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天下布氷─信長、リンクに立つ─  作者: 明石竜


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第二章 名古屋は氷の聖地なり ──「なぜここにリンクが多いのか、天の配剤か」

信長は不思議な縁で出会った現代人の青年・木下タスケに拾われた。木下は大学生の競技フィギュアスケーターだ。名古屋出身。歴史好きで、白衣の怪人が「余は織田信長である」と言い張っても笑いながら「面白い設定っすね」と受け入れる、令和らしい寛容な青年であった。


その出会いは、偶然だった。

栄の裏通りで、信長が自動販売機に向かって「この鉄の箱は何じゃ」と真顔で問い詰めていたとき、通りがかった青年が足を止めた。

「あ、それ……飲み物出てきますよ」

青年はそう言って、慣れた手つきで硬貨を入れ、ボタンを押した。がちゃん、という音とともに缶が落ちる。


信長は目を見開いた。

「……兵糧が、勝手に出てきおった」

「自販機なんで」

 白衣に大刀という異様な姿にも、青年は特に驚いた様子を見せなかった。ただ少し首を傾げただけだ。

「そなた、名は?」

「タスケです。木下タスケ」


 信長は一拍置いた。


「……弥助、か」


「いえ、タ・ス・ケです」

「弥助」

「違いますって」

 信長は青年の顔をじっと見つめ、ふん、と小さく鼻を鳴らした。

「弥助のほうが呼びやすい。今日からそなたは弥助じゃ」

「いや、名前ってそういう……」

「異論は認めん」

 断言だった。

 青年――タスケは、なぜかその瞬間、この白衣の老人に逆らってはいけない気がした。

「……じゃあ、もうそれでいいです」

「うむ。話が早い」

 信長は満足そうに頷いた。


 ともあれ、タスケは信長を自分のアパートに連れ帰り、とりあえずジャージに着替えさせた。信長は「この筒状の衣は何者が着るのじゃ、農民か」と文句を言いながらも、動きやすさには素直に感心した。戦国武将としての本能が、機能性を認めたのである。


「で、さっき映像というものに出ておったあの技は何という名か」と信長が問う。

「フィギュアスケートですよ。氷の上で滑って、ジャンプして、採点される競技です。名古屋はその聖地なんで、うちの大学にもリンクがあって、俺も毎日練習してます」

「余にも見せよ」

「いいですよ。明日一緒に来ますか」



 翌日、信長はアイスリンクに降り立った。

 はじめて氷の上に足を踏み入れた瞬間、信長は盛大にすっ転んだ。ドシャア、と氷に全身を打ちつけた音が、静寂なリンクにこだました。周囲の大学生たちが一斉に振り返った。


「……これほど難儀なものとは思わなんだ」

 信長、氷の上で大の字になりながら天井を見上げて呟く。

 しかし信長は起き上がった。ゆっくりと、だが確実に。かつて桶狭間で今川義元の大軍に突撃した男が、アイスリンクごときで諦めるはずがない。問題は氷が相手でも同じだった。


「もう一度じゃ」


 タスケは少し感動した。普通の人は転んだらもう嫌だと帰るのに、この怪人(自称信長)はすぐに立ち上がる。転んでは立ち、立っては転び、それを黙々と繰り返す。負けん気という言葉がそのまま人間になったような男だった。


三時間後、信長は壁を伝いながらなんとか一周できるようになっていた。


「フィギュアスケート、余は習得する。どのくらいかかる」

 タスケは正直に答えた。

「普通は子供の頃から始めないと競技レベルには届かないと言われてます。ジャンプは特に、体の柔軟性と反射が……」

「そのような言い訳は聞いておらん。どのくらいかかるかと聞いた」

「……速くて数年、かな」

「では三ヶ月でやる。弥助、余の師となれ」


タスケはこうして、歴史に残る珍妙な師弟関係の師匠となった。本人は全くその気がなかったが、断れる雰囲気ではなかった。信長から「否と言う者は問答無用に斬る」という気配がビシビシ伝わってくるのだ。令和の世にも通じる圧力であった。

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