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伯爵家の秘密  作者: BUTAPENN
番外編
89/91

8. 伯爵の謀反(5)



 山々を駆け下りて葡萄畑を渡る風は、甘い香りを運んでくる。

 リンド侯爵の領館は、四方を取り囲む豊かな自然がそのまま広大な庭園だった。あずまやで、おとなたちはワイングラスを片手に、食後のひとときを思い思いにくつろいでいた。

 子どもたちが、なだらかな丘を歓声をあげて駆け下りてくる。

「よし、わたしの勝ちだ」

 シャルル王子が、ころがるボールをひょいとつかみ、誇らしげに高々と掲げた。三人の中で一番年長である七歳。あと一歩のところで及ばなかった二歳年下の従弟ジョエルが、地面に両手をついて喘ぎながら、悔しそうに芝をつかむ。

「……ずるいっ。ボクの服を引っぱった」

「引っ張ってなどいないぞ」

 そこへ、最年少のニコルが、おさげを揺らしながら走ってくる。

「ボール、ちょうだいな」

 にこにこと愛らしく微笑みながら、小さな手を差し出す。少年たちは口をつぐみ、シャルルはもごもごいいながら、ボールを手渡した。

「わあい、ニコルのいっとうしょう」

「最強だな、ニコルちゃんは」

 エドゥアールは、笑い過ぎて椅子からひっくり返りそうになっている。「王宮の未来の相関図が、楽しみだな」

 この館の主、セルジュ・ダルフォンス侯爵は、心底いやそうに顔をそむけた。

「その下品な相関図とやらでは、きさまの真っ黒な血筋と絶対に隣り合わぬようにしたいものだ」

「おまえさ。ひとり娘に一生嫁に行くなって言い聞かせる親バカになりそうだな」

「もちろん言い聞かせているとも。おまえのような女たらしの息子に間違って捕まるようでは、ろくな人生を送らぬからな」

 ミルドレッドは、侍女のソニアとともにクローバーの王冠を編んでいた。ソニアの足元には、はいはいを始めたばかりのエクトルがいる。子どもたちは目ざとく、テーブルに駆け寄ってきた。

「わたしも、つくる!」

「ええ、こちらへいらっしゃい」

 ヒナゲシをあしらった王冠は、シャルル王子のハチミツ色の巻き毛によく似合った。ジョエルとニコルは、あざやかな青の矢車草の首飾りをかけてもらう。

 子どもたちの世界に序列はない。けれど、王子とのあいだには明確な身分の違いがあることをミルドレッドは言葉を使わずに、それとなく教えようとしている。ジョエルはすぐに興味をなくし、トンボを追いかけるのに夢中になった。

