ザラの意思
(あぁーーーー、まずったなぁ)
広い生徒会室の中、妙に狭苦しい思いをしながら、わたしは深々とため息と吐く。
あの日から殿下は、これまで以上にわたしに絡んでくるようになった。
生徒会室内だけならまだしも、校舎でも、令嬢たちに囲まれていても、どこでもここでも声を掛けてくる。おまけに、ストーカーでもされてるんじゃないかってぐらいに粘着質だし神出鬼没。これじゃ気が休まる暇がない。鬱陶しいっていうか、正直言って困る。
『ザラ!』
普段とは違う、キラキラした笑顔で笑いかけてくる殿下を見ると、身体中がゾワゾワとむず痒い。おまけに彼との結婚を狙う貴族の令嬢方の般若みたいな表情が、前世の嫌~~な記憶を呼び起こした。
『生徒会室以外で声を掛けないで下さいとお願いしましたよね、わたし』
わたしの頭を撫でようとする殿下から距離を取りつつ、小さな声で抗議する。令嬢方の刺すような視線が痛い。早くこの場から立ち去りたくて、わたしは目を吊り上げた。
『悪いな、自分の気持ちに正直に動いたらこうなった』
なのに、殿下はそんなことを口にしつつ、耳元で笑うのだから腹立たしい。
これまで殿下は、自分から女性に声を掛けることが殆どなかった。それこそが、貴族の令嬢方が『自分にもまだ可能性はある』と思える心の拠り所だったらしい。
だから、わたしみたいな貴族ですらないただの魔女が、殿下に声を掛けられることを快く思う人間なんて一人もいなかった。
そりゃぁ周りは皆、わたしが生徒会に属していることを知っている。それが、殿下がわたしに声を掛ける唯一の理由なんだって。
けれど、それでも女性は嫉妬をする生き物らしい。憎悪の念を感じる度、寒気がした。
(ダメだ……このままじゃ前世の二の舞だ)
過去、後宮内で他の妃たちに向けられた嫉妬は、今の比ではない。
だけど、嫉妬なんて醜い感情、向けられずに過ごした方が断然幸せだ。世の中には、羨望の眼差しを快感に思う人もいるらしいけど、少なくともわたしは違う。
(殿下のクソ野郎。わたしが平凡に暮らしたいって知ってる癖に)
心の中で、とても人には聞かせられない悪態を吐きまくる。
とはいえ、本当に迷惑極まりないので、黙って我慢を続けるわけにもいかない。
エルヴィス殿下には、もう一度、わたしの望みを正しく理解してもらう必要がある。
そう思っているのだけど。
「セクハラは止めてください。訴えますよ」
「――――そんなことしたら、ザラの方が不敬扱いされるぞ」
放課後の生徒会室。
側近たちが不在なのを良いことに、殿下は今日もわたしの隣に腰掛け、頬っぺたや耳たぶを指先でそっと撫でている。まるで宝物を愛でるかのような手つき。何だか癪で、わたしは殿下の手を押しのけた。
「今も昔も、王族って言うのは何しても許されるんですねぇ」
盛大なため息を漏らしつつ、わたしはそんなことを口にする。
実際、わたしの前世は皇族に振り回されたようなものだ。皇弟に嫁いだはずのわたしが、ある日皇帝に見初められたことが、全てのキッカケで。
一妃が皇帝の求めを退けるはずはない。逆らえば容赦なく首が飛ぶし、その被害は親類にも及ぶ。だからわたしは自分をただの無機物だと思いこんだ。何も考えないよう、意思を殺し、流れに身を任せた。
けれど、そのことが夫の――――皇弟の怒りを呼んだ。妃を横取りされた上、わたし自身が皇帝を選んだように見えたらしい。それが彼のプライドを酷く傷つけたのだと、気づいた時にはもう遅かった。
元々皇帝に不満を持っていた官僚たちが皇弟を焚きつけ、戦争が起こった。止めようと手を尽くしたこと全てが裏目に出てしまい、わたしは絶望した。
あんな想いはもう二度としたくない。そっと胸を押さえつつ、わたしは静かに目を伏せた。
「ザラは嫌なの? 俺に触られるの」
気づけば、殿下の顔が極間近に迫っていた。心臓が高鳴るのに気づかない振りをしながら、わたしはそっと目を逸らす。殿下がどんな表情をしているのか、見たくなかった。
「触られるのが嫌っていうより、殿下と関わること自体が嫌です。殿下の存在は、平凡とは対極に位置してますから」
そう口にしつつ、わたしはギュッと胸を押さえる。冷たいようだけど、それこそが紛れもないわたしの本心だ。
(何が悲しくて、自分から幸せを遠ざけなきゃならないのよ)
そんなことを考えていたら、唇のすぐ横、頬っぺたに柔らかい何かが押し当てられた。触れたところが熱く熱を帯び、チュッて小さなリップ音がして、ダイレクトに心臓に響く。
