1話 水月学園
水月学園と呼ばれている高校の生徒玄関の方にある自動販売機の前に一人の詰め襟シャツに紺色のブレザーを羽織った男子生徒が居た。
俺の片手が自販機前で迷っていた。起床してから学校にたどり着くまでに、眠気が取れなかった。眠気覚ましに缶コーヒーのブラックでも買おうかと思ったが、休日明け、全ての飲料水の値段が20円ほど値上げしていたのだ。
休み前までが110円だったから、今は130円だ。缶コーヒーがここまで高くていいのか?普通は缶コーヒー以外の飲料水だけが値上げするモノじゃないのか?
俺の缶コーヒーに対するポリシーは無糖だ。ただ単に牛乳が嫌いなだけなのだが、この際関係ない……忘れておこう。
ボスのブラックかレターオルドの絶対無糖のどちらにすべきだろうか?まあ、味には大差なのだけれど、気分の問題だ。よし、決めた。
スイッチを押した。膝を屈めて取り出し口から缶コーヒーを取り上げた。レターオルドの絶対無糖を購入した。
理由はあるといえばあるが、ないといえばなかった。やっぱり、缶コーヒーの缶の色だろうな。茶色よりはまだ黒の方が好きだ。
プルタブを押し上げた。ぷしゅぅう、と圧縮された空気の抜ける音がした。この匂いがまた格別だ。
ぐいっと缶コーヒーに口を当てて、コーヒーを喉に流し込んでいく。冷たいが苦い。これがまた格別だ。眠気が殺される。ああ、眠気が覚めて、すこしはマシになった。130円で殺される眠気……なんて贅沢な奴なんだ。
「やぁ、ユーリよ。中々どうして、朝は早いのだな」
生徒玄関の下駄箱の方からやってきた下関国光<しものせきくにみつ>が、俺に話しかけてきた。俺の本名は浅見悠里<あさみゆうり>で、ユーリは誰かが訛って俺の名前を呼んだ事が由来だと思っている。全く、どこのどいつが俺の名前を訛らせたんだ。
「……お前の日本語すこしおかしくないか?国光」
「中々どうして、言ってくれるじゃないか。いやいや、指摘はおおいに結構だよ。ただ、俺の話を最後まで聞いてくれたらの話だがな」
またか。国光が何か企んでいるような喋りをする時は、大体写真の話だ。それも撮影対象とか撮影体験談とかの話。
俺はため息を吐いた。そして、片手で頭を軽く掻きながら、缶コーヒーを喉にすこし流し込む。
「聞かなきゃ後で五月蝿いから、聞いといてやるよ」
「素晴らしき返答だ。では、まずは今回の被写体についてだが――」
国光が喋ってる途中、下駄箱の方から聞こえた声が、国光の言葉を遮った。
「おはよ!」
明るい声だった。線の細い声。俺から見て、国光のやや右後方から同じ学校の紺色のブレザー型の制服を着た長い黒髪をストレートに背中に下ろした少女。青空加奈<あおぞらかな>って名前の女子生徒で、高校1年生。同級生だ。ついでに隣の席に座っている奴だ。
さらについでに言えば、黙ってればかなりイケてる女子生徒の一人だ。美人で色白。
6メートルくらいの距離から駆けてきた加奈は、すこし乱れた黒髪を片手で撫でて整える。それでやっと話し出す。
「すこし寝坊して、すっごい焦ったよ」
あははは、と苦笑しながら加奈は言った。それに続くように、今度は国光が喋る。
「これくらいは寝坊の内に入らんさ!人間、やはりマイペースが一番だ。周りを気にするな。流されるな。幾人モノ他者の偏見な眼差しを向けられようと、それに屈さぬのがジャーナリストの信念なのだ!」
あーあ、また馬鹿な事を言い出し始めた。俺は首を左右にすこし振った。
「ただの自己中心じゃないか。大体な、お前らもうすこし早く起きた方が良いぞ?もう8時だぞ」
「几帳面過ぎるな。ユーリよ、君にパパラッチの称号を与えた思うぞ!」
「ふざけんな」
こつん、と俺は缶コーヒーの底の部分で、軽く国光の頭を小突いた。一旦止めていた言葉の続きを言う。
「パパラッチは国光にピッタリだろうが」
「確かに、国光君に似合いそうな称号ね」
加奈は片手の手首に唇をキスさせるように、すこし笑いながら言った。俺がそう言ったら、国光はすこしダメージを受けたように、一歩だけ後ろに後ずさった。こいつには、パパラッチがお似合いだ。
「ふふふ、今のは大分効いたぞ……確かに、俺にはパパラッチがお似合いだ。ならば、これからはゲリラ的に撮影を行うとしようではないか!」
と国光はそう言って、俺に背中を向けた。
「では、また逢おうぞ!?ユーリよ。俺のゲリラ的撮影を後日、最初にユーリに結果を報告してたもうぞ!さらばだ」
そう言い残して、すごい勢いで階段を駆け上がっていった。その瞬間、俺はすこし後悔したような気がした。何だか、エンジンに火を点火したみたいな感じだ。
ワイワイキャーキャー、という喧騒の中、3階の方から俺のところまで「下関!何だその違法紛いなカメラは!?」という生徒指導担当の桜坂教諭の怒鳴り声が聞こえてきた。どんなカメラなのかはすこし興味があるが、
――放課後は指導されるな。
と俺は国光の運命を予想した。簡単な結末だから、安易に想像出来てしまうだけなのだがな。そうこう思ってる内に、缶コーヒーの中身が空になってしまった。……随分と容量のないコーヒーだな、おい。
自然に眉根が寄った。缶を潰そうと握力を強めたが、スチール缶なので、これがどうにも潰れない。へこみさえしない。ただ、単に握力を強めている手が震えるだけだ。
と、突然、加奈が横から片手を伸ばして、缶コーヒーの飲み口を指で挟み取り上げられた。そして、缶コーヒーの缶を回転させて、側面に貼られていた何かの応募シールを剥がしながら、
「これ、もらうね」
「このシール集めてんのか?」
「そう。この応募シールを後10枚集めないと、B商品のCD&MDコンポ+ポータブルDVDに応募出来ないのよ。はい」
そう言って、応募シールを剥がし終えた缶コーヒーを俺に押し返してきた。俺は何となく缶コーヒーを受け取る。
「随分と豪華だな」
「でしょでしょ!我ながらすっごい発見だよ」
随分と浮かれている様子の加奈はとても明るい笑顔だ。
でも、応募はハッキリ言って当たる確立が少ない。本気で当たるとは期待してないはずだが、このまま今日一日中この調子だとかなりうざいので、釘を打つことにした。
「当たらないだろ。アホ」
加奈の笑顔がカチン、と固まった。
「アホ?私が?」
「そうだ」
「……ユーリ?アホって言った方がアホなんだぞ〜?」
固まった笑顔のまま、すこし怒りが混じった、ゆっくりとした速度で発音してきた。その言い方が、すっごいむかつく。
「お前、俺に喧嘩売ってんのか?」
「喧嘩の押し売り販売する訳ないでしょ〜?」
……とてつもなくむかついた。すこし俺と加奈の眉根が動いた。固まった笑顔の加奈と面倒そうな顔の俺達の睨み合い、というよりも見つめ合いの方が近かった。重苦しい雰囲気が周りの大気に広がっていき、最後には、ハハハハ……、なんて静かな笑いが漏れ始める。
二人は思った。
――――すごいむかつく奴――――。