 テレーズ王妃は子どもたちを眺めては穏やかにほほえみながら、ブドウ畑の鮮やかな緑に目を細めた。

「今年は、本当におだやかで暖かい夏ですわね。少し雨が少ないけれど」

「これくらい雨が少ないほうが、よいブドウが実ります。今年はワインの当たり年になるでしょう」

 セルジュがグラスを回して芳香を確かめてから、一気に傾ける。

 彼の妻ヒルデガルトが小さなため息をついた。

「南部でも北部でも、大麦や小麦の成長は順調だと聞きましたわ。これで、国民たちの不穏な動きも収まってくれたらよいのですけれど」

「ええ。三年続きの不作だけはあってほしくありませんね」

 なごやかな会話の中、籐の寝椅子で昼寝を決めこんでいた国王は立ち上がり、ふらりと歩き出した。

 それに気づいたエドゥアールは、すぐに後を追う。

「フレデリク」

「何か用か」

「いや、なんだか元気がないみたいに見えたからさ」

 王冠を外した休日のクライン国王は、そよ風にくせのある髪をなぶらせながら、ブドウ畑の整然とした畝を見晴らした。

「なんだか、夢のようだと思ってな」

「夢?」

「ああ、目が覚めたら何もかも消えている、明け方の夢のようだ」

 フレデリクは振り向いて、慈愛に満ちた眼差しで、亡き妹を思わせるエドゥアールの面差しを見つめた。

「ファイエンタールの血は自分の代で絶やすと、余は若いときからずっと思い定めていた。それなのに、どうだ、この賑やかさは」

「ああ……本当だな」

 エドゥアールも、振り返った。「あんたには、いつのまにか、これだけの家族ができていたんだな」

「余は、そなたのあのときのことばを、今もときどき思い出すことがあるのだ」

 それは、エドゥアールが、セルジュの父プレンヌ公爵とともに、王位継承問題をめぐって貴族会議の論壇に立ったとき。

 彼は、こう宣言したのだ。


『王族がたどってきた不幸な歴史は、国全体に影を落としていないでしょうか。国の最小単位が家族であるとするならば、ファイエンタール王家という家族を頂点とするクライン王国は、崩壊の一途をたどってきたとさえ言えるのです。わたしは王族の一員として、王家にかけられた呪縛を解きほぐしたいと願っています』


「そなたは、約束どおり、みごとに呪いを解いてくれた。余は王としてふたたび立ち、国を治めようと懸命に努力した」

 一語一語を噛みしめるように、フレデリクは言った。「だが、父の代から数十年、まつりごとを放置した報いは大きい。クラインにはびこる諸問題はあまりに根深かった」

「あんただけのせいじゃねえ。俺たちの力が足りなかっただけだ」

「そうではない。民の心は、すでに王家から離れているのだ」

 王は、すみわたった夏空をふり仰いだ。

「そなたがいなければ、ファイエンタール王家は滅びる運命だった。だから、ふたたび滅ぼすことを選ぶのも、そなたの自由だ」

「……え?」

「王というのは、非力なものだ。民が飢えているというのに、何もできぬ」

 下を向く拍子に、国王の頬にはらりと、もつれた髪がかかる。「もし、余の存在が国をふたつに割っているのなら、余はいつでも王位を退く覚悟はできている」

「陛下」

 小さくたしなめるように、エドゥアールは叫んだ。「俺は、セルジュと誓った。クラインを豊かな国にして、シャルル王子に託すと。その誓いを違えるつもりはない」

「できるのか」

「もう少し時間をくれ。今年の秋は豊作だ。必ず国を建てなおしてみせる」

「わかった」

 フレデリク三世は、悲しげにほほえんだ。「そなたが弱っていると、あの世からエレーヌに叱られているような気がしてな。どうも落ち着かぬ」

「バカ言うな。俺はそれほどヤワじゃないぞ」

 エドゥアールは叫んで、走り出した。「よおし、ガキども。俺と鬼ごっこするヤツはついて来い!」

 子どもたちの甲高い歓声が、庭に響く。

(裏切れない)

 エドゥアールは心の中で、何度も自分に言い聞かせた。(何十年も孤独の中に過ごし、ようやく家族を得たばかりのこの人を、俺は絶対に裏切れない)



 リンド候領での週末を終えて戻ってくると、王宮になつかしい客が待っていた。

「テオ先生!」

 ポルタンスの町医者、テオドール・グランだった。細身だが若々しい活力にあふれたさまは、何も変わっていない。ただ、黒髪に白いものがところどころ混じっているのが、十年近い歳月を感じさせた。

「ゾーイとフレッドは?」

「息災です。今はフレッドにせがまれて王都の観光に行っております」

「よかった。夜は俺の家で食事をしていってくれるよな」

 ソファに腰をおろした伯爵の前で、テオドールははうやうやしくお辞儀をした。

「先だっては、ご心配をおかけしました。それに、ラヴァレ領からはたくさんの援助物資をいただき」

「そんな他人行儀な。いいから、座ってくれ」

 騎士ジョルジュと妻のネネットが馬車いっぱいに小麦を積み、グラン男爵領に届けたのだ。ネネットはラトゥール州長官ギルマンの養女として三年を過ごしたことがある。義理とは言え、父と呼んだ人の重い責務を陰から支えたいという気持ちで、夫に同行した。

