな身体には、簡素な布服の上に、革の胸当てとケープを着込み、背中には背嚢と右手に短槍、左手に指を出した青銅の篭手をつけている。
その年齢と外見をのぞけば、走っている人物について、この世界の大半の人々は、十中八九、軽装の冒険者と答えるだろう。
そういう出で立ちだ。
しかし、その美貌を前にした時、冒険者というのは形容詞になる。
つまり、冒険者風の美少女と、必ず答える。
それほどの鮮烈な存在感を、ひた走る人物は放っていた。
冒険者は、ほのかに明るい迷宮[ラビリンス]の中を、走り続ける。
後ろからは、巨石がゴロゴロゴロと転がる。
否、正確には物理法則を無視して、高速横回転した球状物体が、地面すれすれを浮遊しながら迫ってきている。
音にするとギュイイイゥゥィィィィーーーンか?
明らかに意思を持ち、球状物体は、迷宮[ラビリンス]内の異物である冒険者を追跡する。
冒険者が通路を右に曲がれば、正確にその後を追跡、ギャリギャリギャリッと回転軸を縦から横に変更、地面に触れると回転の力により加速、更に加速。
しかし、焦りの表情を浮かべることなく、球状物体の加速にあわせて、冒険者自身も加速する。
すでに子供の足で出せる速度ではない。
さて、球状物体から逃れる為に、通路の隅に身を隠すのは早計だ。
迷宮[ラビリンス]の壁は煉瓦や石壁ではない。
それどころか天井も床も、継ぎ目のない灰色のカーボンみたいな何かでできている。
少なくとも、この世界に存在する機知の物質ではない。
通路の隅に身を隠そうとした瞬間には、それを察知し、変形を開始、通路全体が丸みを帯びた走り難い形状になる。
球状物体自体は、ある程度の腕がたてば、破壊可能な代物だ。
しかし、壊しても、壊しても、壊しても、すぐに次の球状物体を、壁から、床から、天井からと、通路が生み出すので意味がない。
何度も、同じ状況に陥れば、冒険者ならば「疲れるだけだ」と判断し、破壊するよりも、別の手を考える。
そして気づくのだ。
迷宮[ラビリンス]そのものが、侵入者を殺す装置として起動しているのだ。
球状物体の破壊よりも迷宮[ラビリンス]クリアが先決だ、と。
結果としては、追いかけられるに任しているという状態になる。
だから、1人で仲間も連れずに、この迷宮[ラビリンス]を走り続けている。
孤独とは思わない。いつも孤独だったから。
いや、もしかしたら、今だけは孤独ではないかもしれない。
つまり、球状物体と追いかけっこをしているからだ。
溜息を吐く。
こんなのが、デートと思えるようになるなんて……
好きで、孤独だったはずなのに……と。
そして、また、黙々と走り続ける。
迷宮[ラビリンス]に入ってから、1度も行き止まりには当たってない。
別に運が良いとか、そのようなワケではなく、紅い目には、正しい道順が見えているのだ。
遥か昔、何度か通ったことのある道だ。
特殊能力【龍の英知】で失われた記憶の片隅から、正しい道筋を記憶の底より浮き上がらせているのだ。
後はただ、迷宮[ラビリンス]の最奥にある両開きの扉、異界門[ゲイト]と呼ばれるゴール目指して突き進むだけだ。
そして、長いデートにも、遂に終わりの時が来る。
紅い双眸が、異界門[ゲイト]を捉えた!
加速、更に加速。
人間の限界は当に超えた。魔法による肉体強化は既に適用済み。残るは特殊能力。
特殊能力【雌豹の走り】で短距離ながらも、時速100kmをこえる。
目標が更に近づく!
幼さの残る顔に歓喜が広がる。
ついに、ついに、ついに!
郷愁の念が高まり、涙腺が弱まる。
望郷の思いが気持ちを昂ぶらせる。
どれだけ、幾千の夜、故郷を夢見て泣いて過ごしたか。
どれだけ、幾万の距離、帰郷を願って歩き続けたか。
それも遂に終わる。
ついに自らの故郷に帰れる。
懐かしの世界イプセプスへ。
小さく指で結印[シンボル]を描きつつ、真言[パワーワード]を唱える。
即座に青銅の小手の外側に不可視の盾が出来上がる。
魔法【シールド】だ。
更に、圧縮封印[メモリー]されている物理防御の魔法【プロテクト】を展開、発動すると同時に、両腕を交差して顔面をガード、そのまま特殊能力【竜鱗外装】で肌を硬質化する。
「はああああああああああっ!」
そのまま、銀の弾丸と化し、裂帛の気合と共に、目前の両開きの扉、異界門[ゲイト]へと突撃する。
一瞬の後に、異界門[ゲイト]が開く。
スピードの大半を殺され、転がり出るように異世界へと身を投じる。
荒涼たる雪の平野、灰色の空、終わらぬ氷河期、同じ神を崇めつつも指導者の違いから対立し、500年の長きに渡る戦争を繰り返す2大帝国……
幸せよりも、苦しみの方が多かった。それでも故郷なのだ。戻りたい、戻って家族に会いたい。
そんな景色がまぶたに浮かぶ。
しかし、そこには、思い描いた景色は、故郷へとつながる道は、なかった。
すえた書物の臭い、暗い室内、左右、眼前、奥までずらり並んだ本棚、
そこに1人佇む、黒髪黒眼強面のデブ(♂)……
ココハチガウ。コキョウデハナイ。
期待していた分、絶望は大きかった。
いつの間にか、紅い双眸からは、故郷への想いが、とめどなく溢れ出ていた。