河童と姪と。
『 けれども、お産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ産まれてくるかどうか、よく考えた上で返事しろ。」と大きな声で尋ねるのです。 』
(河童/芥川龍之介)
■ 1.
夏も終わりにさしかかる頃、大阪から姉と姪が帰ってきた。姪はまだ小さく、言葉もたどたどしかった。誰にでもママと呼びかけ、その度に姉から「ママはこっち」と窘められていた。今年で三歳になると云う。姉はそのことについて、何か漠然とした不安を抱いているふうではあったが、家族は誰も真面目には取り合わなかった。姪の存在は、薄暗い廃墟のようだった我が家を白々と照らした。両親も揃って似合わない道化を演じ、姪から笑顔を搾れるだけ搾り摂ろうとする腹積もりのようだった。自分達の凝り固まった精神を、それで解そうとしている。そのために、幼い子供に群がっている。僕はそんなことを考えてしまい、どうしても家族の輪に混じることが出来なかった。一歩退いた位置にいる僕を、皆不審そうに横目で見ては白々しく溜め息をついた。
「こっちに来なさい」
母にそう云われたが、僕は応じなかった。僕は家族の中でも一際頑固者だった。納得の出来ないことや、道理に合わない事柄については、少しも譲ってやろうと思わなかった。むしろ、納得も理解もせぬうちから、はいはい素直に応じる連中の方がおかしいと信じていた。場の空気、相手の機嫌、そう云ったものばかりを重視するのは、どう考えても危険なことだ。それが、たとえ家族であっても、同じであると僕は思う。しかし、家族の誰も僕の考えを良しとせず、ただ厄介な捻くれ者と云う扱いを受けていた。母は表情を変えず、初めての姪っ子が可愛くないのかしらねと棘のある速度で口走った。僕は自室に戻ろうと思った。そうして、硝子戸を開けて居間から出ようとすると、姪が声を潤ませた。今にも癇癪を起しそうな素振りを見せ、両親は慌てた。母親である姉は、慣れたもので、平然と漫画など読んでいる。僕が近付くと、姪は膨れ上がった感情をすっと飲み下し、平然とした眼差しで僕を見上げた。
「やっぱり、叔父ちゃんと遊びたいんでしょう」
母はそう云って、姪の脇に手を入れ、こちらに寄越した。挙動がぎこちなく、面白くないと考えているふうが透けて見えていた。拒否するわけにいかず、僕も両手を差し出し、姪を受け取った。熱い。人の身体とはこうも熱いものだったろうかと驚いた。熱くて、さらに滑らかで柔らかい。姪は黒い瞳をころころとさせながら、僕の目を覗き込んでいる。僕の眼球の動きから、何かを得ようとしているかのようだった。剣呑さのない睨み合いが続き、やがて、姪は唐突に「かっぱ」と叫んだ。僕は面食らい、思わず「なに?」と質していた。母が生温い目で僕を見ていた。
「河童が見たいんだって、その子」
姉が漫画からちょっとも視線を外さず、他人事のような湿度で言葉を繋いだ。河童。山々が頭を犇めき、河川が縦横に走りたくるこの地では、河童にまつわる伝承が幾つか存在した。川べりで遊んでいた子供が襲われただの、山際の沼地にて遠ざかっていく甲羅を見ただの、日本のどこにでもあり得る他愛ないものばかりであったが。
行政も観光地化を目指し、そうした伝承を元に、あちこちを由来のある地としてほとんどでっち上げた。その結果は駅前の閑散とした様子を見るに芳しくないようである。
「かっぱ」
姪はまた同じ言葉をくり返した。それから、かっぱ、かっぱ、と何度も叫んではケタケタと笑った。漫画に埋もれるようにした姉の肩に、緊張の色が匂う。
「なにがそんなに面白いんだろう」
父が間を埋めるよう白々しく云ったが、続く者はいなかった。室内が元の暗がりへ回帰したような錯覚を得る。僕の腕の中で、姪は僕の目を頻りに窺っている。河童を見たい。姪のその願いを、どうにかして叶えてやらなければと云う思いが、唐突に胸中に浮上して来た。「滝に連れってやる」僕がそう切り出すと、家族はわっと僕の意見に群がった。母はおろおろと心配を口にしたが、区の集まりで着いては来られないと云う。父も同様。姉は危ないから止めろとでも云うかと思ったが、案外すんなりと許可した。僕が姪の手を絶対に放さないことが条件だった。
「なにかあったら、許さないから」姉は呪うように僕に云ったが、着いて来るつもりはないようで、不思議だった。姉が両手に抱えている何か、重くて不定形な物を放って寄こされたような気がした。僕は、戸惑いと共に承知し、軽蔑と共に家を出た。
■ 2.
