俺は、李徴にはなれない
そう、魚になっていた。
川に落ちて、目が覚めて気がついたのがこれである。
俺は勉学の才もあれば、性格も良く、顔立ちも十分な程に整っている。突然で申し訳ないが、もちろん、自慢だ。数日前にはあの日本随一の大学に合格したし、中学、高校時代には得意のテニスで数えきれないほどの賞を取ってきた経験もある。だからこそ。
水面に映る俺の姿。もう笑うこともできず唖然とするしかない。というより、そんな表情をできる顔もない。
見てみろ。
ぎょろりと睨めつくような双眼に、体中を覆う粘ついていて太陽光にぎらぎらと反射している。極め付けは生まれつきのように自然と動いてしまう、このすぐにでも千切れてしまいそうな手足。ひれだ。
首元のエラが忙しなく動いていて本当に気色が悪い。
まるで『山月記』を俺が体現しているようだ。というと俺の業が魚だとでも言われているようで。
そんなものは受容できるはずがないし、俺は李徴のような傲慢で酷い人間性ではない。俺は人より優れていて、愛される存在なのだ。彼のように反省をする必要もない。
でも。そうでないとすると一体。
俺は今、何をさせられている?
数時間が、経っただろうか。
まだ俺の体には何の変化もない。流れに沿ってどこまで来たのかさえもわからない。俺をこんな体にした奴は、なんのつもりだ。俺に誰が、何の恨みがあって、こんな罰を受けさせている?気味が悪い。
俺はこれから家に帰るはずだったんだ。今日は俺の誕生日だから家に帰ったら、俺の好きな寿司を用意してくれるって、母さんが───。
母さん、か。思い返せば、今日は「いってきます」って返さなかったっけ。一郎兄と喧嘩して、罵倒しあって、そのまま。逃げるように家を出て、大学に行って、帰りに川に落ちた。
なぜだっただろうか。単に、足を滑らせたのかもしれない。
母さん。父さん、一郎兄。心配かけて、ごめんな。
俺は、俺は、早く……家に帰りてぇよ。
でもなんで、川に落ちただけでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。でかい魚に追われて、俺の体の半分ぐらいある虫がウジャウジャ浮いてて。こんなの、馬鹿げている。理不尽だ。今日もいつもと変わらない、イージーモードな人生だっただろう? なぜこんなにも苦しい想いをして、必死に川を泳いでいるのだろうか。嫌だ。もう、帰らせてくれ。
家に、帰らなければ。
何か、衝動に駆られるように頭が冴えた。突然押し寄せるように速くなった流れが、そう錯覚させたのかもしれない。
急げ。急げ。小石から跳ね返る暑さが弱まり、次第に暗くなっている。俺より速い木の枝が頬を掠って前を行った。痛い。枝が、人が踏めば折れそうな細い枝が、ピリピリと痛む傷を作ってきた。
痛い。痛い。急げ。帰りたい。もっと速く。
水を切り、障害物を跳ね除けて、泳いで、泳いで、泳いで、泳いで、走って。
もう、何も考えられなかった。
────視界が暗転する。
「…ったく、やっと起きたか。心配させやがって」
「……一郎、兄?」
川岸に寝ていた。上から一郎兄が覗き込んでいる。
上半身を起こして、思わず自分の手を、体を確認した。人間だ。いや、そりゃそうだろう。人間に決まっている。俺は、人間なのだ。
そうだ、そうだよ、元から人間だ。魚なんかじゃない。
一郎兄を見たら、喧嘩をしたはずなのに、今は安心感に包まれている。何だこれ。家族とは、兄とは、こんなにも暖かいものだっただろうか。
「川でお前が溺れてるって連絡があって。焦ってたよ、父さんも母さんも。ほら、家に帰ろう」
一郎兄の手を取る。手。一郎兄の手。俺の手も、ヒレなんかじゃなく、人間の手なのだ。指が五本。手のひらがあって、思い通りに動く。
それは水を掻くためのモノではなくて、物を掴む事ができる。人の手を、握る事ができる。
「痛っ」
「どうしたの? その傷」
二人並んで家に帰る途中、電流のように痛みが走った。頬をなぞる。そこには、細い枝で切ったような擦り傷が残っていた。
食卓を囲む、家族四人。テーブルには大量の寿司が並び、俺の周りはプレゼントで埋まっていた。
「誕生日おめでとう!!」
屈託のない家族の笑顔。完璧な俺を大切に想っている、愛してくれる家族たち。魚になったのも悪くなかったかもしれない。これ以上ない家族の大切さがわかったのだから。
「食べないのかい?」
寿司に醤油をつけて、口に運んだところで箸が止まっていた。慌てて食べて咀嚼する。
今日も、これからも。俺は才能を持て余して生きていく。
だって俺の人生は、イージーモードなんだから。