「――――人の話、聞いてました?」
尋ねながら、わたしは眉間に皺を寄せる。気を抜くと表情が緩んでしまいそうで、唇にグッと力を込めた。
「聞いてた。でも、断る」
殿下はわたしの顎を掴んで顔を固定すると、真っ直ぐわたしの瞳を覗き込んだ。今度こそ、殿下がどんな表情をしているのか見ざるを得ない。
「――――そんな顔、しないでください」
思わずそう呟いてしまう。
欲の見える瞳は嫌いだ。それが巻き起こし得る何かを、わたしは知っているから。わたしを破滅へと導くことを、知っているから。心が大きく揺れ動く。わたしは静かに目を伏せた。
「おまえが俺に言ったんだろう? 自分を偽るなって」
殿下はわたしのことを抱き締めながら、そんなことを口にする。ギュッて心臓が軋む音がして、息が苦しい。
「それは……」
確かにわたしは殿下に対して『自分を偽るな』とそう言った。だけどそれは、わたしに対して自分を偽るなってことじゃない。
そもそもわたしは殿下の本性を知っているのだし、彼が自分を出すべき場所は、もっと他に存在する。
「人肌が恋しいなら、殿下にはいくらでも分け与えてくれる御令嬢がいますよーー。少しぐらい羽目を外しても、『殿下も男だったんだなぁ』ぐらいの噂で済みますって。何もわたしに対してそういう気を起こさなくても――――」
「別に人肌が恋しいわけじゃない。おまえだって分かってるだろう?」
腕に力を込めながら、殿下はそんなことを言う。
「……分かりませんよ、そんなこと。わたしには分からないんです」
答えながら胸の辺りがジクジクと熱くなる。
分からないなんて、本当は嘘。
口調とか、態度とか、色々と裏の多い殿下だけど、根は誠実な人間だ。仕事ぶりは至って真面目だし、色々と無茶ぶりも多いけど、何だかんだで側近やわたしのことを労わってくれる。
あれだけ女の子たちに言い寄られたら、一人や二人、お気に入りの子と遊んでいたって良いと思うのに、そうはしない。
そんな殿下がわたしに何を求めているのか、分からない程馬鹿じゃない。
だけど、わたしにだって譲れないものがある。
「嘘吐くな! おまえだって、少しぐらいは俺のこと――――」
「わたしは……わたしはもう二度と、あんな想いをしたくないんです! わたしのせいで人が死んで、わたしのせいで土地が、自然が、色んなものが踏み荒らされて! ごめんなさい、ごめんなさいって! 何度叫んでも誰にも届かなくて! 火炙りになったところで誰も許してくれなくて! 全部わたしのせいで――――」
「ザラは何も悪くない」
殿下の言葉にわたしは思わず顔を上げる。彼の青い瞳は淀みなく澄んでいて、心が大きく揺さぶられた。
「悪いのはおまえじゃなくて、おまえを幸せにできなかったバカ男共だろ?」
殿下はそう言って、いつの間にか零れ落ちたわたしの涙をそっと拭った。涙で曇ってしまったわたしの眼鏡を外しながら、殿下は眉間に皺を寄せる。
「おまえは確かに、国が荒れるキッカケを作ったのかもしれない。避けられなかったのか……そう考えてしまう気持ちも分かる。
だけど、悪いのは全部おまえじゃない。おまえの声を聞かなかった、おまえを守ろうとしなかった皇族だ。おまえを利用して戦を仕掛けた官僚どもだ。
生まれ変わってまで背負うようなこと、おまえは何もしていないだろう?」
「…………っ!」
殿下の物言いはどこかぶっきら棒だけど、真っ直ぐで嘘が無い。ささくれだった心が満たされていく。
きっとわたしは誰かに『悪いのはおまえじゃない』って、ずっと言って欲しかったんだと思う。
だけど、誰もわたしの気持ちなんて分かってくれなくて。どう思っているのか聞いてすらくれなくて。
どうしたら良かったんだろう。どうしたら他の人を不幸にせず済んだんだろう。どうしたら――――わたしは幸せになれたんだろう。そんな風に考えて、いつも苦しかった。
「うん」
気づいたらわたしは頷いていた。ずっと溜まっていたものが涙に形を変えて、ポロポロと止め処なく流れ落ちる。
殿下の胸に顔を埋めながら、わたしは目を瞑った。ジャケットに染みができちゃうな、とか色々と思うことはあったけど、どうしてもそうしたくて。
少しだけ、ほんの少しだけだけど、自分らしく生きてみたいって、そんな欲が芽生えていくのを感じながら、わたしは殿下に縋りついた。