婚約破棄ですか? では、最後に一つだけお願いしてもよろしいでしょうか
人の心というものは、ずいぶんと勝手なものだと思います。
好きだと言っていたものを嫌いになり、愛していると言っていた相手を捨て、昨日までの約束を当日になってなかったことにする。
それでも、私は人の心を責めるつもりはありません。
だって、人とはそういうもよなのですから。
ただし、心変わりをしたのなら、事が起こる前に報告して欲しかったのです。
◇
「エミリア・ロゼット。お前との婚約を破棄する!」
王都の劇場で催された春の慈善舞踏会。
大勢の貴族が集まる会場の中央で、私の婚約者である伯爵令息、ヴィクトル様はそう宣言なさいました。
その隣には、淡い金髪の令嬢が寄り添っています。
男爵令嬢のソフィア様。
最近、ヴィクトル様と親しくされている方です。
ヴィクトル様が続けて仰います。
「私はソフィアを愛している。お前のような冷たい女と結婚するつもりはない!」
「――まあ、そうなのですか」
私は小さく頷きました。
正直なところ、驚きはありませんでした。
ここ数か月、ヴィクトル様からの手紙は減り、二人で出かける約束も何度も反故にされていましたから。
それにヴィクトル様とソフィア様が何度も一緒に遊んでいる姿を友人が目撃しています。
そのうちの何度かは私とのデートの約束があったのですがね。
そんな私の反応がつまらなかったようで、ヴィクトル様が怒鳴りつけてきます。
「何だ、その反応は! 婚約を破棄されて悔しくないのか!」
「いいえ。少々残念ではありますが、仕方のないことだと思います」
「ふん。ようやく自分の立場を理解したか」
ヴィクトル様は満足そうに笑いました。
なので私は続けて、
「はい。
私が、こんなに責任感の無い軽薄で浅慮な人間と伴侶になる存在ではない、と改めて自分の立場を理解出来ました」
「……は?」
「私の家も貴方の生家より下といえど、子爵の位に就ています。……いずれ私と伴侶になる方に家の全てを任せることになりますが、貴方のような能無しでは没落しかないと思っておりまして」
ヴィクトル様は伯爵家の3番目の息子になります。
家を継ぐ事もできず、優秀な兄と常に比べられて育ったからか、とても卑屈な性格をしています。
ただし、プライドだけは異常に高いですが。
私にそんな事を言われたので、彼は一瞬で沸騰し、私に掴み掛かってきます。
それを慣れた様子で避けてから、優雅に頭を下げます。
「今までありがとうございました。――もし次にこんな機会がありましたら、是非浮気の前に報告してあげて下さいね」
ヴィクトル様はとうとう発狂なさって、髪を掻き乱しておられます。
ソフィア様は初めてみるその光景にただおろおろとしているだけです。
私はただ黙って立ち去りました。
これ以上私が近くに居ても彼が発狂するだけだと思ったからです。
――2時間後。
この舞踏会もそろそろ終わりになる頃です。
そんな時に、家礼より連絡を受けました。
これより父が戻ってくる、と。
そして。
私とヴィクトル様とのダンスを楽しみにしている、とも。
父は体調不良で、舞踏会が始まって早々に医務室に移動していました。
そんな父が戻ってくる。
そんな言葉を聞いてしまったらどうしようもありません。
嫌々先ほどの場所までもどります。
彼らや周りの人間達は一旦落ち着いたようで、たどたどしく会話をしておられました。
会話が終わるタイミングを待って、ゆっくりと近づきます。
ヴィクトル様は私を見ると一瞬で顔を真っ赤にしますが、なんとかそれを堪えました。
そして深呼吸をしてから、私を睨みつけます。
私はヴィクトル様の前に立ち、深々と頭を下げました。
まずは先ほどの非礼を詫びます。
心の中では何も思っていませんが、これからの交渉のためには必要なことです。
彼らはとても困惑しています。
「――ヴィクトル様。最後に一つだけお願いしてもよろしいでしょうか」
頭をゆっくりとあげて、彼の目をしっかりと見つめます。
すると、彼もしっかりと私の目を見て答えて下さいました。
この切り替えの早さはとてもありがたいです。
「何だ。言ってみろ」
「最後の一曲だけ、私と踊っていただけませんか?」
「……何だと?」
「父が本日の舞踏会を楽しみにしていたのです。私が婚約者と踊る姿を、一度見ておきたいと申しておりました」
すると、彼が顔を歪めました。
ヴィクトル様は父に多額の借金があります。
彼はとても金遣いが荒いです。
私にはめっきり何もしてくれなくなりましたが、プレゼントも高級な物しか渡したがりませんし、出かける場所も金を多く使う場所が多いです。
なので自分の家の小遣いでは賄いきれず、私たちに金の無心をよくしにきました。
父はそんなお願いを受けて、私の婚約者だからと、多くのお金を貸していました。
