獄
執事がテーブルの上に山のように積み重ねた結婚の申し込み書へと一瞥をくわえ、シェラフィリアは正面に座る両親に無言のまま視線を向けた。
父であるラドグリス侯爵は先程から熱心に、薄い紙を何枚も束ねた書類に目を通している。
その表情がたやすく読み取れることはないが、おそらくは書類に記された事象がラドグリス家にもたらすメリットとデメリットを素早く計算しているのだろう。
どうしても添い遂げたい殿方がいる。
シェラフィリアが両親にそうはっきりと断言したのは十日前のことだ。
そして「ミハエル・アインザック」の名だけを頼りに、彼に関するあらゆることがこうして調べ上げられるまでに至った。
ミハエルが婿養子としてラドグリス家に入ることはすでに確定したようなものだ。
貴族社会における体面を重要視するのであれば、一部の貴族が彼の家が伯爵位に名を連ねている事態に未だ根強く反発していることは大きなマイナスである。
だが元は地方の一商人に過ぎなかったアインザック家を潤し、最終的には確固たる地位までもたらした権利の数々が非常に魅力的であることには何ら変わりがない。だからこそ商人風情の身に余ると詭弁を揮う貴族も少なくはないのだ。
そして生半可な貴族なら足を取られるであろうアインザック家にまつわる外聞も、ラドグリス家であれば沈黙させられる力があった。
何より、シェラフィリアが結婚するなら彼が良いと名指ししたのだ。それが聞き入れられないわけがない。
だが執事のエバンスが右手を上げ、発言の許可を侯爵に求める。
「旦那様、このエバンス、差し出がましいことを申し上げますがよろしいでしょうか」
「この場で必要なことであるなら言ってみるが良い」
侯爵の承諾を得たもののエバンスは表情を若干曇らせ、しかし与えられた時間を無駄にはするまいとシェラフィリアに向き直った。
「旦那様も調書をご覧になられていらっしゃるように、ミハエル・アインザック様にはすでに心を通わせ合うご令嬢が……」
「いるから何だと言うの?」
エバンスの言葉を鋭く遮り、シェラフィリアは首を傾げた。
テーブルの上のティーカップを手に取ると優雅な仕草で息を吹きかける。
「まだ婚約関係すら結んではいないのでしょう? お付き合いしている令嬢がいる、それに何の問題があるの? 結婚は恋人ではない異性とするなんて、珍しくもなんともないことじゃない」
しかしエバンスはなおも引き下がらなかった。
「他のご令嬢に心を寄せるご令息を伴侶に迎えたとして、苦しく悲しい思いをなさるのは他ならぬシェラフィリアお嬢様でございましょう。名門ラドグリス家となれば、たとえ政略結婚であるとしても相応の――」
「もういいわ、お黙りなさい」
シェラフィリアはその美しい顔を歪ませた。
機嫌を損ねたと一目で見て取れる。これが夜会などの表向きの場であれば周囲の人間がすかさずご機嫌取りに走る状況だったが、ラドグリス侯爵も侯爵夫人も口を挟まなかった。
娘と執事のどちらにも肩入れせず、あくまでも中立的に様子を見ている。
「エバンス。それはつまり、わたくしが愛されることのない惨めな花嫁になると言いたいのね?」
「決してそのようなことを申し上げたいわけではございません」
「それならどういうつもりなのかしら」
この場の最年少でありながらも怒れる女王の追及の手は緩まない。
エバンスも言い訳は一切交えずに淡々と思うまま告げた。
「このエバンス、シェラフィリアお嬢様が誰よりも幸せになることを望んでいるだけなのです。いかに些細な懸念すら、お嬢様を煩わせる可能性があるのなら見過ごすわけにまいりません」
「物は言い様だこと」
シェラフィリアはつまらなさそうに薄く笑い、父親より年の離れた従順な執事の顔をねめつけた。
「けれどわたくしは同じことを何度も言わされるのは大嫌いよ。わたくしが彼と結婚したいと言っているの。ならばあなたは何をするべきか、分かっているわよね? 分からないなんて言わせないわ」
話はこれで終わりだとばかりにカップをテーブルに戻す。
彼女が産まれる前よりラドグリス家に仕えているのだ。エバンスとてシェラフィリアを説得出来ると思っていたわけではない。
しかしそれでも、説得を打ち切られた諦念を隠すこともなく頷いてみせた。
三度目に会う彼の面には、過去二回の時のような優しげな笑みは浮かんでなどいなかった。
