二.雪花の思い
(天女だ……)
その日初めて顔を合わせた、婚約者に内定した少女に熙衡はそんな感想を抱いた。
ほっそりとした肢体を、淡い桃花と藤紫の上品な襖裙に包んだ彼女は、古の仙女を忍ばせる、美しい面差しをしていた。彼女は目が合うと、薄紅に色付いた柔らかそうな唇を、微かに綻ばせる。そして、揃えた指先を左腰に添え、しなやかに膝を曲げ、優雅な万福を披露した。
呆然としていた熙衡は、はっと我に返り、慌てて顔を上げるように告げる。姿勢を戻した彼女は、目を細めて名乗った。
「お初にお目にかかります。恐れ多くも典部忠勝の地位を賜ります、行の娘の、字を雪麗と申します。
……これからよろしくお願い申し上げます、殿下」
名が示す通り、淡雪のように繊細な美貌を誇る彼女に、熙衡は一瞬で目を奪われていた。
食い入るように彼女を見つめる熙衡に、彼女は微かに首を傾げる。はっと我に返った熙衡が名乗り返すと、雪麗は美しい微笑みを浮かべて言った。ちなみに、彼はまだ成人を迎えていないため、字ではなく名を伝えた。
「熙衡様。……素敵な御名ですね」
すとんと、その言葉は熙衡の胸の中心に落ちてきた。
義兄の名──輝きを承継するという意味の『熙承』と比べ、自分の名にずっと複雑な思いを抱いてきた。
僅かに震える声で、熙衡は言葉を返す。
「貴女の名も……美しいと思う」
「まあ。ありがとうございます」
品良く声を漏らしながら、雪麗は微笑んだ。
熙衡はその後、行儀見習いとして後宮に通うようになった雪麗と、機会を見計らっては顔を合わせた。
二つ上年で、既に成人の儀を終えているという彼女は、熙衡よりも遥かに大人びている。
このままでは弟のようにしか見てもらえないのでは。と焦る熙衡に、雪麗は美しい微笑みを向けてくれた。
「焦らずたくさん話をして、お互いのことを知って参りましょう」
熙衡の気負いは、雪麗の落ち着きに諭されてすっと和らいだ。
顔を合わせる度、熙衡と雪麗は話し込んだ。
どんな幼少期を過ごしてきたか、何をするのが好きか。好きな食べ物は、花は、色は、香りは。
冬生まれの雪麗は、対極の季節に咲く蓮の花を、殊の外愛しているという。
花に疎い熙衡は、沈香の香りが好きだと彼女に告げた。
雪麗が得意とする唄を聞かせてもらうこともあれば、熙衡が覚えたばかりの剣舞を披露することもある。
互いに楽器を合わせた時には、魂が共鳴するような心地良い音が響き、二人で目を丸くした。
時に、くだらない理由で言い合いになることもあったが、気まずさに逸らした目が再び合うと、二人同時に笑いだした。
熙衡が耳飾りなどのささやかな贈り物をすれば、雪麗は手作りの菓子や、手ずから刺繍を施した手巾を返してくれた。特に餡を練りこんだ酥餅は絶品で、彼女と暮らす日々がぐっと現実的に想像出来た。
幸せだった。
熙衡の成人の儀が終われば、彼女は正式に婚約者として世間に発表される。
その日を二人で指折り数えては、顔を見合わせて微笑んでいた。
冠礼の儀をいよいよ二ヶ月後に控えた、雪のちらつく日の昼頃。
十四歳になった熙衡は、国に長く続く儀礼の歴史を調べるため、朝から書物を読み耽っていた。
成人後、彼は皇族のための名誉職のうち、典采の地位を賜る予定だった。ただし父も義兄も、「名ばかりの職ではなく、国家の顔としての活躍を期待している」と言ってくれている。
期待に応え、一刻も早く彼らの右腕となり、妻となる雪麗を安心させたい。
かつて勉学に否定的な感情を抱いていた少年は、今は学ぶことに夢中になっていた。
幼い頃には度々襲ってきた怒りの衝動も、今はずいぶんと落ち着いている。鬱屈を懸命に押し殺しながら生きていたが、雪麗と過ごす日々が、落ち着きや安堵、自負心といったものを熙衡に与えてくれているのだろう。
雪麗を思えば、心の中がそっと火を灯されたように、暖かくなる。
