クリスマス・ムーン
柔らかい月明かりが雲の隙間から零れてくる。郊外であるこの場所には、都会の煩わしい喧騒は届いてこない。静かで美しい、いつもの夜だった。そんな僕の穏やかな時を情緒に欠けたため息が遮った。
「…今日はクリスマスなのに…」眉間にしわを刻んで詩織は言った。
「そんな顔をしたら只でさえ普通の顔がまずいことになるよ」邪魔をされたお返しに毒を吐いてみる。
「お前もそう思うわよねぇ、ジンジャー」そう言って彼女は僕を膝の上に抱き上げた。彼女には僕が相槌を打ったように聞こえたようだ。
「世の中では幸せなカップル達が食事をしたりイルミネーションを見たりしているというのに…」
人間にとっては今夜はいつもの夜ではないらしい。詩織が文句を言っているのは厳密には僕にではない。半年前にイギリス転勤になった恋人、俊也に対してである。
申し遅れたが僕はジンジャー。由緒正しいノルウェージャンフォレストキャットの雄で、詩織の飼い猫である。名前の由来は僕がまだ手のひらに収まるサイズだった頃、マタタビよりも生姜に興味を示したからだとか。猫がみんなマタタビに酔っ払うと思ったら大間違いだ。
「なんであいつはあんなに仕事のできる人間なのかしら」と詩織は呟いた。
彼女の評価は恋による誤った評価ではない。実際に仕事がよく出来る彼は日本にいた時も常に忙しそうだったが、イギリスに転勤してからはもっと忙しいらしく、電話中に会社からの邪魔が入ることもある。そんな電話すら一週間に一度か二度なので、詩織も不安なのだろう。
「しかもあんな立派なオフィスと部屋まで…!」それは只の八つ当たりだ。
詩織は普段からよく僕に話しかける。その日あったことや気分などを僕に聞かせるように話すことで、自分で気持ちを整理したりしているのだろう。その場合は必ずしも僕が彼女の話をきちんと聞いていなくとも、僕がいることが僕の役割なのだからたいした問題ではない。しかし俊也が絡むとなると話は別だ。
仕方がない、少し慰めてやろうか。何より愛しい相手と離れている辛さは僕にとっても人事ではない。彼女の二の腕に前足を置いた瞬間、彼女の携帯が鳴った。画面には「俊也」と表示されていた。
ネオンの町並みが視界を流れている。体に疲れが溜まっているせいか、後部座席に沈んだ体を動かすのも億劫に感じる。
「こんな時間までお仕事ですか?」前を見ると、タクシーの運転手がミラー越しにこちらを見ているのがわかった。
「まぁそんな感じです」
「クリスマスなのに大変ですねぇ」
苦笑を返すと、運転手は俺を話し相手として認識したらしく、色々と自分のことを語り始めた。話を聞き流しつつ、俺は隣の座席の足元にひっそりと溶け込んでいる箱に目を向けた。
箱の中には猫がいるのだが、鳴き声も物音すらも立てないので、運転手は猫の存在に気づいていないだろう。この頃仕事が多すぎて部屋に帰れない日も続いたので、会社に黙ってオフィスに連れて行っていたのだが秘書にしか気づかれなかったくらいだ。もともとおとなしい猫だったが、完全に気配を消すことを覚えたようだ。
「お客さんはペットとか飼ってないんですか?」
猫のことがばれたのかと一瞬あせったが、それが杞憂だったことに安堵して返事をする。
「黒猫を一匹。雑種の雌です」
「やっぱり猫ですよねぇ」運転手は満足げに頷きながら言った。「名前はなんていうんですか?」
「ネーラです。イタリア語で黒という意味なんです」
社交辞令で名前を聞いただけだろうに、飼い猫の名前の由来まで話すなんて何をしているんだ、と自分で自分の間抜け加減に呆れたが、運転手はそれすらどうでもいいようだった。良い名前ですね、と頷くと彼はすぐに自分の飼い猫の自慢を始めた。
猫も愛しい相手と離れて淋しいと感じることはあるのだろうか。運転手の話に適当に相槌を打ちながら、俺はふとそんなことを考えた。彼らだけでは電車や飛行機には乗れない。飼い主の都合で引き離されたりしても文句も言えないのだ。俺たちなら電話やメールで連絡を取れるけれど、人間と違って携帯もパソコンも持っていない彼らには、互いに連絡する手段がない。会いたいと伝えることもできない。それがどれだけ淋しいことか、俺たちにはきっともう理解することはできないだろう。
「すみません、少し電話をかけたいんですが構いませんか?」
「どうぞ」
携帯の履歴を表示させる。「詩織」の項目のところで通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「久しぶり」携帯から少し疲れた様子の声が流れてきた。俊也の声を聞いて一瞬鼓動が乱れたのが自分でもわかった。電話の向こうに聞こえないように深呼吸する。
