第七章 名古屋の聖地巡礼と仲間たち ── 「あの女子選手の滑りを動画で見た、余は感動した」
大会後、信長の評判は名古屋のスケート界に広まった。「謎の壮年スケーター」として口コミが広がり、名央大学の関係者からも練習の招待が来た。信長はタスケを連れて名央大学のリンクに足を運んだ。
ここで信長は重大なことを学んだ。名古屋がフィギュアスケートの聖地である理由だ。
名央大学はオリンピック金メダリストを輩出し、世界を席巻した女子選手も在籍した。名古屋出身の男子選手が世界のトップに立ったこともある。そういった世界的スケーターを生み出した土壌が名古屋にはある。信長はタスケにそのような選手たちの演技動画を次々と見せてもらい、その都度うなり声を上げた。
なかでもある女子選手のトリプルアクセルを三回繰り返し見て、「この娘は余より強い」と言った。褒め言葉として言ったのだが、タスケは少し複雑な顔をした。
「信長さん、それ言い方が……」
「どこが悪い。余より強いものを強いと言うのは当然のことじゃ。余は強いものを好む」
確かにそうだった。信長は歴史的に、身分や出自より実力を重んじた人物として知られている。秀吉を足軽から引き立てたのも実力だ。スケートにおいても、信長の評価基準はシンプルだった。上手い者は上手い。それだけだ。
ある日、練習後にタスケのアパートで食事をしていると、信長が突然「なぜ名古屋にこれほどスケートが盛んなのじゃ」と聞いた。
タスケは少し考えてから「正直、文化的な蓄積と、熱心な指導者と、いい選手がまた次の選手を育てる連鎖だと思います。あと名古屋の人って負けず嫌いが多いのかも」と答えた。
信長は「ほう」と言って箸を止めた。
「負けず嫌いか。それは余の得意分野じゃ。なるほど、名古屋がフィギュアの聖地なのは余の生まれ故郷じゃからか」
「……論理が飛躍してますけど」
「細かいことは気にするな」
信長はその後、「名古屋フィギュアスケート振興のため」という謎の理由で、地元の子供スケート教室に顔を出し始めた。子供たちへの指導は独特だった。
「転ぶことを恐れるな!転んだら立て。それだけじゃ。余は今日だけで十四回転んだが、余はここにおる」
子供たちは不思議と信長が好きだった。怖そうなのに、転んでも怒らない。自分も転ぶ。転んだ後に必ず立ち上がる。何か言葉にならない「大事なもの」を見せてくれる大人だと、子供たちはなんとなく感じていた。
そんなある夜のことだった。
練習を終えてアパートに帰ったタスケと信長が、夕飯の味噌汁をすすりながらぼんやりとテレビをつけていると、スポーツの特集コーナーで過去のフィギュアスケート映像が流れ始めた。解説者がある選手の名を口にした瞬間、信長の箸が止まった。
「……今、何と言った」
「え?」タスケが振り向くと、信長の目が爛々と輝いていた。戦場で好機を見つけた時の、あの眼光だった。
「今……余とよく似た名が聞こえたぞ。もう一度申せ」
タスケはテレビの音量を上げた。解説者がもう一度その名を言った。
「……織田、と言わなかったか」
「あ、はい。フィギュアスケートの元選手で……」
「織田じゃと!?余と同じ苗字ではないか! 詳しく申せ!」
タスケは慌ててスマホで調べた。
「えーっと……全日本選手権で優勝経験もあって、世界選手権にも出場した有名な元選手です。で、苗字が織田なのは……あ、本人が織田信長の子孫を称してます」
一瞬の沈黙。
信長は箸を静かに置いた。テーブルに両手をつき、ゆっくりとタスケの顔を見た。
「……余の子孫が……フィギュアスケートを……?」
── 信長、声が震えている。
「そうみたいです。かなり有名な選手でしたよ。ジャンプが得意で、ステップも評価されてて……」
「見せよ。今すぐ見せよ」