「男爵領の領民たちもすっかり落ち着いたとギルマン長官からも報告を受けている。テオ先生は、今でも毎週通っているんだろう」

「はい。今度は父が心労で寝ついてしまって。その診察もしています」

「大変だな」

「いえ、かえってよかったと思っております」

 意外な答えが返ってきた。

「わたしは、ポルタンスで医師となったときに、勘当された身の上。まさか、父や兄にふたたび会うことができる日が来るとは、夢にも思っていませんでした」

「そうか。そうだったな」

「なのに、今度の一件で十数年ぶりに父と会うことができたのです」

 分厚い近眼鏡の奥で、医師の目が濡れて光っていた。「勘当などなかったかのように、父と兄たちはわたしを迎え入れてくれました。ポルタンスのみんなが親身になって助けてくれたからです。わたしが思いを貫いたことは決して間違っていなかった」

「テオ先生……よかったな」

 長年の知己の涙を見て、エドゥアールの心にも温かい波が満ちてきた。苦難の中でも人が最善を尽くすとき、神は奇跡を起こされるのだ。

 従者が、紅茶とチーズクラッカーを運んできた。時が戻って、川に張り出した小さな診療所の中にいるようだ。下働きのエディと下町の医師は、顔を合わせて微笑み合う。

「実は、今日うかがったのは」

 テオドールは、紅茶を一口飲むと、身を乗り出した。

「父が、国王陛下に所領を返還したいと言い出したのです」

「グラン男爵が?」

「領地内での今度の暴動が、父には堪えたのだと思います。伯爵さまの演説の内容をわたしが話すと、ぜひそうしたいと」

 クライン王国じゅうに数千の規模で点在している中小の荘園を合わせ、大規模な耕作地にすることで、生産性は格段に上がる。そのためには、貴族が自主的に所領を提供するのが最良の方策だ――先月の平民会議の演壇に立ったラヴァレ伯爵のことばを、共和系の各新聞は大々的に報じたのだ。

 もちろん、貴族会議では一顧だにされなかったが。

「このような飢饉続きでは、困窮する貴族たちは増える一方です。もはや今の時代、零細貴族の特権など名ばかり」

 テオドールは拳を握りしめ、熱っぽく語った。「それくらいならば、国に領地を返還し、俸給をいただくほうが、よほどましだと思う貴族は多いはず。今が好機ではありませんか」

「好機……」

 エドゥアールは医師の口元を見つめながら、チーズクラッカーをごくりと飲み込む。

 二年続きの飢饉で、クライン国民は今貧困にあえいでいる。だが、この国難が、貴族制度の外堀を崩す絶好の機会になるとすれば。

 エドゥアールの腹の底から心地よい興奮が駆けあがってきた。あきらめたものが、ふたたび見えてきた心地だ。

「やってみるよ。テオ先生。なんとかなりそうだ」



 次の貴族会議で、エドゥアールはふたたび演台に立ち、大胆な演説に打って出た。

「数年続きの不作で、いくつかの農村からは飢えに瀕した農民たちが逃げ出し、農地は荒れ放題になっている。租税が入らず、困窮した貴族は借金を重ね、首が回らなくなっている者も多いのが実情だ。『恩恵』によって領地を売ることも禁じられているうえに、商人は貴族に対して法外な高利で金を貸す。これでは、『恩恵』の法律そのものが、貴族を苦しめているのも同然だ」

 親から受け継ぐ所領を経営するだけの人生でいいのか、子孫に不自由を受け継がせるのか、とエドゥアールは強い口調で問いかけた。今なら、選択の幅が広がるのだ、と。

「もし、自主的な領地の返納に応じた者には知事職と俸給を約束しよう。だが、王政と貴族制度を覆すことは決してない」

 そう約束したうえで、法律を変える。すべての国民が同じ法のもとに平等な権利を与えられることを明記した、新しい国民憲法を創設する。そうすれば、『恩恵』という時代遅れの法律は憲法違反となり、自然消滅する。