そんな父のお願いです。
頭の上がらない彼は断ることなど出来ません。
また。
父は身体が弱く、長時間の外出ができません。
それでも今日だけは、私の晴れ姿を見るために会場まで足を運んでくれました。
このことはヴィクトル様も知っておいでです。
「せめて最後の一曲だけでも、父に見せてあげたいのです」
ヴィクトル様はゆっくりと、頷かれました。
「いいだろう。最後くらいは付き合ってやる。ただし、それが終われば赤の他人だ。
……貴様の父上にもしっかりと伝えておくのだぞ」
「ありがとうございます」
私は礼をしました。
そして、ヴィクトル様の隣にいるソフィア様へ視線を向けます。
「ソフィア様も、それでよろしいでしょうか?」
「え、ええ……もちろんですわ」
彼女は少し困ったように笑いました。
やがて、最後の一曲が始まりました。
私はヴィクトル様の手を取り、会場の中央へ進みます。
父は会場の端に用意された椅子に座り、こちらを見守っていました。
「これで満足か?」
踊りながら、ヴィクトル様が尋ねます。
チラチラと父の様子を伺っているようです。
「はい。ありがとうございます」
「まったく、最後まで面倒な女だな」
「そうでしょうか」
「そうだ。お前は昔から融通が利かない」
私は返事をしませんでした。
ただ、曲が終わるまで彼の手を取り続けました。
最後の旋律が消え、私たちは礼を交わします。
父のもとへ戻ると、父は満足そうに微笑みました。
「よく踊れていたぞ」
「ありがとうございます、お父様」
「……もう十分だ。帰ろうか」
「はい」
父の身体に負担をかけないよう、私は早々に帰り支度を始めました。
ところが、ヴィクトル様が慌てた様子でこちらへやってきたのです。
「おい、エミリア! どこへ行く!」
「帰宅いたします。お父様がお疲れのようですので」
「まだ舞踏会は終わっていないぞ!」
「最後の一曲は踊りましたでしょう?」
「そうではない! これからソフィアと踊るのだ!」
ヴィクトル様はソフィア様の手を取り、私たちの前に立ちました。
「これからは彼女が私の隣に立つのだ。お前も祝福くらいしたらどうだ?」
実は、ヴィクトル様が踊っている最中。
彼からも頼み事をされました。
私の父へ口添えをして欲しいそうです。
今回の婚約破棄の顛末を自分が悪くないように伝えて欲しい。
ソフィアと最後の曲で踊るから、それを絶賛して、しっかりと祝って欲しい。
周囲の人間に私たちのダンスがどれほど素晴らしいのかを吹聴してほしい。
まとめるとこのようなことでした。
呆れて何も言えませんでした。
その様子を肯定だと勝手に捉えていたのでしょう。
そんなわけありませんのに。
「もちろんです。お幸せに」
私は微笑みました。
そして帰り支度を進めます。
ヴィクトル様は一瞬怒鳴りそうになりながらも、父の静かな表情を見て、鎮まります。
その時。
ソフィア様が彼に声を掛けます。
「ヴィクトル様、少しよろしいでしょうか」
「何だ?」
「私たち、この曲の後、一緒に帰るのですよね?」
「もちろんだ」
「では、私をお屋敷に迎えてくださるというお話も……」
「それはまだ決まっていない」
「え?」
「父に話を通す必要がある。そもそも、私はお前と結婚するとは言っていないだろう」
ソフィア様の顔から笑みが消えました。
「ですが、私と結婚するためにエミリア様との婚約を破棄すると……」
「それは、お前がそうしてほしいと言ったからだ!」
「まあ! 私のせいだとおっしゃるのですか?」
周囲の貴族たちが、二人のやり取りに注目し始めました。
ヴィクトル様は焦ったように声を荒らげます。
「そもそも、お前が私に結婚を迫るから!」
「ヴィクトル様が愛しているとおっしゃったのではありませんか!」
先ほどまで仲睦まじかった二人の間に、険悪な空気が流れ始めました。
私はそれ以上見ている必要もないと思い、父の車椅子を押して出口へ向かいました。
翌日、ヴィクトル様の婚約破棄は社交界で大きな話題となりました。
ソフィア様は、彼が自分との結婚を真剣に考えていなかったことに腹を立て、すぐに別の男性との交際を始めたそうです。
一方、ヴィクトル様は実家からも叱責を受けたと聞きました。
婚約者を公衆の面前で捨てた挙げ句、新しい婚約者を迎える準備すらしていなかったのですから、当然でしょう。
「エミリア、次の舞踏会には誰と行くつもりだ?」
朝食の席で、父が尋ねました。
「そうですね。まだ決めておりません」
「ならば、私が付き添おう」
「お父様は、あまり無理をなさらないでくださいね」
「はは。分かっているとも」
私は紅茶を一口飲みました。
恋が終わることは、確かに悲しいことです。
けれど、終わった恋にいつまでもしがみつく必要はありません。
私は窓の外を眺めながら、次の春を楽しみにすることにしました。