「本当にね」
「詩織…」
「冗談よ。忙しいのは知ってる」苦笑しながら私は言った。
「今日も大変だったんでしょう?」
「まったくクリスマスだっていうのにね。そっちはどう?変わったことはない?」
「残念ながらいつも通りよ」少し笑って言う。
「いつも通り仕事をして、いつも通り同僚とおしゃべりして、いつも通りジンジャーのお世話をして」そしていつも通り、あなたには会えない。
自分の名前を呼ばれて反応したのか、ジンジャーが身を乗り出して携帯に向かって鳴いた。
「ネーラに会いたいのかしらね」頭を撫でてやると、まるで私の言葉を理解したような顔をして、ジンジャーはもう一度鳴いた。
「詩織は俺に会いたくないの?」
会いたいと言いそうになる口を押さえつけて私は言った。
「まぁメールや電話はしてるし、テレビ電話だって時々してるから会ってるのと大差ないというか」
「意地っ張り」
「意地なんか張ってません」
「好きだよ」
不意打ちをくらって思わず固まる。電話越しの俊也の声は実際のそれより少し低く掠れて聞こえた。
「…珍しい。どうしたの?」平然を装って私は言った。
「その反応は凹むなぁ。人が珍しく思いを口にしたっていうのに、私も好きの一言もなく『どうしたの』とは」
「驚きの方が先に立っちゃっただけよ」
「詩織、俺に会いたい?」
「今日はやけにしつこいじゃない」
「はぐらかさないで答えてよ」
顔が歪む。ぐっと口を引き結ぶと絞り出すように言った。
「会いたくないわけないでしょう。半年間会ってなくて、電話もメールも少なくて」
俊也を困らせたくない思いと、少しくらい困ればいいというエゴが私の中で錯綜する。
「会えないのに会いたいなんて言わせてどういうつもり?」
「良かった」
「話聞いてるの?」思わず語調が荒くなる。
「最後まで会いたいって言ってくれなかったら帰るところだったよ」
俊也の言葉の意味が理解できず、ゆっくりと反芻する。たっぷり三秒間の沈黙の後、私の口はぎこちなく音を発した。
「え?」
ガチャリ、と鍵の開く音がした。
「会いに来たよ」
携帯と玄関から、同時に声がした。
鍵を開けた音がした。私の体はケージごと持ち上げられ、明るい室内に入った。二つの足音が近づいてくる。ケージが地面に置かれた感触がした。
「久しぶりだね、ジンジャー」俊也の声がして、ケージの上にかぶせられた布が取り払われた。金網越しにちらりと柔らかそうな毛並みが見えた。
俊介の手が現れて扉を開いた。駆け出したいのを抑え、美しく優雅に見えるよう、尻尾の先まで神経を張り巡らす。チャリ、と首輪が音を立てた。
明かりの中へ足を踏み出し、顔をあげた。ずっと求めてやまなかった彼が、記憶の中と寸分違わぬ姿で、そこにいた。
「ジンジャー」と私が呼ぶよりも早く、彼は私のもとへ駆けてきた。
「会いたかったよ、すごく、すごく。月を見るたびにネーラの瞳が思い出されて仕方がなかったんだ」気障なセリフだが、なぜだか彼に言われると悪い気がしない。
「私も会いたかったわ」
ジンジャーが私の滑らかな毛に鼻先を押し付けてきた。愛しさが込み上げてくる。私も彼の柔らかな毛皮に鼻先をうずめて応えた。ジンジャーの匂いがした。
「猫たちは再会を喜び合ってるみたいだけど、詩織は違うの?」
俊也の声に我に返って、私は廊下の先に目を向けた。詩織は私たちから一メートル程離れたところに突っ立っていた。
「なんで」ぽつりと詩織が言った。
「詩織が一度も会いたいとか淋しいとか言ってくれないから、逆に行くって言いづらくなっちゃって」
よく言うわよ、俊也の言葉に思わず私は呟いた。
「何が?」それをジンジャーが聞きとがめて聞いてきた。
「詩織ちゃんが一度もそういうこと言わなかったのは本当だけど、俊也は密かにそれを気にしてたのよ」ここ数カ月、詩織との電話が切れるたびに、俊也は少しだけ淋しそうな顔をしていた。私の敬愛する主人に、もうそんな顔をさせたくはない。
「世話が焼けるわね」
ジンジャーの横をすり抜け、詩織の足元に近づく。上を見ると軽くうつむいた詩織が唇を噛みしめているのが見えた。私は後ろに回って彼女の足首に頭を強く押しつけた。彼女がびくっと一瞬痙攣するのがわかった。もう一度詩織を見上げると、詩織は私を見つめていて、どうしたらいいのか分からないような顔をしていた。
「早く行ってあげなさい」
