男にマスクを持たせると、高確率でこれをするんだが。
家に着いたのは14時過ぎだった。今日は娘と私にとって超がつくほどスペシャルデー。何がスペシャルなのかというと娘と私がはまっている推しのインスタライブが20時からあるのだ。
私たちがはまっているのは〝Geek〟というアイドルグループ。メンバーは3人いる。風馬、耕太、惇希。全員20歳になったばかり。そんなGeekのウリは全員が実は陰キャだということ。みんないろんな方面でオタクとして有名なのだ。
そもそもGeekという言葉もオタク(外交的な)という意味なのだ。ちなみに風馬は車、耕太は電車、惇希はアニメに関して天才並みの知識を持っている。イケメンが自分の好きなことをSNSを通じて生き生きと発信しているのは微笑ましくて応援したくなる。
そして彼らの投稿を見ては少し車や電車、アニメに目が向くもののもともと興味がある訳ではないから「ふーん」くらいで終わってしまう。それでも一時でも彼らが大切にしている世界に関われたことを嬉しく思う。
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今日はパートを午前中だけにしてもらった。私は普段、週5近所のスーパーでパートをしている。娘が小学校に慣れて一人で留守番ができるようになってから始めた仕事だ。もうすぐ3年になる。こうして稼いだお金は家計の足しにするのが6割。残りはGeekのライブやグッズ、イベントに費やしている。
46歳のおばさんがともすると自分の子どもでもおかしくない年齢の男性に「きゃーきゃー」騒いでいるのは気持ち悪い気もするけれど、あくまで娘が好きだから一緒に楽しんでいます! というスタンスを貫いている。何なのだろう。このプライドは。
娘のはんなは小学5年生。彼女がGeekにハマったのは1年前。毎日のように彼らの魅力を語られて私もハマったという訳だ。はんなは見た目も性格も親の遺伝をしっかり受け継ぎ地味な子だ。Geekにはまるまでは漫画をこよなく愛し自分でも描く子だった。しかし、残念ながら親の贔屓目で見ても上手いとはいえないレベルだった。もし「将来の夢は漫画家!」と言われたら相当頭を悩ませただろう。
Geekにはまってから、はんなは漫画に注いでいた情熱の9割をGeekに向けるようになった。今でも月刊誌の漫画を買っているし暇さえあればスマホで漫画を読み漁っている。しかし、漫画への出費を少しでも抑えてGeekのグッズやらイベントやらに回したいようだった。
そもそも、はんながGeekを好きになったのはメンバーがオタクだという点だった。オタクでもキラキラ輝いている人がいるということが、はんなの心をとらえたらしかった。
はんなの友達も大人しい子ばかりだ。はんなとその友達はこれから中学、高校と進んでいくに連れて陽キャのクラスメイトが教室の真ん中で「きゃっきゃっ」と騒いでいる中、クラスの端でボソボソと話す集団になりそうだ。だけど、Geekのおかげではんなは少し明るくなったし、Geekファンには陽キャの人もたくさんいる。Geekを通じて、はんなの青春が少しでも明るくなることを祈っている。
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「ただいま」と玄関から声がしてまもなくはんながリビングに顔を出した。時刻は16時。
「あと4時間かぁ」
そう言ってランドセルをソファーに下ろす。
「今日は7時半までに宿題も晩御飯もお風呂も済ませるよ!」
私がそう言うとはんなは「もちろん!」と笑顔を見せた。いつもなら帰宅後、漫画やSNSを見始め宿題をなかなかしないのに今日は手洗いうがいを済ませると「宿題してくる」と自室に行った。
Geekの力はすごい。こんなにスムーズに宿題をしてくれるなら毎日でもインスタライブをしてほしい。
その後、予定通りはんなと私は19時半に全てを終え、Geekのインスタライブに備えて飲み物や特別に少しだけお菓子も用意した。
旦那の食事はテーブルにラップして置いているし、今夜はGeekに時間を捧げるから家事はしません! と宣言している。私一人がGeekにハマっていたら旦那も文句を言うだろうけれど、可愛い一人娘のはんなが好きなものは旦那は何だって許してしまう。(はんなに彼氏ができた時は別だと思うが。)だから私も心おきなく推し活ができる。はんなに感謝だ。
いよいよ20時。
いよいよインスタライブが始まった。
「こんばんはー」と挨拶する彼らがいるのは音楽スタジオのような場所だった。はんなはすかさず「わー」と言って画面に向かって手を振っている。3人は本当にイケメンだ。彼らの親はどれほどの美男美女なのか。私たちは〝こんばんは☆親娘で観てます!〟と早速コメントを送った。
次々送られてくるであろうコメント。その中から拾ってもらえるのは奇跡に等しい。それでもリアルタイムで彼らと会話(一方的に)している気分になるから不思議だ。
途中で旦那が帰ってきたけれど、はんなと二人スマホの画面を見たまま「おかえりー」とだけ言った。この光景はたまにあるので旦那も慣れたものだ。着替えを済ませると食卓に用意した夕飯を食べ始めた。すぐそばで普段の生活をする旦那がいるにも関わらず、はんなと私はGeekの世界にのめり込んでいる。
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「では、ここでみなさんに参加してもらおっか」