その滝は僕の家から車で四十分ほど走った辺りにある。九十九折りの坂道は道幅が異様に狭く、曲がり角ではいつ対向車が現れるかでひやひやした。いざ現れて僕が悲鳴を上げると、姪は楽しそうに笑った。
幾重にも連なる坂道をようやく過ぎた頃、観光ハウスなる建物が見えてくる。駐車場は休日だと云うのに広々としており、全体的にくすんで見える建物がその実情を物悲しく晒し上げていた。可愛らしい河童の人形が幾つかあったが、どれも薄汚く黒ずんでいた。
駐車場に立ついやに親切な老人から、駐車券を買った。値引かれた三百円が申し訳なかった。僕はしっかりと姪の手を握り入り口まで歩んだ。
昼間とは云え、山間の河川の傍とあって何となく冷やかな空気が感じられる。群青色の壁のような山に挟まれ、谷間への入り口は木影に閉じられて真昼の最中、夜のように暗かった。姪は空いた右手で僕の服の袖を握った。山に対し、純粋に恐れを抱けるのは尊いことだと僕は思った。大丈夫、大丈夫、と姪の頭に手を置いたが、山を前にして何が大丈夫なものかと云う古い常識に睨まれる思いだった。
入山料を払い、滝を目指すうち、そうした考えは段々と萎えていった。この山は山ではなかった。石を積み重ね、不自然に演出された石の路や階段、更に赤く錆びた手摺は頑丈で、死の危険はまるでなかった。観光地だから当たり前だと思いもするが、萎える気持ちを抑えることは難しかった。こんな場所に、河童など住むはずもない。姪はそれでも楽しげに感嘆し声を上げ、僕は嘘を吐いてしまったようで落ち着かなかった。「かっぱ、どこぉ」姪の声が弾む。
「奥の方にいるかもしれない」
そう云った僕の先には、ご丁寧にも不安定に整理された路と、どこまでも続きそうな手摺が嘲るようにただそこにあった。川の流れる音がころころとして涼やかではあった。切り出されたように四角い岩があちこちに点在し、川の流れをぐねぐねと捻じ曲げている。
谷間の壁面は風化によるものか意図されたものか、岩肌が露出し、滑らかで痛々しい。空を割るようにそそり立つ山のあらゆる場所から逝き遅れた蝉のざわめきが、谷間いっぱいに降り注いでいる。溢れたものが残響になる。それら遍く音の背景に、叩きつけるような水音が猛々しく轟いていた。すべてが白々しく、あたかも自然のように居直っている。滝壺に落ちる水のせいか、奥地より緩やかな風が吹き、揺れるシダの葉だけが素直だった。
「いこ」
急かす姪のひと言には静かな興奮が滲んでいた。
僕はすっかり乗り気ではなくなっていた。
何も起きず、何も出て来ないことが既に判っている。もちろんその方がありがたいことだ。だけど、僕が失望してしまうのは僕が童心に帰っているからかもしれない。姪に手を引かれ、境界を跨いだのだ。姪の足取りは歩む毎に興奮を増し、僕を導くのにも急かすようになってくる。反対に、僕の足取りは酷く重い。『ケヤキの木』と書かれた看板が括りつけられた、恐らくケヤキらしい木がさらに僕を滅入らせた。この木がケヤキかどうかなど、どこの誰が気にするだろう。そんなことを一々気にするような、何も知らない人間が、物事をもつまらなくさせていくのだと思えた。
「あ!」
姪が指さす方を見ると、見えづらいが魚影があった。水底に無数に沈む石ころと同じ灰色をした小魚たちは、その石による急流に抗おうと音もなく奮闘している。
河童は魚を食うのだろうか。僕はそんなことを思ってみたりした。河童が胡瓜ばかり食うようでは面白くない。水棲なのだから、魚も食うだろう。虫も食うだろう。人だって食うかもしれない。そう云えば、河童は尻小玉を抜くそうだ。尻小玉が何なのか、僕は何も知らない。そう云う臓器があると昔は信じられていたのかもしれないし、もっと簡単に魂のことを云うのかもしれない。魂だとすると、取った物をどこかに入れることも可能かもしれない。しかし、河童は抜き出した尻小玉をどうするのだろう。食べてしまうのだろうか? 誰かに捧げるのかもしれない。頭領がいるのか、それとも神や仏か。
