歪んだメビウスの輪
家が燃えた。
黒く落ちた焼け跡には、真っ白な世界が待っていた。
「なら私の所で住み込みで働くかい?」
小さい頃からよく家族で行っていた喫茶店のマスターが、ポンと少女を受けいれた。
火事で住むところだけではなく、家族までもを失ったその顔に、そっと慈愛の目が向けられたのだ。
高校を卒業したら──そんな夢など初めから無かったかのように、少女は働いた。
悲しみを押し隠して微笑むその姿に、事情を知る者達から同情の雨が注がれてゆく。
看板娘として、直ぐに話が広まるのも無理はなかった。
部活もせずに働く少女を、クラスメイトがからかいイジメに発展した時期もあった。
しかし、マスターはまるで実の親のように学校へと向かい、校長との話し合いの末にイジメを収束させた。
少女はその時泣いてマスターに感謝を述べたのだった。
自分が憩いの場として過ごした喫茶店。
しかし少女が大人になる頃に、少女はまた一つ悲しみを背負ってしまう事となった。
火事で亡くした父親に、実は多額の借金があったのだ。
連帯保証人はマスター。
取り立ての場面に出くわした彼女は、呆然と言葉を失った。
「不景気で払えなくなろうが知ったことか!」
手をポケットにいれたまま、椅子を蹴飛ばす男。
マスターはただただ頭を下げ続けた。
男が諦めて帰ると、マスターは彼女に優しく笑顔を向けた。
「マスター……! 私のせいで……!!」
「君が気に病む必要はない」
年々体が弱くなってゆくマスターを心配して、彼女は何としても店を守らねばと、神経をすり減らして働き続けた。
趣味らしい趣味も持たず、彼氏も作らず、彼女はひたすらに喫茶店を盛り上げるだけに尽力した。
給料の殆どを父親の借金に充て、彼女は日々ひもじさを募らせる。
それでも彼女は幸せであった。
自分を拾ってくれたマスターに恩返しが出来るのであれば──。
必死の努力が実を結び、喫茶店は徐々に繁盛へと向かった。
父親が残した多額の借金があと僅かになると、彼女はぽかんと心に穴が開いたような気持ちになった。
借金を返したらどうしよう。
そんな事を思い始めたのだった。
今まで店で男に声を掛けられた事は幾多もあったが、遊びに行くなんてことは一度も無く、ただひたすらに働いた彼女。
「今度ランチでもどうかな? 美味しいパスタのお店が出来たんだけど、行こうよ」
彼女はカウンターの中で少し考え、小さく頷いた。
「アメリカン、おまちどうさま」
「ああ、やっぱりマスターのコーヒーは美味しいね」
約束の日、男は待ち合わせの場所に現れなかった。
「おかえり。早かったね」
「ううん、やっぱりいいの」
少し寂しそうにこたえた彼女に、マスターはコーヒーを差し出した。
「ありがとうマスター」
カップに口を付け、味わうように小さく傾ける。
そして無言で微笑んだ。
「……ごめん、少し疲れたみたい。寝てても良いかな?」
「ああ、ゆっくりお休み」
覚束ない足取りで階段を登る彼女の背中は、どこか儚く、亡くなる前にマスターが撮った写真の母親にそっくりであった。