屋上にて
屋上の適当な場所に並んで腰を下ろし、俺と彼女は昼食を食べ始める。
が、弁当を口に運ぼうとした所で制された。
「……綺夜さん?」
「まだ、食うな。いいか?前に言ったよな、味が落ちるから私が吸うまでは食うな、って」
手で俺の口を抑えて微笑みながら言う彼女だが、その目は笑っていない。
「……吸うのか」
「当然だろう?よもや貴様、我が何であるか忘れた訳ではあるまいな?」
大体目立たない場所から吸ってくれと言い出したのは貴様だろうに、と付け加えて、口を抑えていた手を頬に回してきた。
ご丁寧なことに左手は首に回され、後頭部に添えられている。
「そもそも、お前は幸せ者の部類に入るのだぞ?」
言葉と共に吐き出された吐息が唇にかかり、残滓が鼻腔をくすぐる。
一体何を食べていればこんな香りになるのだろう、と思ってしまうほど甘く、芳醇な香り。
理性が根こそぎ刈り取られていくような、そんな印象を与えるほど官能的な視線が、俺の瞳を真っ直ぐに射抜く。
喜んで身も心も捧げてしまいたくなるような情動が沸き起こり、顔だけでなく体が全体が熱を持つ。
溺れるような快楽を約束してくれる、そう信じさせる程の色香による魔性の誘惑。
「正しく傾国の魅力を持つ、我に選ばれたのだからな?」
外見からは恐ろしく不釣り合いなそれを受けても、どうしてか自分の理性は彼女を拒む。
「わかった……わかったから、それは止めてくれ」
引きつった顔で抗議の声を上げれば、綺夜はそうなることが解っていたかのように表情を崩して笑う。
先ほどまでの妖艶な雰囲気が夢か幻であるかのように。
「まったく……我は『魅了』が好きではないんだぞ。それなのにお前はこうして度々使わせてくれる上に断るときた。ああ不愉快だ」
「それはだな」
自分から目立たない個所にして欲しいと希望しておきながら、とは思っているけれども、仕方がないじゃないか。
そりゃ悪い気はしないけど、俺だって男だし、吸血する箇所が箇所だから少々やらしい気持ちも湧いてくる訳で。
「今日は三割増しね。拒否権は無し、決定」
「綺夜は嫌じゃないのかよ……」
「んー、顔は綺麗って訳でもないけど、平均より少し上って感じで整っているし……性格も酷いってほどじゃない。
いつも清潔にしているし、しっかりと気を遣ってくれているから、我としては問題ない」
そう言い切られると、申し訳ない気分が四割増しで上乗せされた気がしてくる。
「引け目とかは感じる必要なんてないから。大体お前が初めてってわけじゃないし……ほら、わかったら大人しくしなさいな」
その言葉に観念して眼を伏せれば、数拍遅れて唇に柔らかい感触が。
そのまま舌を差し出して、輝夜の口内に入るか入らないかの位置を保つ。
それがじれったいと感じたのか、輝夜は自分の口内に舌を吸い入れ、薄い唇でしっかりと咥えて固定してきた。
直後にちくり、と針で刺したような痛みがあって、舌は引っ込もうとするが綺夜の唇がそれを許さない。
そうこうしているうちに感じるのは引力。舌を、正確には舌から流れる血液を吸っているのだ。
三分ほど経ったと感じた所で、唇が離れていく。正直、舌が痛い。そして下が、いやこれ以上は言うまい。
長続きしないし。
「ご馳走様でした、では頂きます」
と、俺の血液を吸った後にも関わらず袋の中から菓子パンを取り出して食べ始める。
この流れで興奮しろってのはちょっと無理があるので、まあすぐに熱は抜けていくのだ。
そんな流れは毎度のことなんだけど、やっぱり納得できないところもある。
「いつも疑問に思うんだけどさ、普通の食物が摂取できるなら血液は吸わなくても生きていけるんじゃないのか?」
「残念ながらそれは無理だ。理由を教えてやろう、そういう生き物なんだ」
全然理由になっちゃいない。
納得のいかない心境を察したのか、それとも顔に出てしまっていたのか、綺夜は苦笑しながら言葉を続ける。
「人は眠らねば倒れるだろう?我達にとって、他者の血を吸うのは人間の睡眠に該当する。
我達は眠らなくても良い、元々夜歩く種族だからな。だからまあ、吸血という行為は睡眠を排除したことで犠牲になった諸々を補うためのものではないか、と考えている」
吸血で睡眠時の諸々が代用できるとは思えないが、それは人の常識内でのことだ。
輝夜の体は人間の常識が通用しない構造なのだろう。
もっとも、それを口に出すと悲しむだろうし、俺も好きではない言い方なので黙っていたが。
「お前は優しいな」
不意にかけられた言葉に動揺して、飯を喉に詰まらせてしまう。
「ほら、落ち着いて食え」
綺夜が投げてよこしたお茶のペットボトルを口に含み、喉に詰まった飯を流し込む。
「誰のせいだとっ」
一連の動作が終わってから、俺は綺夜にペットボトルを投げ返した。
あの言葉は、明らかに俺へ向けてのものだ。
となると、彼女は俺の考えていることを見透かしていたことになる。
思考を読み取ることも出来るのか。
「お前は顔に出やすいからな、察しはつくさ」
無茶苦茶な、と思ったが、そこでふとと思い直す。
自分と同じ外見だからうっかり失念していたものの、綺夜は人間などとは比べ物にならないほど長い時間を過ごしてきているのだ。
それだけの積み重ねがあるならば、雰囲気から人の心中を察することができても不思議ではない。
今、俺の隣に座って菓子パンを頬張る少女は。
吸血鬼、という人ならざる存在の少女は。
どれほどの時間を過ごして、どれだけの人との出会いと別れを繰り返してきたのだろう。