タスケはスマホでその選手の演技動画を探し、信長に渡した。信長は画面に顔を近づけ、食い入るように見始めた。
一分後。信長の目が、じわりと潤んだ。
タスケは見ないふりをした。
三分後、動画が終わった。信長はしばらく黙っていた。それからゆっくり口を開いた。
「……よい滑りじゃ。跳躍に力がある。ステップの緩急も見事じゃ。血は争えぬ」
── 信長、目元を指でぬぐいながら
「泣いてますか?」
「泣いておらん。目にゴミが入っただけじゃ」
「名古屋のリンクで毎日泣いてるパターンのやつですよね」
「違う!」
信長は咳払いを一つして、気を取り直したように背筋を伸ばした。しかしすぐに「もう一度見せよ」と言った。タスケは黙ってリプレイした。信長はまた食い入るように見た。今度は途中で一時停止して「このジャンプの踏み切りは……」と真剣な顔で分析し始めた。完全に師匠の顔だった。
その後、信長はその織田姓の元選手の演技を都合六回繰り返して見た。見るたびに短いコメントを呟いた。「ここの表現がよい」「このスピンは余も真似よう」「腕の使い方が上品じゃ」。そしてすべてのコメントが技術的に的を射ていたので、タスケはスケート選手としての信長の成長をひしひしと感じた。
「弥助、この織田とやらは今どこにおる」
「引退されてますね。今はコーチや解説者として活動されてるみたいです」
「会いたい」
「いや、さすがに急には……」
「余は会いたいと言った」
「……当たってみます」
タスケは半信半疑でSNSのDM機能なるものを駆使し、知り合いのスケート関係者を何人か経由して打診してみた。すると驚いたことに、当の元選手本人から返事が来た。「SNSで信長さんの動画、拝見しておりました。ぜひお会いしましょう」と。
信長にそれを伝えると、信長は珍しく「うむ」とだけ言って、しかし夕飯の残りをいつもの二倍の速さで食べた。明らかに嬉しそうだった。
対面の日。場所は名古屋市内のアイスリンク。例の元選手が来るということで、タスケは前日から緊張していた。しかし信長は普段と変わらず早朝五時からリンクに来て黙々と練習していた。
午前十時、その人物が現れた。さわやかな笑顔の、どこか懐かしい顔立ちの男性だった。
信長は氷の上からその男を見た。男は氷の外から信長を見た。
二人の間に、五秒間の沈黙があった。
最初に動いたのは元選手だった。深々と頭を下げた。
「お目にかかれて光栄です」
信長はしばらくその顔を見ていた。それから、ゆっくりとリンクを降り、目の前に立った。
「……面構えがよい。余の血じゃな」
「……はは」
「そなたの演技、余は六回見た。よい滑りじゃ。ジャンプの踏み切りに余と似たものがある」
「え、そうですか!?どこですか!?」
食いついたのは技術の話だった。信長も嬉しそうに技術の話をした。タスケは横でなんともいえない顔で二人を眺めた。十七代の時を超えて、一族の血がフィギュアスケートで繋がった瞬間だった。
その日、元選手は二時間かけて信長に直接アドバイスをくれた。「ジャンプ前の姿勢をもう少し…」「スピンの入りで…」。信長は珍しく素直に聞き、すぐに試した。何かを言われて即座に試みる姿に、元選手は目を見張った。
帰り際、元選手が言った。
「信長さん、本当に…先祖かどうかはわかりませんが、不思議なご縁を感じます。また一緒に滑りましょう」
信長は「うむ、余からも頼む」と言った。
アパートへの帰り道、信長はずっと無言だった。タスケも黙って隣を歩いた。名古屋の夕暮れが二人の影を長く伸ばした頃、信長がぽつりと言う。
「余が本能寺で死んでおったとして……子孫がこのような形で余の名を継いでいたとは思わなんだ。武ではなく、氷の上で。……悪くない」
「悪くないどころか最高じゃないですか」
「うるさい」
信長はそう言いながら、少しだけ口の端を上げた。




