恋
王都でも屈指の名門侯爵家に生まれたシェラフィリアは、何不自由なく育てられて来ていた。
両親は結婚して早々に跡継ぎとなる男児に恵まれたが、しかし女児も欲しいという母の願いはなかなか叶えられなかった。それでも母は諦めきれず、結婚十一年目にしてようやく授かった女児がシェラフィリアだ。
念願の女児、さらには生まれつき心臓が弱いとあれば大事にされないわけがなかった。
心臓を患っていることを知っているのは両親と十歳離れた兄以外では、身の回りの世話をしてくれるごく一部の使用人だけであったが、彼らは皆がシェラフィリアに甘く、我儘もほとんど聞き入れられた。
幼い頃は体力もなく、長時間の外出も満足には出来なかった。それでも十四歳になり兄に連れられて正式に社交界へのデビューを果たせば、シェラフィリアはたちまち大勢の注目を集めた。
かのラドグリス家の深窓の令嬢であり、今でこそ妻子のいる身だが、かつてはその貴公子然とした容貌と物腰とで数々の令嬢を虜にした令息の妹君ともなれば至極当然の成り行きだろう。そこにくわえてシェラフィリア自身の美しく優雅で堂々とした立ち振る舞いは、社交界での羨望を一身に集めるに十分相応しい存在だった。
夜会に出れば令息たちは競い合うように我先にとダンスのパートナーに誘い、踊り終われば令嬢たちがシェラフィリアの纏うドレスや使っている化粧品の話を聞きたがる。シェラフィリアの周りには常に人が集まり、その中心に君臨するまでにさほどの時間は擁しなかった。
シェラフィリアはまさに人々を引き寄せる、美しい大輪の花だ。
必然的にシェラフィリアの元には連日のように夜会の招待状が届いていた。もちろん、招待されたところでその全てに顔を出すことは出来ない。
出席する夜会はシェラフィリアの気まぐれで決められたが、時には家同士の繋がりを深める為に出席しなければいけないこともあった。往々にしてその手の夜会は退屈なものであり、シェラフィリアも気乗りはしない。
メイディア伯爵邸で開かれた夜会も、そんな取るに足りない何の面白味もない夜会――そのはず、だった。
メイディア家は政略結婚を繰り返し、徐々に力を蓄えて来た家だ。爵位こそ伯爵ではあるが誇れるものと言ったら、その古さばかりで権力を失いつつある下手な高位貴族より、よほど栄華を極めている。
もちろん今はまだラドグリス家を脅かすほどではなく、先方も盾突くつもりは毛頭ないらしい。
だが親交は深めたいとの名目でシェラフィリアに夜会の招待状が送られた。
基本的に政略的な場に駆り出されることは好きではない。だからシェラフィリアも最初は渋ったが結局、父と兄に言いくるめられた。
そして案の定と言うべきか、シェラフィリアにとって何ら魅力も感じられない夜会は退屈なだけの時間だった。
シェラフィリアが少し風に当たって来ると言えば、下心を見せた令息たちがこぞって供をすると言い出した。今は鬱陶しいだけの申し出をやんわりと微笑で断り、どこまでが本心なのか口々に残念がる彼らには目もくれずに場を後にする。
もう二度と顔は見せないと思いながら、喧噪とはほど遠いテラスに足を運んだ。
一人になった方が良いなんて、社交界に出てから初めてだった。
このまま何も言わず帰ってしまおうか。
顔見せはしたし何人かの令息とダンスも踊った。令嬢とも他愛のないお喋りもした。シェラフィリアがこの夜会で果たすべきことは、もう済ませたと言ってもいいだろう。
めずらしく沈みがちな気持ちが影響したわけでもないのだろうが、ブレスレットの鎖が壊れていることに気がついた。
今日の為に用意したブレスレットだったが、特別思い入れがあるでもない。しかし夜会はつまらないうえにブレスレットは壊れてしまうとは、何て最悪な一日だろうか。思わぬ屈辱を受け、つい目頭も潤んで来る。
外したまま持ち歩くなどという選択肢は最初から欠落しているシェラフィリアが、その場に捨てようとした時だ。
「美しいお嬢さん、どうかしましたか」
ふいに横から声をかけられた。