リーダーである惇希が言うと「例の企画ね」「や、企画なんて大したものじゃないよ」と風馬と耕太が言葉を添える。
「参加って何するんだろ」
「何? 何? 楽しみ!」
はんなと顔を見合わせ笑い合う。
「みなさん。世間ではインフルエンザが流行してきているらしいですが、大丈夫ですか? 感染予防にはマスク。というわけで3人の中で誰がマスクの似合うイケメンかコメントお待ちしています!」
惇希がそう言うと3人はそろってマスクを取り出した。コロナが大流行していた時はみんながマスクをしていてマスク姿が当たり前だった。少しずつ日常が戻ってきてマスクが任意になりマスクをする人も一定数まで減った。
そういえばGeekのマスク姿って見たことがないような気がする。マスクをするとまた一味違ったイケメン3人になるだろう。
3人はマスクをつけた、と思いきや真ん中にいる耕太はマスクで目を隠し笑いをとっている。それを見たはんなと私も大笑いする。耕太はこういうお茶目なところが魅力なのだ。
「給食の時、男子も耕太と同じことやってるけど、耕太がやるとどうしてこんなにかっこいい、おもしろい! って思うんだろ? 男子だったらバカじゃない⁈ って思うのに」
はんなが言う。
「それは耕太だからだよ。耕太がかっこよくておもしろいからだよ。普通の人が同じことしても価値ないよ」
私が言うとはんなは「そうだね」と相槌を打った。
「はい! みんなマスクつけました! 誰がタイプですかー?」
風馬が視聴者に問いかける。
「ねぇ、ママは誰? 私はやっぱ風馬かなぁ。でも、みんなかっこいい」
「ママは惇希かなぁ。でも、耕太もいいなぁ」
マスクをつけた3人は少し雰囲気が変わってやっぱりイケメンだった。私たちは〝3人ともかっこよすぎて決めれません!〟とコメントした。みんな同じようなコメントを送っているようで、結果としては〝3人ともイケメン〟ということになった。楽しく夢のような時間はあっという間で「じゃあみなさん体調気をつけてくださいねー! 今年は全国ツアーもあるのでライブにぜひきてください!」と惇希が言い耕太と風馬が「お待ちしていまーす」と言葉を重ね3人が手を振ってインスタライブは終了した。
「はぁーカッコよかったぁ」はんなは頰を紅潮させている。「興奮して寝られない」と言いつつはんなは「おやすみ」と言って自室へ引き上げた。興奮して寝られないのは私も同じかもしれない。
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翌朝。
昨夜はやっぱり眠りが浅かった気がする。Geekが夢に出てきてくれるならいいけれど、特にいい夢を見たわけではなく、途切れ途切れにどうでもいい内容の夢を見た。パートでミスしないように気をつけないとと思いながらキッチンに立つ。
大したものは作らないけれど我が家は全員がきちんと朝食を食べる。これはいい習慣だ。スクランブルエッグを作っていると旦那がのっそり姿を見せた。のっそりというのが相応しい体型だ。動物で例えるなら熊。かわいい熊ではない。
お互いさまだから文句は言えないけれど旦那は結婚当初に比べて20キロ以上は膨張している。私もその半分は確実に膨張している。もうこれは人体の不思議でしかない。人類の多くが加齢とともに膨張する。
ダイニングに座った旦那の前にとりあえずトーストとコーヒーを出すとあくびを噛み殺しながら「いただきます」と言って食べ始めた。別皿にスクランブルエッグとドレッシングをかけたレタスだけのサラダを盛り付け旦那に渡す。
旦那が出勤するのは7時前。はんなはぎりぎりまで寝ているので、朝、旦那と顔を合わせることがない。旦那は黙々と朝食を平らげ身支度をし玄関へ向かった。靴を履き終えた旦那が「あっ」と思い出したように言う。
「マスクある? 会社でインフルの人が出てさ。かかりたくないからマスクしてくわ」
そう言われて私はリビングから買い置きしているマスクを1枚とってきて旦那に渡した。「ありがと」と言ってマスクを耳にかける旦那。次の瞬間。
マスクで目を隠す。
沈黙3秒。
ウケなかったとわかったのか旦那はマスクを正しい位置につけバツが悪そうにする訳でもなく恥ずかしがる訳でもなく何事もなかったかのように「いってくる」と言ってドアを開け出て行った。
さっきの3秒は何だったのだろう。
たしか数時間前にイケメンが同じことをしていた時はウケたのに。可愛いとさえ思ったのに。そして、昨晩はんなが言っていたことを思い出した。
「給食の時、男子も耕太と同じことやってるけど、耕太がやるとどうしてこんなにかっこいい、おもしろい! って思うんだろ? 男子だったらバカじゃない⁈ って思うのに」
私は今、旦那に対してはんなが男子に抱く気持ちと同じ気持ちを抱いている。そして子どもであろうがイケメンであろうが中年男性であろうが、男という生き物はマスクを手にしたら目を隠すという行動が遺伝子レベルで組み込まれている可能性が高いのだと悟る。
「はぁ」とため息をつく。はんなが見ていなくてよかった。父親が耕太と同じことをするなんて思ってもみないだろう。思春期ゆえもしかすると、さっきの光景を見ていたら父親へのとんでもない反抗期に突入したかもしれない。ややこしいことにならなくてよかった。そろそろはんなを起こさないと。私ははんなの部屋の前で声をかける。
「はんな! そろそろ起きなさい!」
読んでいただき、ありがとうございました。