両親と共にラドグリス家の客間へ通されたミハエルの表情は冷気すら感じるほどに硬い。
他に人目があるから、これでも多少抑えてはいるのだろう。
だが抑えるつもりは本当にあるのか、取り繕う気配がまるでないその面から読み取れるのは、シェラフィリアに対する強い怒りと侮蔑の色だった。
「ミハエル様、そんな怖いお顔をなさらないで」
「ねえ?」と同意を求めるかのように、シェラフィリアの視線はミハエル本人をすり抜けて彼の左右に座るアインザック伯爵夫妻へと交互に向けられた。
これまで何度も大きな取引を結んで来た豪胆な商人でもあるアインザック伯爵だが、王都でも指折りの大貴族ラドグリス家の雰囲気に圧倒されてしまったのか。どんな重要な取引の場であろうと見せることのなかった緊張感を滲ませていた。
父親から「余計なことは言ってくれるな」との、無言の圧力を感じていないわけではないだろう。にも拘わらずミハエルは臆する様子も見せず、格上の侯爵を前にしても作り物と分かる笑顔を浮かべた。
シェラフィリアがそうであったように、ミハエルの第一印象はおそらく皆が「優しくて誠実そうな青年」に違いない。そんな彼のイメージを払拭するには十分すぎる、二面性を感じさせる表情だった。
もっとも、ミハエルの本来の性格がどんなものであるのか、少なくともシェラフィリアには知りようもない。
初めて会った時と今この場でのどちらが彼の本性なのだとしても、いずれかの仮面を被った姿をシェラフィリアに見せている。そしてあくまでもこの男が欺こうとするのなら、その仮面を引き剥がしたいと思った。
ミハエルと親しげにしていた、見るからに庇護欲をそそる令嬢――名はリザレット・カルネリスというらしい――は、ミハエルのことをどこまで知っているのか。
一度見かけたきりだが、良くも悪くも純粋培養されていそうなあの令嬢をミハエルはずいぶん大切にしているようだった。
彼らの関係や、互いに抱き合っている感情の正体はシェラフィリアにはどうでも良く、興味もない。彼女の存在は目障りなものである。ただそれだけだ。
おそらくミハエルは、他人の悪意に晒されたことなどなさそうな雰囲気を纏う彼女には優しげな顔だけで接していたに違いない。
そしてもし、シェラフィリアの行動がミハエルに仮面を被せるに至ったのであれば、硬質なそれさえも彼女にはとても甘美な砂糖細工に見えた。
「失礼。ささやかで平凡ながらも確かな幸せを得る生涯を送るだろうと思っていたのが、あなたのような地位もある美しい女性を伴侶に迎えられるという、身に余りある所業を前に緊張しているのです」
「お上手ですこと」
“ささやかで平凡ながらも確かな幸せ”とは間違いなく、リザレット・カルネリスとの間に築くはずだった家庭のことを指しているのだろう。
だがそれは得られなかった。シェラフィリアがこうして横やりを入れたからだ。
ミハエルが言葉の裏に隠した鋭い刃をたやすく躱し、シェラフィリアははにかむような笑顔を見せた。
それでミハエルが表情を和らげるはずもない。
逆により一層忌々しげに目を細めた。
ことの顛末はこうだ。
ラドグリス家はアインザック家の持つ販路の一つに圧力をかけ、流通を差し押さえた。
アインザック家の商売において重要な役目を担う販路ではなかったが、問題は販路の規模ではない。
名門ラドグリス家が、アインザック家に圧力をかけた。
その事実があかるみになればどうなるか。結果は火を見るよりあきらかである。
これまで静観していたラドグリス家がいよいよ出過ぎた杭に制裁をくわえたとされ、アインザック家を善しとはしない一部の貴族たちが、こぞってラドグリス家の威を借りて妨害に乗り出すだろう。
事態が表沙汰になる前に、アインザック家は何としても販路の自由を取り戻さなければならない。だが彼我の力の差は、比較するまでもなく歴然だった。
さしものアインザック伯爵でも、ラドグリス家の狙いが分からずにいた。
商売仇になることは避けられなくても、敵対すると厄介な事態になる貴族の縄張りは出来る限り荒らさないよう、最善の注意を払ってはいるのだ。何がラドグリス家の機嫌を損ねてしまったのか皆目見当もつかない。
具体的な対抗手段も得られぬまま、アインザック家が扱う販路の流通が滞りがちになっていると徐々に噂が広まって行く。すると周囲の関心は必然的に滞る原因へと向けられた。
