一.第二皇子、熙衡(きこう)
月光を弾いて輝く珊瑚と真珠の簪を、蘇 穏翊はじっと見つめていた。
礼の中枢たる、皇帝が御座す宮城。
政治の場である外廷と、皇帝の私生活の場である内廷とに挟まれた一角、央廷と呼ばれる区域に、穏翊は邸を構えることを許されていた。
本来であれば、成人した男性皇族は与えられた任地に赴く。だが、名ばかりで封地を持たない親王は、皇帝の直轄領に慎ましやかな居を構えるのが通例だ。例外は、宮中に役職を持つ皇族で、彼らは央廷に留まることを認められている。ただし、妻子や妾の帯同は許されないため、宮城のすぐ外に本宅を持つ者も多い。
穏翊は、その例外の一人だ。彼の場合は特に、父帝に典部の指揮官である采として宮城に留まることを望まれたため、あえて封地のない親王位を与えられた。
母譲りの美貌と人当たりの良さを誇る穏翊は、宮中の女官の視線を集める存在だった。けれど、本人は決して浮ついているわけではなく、父帝と皇太子である義兄を、身を粉にして支えていると評判だ。
いつも笑顔で、朗らかで、聡明な第二皇子。
しかし、その晩の彼は、常日頃の評判から真反対の、昏く淀んだ空気を全身から漂わせて、手中の簪をいつまでも見つめていた。
第二皇子・穏翊の名は、熙衡という。
皇族の男児に受け継がれる『熙』の文字に、「国の均衡を保つ人物となるように」という願いを込められ、父母に与えられた名だ。
彼が、皇太子と側妃の息子として産まれた時には、既に四つになる正妃の嫡男がいた。
産まれたばかりの第二子に期待されたのは、国の頂きに立ち、民を導くことでは決してない。皇太子の寵愛を一身に受ける母は、そのことをよく理解している、賢明な女性だった。
その後産まれた妹と共に、彼は父母の愛情を存分に注がれて育った。本来はもっと外で駆け回りたかったが、母が望むのならばと、幼い頃から四書の学習に勤しんだ。祖父が呆気なく崩御し、父が第五代皇帝となったあとも、皇子となった彼は勉学に励んだ。
母は彼を、自慢の息子だといつも褒めてくれた。
熙衡はその言葉を誇らく聞いていたが、同時に、母の内心の本音にも気付いていた。
傑物であってほしいが、皇太子となった義兄を脅かす存在にはなってほしくない。
母のそんな気持ちは、痛いほどに理解していた。
(本当は、もっと外で遊びたい。これほどに必死に学んでも、皇太子になれないのなら、僕は何のために努力しているんだろう……)
自身の存在意義に悩みながらも、後宮の微妙な均衡を保つため、わずか八歳の少年は精一杯に配慮を尽くした。
内心の葛藤を抱えたまま、ある日、熙衡は気晴らしのため、ふらふらと後宮内の庭園を彷徨っていた。もちろん一人ではなく、近侍を連れての気ままな散歩だ。
寂れた庭園に足を踏み入れた時、彼は、もう一人のきょうだい――義妹の姿をそこに見つけた。
「皇子様、あれは……」
驚いたように声を上げる近侍の視線につられ、熙衡も目を動かし、息を飲む。
義妹は手にした書籍を、目を輝かせて読み込んでいた。小さなその手が持つのは、英玄試に臨む大人たちのための四書の原本だ。今彼が修了しようとしている、子ども向けに要約されたものではない。
頁をめくる彼女は、ひどく楽しげな表情を浮かべている。
衝撃に、熙衡は奥歯を噛み締めた。
(人の気も知らないで……ヘラヘラと……!)
煮えたぎるような怒りが、腹の底から湧き上がる。
遊びたいという欲も封印し、読みたくもない書に向き合う熙衡を馬鹿にするように、義妹の昭瑶は書籍に視線を落としている。見せつけるように、彼が理解することも出来なかった難解な書物にだ。
(何なんだよ、こいつ……!)
どす黒く渦巻く感情は、消え去ることなく彼の中に残り、それ以来、熙衡は義妹を避けるようになった。
やがて十三歳となった熙衡はその日、父帝に呼ばれて、彼の日中の居所である清寧殿を訪れていた。
この国では男女共に、十三から十五あたりの年齢で、親が適当と認めた時機に成人の儀が行われる。男児は、家族を支えて働く覚悟を固めるため。女児は、家庭を切り盛りし、子を成す準備をするために。
熙衡もそろそろ、成人の儀を上げてもおかしくない年齢だ。
その話だろうかと推測していた熙衡だが、父の告げた内容は、彼の更に予想を越えていた。
「婚約……ですか?」
目を瞬かせる熙衡に、父帝は穏やかな声で応じる。
「そうだ、まだ内定の段階だがな。……お前の冠礼の儀も、翌年の春の初めに決まった。少し早いが、お前の将来を固めるためには良いだろう。
祝言は然るべき年齢となった頃に、吉日を選び、盛大に行おう」
微笑む父帝に、熙衡も戸惑いを押し殺し頭を下げる。
「お心遣いに、感謝いたします」
如才なく礼を告げる息子に満足したように、父は一つ息を吐いた。
「相手には、余の長年の右腕であり、典部長官の行忠勝の末娘を考えている」
熙衡は驚きに目を瞠る。
行氏と言えば、父帝の教育係を務めた忠臣として、父が厚遇している官僚だ。その彼を、官僚としては比較的新しい家系である王氏の息子の舅にするという。
それはつまり、皇后を排出した名門・趙家に、王家を並び立たせるという意思表示ではないのか。
その婚約の意味を、息子なりに理解したことを感じ取ったのか、父帝は目を細めて頷いた。
「娘を溺愛する行忠勝は、『娘を世界一幸せにしてくれる者でないと、嫁にやらん』と豪語していてな。余の後宮や、皇太子の側妃では不満のようだ。あいつが認めるまでは、この婚約話な内密にと申してきおった。
……三日後、お前の母の殿舎で、顔合わせの機会を設ける。きちんと交流を深めるように」
「ありがとうございます」
しばらく他愛ない会話に興じ、やがて息子に退出を許可した父帝に再び頭を下げ、熙衡は父の殿舎を後にした。




