第36話・あるわけがない
オレは織田女史にタオルを手渡して、洗面所に連れて行った。流石にあの場で泣き崩れたのを放っておくわけにいかなかったからだ。零士・ベルンハルトとは、少し落ち着いてからゆっくり話をすればいい。
……と、その時はそう思っていたのだけれど。
♢
「あ、あとな、零士」
トリスでの通信は言問さんに窓口としての力を発揮してもらっていた。言わば司会進行役だ。
零士・ベルンハルトからしてみても、馴染み深い先輩となら気兼ね無く話せるだろうから。
「ここにもう一人いるのだが」
〔もう一人?〕
「えっと、あの……あ、藤堂です。藤堂堅治」
〔え……〕
挨拶の後、お互いに無言になってしまった。彼も何を話して良いかわからないのだろう。俺がアニサキスさんに殺られなければ、今ここにいるのが彼で、向うにいるのが俺だったかもしれないのだから。
「あ、あの、本当に申し訳ないです。俺の代わりに拉致とか……」
〔いえ、気にしないでください。オレじゃなくても誰かがこうなっていたのですから〕
そう言ってくれるのは、ありがたいけど……実際は言葉通りに受け取って良いのか、皮肉が入っていて反応しない方が良いのか解らない。
「望月部長から零士さんを助ける様にと、このトリスって通信装置を預かって……」
〔——そんなことより藤堂さん〕
そんな事より? 彼は自分自身の命に関わる話を『そんな事』で流すのか? それ以上に重要な話があるとは思えないのだが、一体何を考えているのだろう。彼を救おうと、何人もの人が危ない橋を渡っている。少なくとも俺には、零士・ベルンハルトのひと言が織田女史や望月部長を軽んじる言葉に聞こえていた。
周りの人に対する感謝が出来ない奴なのかと、少しイラッとした時だ。彼の口から出たのは、俺がまったく想像すらしていなかった最悪の事態だった。
〔穂乃……あなたの妹、藤堂穂乃花さんが捕虜になっているんです〕
――なんだって?
〔オレと同じ頃に拉致された様ですが〕
「冗談になってないぞ……」
俺は軽いパニック状態になっているのを感じながらも、とにかく確認をしなければという事で頭の中がいっぱいになってかた。
「すみません、ここちょっとお願いします」
言問さんはスッと手を上げて『了解』の合図をすると、零士・ベルンハルトとの会話を続けた。
声が混ざらないようにとリビングの入口まで移動しながら、慌てて穂乃花の番号を探す。普段から、親兄弟なんて“そこにいて当たり前”くらいに思っていたから連絡なんて全然していなかった。
だから……
〔お客様のおかけになった電話番号は、電波の届かない位置か電源が入っていない為かかりません〕
こんなメッセージが家族の携帯から流れてくるなんて、思いもよらなかった。それでも信じきれない、いや、信じたくなかった俺は、実家にもかける事にした。大学生で一人暮らしをしているはずの妹が、たまたま実家にいる可能性なんてないに等しい。それでも『なにバカなこと言ってんの?』と悪態をつかれる事を期待してコールを続けたが……状況は、何も変わらなかった。
結局、電話に出た母親も普段から穂乃花と連絡を取ったりしている訳ではなく、当たり前と思っていた家族という日常が“実は非常に脆いものだった”と痛感させられただけだった。
「あ、あの、零士さん……」
〔大丈夫です。絶対とは言い切れないけど、全力で守りますので〕
「お願いします……こんな事、頼める義理じゃないのに」
零士・ベルンハルトは俺の妹の為に、自分の命を『そんな事』と斬り捨てていた。そんな事も考えられずに……いや、こんな事態想像出来る方がおかしいだろう。それでも、彼に対して『感謝が出来ないのか?』と思った俺は大馬鹿野郎でしかない。
〔それと、織田さんはそこにいますか?〕
「いや、今洗面所だけど。呼んでこようか?」
水が流れる音がしている、多分顔を洗っているのだろう。拉致され、生存すら解らなかった最愛の人と言葉を交わせたのだから、その感動は俺が量れるものじゃない。
〔——いえ、待ってください〕
声のトーンが急に変わる零士・ベルンハルト。それまでも浮ついたところのない落ち着いた話し方だったけど、今は緊迫感のある雰囲気が漂ってきた。
〔あの……織田女史には警戒してください〕
「織田さんにですか?」
何故急にそんな事を言い出すのだろうか? 言問さんも今のひと言で、眉間にシワを寄せて考え込んでしまっていた。
〔彼女はテロ組織のスパイです。奴らから聞き出しました〕
「まさか……騙されているんじゃないですか? 彼女ほど零士さんの事を心配している人はいませんよ」
〔あの人から渡されたお守りの中に、発信器が仕込まれていたんです。拉致する標的が判るようにと〕
嘘だろ? あの涙が演技だって事か? まさかだけど、この状況で……いや、そうでなくても織田女史がスパイだなんて事は冗談で言える事ではない。ましてや戦地に放り込まれた零士・ベルンハルトが、自分で見て確認した話なのだから。
……それでも俺は信じ切る事が出来ず、返事が出来ないでいた。
「零士、一旦切るぞ」
〔はい、気を付けて下さい〕
「ちょっと、言問さん……」
ここは、織田女史を連れてきてハッキリさせるのが先じゃないのか? そう言おうとした時にはすでに、言問さんが電源を落としていた。彼は手早くコード類を纏め、部屋の隅に転がっていた俺のボディバッグに詰め込みながら、小声で話し始めた。
「藤堂さん、逃げるんですよ」
「え……なんでです?」
「彼女がスパイなら、ここにいたら危険でしょ」
「危険って、女性一人ですよ? それにまだ織田さんがスパイって決まった訳じゃ……」
言問さんは一瞬動きがとまり、驚いたような目で俺を見ると……ため息と共に作業を続けた。
「多分今頃、顔を洗うふりをして会社に連絡入れているんですよ」
「……え?」
「わからないかなぁ? 映画とかでよくあるでしょ。秘密を知った者を消す黒服とか」
「まさか。この日本でそんな漫画みたいな事があるわけないじゃないですか」
「あるわけない事があったから、零士はあんな所に拉致されたんじゃないんですか?」
確かにその通りだ、常識が通用する状況ではなくなってきている。『あるわけがない』って、現実から目を背ける為の言葉なんだと言われた気がした。
言問さんは周りを見渡すと立ち上がり、部屋の角にあるキャビネットに手をかける。
「そっち持って」
「は、はい……」
二人でキャビネットを持ち上げ、洗面所のドアに立てかける様に倒して織田女史が出られない様にした。中から『どうしたの?』『何をしているのよ!』と聞こえて来た。言問さんは俺にボディバッグを投げ渡すと、トリスを抱えて走り出した。
「多分この部屋にはすぐにヤバい連中が来ます。もう戻れないと思って下さい」
言問さんが言う事は正論だと思う。テロ組織とつながりがある会社の事だ。何らかの秘密を隠そうとするのなら、零士と繋がった俺達を野放しにしておく事は危険なのだから。
「藤堂さん、どうしたのですか? 藤堂さん……」
開かないドアを必死で叩きながら叫ぶ織田女史の声が遠くなっていく。彼女がスパイで仲間を呼んでいるとしたら、ここに留まるのが危険なのはわかる。
だけど、ここまでする必要があるのか? 俺は優柔不断なのかもしれない。この期に及んでまだ……迷いの中にいた。
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