典部の書庫から大量に借り出した書物に没頭していた熙衡は、不意に部屋に駆け込んできた近侍の言葉に、耳を疑った。
「大変です、殿下! 典部の行忠勝が、重大な不正を犯したとして、玄以鋭に捕縛されました……!」
「なっ……」
手に取りかけた茶碗を取り落とし、熙衡は絶句して腰を浮かせた。
かつて、皇太子であった父帝の教育係を務め、父の信を得て、権力の座に上り詰めた行一族。その長である行氏──行 岳栄を捕らえるなど、生半可な証拠では不可能なはずだ。
言い逃れの出来ない、決定的な証拠があったのだろうか。
あるいは……やっかみからの、冤罪。
狂おしい思いでその答えに辿り着いた熙衡は、立ち尽くす従者の少年の両肩を掴んで揺さぶった。
「馬鹿な……! 何かの間違いではないのか!? 行氏が嵌められたという可能性は……!」
「っ、残念ながら……! 帳簿の動きに不信感を抱いていた、とある官僚の記録が、決定打になったそうです……」
「行氏は何をやったんだ!」
熙衡の怒声を受けて、わずかに言い淀み、近侍の少年は目を瞑って答えた。
「錚雲への使節派遣の偽装と、その予算の横領……。並びに、各国の特使からの収賄と、彼らへの国家機密漏洩だと……」
熙衡の全身の血が、音を立てて下がった。
さすがにその罪は、父帝でも庇い切れまい。錚雲への特使派遣は、父帝肝煎りの政策だ。
何より、国家機密漏洩は致命的だった。重大な反逆罪として、行氏の極刑は免れられないだろう。
そして、彼の一族も。
(雪麗……!)
「――殿下、どこへ!?」
血相を変えて叫ぶ近侍に、熙衡は怒鳴り返した。
「父皇のところだ! 雪麗に累が及ばぬうちに、保護しなければ……!」
「なりません、殿下! ……殿下!」
近侍の制止も振り切り、熙衡は部屋を駆け出した。この時間であれば、父帝は央廷だろう。母妃の殿舎を抜け、皇族に許可された内廷道を、焦燥と共に駆け抜ける。慌てて声を掛けてくる見張りを突き飛ばしながら、熙衡はひたすらに走り続けた。
ようやく父帝の昼の居所──央廷の中心に位置する御座所に駆け込んだ頃には、熙衡の胸は灼けるような痛みを訴えていた。激しい呼吸を繰り返しながら、熙衡はしんと静まり返った御座所の外で、懸命に声を張り上げる。
「父皇! 話を聞いてください!」
「……殿下、陛下はお取り込み中なのです、お下がりください!」
「雪麗を……、雪麗を助けたいのです! 父皇! 父皇ぇーっ!」
飛び出してきた官僚たちに推し留められ、見張りの武官に羽交い締めにされながら、熙衡は絶叫する。
彼の声がようやく届いたのか、その時、主室の扉を開けて、父帝が姿を見せた。
「――何の騒ぎだ」
「父皇……!」
武官を振り切り、階の上段に立つ父帝の足元に跪く。父の顔を見上げた熙衡は、ぎくりと全身を強ばらせた。
父帝はまるで、塵芥でも見るような目で、熙衡を見下ろしていた。
勝手に震え出す歯の根を何とか抑えながら、熙衡は身を投げ出して懇願した。
「父皇、行氏の犯した罪について聞きました。……ですが、どうか雪麗だけは……! 彼女は私の、皇族の妻となる女性で、」
「熙衡よ」
冷ややかな声に名を呼ばれ、熙衡は竦み上がった。父帝は片目を眇めて、淡々と続ける。
「お前と行 雪麗の婚約は、あくまで予定だ。今のお前はたかが皇子で、彼女は罪人の娘。それ以上でも、それ以下でもない」
「そんな……!」
「熙衡」
吹き荒ぶ雪嵐のような容赦のない冷たい声に、熙衡は動きを止めた。
「立場を弁えろ」
それきり、父帝は二度と振り返らなかった。
遠ざかる足音に打ちのめされながら、熙衡は絶叫して、何度も地を叩いた。慌てた武官が彼を止めようとするが、熙衡は身を捩って叫び続ける。
大人になり切れない少年の、血を吐くような叫び声が、雪花の舞う灰色の空に吸い込まれていった。