さっきまで自分もいた場に限らず、社交界では見た覚えのない顔だ。明るい茶色の髪を軽く後ろに撫でつけ、同じ色をした目が心配そうにシェラフィリアを見ている。穏やかな声音は人が良さそうな性格を窺わせた。
だが、その素朴で誠実そうな様は人付き合いの派手なシェラフィリアの周囲に寄りつかないタイプであったし、いくら姿形が整ってはいても周囲にいないのであれば彼女の視界には入らない。様々な打算を含んで覚えている貴族子息の面々の中に、同じ顔をした青年の記憶は全くなかった。
「……お気に入りのブレスレットの鎖が切れてしまって」
当たり前のように、お気に入りでも何でもないものをお気に入りだと嘘をつく。
シェラフィリアがほんの少し感情をのぞかせて頼るだけで、誰もが彼女の前に傅いた。シェラフィリアの力になれることを誇りに思い、持てる能力を最大限に奮って、まるで女王に仕える忠実な騎士のように期待に応えようとする。
彼らの行動にも裏の意図があることくらいシェラフィリアも分かっていた。ラドグリス家の後ろ盾、あるいはシェラフィリア自身を求めていることを隠しもしない。
頼ってみせるのも応えてみせるのも純粋な好意からではないのはお互い様だ。だからシェラフィリアは一切の遠慮をすることもなく利用していた。
そんな彼らに見返りを与えたことはただの一度もなかった。父に口添えをしたり、ましてや一夜限りの相手をしたりするなどもっての外だ。
お高く止まった女だと悪評が立つならそれでも良い。むしろ安っぽい女だと見られることの方がよほど屈辱的である。
だが、そんな強気な態度が功を奏したのか。十八になり少女から女性へと成熟しはじめた頃には、シェラフィリアは社交界で「可憐な白百合」と絶賛される存在になった。
シェラフィリアに本当に心酔してそう呼ぶ子息もいたし、決して誰にも手折られはしない孤高の存在として扱うことで自らのプライドを保つ子息もいた。
そして白百合に「毒婦」の暗喩を込める子息がいることも、シェラフィリアは知っている。
けれど、誰一人としてそれをシェラフィリアの耳に直接入るよう、表立って堂々と言うことはできやしないのだ。思うことがあれど結局はラドグリス家を恐れ、陰口を叩くしか能がない矮小な人間など最もどうでもいい存在だった。
この青年は果たしてどちらのタイプなのだろう。
どちらにしろ、どうせすぐに忘れてしまうことには変わりはないのだが。
「それは困ったね。少し見せてもらってもいいかな」
「よろしいのですか?」
わざと遠慮してみせると青年は柔らかな笑みを向けた。
「僕に直せるとも限らないけれど、それでもよければ」
「とんでもありませんわ。ご迷惑でなければお願い致します」
なおも困り切った表情のまま、シェラフィリアは抑えていたブレスレットを遠慮がちに外した。上に向けられた青年の掌にブレスレットをそっと落とし、縋るような目を向ける。
シェラフィリアに頼られれば誰しもが鼻の下を伸ばしたり頬を緩ませ、喜んで彼女の意のままに動いた。だが目の前の青年はシェラフィリアの甘えるように潤んだ瞳に気づく素振りすら見せない。生真面目な性格なのかブレスレットを直すことに集中しているようだった。
じっと顔を見ているのも癪に障る。かと言ってそっぽを向くのは頼みごとをしている手前、さすがのシェラフィリアも気が引けた。
少し考えた末に、眺めていても当たり障りのなさそうな手元に視線を落とす。
男性にしては繊細そうな指だ。何か楽器を弾く様が似合いそうな気がする。
そんな指先であっても、やはり細い鎖を繋ぎ直すのは容易な作業ではないようだ。真剣な面持ちで眉間にしわを寄せ、何度も挑戦を繰り返している。
シェラフィリアは人知れず小さな息を吐いた。そろそろ無理そうだと突き返される頃だろうか。
本当はお気に入りでも何でもない。青年が諦めたところで責めるつもりもなかった。
