第45話・ライラ
――ジョーカーは親の顔を知らない。
穂乃花がタラちゃんと呼んだ13歳の少年、タラールの記憶の中には親という存在がなかった。物心がついた頃、彼の周りにいたのは同年代の子供達だけで、故に親の顔はもとより、産まれた日も場所も……彼の記憶の中には存在していない。
♢
幼いタラールの目に映ったのは、砂埃舞う道路に並ぶバラックと粗末なテント、そして自分達が住む立派な建物。壁にはヒビが入って所々崩れ、割れた窓ガラスは木の板で蓋をしているという、最上級の平屋建てだった。
その立派な建物が病院と呼ばれ、自分達が孤児だと知るのは、さらに数年が経過して知恵と知識を身につけてからになる。……そしてその一帯が、世間的に“難民キャンプ”と呼ばれる場所だと知ったのもその頃だった。
タラールの断片的な記憶から察するに、病院に常駐している医者は国際的な医療機関から派遣された医師団らしい。そしてその中に、孤児たちから『お母さん』と呼ばれる産婦人科医の女性がいた。
彼女は、親を亡くした孤児を引き取っては読み書きを教え、子供達へ“親としての愛情”を一心に注いでいた。それは子供心にもしっかりと伝わり、タラール達は素直に、そして純粋に成長していく。
もちろんそれは彼女一人が全てを負担していたわけではない。他の医師や、バラックに住む人々の協力があってこそだった。皆、生活が苦しいながらも『子供にだけは健康でいて欲しい』と、一心に願ってくれていた。
タラール達子供にとっては、そんな優しい大人がいる難民キャンプが世界の全てだった。国から見放され貧しく肩を寄せ合って生きていたが、それでもその地域に住む人々は皆、心が豊かだった。
タラールはすくすくと育ち9歳になっていた。もらった誕生日は8月8日。出生がわからない彼に、お母さんが決めてくれた記念日だ。彼女の祖国では縁起の良い数字という理由らしい。
そんなある日、その難民キャンプに政府関係者と名乗る人が現れた。紺のスーツに貼り付けた笑みの、決して善人に感じられない男だったと言う。
まだその頃のタラールには話の内容までは解らなかった。しかし、断片的に覚えている単語がある。
――『勧告』そして『立ち退き』
その日を境に、医師団の顔から笑顔が消えた。タラールは『何かあるのかな?』と思いはしたものの、その時はそれ以上の出来事に心を奪われてウキウキしていた。
病院のすぐ近くに住むお姉さん。顔を合わせるといつも甘いお菓子をくれる、子供達の人気者のお姉さん。そのお姉さんが、タラール達の住む部屋の隣に入院してきたのだった。
『どこかいたいの?』
言葉を覚えたばかりの末の妹ライラが、心配そうにお姉さんを見上げながら聞いた。両親を病気で亡くし、つい半年前に来たばかりだ。ボロボロになったシーツで作ったぬいぐるみ人形を、いつも大事そうに抱きかかえている活発な5歳の妹。拾われて来た時一番最初に声をかけたタラールに懐き、今では本当の兄妹の様だと近所で評判だった。
『大丈夫よ。どこも痛くないから』
『じゃあ、どうしてにゅーいんしているの?』
『ライラにね、弟か妹が出来るのよ』
そう言ってお姉さんは大きくなったお腹を見せてきた。くりくりとした目を大きく開いて喜ぶライラ。初めて見る“それ”にはタラールのみならず、その場にいた子供達は皆興味津々だったと言う。
『ここに赤ちゃんのがいるの?』
『そうよ。タラールは物知りね』
お姉さんはタラールの手を取ると、そっと自分のお腹に手を触れさせた。
『――あっ』
『わかった?』
『うん、動いた!』
『え〜おにいちゃんズルい〜。わたちもさわる〜』
タラールが妹を抱き上げてベッドに腰かけさせると、お姉さんはライラの髪の毛を指ですきながら、優しく、子供達全員に語り掛けた。
『あなた達みたいに、素直でかわいい子に育って欲しいわ』
……その時の優しい笑顔は、今でもタラールの脳裏に焼き付いているそうだ。
数日の後、朝早くからリズミカルな音が聞こえてきた。初めて聞く音ではあったが、同時に聞こえてきた悲鳴に『この音は良くないモノだ』と認識していた。
直後、今度は地面を揺らす大きな音が聞こえてくる。あまりの振動に建物が揺れ、驚き外に飛び出る子供達。そこに見えたのは、夕陽と見間違うばかりの赤い空と、天に立ち昇る、幾本もの黒い煙だった。
『逃げろ!』
『戦争が始まった!』
と、誰かが口々に叫ぶ。医師達は手分けをして、入院患者を連れ出していた。とにかく戦火の届かない場所へと逃げるように指示し、子供達もそれに従った。しかし、しばらく走ったところでタラールは気が付く。
――ライラがいない。
踵を返し、慌てて道を戻り走るタラール。大人たちの止める声も聞かずに、銃撃の音が聞こえる方へと向かっていた。逃げ惑う人の流れをかき分けながら逆行し、ライラを必死で探すタラール。
もし子供がこんな濁流の中で転倒なんてしたら、蹴り飛ばされ踏みつけられて死ぬ可能性がある。もちろん、当時9歳の子供がそんな明確な考察を持ってたとは思わない。しかし圧倒的な質量で押し寄せる人の波を目の当たりにし、彼は本能的に危険を感じていたのだろう。
そしてその本能は、ライラが流れに飲まれていないかという危惧に繋がっていた。尋常じゃない胸騒ぎが体中を掻きむしる。大人をかき分けながら、道路脇や地面に注視して走る。気持ちだけが焦り、転がっているボロ布や背負い袋が妹に見えて心臓が跳ね上がった。
――その時。
『おにいちゃん!』
悲鳴と怒号、そして銃声が響き渡る中で聞こえて来た小さな声。微かな叫びが聞こえてきた方向に顔を向けると、ライラが建物の窓から顔を出していた。いつからか呼吸を忘れていたタラールは、『ふうっ』と大きなため息をひとつついて周りを見渡した。……そこはいつもの見慣れた場所。気が付けば病院の前までもどってきていた。
『タラール、早くこっちへ』
お母さんの声が聞こえ病院に飛び込むと、妹のいる部屋へと急いだ。聞こえてくる爆発音は、少し前よりも音が大きいのがわかる。
『――ライラ!』
そこにはお母さんとライラ、そして、汗を流しながら苦しそうなお姉さんがいた。
『砲撃の音で、急に産気づいてしまったみたいなの』
(注)補足説明として。
国際医療機関が人道支援として難民キャンプに入った時に廃墟同然の建物を病院として活用し、同時に孤児を預かる場所として使っているという背景。この部分は、当時まだ幼いタラールが理解していない事から、彼の話として表現できない為補足として記載しています。
その辺りの住人は皆バラックやテント暮らしが普通の為、病院がボロボロな建物であっても、相対的に“最上級”とタラールは感じていた。
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