すると河童にも信仰があるのだろうかと云う疑問に行き当たる。僕は汗みずくの重苦しい衣服の暗色に不快を感じながら、河童の信仰、河童の信仰、と何度も反芻して考えた。その挙句、馬鹿馬鹿しいことだと気づき、思索を放棄した。河童の信仰云々など僕は何も関心がない。僕が河童にどうあって欲しいかが問題だ。そう考えがいけない方向に推移していく中で、ぼんやりとした形が生み出されていく。人間の突っ張った欲の皮に排斥され、卑屈にねじ曲がった精神を持ち、泥濘の日陰にたゆたいながら日向を嗤う、人間を嗤う。一方で日向を僻む心、人間との関わりを懐かしむ根性もある。それでも、時おり影からのぞき、人間をつぶさに観察し嗤うのだ。願わくばそうであって欲しい。僕が意識せずに考え、打ち消してしまう寸前まで、僕はそんなことを思っていた。
しばらくなだらかな路と険しい路の間の浅ましい道程を歩み、左手に流れる小川にも人の背丈を越す巨大な岩がのぞくようになってきた。獣の毛皮のような深緑色の苔を纏い、木々に散らされた陽のひかりを浴びて頭頂を白く輝かせている。河童が休むにうってつけの場所と思えた。
「あそこに河童が座っていたらいいのに」
「ん」
中途半端に荒れた道を来たせいか姪の返事は短く、どんよりとした疲労が漂っていた。僕の頭の中では自然と河童の詳細な姿が組み上げられていった。それは茫漠とした眼差しで太陽を見上げ、難しい顔をしながら、その実皿の渇くのを厭うている。胡坐を掻いた脚は枝のようにか細く、水掻きの張った爪先を開いたり閉じたりしている。皮膚はてらてらとひかり、両生類独特のぬめりを帯びているようだった。太腿は硬く引き締まり、背負う甲羅へと続いている。甲羅には薄っすらと赤や薄緑の苔が生し、生きた年月を知らしめる。首もまた細く、嘴は物思いに耽るよう何事か呟いている。純白に磨き上げられた皿は陽のひかりを浴びて輝いている。水気が多いため、乱反射している。皿を囲う緑がかった白い頭髪に潜む両の眼は、蛙のように表情がないのだろうか。それとも、人間らしくぼんやりと曇っているだろうか。少なくとも、河童を知らない僕には想像する余地がない。下手な漫画や挿絵のような、愉快にデフォルメされた顔では物足りないのだ。想像の中だけでも現実味を。想像の中だけでも存在感を。河童がいると信じている姪もきっとそうで、だから僕もそうありたかった。
■ 3.
歩むうち川の流れがさらに急に、透き通っていた水底の色に影が増し、深く青みがかってくる。轟音が近く聞こえる。滝が近いのだろう。姪は急に元気を取り戻し、僕を引きずっていこうとする。先ほどまでの退屈そうな雰囲気は霧散していた。どこにそんな元気が残っていたのか、不思議だ。僕なんかはもう両足が竹竿のように硬直して、足の裏の感覚は鈍麻して判然としない。ただ踏み締めた際に段々と石ころが大きくなっていくのを感じた。早く早くと姪が云い、僕の手を引く。その瞬間、僕は手の力が、ふっと緩むのを感じ、背筋がひやりと冷たくなった。姪の小さく熱い手が、僕の拘束を逃れてあえなく離れていく。ぽかんと呆気に取られた姪の表情が危機感を察知し恐怖に引き締まる。僕の手が空を掴む。姪の小さな身体は石畳の上から外れ、疎ましい手摺を潜り抜け、真緑の滝壺へと消えていきそうになっている。僕は悲鳴を上げた。
その時、水面を割るように、ぬうっと一本の腕が伸びる。その手はぬめりを帯びた緑色で、斑模様が散りばめられている。水掻きの張った手をいっぱいに広げて、その手は姪の小さな背中を捉え、ぐいと一息に押し戻してしまう。姪の背後に僕は鋭い視線を見る。蛙のような艶やかな、それでいて力強く、僕等の愚かしさを嗤うような、両生類のような目が僕を見つめている。河童だ、と思った。しかし、僕が瞬きをする間にその想像はすっかりと消え去ってしまう。僕等の目下にいたのは少年だった。「あぶねぇな」口を窄めて独り言のように云った。姪は自分の身に起きたことに意識が追いついていないのか、目を白黒させて座り込んでいる。黄緑色のワンピースの背には少年の手形がくっきりと黒ずんでいた。何度見直しても子供の手形だった。
■ 4.
