三、消えた家族
三、消えた家族
逗子が、“靄島空襲”の事について、語り始めた。
逗子は、継母の言い付けで、片道四時間の道のりを、豆腐の買い出しに行かされていた。しかし、それは、継母の謀略で、口減らしの為の口実でしかなかった。実の父は、代々続く米問屋の真米の跡取りで、実母は、逗子を産んだ後、産後の肥立ちが悪く、数日後に亡くなっており、女中の継母が、後妻として嫁いで来たとの事だ。そして、実父と継母の間に、一つ下の嫡男が誕生し、逗子は、跡取りの座を追われる事となった。そして、小学校へ入学すると同時に、豆腐の使いをやらされる事となるのだった。なので、朝食は食べられず、学校も午後からの登校で、勉強も碌に出来ない始末。なので、授業の内容は、さっぱりだった。あの空襲の日も、豆腐屋までの道のりは、同じだった。しかし、豆腐屋に着いた途端、突風により、よろけてしまった。
「逗子ちゃん、大丈夫かい?」と、細身の豆腐屋の女店主が、気遣った。
「ええ。何とか…」と、逗子は、誤魔化すように、作り笑いをした。あまり表情を面に出したくないからだ。
「こんな時期に、春一番みたいな風が吹くなんて…」と、女店主が、眉をひそめた。
「ですね」と、逗子は、相槌を打った。合わせておいた方が無難だからだ。
「いつものやつだったわね」と、女店主が、踵を返した。程無くして、「やだ! さっきの突風で、砂埃が入っちゃっているわ!」と、語気を荒らげた。間もなく、戻って来るなり、「逗子ちゃん、ごめんねぇ。さっきの突風で、豆腐が、全部、台無しになっちゃった…」と、両手を合わせながら、詫びた。
「はあ…」と、逗子は、生返事をした。豆腐が、買えない事は、よく有る事だからだ。
「靄島の街に、入道雲だなんて、珍しいわね。それに、さっきの風と言い…」と、女店主が、眉間に皺を寄せた。
逗子も、徐に、振り返った。その直後、街の上空に覆い被さって居る奇妙な積乱雲を視認した。
「ありゃあ、土砂降りかも知れないねぇ」と、女店主が、見解を述べた。
「ええ」と、逗子も、頷いた。雲の色からして、かなりの雨量かと予測が付くからだ。
女店主が、戸口の黒い蝙蝠傘を右手に持つなり、「逗子ちゃん、傘を持ってお行き」と、差し出した。
「多分、通り雨みたいなものだろうから、いいわ」と、逗子は、断った。荷物になるだけだからだ。
逗子は、一礼するなり、踵を返した。そして、早足で、帰路に就いた。降りだす前に、少しでも、距離を稼いでおきたいからだ。しかし、天候が崩れる気配が無かった。勢いそのままに、無休憩で、靄島市街の中央を流れる“茶番川”の郊外まで戻った。そして、土手へ上がるなり、立ち尽くした。眼前の川面を埋め尽くすように、夥しい数ボロ切れを纏った肉の塊が漂って居るからだ。その直後、市街を見やった。疎らだか、複数の半裸の男女が、覚束無い足取りで、歩み寄って来ているのを視認した。しばらくして、その男女の姿に、目を見張った。煤けて、血塗れとなっており、顔面が、溶けて崩壊していたからだ。その瞬間、市街へ向かって駆け出した。この場には、居られないからだ。無我夢中で、駆け抜けた。まるで、別の世界へ来たのだと思ったからだ。不意に、何かにぶつかり、揉んどり打って倒れた。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」と、男の声がして来た。
逗子は、上半身を起こして、見上げた。その刹那、言葉を失った。顔の右半分が、白骨化して居たからだ。そして、立ち上がるなり、市街へ向かって、疾走した。一刻も早く家へ帰り着きたかったからだ。しばらくして、雨に打たれたところで、我に返った。その瞬間、立ち止まるなり、周囲を見回した。その直後、家屋が、郊外へ向かって倒壊しているのを視認した。その途端、はっと息を呑んだ。豆腐屋の手前で吹いた風の仕業だと察したからだ。程無くして、近所の見慣れた家屋の変わり果てた佇まいだと気が付いた。その刹那、咄嗟に、実家の方を見やった。次の瞬間、愕然となった。すでに、焼け落ちて消し炭と化していたからだ。その直後、慌てて駆け寄った。実家はまだ在るかも知れないと思ったからだ。間も無く、数歩手前で立ち止まった。やはり、実家だったからだ。しかし、涙は流れなかった。これで、豆腐のお遣いをしなくて済むからだ。
そこへ、「逗子ちゃんじゃないかい?」と、背後から若い女性の声がした。
逗子は、徐に、振り返った。ようやく、知り合いの声を聞けたからだ。次の瞬間、目を見張った。眼前には、見覚えの無い山姥のようなぼさぼさ髪で、顔中血塗れの若い女性が、立って居たからだ。そして、「だ、誰ですか?」と、声を震わせたながら、尋ねた。皆目、見当が付かないからだ。
「摩耶絵よ」と、若い女性が、返答した。
「えっ!」と、逗子は、信じられない面持ちで、息を呑んだ。眼前に居る女性が、摩耶絵だとは信じ難いからだ。
「その様子じゃあ、私も、かなり酷い格好みたいね」と、摩耶絵が、察した。
逗子は、すんなり頷いた。その通りだからだ。そして、「いったい、何が起きたの?」と、質問した。理解出来ないからだ。
「私にも…分からない…わ…」と、摩耶絵も、力無く答えた。そして、「突然、突風に吹き飛ばされて、火の手を迂回しながら、さっき、戻って来たばかりなのよ…。そしたら、逗子ちゃんを見掛けたので、声を掛けたのよ」と、経緯を語った。
「そうなんだぁ〜。私は…」と、逗子も、ここまでの経緯を話始めた。
しばらくして、「豆腐のお遣いのお陰で、怪我が無いのね…」と、摩耶絵が、納得した。そして、「お遣いが無かったら、逗子ちゃんも、どうなって居たか…」と、言葉を続けた。
「うん…」と、逗子は、素直に頷いた。命拾いしたのは、事実だからだ。そして、「摩耶絵お姉ちゃん、国民学校へ行って、手当てして貰おう」と、提言した。怪我の状態が、気になるからだ。
「そうね…」と、摩耶絵が、聞き入れた。
「靄島南国民小学校へ行こう」と、逗子は、口にした。通いなれているので、確実に辿り着ける自信が有るからだ。
「そうね…。ここから近いし、私も、あまり歩けそうもないからね…」と、摩耶絵も、同意した。
間も無く、二人は、後にした。
「なるほど。まだ、南側は、入れたんだねぇ」と、美根我は、口にした。自分は、火の手の激しい北側からだったので、入られなかったからだ。そして、「摩耶絵さんは、どうなされたのですか?」と、問うた。
「摩耶絵お姉ちゃんは、薬不足で、治療をして貰えないまま、眠るように…」と、逗子が、言葉を詰まらせた。
「そうですか…」と、美根我は、理解を示した。これ以上、聞くのは、野暮だからだ。そして、「鳥居が、見えて来ましたよ!」と、にこやかに、告げた。これ以上、暗い話題は、無しだからだ。
「うん!」と、逗子も、力強く応じた。
少しして、二人は、黄色い鳥居を潜り抜けて、参道へ進入するのだった。