他の販路への飛び火を防ぎ、ダメージを最小限で抑える為には機能を失いつつある販路を切り捨てる以外にはなかった。
分かってはいても実行に移すのは躊躇われた。今回はそれで切り抜けられたとして今後同じことがあった時にどうすると言うのか。いずれ真綿で首を締めるように、じわじわと販路を縮小するしか道はなくなってしまう。
ラドグリス家の仕業だという確たる証拠は何も掴めてはいない。直に取引を持ちかけるにもいかんせん分が悪すぎる。
そんな矢先に、ラドグリス家から文書が届いた。
四男のミハエルを婿養子として迎えたいと。
ミハエルを名指しで指名した、それだけで全てに納得が行った。ラドグリス家の令嬢にミハエルが見初められたことが理由だったのだ。
そして同時に、娘の望む結婚相手を得るという目的の為だけにここまでする、ここまでしてもラドグリス家の懐は何ら痛まないことにアインザック伯爵は恐れ戦いた。
しかし逆に言えば、それだけの後ろ盾を手中に出来るということでもある。
アインザック家にしたら、これほど好条件な取引は滅多にあるものではない。
跡継ぎでもない四男のミハエルを結婚させる、そんな簡単な手段でラドグリス家ときわめて友好的な親族関係が築けるのだ。
たとえ流通経路に突如かけられた圧力がラドグリス家の仕業と見え透いていようと、ミハエルが幼馴染みの令嬢と恋仲になっていると知っていても、乗らない理由はなかった。
販路の一つを抑えられ、実家の危機を救うべく必死に奔走する青年と、その懸命な姿に心を打たれた大貴族の令嬢にロマンスが芽生え、激しい熱情のまま結婚する。
もちろんそれは、不可解な婚姻へ疑念を持つであろう周囲を黙らせる為に塗り固められた嘘だ。
「正直に申し上げればわたくしは”ささやかで平凡な幸せ”というものは理解できませんけれど、でもミハエル様と幸せな家庭を築きたいと願ってはいますのよ」
「――それは意外ですね」
どこまでも冷ややかなミハエルの目は、しかしすでにシェラフィリアを映してはいなかった。
そうして形だけは夫婦の体を成してはじまった生活は、あの日ミハエルから向けられた視線そのままにひどく冷え切っていた。
たとえ結婚式で永遠の愛と忠誠を互いに誓い合ったところで、そこに一欠片の真実すら伴っていないのだ。当然と言えば当然なのだろう。
周囲から幸せそうだと羨望の目で見られれば、笑みを浮かべて幸せと答える。
実際、薄皮一枚のみを取り繕った夫婦は幸せに見えていた。
夫婦同伴で人前に出れば、ミハエルは誰もが羨むほどに完璧な、見た目通りに優しく誠実な夫を演じる。不仲であることを隠しもしないと思っていたシェラフィリアはミハエルの真意を掴みかねたが、何であれ結婚生活が続くのだ。文句が出るはずもなかった。
兄がいるからシェラフィリアがラドグリス家の跡継ぎを産む必要はない。だが子供自体は欲しかった。
子供が出来れば離縁を切り出しにくくなる。
ミハエルはそう考えているのか難色を示したが、結婚して五年目に娘が産まれた。
ティエラディアナと名付けられた娘の誕生により、きっと夫婦らしく、家族らしくなる。
ことミハエルが絡むと判断が鈍るシェラフィリアだけが、そう思った。
見てくれだけの家庭に、はっきりと亀裂が入ったのは二十回目の結婚記念日を間近に控えたある日のことだ。
ミハエルに愛人が出来た。
その事実はシェラフィリアを混乱に陥らせる。
何故。
ミハエルが愛しているのはリザレット・カルネリスだけではなかったのか。
それが何故シェラフィリアと結婚して二十年近く経ってから、彼女に似ているでもない舞台女優を愛人にしたのか。
ぽっと出の舞台女優ですら得られる愛を、何故シェラフィリアは得られないのか。
考えるだけでも気が狂いそうだった。
いやおそらく、嫉妬のあまりまともな判断は出来なくなっていたのだろう。
舞台女優が所属する劇団に、する必要など全くない援助をして見返りに彼女を追いやった。
最も美しく輝く、文字通りの舞台を壊してやったのだ。羽をもがれ、奈落の底に突き落とされた蝶は光の当たらぬ場所で弱々しく朽ちて行くしかない。
これでミハエルも目を覚ます。
シェラフィリアはそう信じて疑わなかったが、その結果、ミハエルの心はますます彼女に傾倒した。
最悪の方向に転がった事態を眺め、裏切られた痛みだけではなく、もっと逼迫した痛みが心臓に襲い掛かって来たのもこの頃だ。