少年は水面から、姪の背中を無表情に近い顔でじっと見ていた。滝の音で誤魔化されているが、何かを呟いているように、口元が微かに動いている。僕は姪の元に駆け寄り、白黒させている目を覗き込み、大丈夫かと問うた。姪は僕の方を見つめたり、地面についた自分の掌を見たりした。姪は泣くだろうかと思ったが、両手の砂を叩いて落し、ぽつり大丈夫と云った。僕はほっとする反面、姪の目に冷静に物事を見る冴えた色を見、背筋の抜けるような感覚がした。姪の顔は笑っていたが、それが真実かどうか僕にはわからない。
「ちゃんと、見てなきゃ」
少年は滝壺から這い上ってきた。僕に向かって、そう云った。黒々とした短い頭髪。両の目は、焦点が合っていなかった。恐らく、斜視なのだ。歳は、十幾つだろう。当たり前だが、手足に水掻きはない。僕は茫然とした姪を抱き上げ、
「ありがとう、ほんとに」
と、それだけ云うと、言葉が詰まって出てこなくなった。心臓が遅れて早鐘を打ち始めた。姉の呪いが僕の脳裡に渦巻いた。殺されても文句も云えない。そんな事態に陥りかけたのだ、今。喉が渇き、背筋を寒気が走った。家族への軽蔑も、何も、屁でもない。
どぎまぎしている僕へ、少年は何しに来たのかと問う。僕は、姪が河童を見たいと云ったからだと話すと、少年はなにがそんなに面白いのか、腹を抱えて笑った。
「河童ってのはねぇ、俺らみたいなのを云うんだね」
それがどう云う意味かと訊ねる前に、彼の友人らしき子供達が水面から手を振って呼びかけた。「もう行かなけりゃ」少年はそれだけ云うと、滝壺に飛び込んだ。僕と姪はしばらく彼等の華麗な泳ぎを見守った。果ても見えない水底へ、果敢に飛び込み、潜り、時には大きな魚を手掴みした。見事な手際だった。
僕は彼等の楽しげな様子をいつまでも眺めていたかった。しかし、姪がぐずり始めたので、仕方なく帰ることにした。
「ありがとう、どうも、ありがとう」
最後に、姪を救ってくれた少年に声をかけた。少年は、にこにことしていた。
来た路を帰るのにも一苦労だった。姪は早々に音を上げて、「おじちゃん、おんぶして」と強請った。僕のことを初めておじちゃんと呼んだので、驚いた。姪の瞳はまるで別人のように僕の目に映った。僕の背にいる間、頻りにママに会いたい、ママに会いたいとくり返した。僕は、背中の子がほんとうに姪なのか疑り始めてすらいた。あの時、本物の姪は滝壺に落ちて死んだのではと云う気がした。
やがて、観光ハウスが見えてくる。姪を下ろして手を繋ぐと、それは確かに姪であり、内心でほっとした。車へ向かう途中、駐車場の老人が立っている。三百円のお礼も含め、挨拶をした。老人は皺くちゃの顔をにこにことさせ、不明瞭な言葉をつぶやいた。
「ああも子供が多く来るなら、にぎやかでいいでしょう」
世間話の延長の中云うと、老人は「はぁ」と短く返事した。僕の云った意味がわからないらしかった。僕は唐突に不安に襲われた。駐車場には、老人の物らしき車が一台。後は自転車の一つもない。あの子供達はどうやってここまでやって来たのだろうか。急な山道を徒歩で来たとは考え難い。いや、親御さんが車を出してくれたのかもしれないじゃないか。一先ず納得のいく答えに安堵し、老人に頭を下げて、歩き出した。背を向けた瞬間、老人がぼそりと呟いた。
「あぁ、その子、背中を汚してしまったんだなぁ」
老人のしゃがれた声には意味深な憐れみが含まれていた。僕は思わず姪の背中を見た。少年の小さな手形は時と共に滲み、大きく広がっている。それはまさに水掻きを持つ、河童の手形に他ならなかった。
2年前の書き損じの続きを書いてみたけれども……。これはどうにも筋がなくていけない気がする。書き直すかもしれません。