何よりも自分の為にしてくれていることとは言え、待たされることは大嫌いだ。普段のシェラフィリアなら、それが純粋な好意による行動だとしても相手の誠意なんて慮ろうとさえもしない。五分と経たないうちにもういいと自ら切り上げさせているだろう。
けれど、何故か――。
「直せたみたいだ」
しばらくして青年がブレスレットを差し出した。見れば確かに、二本に分かれてしまっていた金色の鎖が一本のそれに戻っている。
「まあ! ありがとうございます」
シェラフィリアの顔が自然と綻んだ。
ほんの数分前まではどうでも良かったはずのものが、ずっと大切にしていたもののように思えた。いつもと違い打算を忘れたシェラフィリアの年相応な笑顔に応えるように、青年も柔らかな笑みを浮かべている。
「でも応急処置に過ぎないから、明日にでもしっかりした職人に見てもらった方がいいと思う」
「ええ、そうしますわ」
受け取ったブレスレットを手首にはめ、シェラフィリアは青年を窺った。
笑顔の裏で彼女の脳は冷静に計算をはじめる。
人の良さそうなこの青年は見返りとして何を要求して来るのだろうか。
金銭か。
ラドグリス家との繋がりか。
それとも――シェラフィリアそのものか。
一度だってそれらに応えようと思ったことはなかったのに初めて、青年には要求の度合いによっては応えてもいいと思った。
だが、シェラフィリアの予想は裏切られる。
「じゃあ僕はこれで失礼するよ」
「えっ」
立ち去ろうとする青年に、思わずシェラフィリアの唇から淑女らしくない間の抜けた声がこぼれた。その声を聞き咎め、青年は不思議そうな顔でシェラフィリアを見つめる。
「まだ僕に何か用事が?」
「何かって……」
今度はシェラフィリアが不思議そうな顔で青年を見つめ返す番だった。
常に毅然とした態度の彼女にしては非常にめずらしく、次の言葉を言い淀む。
「それだけですの?」
「それだけ?」
青年はどうやら本当にシェラフィリアが戸惑う意味が分からないらしい。思い返せば、彼はそもそもシェラフィリアのことすらも知らなかったのだ。社交界における彼女を取り巻く状況を知らずとも何らおかしくはない。
だがシェラフィリアは面白くなかった。
ややあって、女性の口からそれを言わせるのかと半ば憤りながらも口を開く。
「ですから、わたくしの実家の権力や、あるいは……このわたくし自身を要求しないのかと言いたいのよ」
自分がまさか、こんなことを言うなんて思ってもみなかった。
屈辱と怒りのまま睨みつけたいのをプライドで抑え込み、驚いた表情を浮かべる青年を見つめる。
――ああ、しまった。
シェラフィリアから切り出すということは、要求を聞く心づもりがあると言っているに等しいではないか。
わざわざ不利な立場に自分を追い込んでしまった。
初歩的な駆け引きさえ忘れるほど思考を乱されていたことが腹立たしい。
「直したお礼をちゃんと言ってもらったのに?」
青年はシェラフィリアとは対照的に困ったように右手で頭を掻く。
それから何をどう言うべきか、視線を彷徨わせて迷っている様子を見せながらも、言葉だけはちゃんと選んで告げた。
「ああ、その……貴族間の礼儀や作法とか、良く知らなくて申し訳ない。でも僕としてはすでにお礼をもらったから、これ以上を望むことなんてないよ」
シェラフィリアは青年に直してもらったブレスレットのはまる右手首を、そっと押さえた。
彼女を死の間際まで縛りつける、狂おしいまでの思慕の鎖に心が捉えられたと気がつかぬままに。
その後、夜会であの青年を見かけることはなかった。
何しろシェラフィリアが社交界にデビューしたこの四年の間に、顔を合わせた記憶がただの一度もないのだ。それを多少気にかけるようになったところで再会できるほど、世の中狭くはなかった。
無意識の内に探してしまっている自分に嫌悪と戸惑いを感じながらも、シェラフィリアはいるかどうかも分からないたった一つの姿を自然と追いかけている。
そんな日々を三か月も過ごす頃、そもそもの交友範囲が違うのではないかと思いはじめた。