もう自分の命の炎がすでに消えかかろうとしているのだと悟る。
散々、好きなように振る舞わせてもらったのだ。明日燃え尽きたとして悔いはない。
だがそんなシェラフィリアでもたった一つ心残りがあった。
一人娘であるティエラディアナに、何もしてやれなかった。
シェラフィリアが人生で唯一愛した男との間に生まれた娘なのだ。そんなティエラディアナが可愛くないわけがない。愛しくないわけがない。
けれどシェラフィリアは結局、最後まで母親という存在にはなれそうもなかったし、なれはしないのだろう。
母親になるにはシェラフィリアの精神はあまりにも未成熟で歪すぎた。そしてそれはおそらく、ミハエルも同じだったに違いない。
親とは子に初めて愛を与え、教えるものだとシェラフィリアだって知っている。
知ってはいるが、親がどうやって子に愛を与え、教えるのか。その方法は知らなかった。シェラフィリアにとって、親と子のそれに限った話ではなく愛とは与えられるだけのものだったからだ。
今にして思えば立派な親である必要もなかったとは思う。だがシェラフィリアにとって親とは立派な存在だった。
こんな自分に愛情を注いでくれたのだ。親になって初めて、当たり前のように与えられていた数々のものがどれだけ親の愛で満たされていたか気づく。
でも気がついた時にはもう、ティエラディアナも親に甘えることのない大人になってしまっていた。
ティエラディアナに親らしいことなど何もしてやれない代わりに、せめてあの子は真っ当な恋愛をして、幸せな家庭を築いて欲しいと願っていた。
何もしてやれなくても、母親だからなのだろうか。あるいは、シェラフィリアもまた女だからなのかもしれない。
ティエラディアナが恋を覚えたことを直感的に知った。
あの子も気がつけばもう十七歳だ。
性格はどちらかと言えばミハエルに似たのか、社交界に出ることより家で読書することを好む控え目な少女だったが、娘の成長はシェラフィリアにも喜ばしかった。
年頃になった娘が恋をする相手はどんな男性なのか。シェラフィリアは秘密裏に探偵を雇った。ティエラディアナとの仲が深まれば、いずれラドグリス家に婿入りするのだ。その身辺調査は遅かれ早かれすることになる。
探偵の置いて行った数枚の調査書に目を通す限り、家柄的にも本人の人柄的にも何ら問題は見受けられない。だがシェラフィリアは調査書を引き裂きたい衝動を必死で堪えた。
調査書を持つ手が怒りで震える。ほっそりとした指先は、蝋人形のそれのように色を失くしていた。
ジークハルト・フェルドラータ。
シェラフィリアの血を分けた以上、どうあっても因果からは逃れられないのか。
ティエラディアナの相手が、よりにもよってあのリザレットの息子だと知り、目の前が真っ暗になった。
欲しいものは全て手に入れて来た。
目障りなものは全て排除して来た。
けれど、あの男だけは手に入らない。
あの女だけは排除しきれない。
馬車の事故で亡くなったとエバンスから知らされた時、ようやく目の前からいなくなったのだと思った。
古い友人を失ったと何食わぬ顔で葬儀に参列し、あの女の両親から射殺さんばかりにねめつけられ、自分は確かに彼女からミハエルを奪ったのだと昏い愉悦に浸りさえした。
もう二十年以上前の話だ。今頃何の用かと余裕を持って対応したら良かったのだ。けれどリザレットの両親にとってシェラフィリアの強引な略奪劇は、つい昨日のことのように未だ忘れ得ぬものらしい。
その事実が、空っぽにも等しいシェラフィリアの心をわずかばかり満たす。
ああ、それよりもティエラディアナだ。
今はまだ何も知らないから良い。だがいつか、隠された真実を必ずや知るだろう。ティエラディアナは傷つくに違いなかった。リザレットの息子が、シェラフィリアやミハエルに復讐する為にティエラディアナに近づいた可能性だって十二分にある。
親らしいことをしてやれるたった一度の機会だと思った。
決してあの男に深入りしてはいけないと、親心からティエラディアナを諭す。
だが、どうしていけないのか。肝心な理由を何一つ打ち明けられないシェラフィリアの語る言葉に、初めての恋を諦めさせられるほどの強い説得力があるはずもない。
普段から良い母親として接していたのなら、説得することは出来たのか。
シェラフィリアは女として母として、リザレット・カルネリスに完全に敗北した。