最終章・天下布氷 ── 「余のスケートは天下統一じゃ」
六ヶ月後、信長はアマチュア一般部門の大会に出場した。今度は全国大会の予選だ。技術点は劇的に向上し、ダブルアクセルを安定して降り、トリプルループも成功することがある。何より演技構成点は全カテゴリーでトップクラスだった。
本番前夜、信長はタスケに聞いた。
「余がスケートを始めたのはなぜだと思う」
タスケは「……あのスクランブル交差点の画面を見て、綺麗だったからじゃないですか」と答えた。
信長は少し間を置いた。
「そうじゃ。氷の上で人が舞う様、あれは余の見たことのない美しさじゃった。余は美しいものが好きじゃ。茶も能も、そして氷上の演技も。美しいものには力がある」
「信長さんって、意外とそういう人なんですね」
「意外とは失礼じゃ」
「すみません」
「……じゃが、そうじゃな。余は天下を取ろうとした。しかし何のために取るのか、ずっと考えておった。力だけの世では面白くない。余は茶会を開き、能を演じ、南蛮の文物を取り入れた。文化のある天下を作りたかったのじゃ」
信長は窓の外を見た。夜の名古屋が輝いている。
「令和の世は余の夢に近い。誰でも技を磨けば舞台に立てる。審判は身分ではなく技で評価する。これは余が目指した世じゃ」
タスケはその夜、なかなか眠れなかった。
布団の中で天井を見つめながら考えていた。
自分は、なぜここまで信長に付き合っているのだろう。
大学の練習、試合、将来の不安。忙しさを理由に逃げることはいくらでもできた。それでも毎朝リンクに行った。
氷の上で、何度転んでも立ち上がるあの背中を見るたびに、自分がどこかで諦めかけていた「本気」を思い出させられる気がしたからだ。
——これは師弟ではない。
タスケはそう思った。
これは、覚悟を映す鏡だ。
本番当日。信長の演技は完璧ではなかった。トリプルループは転倒した。スピンの軸がわずかにぶれた。しかし最後のステップシークエンス、能の動作を取り入れた独特の振り付けで会場の空気が変わった。信長が氷上で「型」を刻むように動く姿は、どこか古い時代の壮麗さを持っていた。
フィナーレ。信長はリンクの中心に立ち、正面の観客席へ向かって深く一礼した。武将の礼ではなく、演者としての礼だった。
観客席から、誰かが立ち上がった。一人、また一人。気づけば全員が立っていた。
全国大会予選・最終結果
技術点
48.7点
演技構成点
52.1点
合計
100.8点
順位
4位(全国大会出場圏外あと一歩)
観客の反応
スタンディングオベーション(2回目)
SNS
「氷上の信長」トレンド入り
結果は全国大会出場に届かなかった。4位だった。
バックステージに戻ってきた信長に、タスケは「すみません、もう少しで……」と言いかけた。
信長は首を振った。
「謝るな。余は四位じゃった。それだけじゃ。次は三位を取る。その次は二位、そして一位じゃ。余は諦めたことがない」
「……来年も続けるんですか」
「当然じゃ。余はまだ天下を取っておらん」
タスケは笑った。信長も少し口の端を上げた。
外に出ると、名古屋の街が夕日に染まっていた。
この場所から、氷上で世界を制した舞姫が生まれ、国民の記憶に残る涙を残した天才少女が育ち、孤高の技を武器に黙々と高みを目指した若き表現者もまた羽ばたいていった。そしてどういうわけか今、天下人が氷上に立ち、続きを語っていた。
信長は夕暮れの街を見つめたまま、低く名を呼んだ。
「……タスケ」
タスケは足を止めた。
それは、氷の上でも試合でも一度も呼ばれなかった名だった。
「よく付き合った。……感謝しておる」
信長はふと空を見上げて、独り言のように語る。
「名古屋はよい街じゃ。余の故郷で、氷の聖地で、余がスケートを覚えた場所じゃ。天下布武ならぬ……天下布氷、じゃな」
「上手いこと言いましたね」
タスケは微笑む。
信長は「余は何事においても上手い」と答えた。
二人は並んで名古屋の街を歩いた。どこかに食べに行こうという話になり、信長は「味噌煮込みうどんが食いたい」と言った。令和の世で唯一、信長が「これだけは戦国の時代に持ち帰りたい」と感じたものが、名古屋の味噌煮込みうどんであった。
フィギュアスケートではなく。
──完──