あの夜会だって両親に言われて仕方なしに出席した夜会だ。普段のシェラフィリアなら招待主の名を見ただけで捨て置いている。
試しにシェラフィリアと交友のない相手から招待された夜会へ行ってみれば、友人と言える程度には親しくしている令嬢が一人いただけだった。
夜会自体も、贅を尽くしたそれに慣れ切ったシェラフィリアの基準だが、良く言えば慎ましい、悪く言えば質素なものだ。
それでも当然と言うべきかシェラフィリアは人目を惹き、夜会の間は絶えず令息や令嬢に囲まれた。
だがシェラフィリアが求めるものはそんなものではなかった。
自らへの称賛なら人前に出ればいつでも得られる。
今欲しいものは――。
本来なら気乗りしないであろう人物に招待された夜会に出るのは、三回目の今回でもう終わりにしよう。
不確かな要素に縋ることに疲れた、そんな夜会でのことだ。
あの青年が夜会に姿を見せた。
「ねえ、あの殿方がどなたかご存知?」
どこでシェラフィリアの予定を仕入れて来るのか。
頻繁に夜会で顔を合わせ、その度に取り巻き気取りでくっついて来る伯爵令嬢にさりげなさを装って尋ねる。
シェラフィリアに話しかけられ、嬉々としてその視線を追った令嬢は青年を見ると眉をひそめさせた。
「アインザック伯爵家の方ですわ。確か四男の――お名前はミハエル様だったかしら」
「そうなの」
「伯爵家と言っても元は商人の成金上がりですし、名門貴族ラドグリス家のご令嬢であるシェラフィリア様がお気にかけるようなお相手ではないかと」
商人上がりの成金。
そこに明確な嫌悪を込めていることを令嬢は隠さなかった。
アインザック家についてはシェラフィリアとて多少の噂は耳にしている。鉱山絡みで莫大な利益を得て、社交界へ進出する足掛かりに没落しかけていた伯爵家の令嬢を娶ることで爵位を得た家だ。
それはもう何代も前の話だが、金の力のみで爵位を得た家に貴族たちからの風当たりが強いというのは、時代を問わず良くあることだ。
そしてほとんどの場合、そういった家を目の敵にするのは格式だけはあるが財産は食い潰す一方の斜陽を迎えた貴族が多い。永く続いていることが唯一の取り柄と言うような家が緩やかに、けれども着実に沈みゆこうとしていることもまた、何らめずらしくない。
この伯爵令嬢の実家もそんな貴族の一つだった。
だから娘が名門侯爵家の一人娘と同年代であることさえも幸運とばかりに利用していた。シェラフィリアの機嫌を窺い、覚えを良くして取り入ろうとしている。
シェラフィリアのこれまでの振る舞いを見ていれば、見返りなど得られないと分かっているだろうにご苦労なことだ。
だが両親の言いつけを、ある意味愚かしいまでに守っているのだろう。報われる日を夢見てシェラフィリアにつき従う彼女のことは、お世辞にも気に入っているとは行かずとも嫌いではない。
そんな令嬢がシェラフィリアとミハエルの、表向きは情熱的な恋愛の末に結婚したという話を聞いた途端、掌を返して見え透いた祝いの言葉を並べ立てるのはまた別の話だ。
シェラフィリアは今日も身につけているブレスレットをそっと押さえた。
何と言って話しかけようか。
しかしシェラフィリアは自らの考えたことに目を見開く。
話しかける?
シェラフィリアの方から?
駆け引きすら出来ず、今度は自ら話しかけるという浅ましくも恥知らずな行動を取ろうとしていたことに愕然とする。
固く唇を引き結び、シェラフィリアに気づく様子も見せない青年を睨んだ。そんなシェラフィリアの横顔は取り巻きの伯爵令嬢にはきっと、自分と同じく成金上がりを好ましくないと思っているように見えるのだろう。
青年の背後から、やはり見覚えのない一人の令嬢が恥ずかしげに顔を覗かせた。
顔立ちは愛らしく整ってはいたがいかにもおとなしそうで、社交界ではまず目立つことのない地味なドレスを小柄な身体に纏っている。
ひどく親密そうに顔を寄せて笑い合う二人を見つめるシェラフィリアの心に、昏く冷ややかな炎が灯った。
いつか必ず、この手で引き裂いてやる。