マスク
それは僕が小学生の頃だった。エアコンの冷房で消夏しながら、自室の勉強机に宿題を広げていた。
宿題の量は多く、夏休みも残り少ない。計画的に行動していればこうやって無理に手を付ける必要もなかったと言うのに。
僕には姉さんがいて、姉さんは高校生。夏休みに入ったからか、短期アルバイトに出かけることが多くなった。飲食店のキッチンで働いているようで、たまにエプロンを持って帰ってくることがある。エプロンには油のにおいが染み付いていて、洗濯機を回さなければにおいが洗面所に充満した。
さておき、昨今はコロナ禍の真っ只中であり、僕だけでなく人々は皆マスク着用を心がけていた。
姉さんは帰宅するなり、リビングの隅に置かれたゴミ箱にマスクを丸めて捨てる。紐でぐるぐる巻きにされたそれを、ある日、僕は手に取った。
巻き着いていた紐を解いて、広げる。つい先ほどまで姉さんが着用していたから、温かな体温が残っていた。マスクの内側に、姉さんの口紅が付いていた。
姉さんはアルバイトに行く時や、プライベートで出かける時は必ずメイクをして出かける。
その痕が、微かにだが残っていたのだ。
僕はゆっくりとマスクを口元へ近付ける。
誰にもこの行動を見られていないか周囲を確認する。心臓がどきどきと高鳴っている。
紐を耳にかけ、姉さんのマスクを僕は着けた。
脳内に強い電流のようなものが走った。
初めての感覚に、僕は驚きつつも高揚感を覚える。
口紅の痕が残っていると言うことは、このマスクは姉さんの唇が触れていたとなる。姉さんの唇が、体温が、体が、このマスクに付着していたのだ。
僕は今、姉さんと一つになっている。
その事実が、頭を熾烈な電流で焦がしていくのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
僕はその日からマスクというものに惹かれるようになった。
夏休みが終わって学校に通い始めてから、クラスメイトの女子のマスクが強烈に脳を刺激する。
あの子のマスクはどんなにおいがするのだろうか。体育の後だから、きっと汗や体温が染み付いているだろう。
音楽の授業で歌を歌ったりして、唾液が内側に飛んでいないだろうか。
暑さで蒸れていないだろうか。呼吸から蒸発した水分が、内側に溜まっていないだろうか。
僕はそんなことをずっと考えていた。
家に帰った。今日は姉さんの方が帰宅が早かった。リビングのゴミ箱を覗く。やはり、ぐるぐると巻かれたマスクが他のゴミと混ざって入っていた。
僕は手を突っ込んで、マスクを手に取る。
脳がじわじわと興奮の波を広げていく。心臓が高鳴る。息が少しだけ荒くなる。僕は、目線をマスクにだけ集中させて、そっと装着する。
姉さんの学校はメイク禁止なため、今回は口紅が付いていないが、それでも良かった。自分と姉さんを重ね合わせて、その体温をじっくりと味わう。
僕はただこの快感に酔い痴れた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
僕は中学生になった。勉強机に、かつて姉さんが着用していた口紅の痕が残るマスクを保管していた。彼女の体温はもう残っていない。口紅の痕も若干薄まっている。それでも僕は良かった。
コロナ禍は明け、マスク着用は絶対ではなくなってしまった。クラスメイトの者たちも、特定の時間以外マスクを着けている様子は見られない。
外を出歩いていると時々マスクを着けている人を見かける。その時の気分の高まりようと言ったら、これまた筆舌に尽くしがたいものだ。
僕は未使用のマスクではなく、誰かが使った後の温もりが残るマスクが好きだ。姉さんは大学生になって家を出て行ってしまったから、そのマスクを手に入れるのはもう難しい。
両親は健康体で、風邪を引いた時以外にマスクを着けることはない。これはあくまで僕の好みの問題なのだが、なるべく歳が近い女性の着けていたマスクが良い。
思春期に入ってから保健の授業を受けたのだが、その時男女の体の発達について取り扱っていた。内容はぼんやりと記憶している。
どうやら僕は女性の体には惹かれないようで、特段、他のクラスメイトのように独特な気まずさを感じたりなどしなかった。
給食の時間、配膳をする際にだけマスク着用が徹底される。給食を終えてマスクが次々とゴミ箱に捨てられていく。
掃除の時間になって、それぞれ自分たちが担当する場所へ向かうのだが、僕は教室の掃除を担当することが多かった。特に黒板の掃除の担当が多く、黒板の側にゴミ箱は置かれていたから、人の目を盗んでマスクを取ることは容易だった。
学校こそが、僕の狩り場だった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
僕は高校生になった。勉強も運動もそこそこできる上に、割と顔立ちは整っていた方だから、すぐに彼女ができた。
マスクが好きだということは周りに隠していた。その上、マスクが好きだということを忘れてしまおうと僕は躍起になった。
だから彼女を作った。女性の方に好意を持てるようになれば、それこそマスクのことなど微塵にも頭を過らないで済むだろうとの算段だ。
中学生までの自分は、マスクに固執する異常性癖者だった。僕はそんな自分を捨ててしまいたかった。
そう強く思った。
そんなある日のことだった。僕の彼女が風邪を引いた。病熱に魘される彼女の家まで見舞いに行ったのだが、彼女はマスクを着けていた。
思わず心臓がドキリと跳ねた。マスクから目が離せない。じっと見つめていたからか、彼女は戸惑った反応を見せた。慌てて誤魔化して、自身の心の声に耳を傾ける。
一体、どうしてか。どうして自分はそんなにマスクへと惹かれるのか。
彼女がトイレに行ったタイミングを見計らって、僕は部屋のゴミ箱を漁った。マスクがゴミ箱に広げられたまま捨てられていた。
他のゴミを振り払ってマスクを手に取り、急いでポケットに入れる。直後、彼女が部屋へと戻って来た。
彼女は僕の行動に気付いていないようだった。
それもそのはず。普通の人は捨てられたマスクのことなど気にも留めないだろう。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
大人になった。そんな僕は周りからよく尋ねられることがある。
それは――。
どうしていつもマスクを着けているのか。
そんな問いに、僕はいつもこう答える。
「温かいから」
言い終えてから、僕は笑みを浮かべるのだ。




