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消えない、消えない。

作者: イチジク

十七歳の夏、俺は人を殺した。

 正確には、殺そうとして殺したわけじゃない。ただ、笑っただけだ。

 教室の四階の窓際、弱そうな女子が俯いていた。長い髪で、肩が細く、制服の袖は少し長すぎた。

 誰かが言った。「飛び降りろよ」

 笑い声が広がる。俺も...笑った。

 「来世は今みたいな惨めな思いしないんじゃね?」

 口にした瞬間、周囲の空気が止まったのを覚えている。

 彼女は顔を上げた。何も言わなかった。

 窓から見える青空が、やけに澄んでいた。

 翌朝、ニュースになった。

 校舎裏のアスファルトの上で、白いワイシャツが風に揺れていた。

 そのとき初めて、笑いがどういう音だったのかを思い出した。乾いていて、何も意味を持たない、ただの空気の震え。

 それなのに、その音が彼女を追い詰めた。

 俺たちは皆、同じ空気を吐いていたくせに、誰も罪を名乗らない。

 十年後。

 俺は別の名前で働いている。事務所の白い蛍光灯の下で、キーボードを叩く日々。

 昼休み、スマホのニュースで「母校で慰霊碑建立」と見出しを見た。胸がざわつく。指先が冷えた。

 記事にはこうあった。

 “遺族の希望で、加害者名の刻銘は見送られた。”

 俺のことだ。俺が...。

 誰も知らないはずの俺の罪が、文字の陰で生きていた。

 夜、帰宅して部屋の灯りを消す。

 窓の外に、校舎が見える気がする。幻みたいに、あの四階の窓だけが浮かんでいる。

 風がカーテンを揺らすたびに、彼女の長い髪が思い出の中で動いた。

 俺は今でも、笑い方がわからない。

 笑うたびに、喉がきしむ。喉の奥に、小さな骨のかけらが刺さっているような痛みがある。

 酒を飲めば少しまぎれるが、酔いが覚めると胸が苦しくなる。

 罪は、体温の一部になっていた。

 ある日、母校を見に行った。

 新しい校舎。白い壁。窓の位置も変わっていた。

 それでも、俺は探してしまった。彼女が立っていたあの窓を。

 立入禁止のロープをくぐり、雑草の生えた裏庭に立つ。

 慰霊碑の前で、風が止まった。

 花が一輪、枯れかけていた。

 俺は何も言えず、ただ立ち尽くした。

 あの時、俺たちの笑いは世界の終わりよりも軽かった。

 けれど、その軽さの中に、人を壊す力があった。

 人間の言葉なんて、いつだってそうだ。

 口から出る瞬間は無重力で、落ちるときだけ重い。

 慰霊碑の影の中で、俺は小さく呟いた。

 「ごめん」

 それは誰に届くでもない言葉だった。

 ただ、口にしなければ息ができなかった。

 過去は消えない。

 どれほど日々を積み上げても、罪の形は変わらない。

 むしろ年月がそれを磨き、輪郭をはっきりさせていく。

自然の力で石が研磨されるが如く。

 夕陽が落ちる。

 影が長く伸びて、慰霊碑の端を撫でた。

 その瞬間、風が吹いた。

 砂が舞い上がり、目を閉じた。

 瞼の裏で、あの青空がよみがえる。

 彼女の声は、もう聞こえない。

 けれど、沈黙の奥で、確かに何かが言っていた。

 ——まだ終わっていない。

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