私の言葉が通じたかはわからないが、それだけ言って、彼女の足首にもう一度頭を押しつける。彼女の足が一歩前へ出るのと同時に、うわっという俊也の声が聞こえた。俊也は土足のまま一歩だけ部屋の上に踏み出した格好で止まっていて、彼の後ろでジンジャーが誇らしげに尻尾を振っていた。
「あ、その、ごめん。土足で」少し戸惑った様子で俊也が言った。詩織は一瞬呆けた顔をした後、春の陽だまりみたいに笑った。
「会いたかった」と詩織は言いながら、ゆっくりと半歩踏み出した。「それに、すごく淋しかった」そう言って俊也の肩に頭を預ける。
「俊也の負担になりたくなくて、言いたかったけどずっと言えなかった」
俊也の腕が詩織の背中に回った。
「負担なんかじゃないよ」俊也が言った。
「そりゃあ毎日そればかり言われ続けたら負担に思うかもしれないけど」と俊也は笑って言った。
「それでもたまには我が儘を言って欲しいものなんだよ」そう言って俊也は少し強めに詩織を抱きしめた。
「俺も会いたかった。なかなか連絡できなくてごめん」
私には人間の心の機微を察することは出来ない。猫と人間の感じ方が同じなのかもわからない。けれど今の二人は猫の私の目にも、とても幸せそうだった。
二人を眺めていたら、いつの間にかジンジャーがそばに来ていた。頭をすり寄せると、ジンジャーは幸せそうに喉をごろごろと鳴らした。それはほっとする、子守唄のようにも聴こえた。
オーディオからゆったりとした音楽が流れてくる。少し落とした照明の中、テーブルに置かれた小さなクリスマスツリーがちかちかと光っている。
詩織がトレイにシャンパンのボトルとグラスを二つ乗せて運んできた。
「クリスマスソング、こんなに沢山借りてきたの?」積んであったCDを物色しながら俊也が言った。「浸りたい気分だったのよ。いいじゃない、別に」
グラスにシャンパンが注がれると、爽やかな香りが部屋に溢れた。
「メリークリスマス」二人の声とともにグラスとグラスが軽く音を立てた。
「ジンジャー」ホットカーペットの上でまどろみかけていた僕にネーラが話しかけてきた。
「人間ばかりずるいと思わない?私だってシャンパンを飲んでみたいのに」
「詩織にねだってみたら?少しくらいなら舐めさせてくれるかもしれないよ」僕がそう言うとネーラは二人の方を見て、考えるように小首をかしげ、それから言った。
「やめとくわ。今二人の邪魔をしたら俊也に怒られちゃいそうだから」
僕も二人の方を見ると、ちょうど俊也が詩織に小さな箱を渡したところだった。詩織は嬉しそうに受け取ると、小走りで寝室から紙袋を取ってきて俊也に渡した。詩織の箱には翠の石をあしらったピアス、俊也の紙袋にはアナログレコードプレーヤーが入っていた。
「前にレコードが欲しいって言ってたから。わざわざアンティークっぽいのを選んだのよ」と詩織は言った。
「ありがとう。これで心おきなく欲しかったレコードが買えるよ」と俊也は嬉しそうに言った。
「私には翡翠のピアスね」詩織はもらったピアスを薄暗い照明にかざして言った。
「ジンジャーの瞳の色に少し似てる」と言って詩織がピアスを僕の顔に近づけた。自分で自分の瞳の色を見ることはできないからわからない。
「確かに少し似てる」ネーラが僕の瞳を覗き込んで言った。少し恥ずかしくなって、僕は違う話題を振った。
「いったい二人は何してるの?人間は物を交換する習性があったんだっけ?」
ネーラはおかしそうに笑うと、クリスマスの説明をしてくれた。
「それじゃあ僕も君にも何か用意すべきだったかな?」僕が慌てて聞くとネーラは答えた。
「私は人間じゃないからいらないわ」そして少し間をおくと言った。
「でも一つ約束して欲しいの」
「なにを?」
「私たちが思い合っている間は、詩織ちゃんと俊也が少しでも永く一緒にいられるようにサポートすること」
僕は、もちろんと答えるかわりに彼女の鼻を軽く舐めた。僕らにも直接関わってくることなのだから当然だ。
ふと二人を見るとお酒が入っていいムードになり始めているようだった。そのそばにのうのうと居座るほど僕らは不粋ではない。
二人の邪魔にならないよう僕とネーラは窓のところに行き、カーテンの内側に入り込んだ。そこは寒かったけれど、まるで世界には僕たちしかいなくて、月から祝福を受けているような、そんな気分になれる場所だった。月は相変わらずネーラの瞳によく似ていたけれど、隣に本物がある今は眺めても淋しいとは感じなかった。
僕らは寄り添い目を閉じて、幸せな闇に身をひたした。