 貴族の中には、この発議に心を動かされる者も少なくなかった。名よりも実を取るべきだと計算する者もいれば、法の下の平等という理想に心を熱くする者もいた。

 平民会議でも、同じ演説が行われた。平民会の大勢を占める地主や商人のブルジョア階級たちも、この提案をおおむね好感をもって受け止めた。急進共和派は、なりゆきを静観していた。

 だが、その翌月の貴族会議で、芽生えたかすかな希望は無残に打ち砕かれた。

 グラン男爵が領地を返納するという噂が間違った方向に広がり始めたのだ。

 グラン男爵の三男テオドールは、ラヴァレ伯の腹心である。これは手始めに過ぎず、ほどなく下位貴族のすべてが強制的に荘園を返還させられるだろうと、貴族系の新聞に大々的に報じられた。

 テオドールの骨折りが、かえって裏目に出てしまった。

 貴族たちの混乱と怒りは、一気にエドゥアールに向けられることになった。貴族会議の初日、怒号と罵声を上げながら押し寄せてくる貴族たちに、エドゥアールはもみくちゃにされた。

「男爵や子爵など、貴族のうちに入らないとでもいうつもりか」

「しょせん、あなたも征服民族のひとりなのだ。われわれ下位貴族の立場などわかりはしない!」

 会議は休会になり、執務室に戻ったとたん、セルジュはエドゥアールの胸倉につかみかからんばかりに迫った。

「まったく、困ったことをしてくれた。ただでさえも混乱を極めている会議に、さらに上位貴族と下位貴族の争いまで持ち込んで、いったい何を考えている」

「奴らは、俺の真意を誤解しているだけだ!」

 エドゥアールも負けずに吠える。「あれは誤報だ。貴族制度を廃するつもりなどない。もう一度、会議で弁明をさせてくれ。きっと誤解は解く」

「ならん。きさまは当分、伯領にこもっていろ」

 燃え上がるような憤怒を目の奥に宿し、セルジュは僚友を睨みつけた。「……さもないと、命の保証はできん。きさまは貴族全部を敵に回したのだ」



 確かに、その年の夏は穏やかに過ぎていった。飢饉が続いた去年までは、どんよりと曇りが続く冷夏だった。だが、今年は乾燥して、暖かい日光がふりそそぎ、麦の実入りもよかった。

 ほっと安堵した秋口に、国土を突然の天災が襲った。

 王国の中部一帯の広い地域で、おとなの拳ほどもある雹が降り注ぎ、小麦の収獲を目前に控えた畑に降り注いだ。雹は小麦をなぎ倒し、戸外にいた多くの人に怪我をさせ、家々の屋根に穴を開けた。地面に落ちた雹は何日も溶けず、かろうじて残った麦も死滅してしまった。

「リンド侯領の葡萄畑も、ほぼ全滅だそうです」

 ヒルデガルト姫から届いた悲痛な文面の手紙を握りしめて、ミルドレッドは涙を流した。「なぜ、こんなことに……神さま。わたしたちが、どんな悪いことをしたというのでしょう」

 国王は大臣たちと協議して、国の備蓄の穀物をすべて供出するように指示した。リオニア、アルバキアなど、近隣各国と緊急に交渉して、できるだけ穀物を輸出してくれるよう依頼した。

 この冬こそ餓死者が出るかもしれない。そして、窮状にもかかわらず、貴族がもし贅沢を止めないなら、そのときこそ共和革命を止めるすべは誰にもない。

 11月、ラヴァレの谷にちぎれた綿のような雪が舞い散る中、ロナン・デュシュマンが単騎にて訪れた。

「ジャケからの伝言を持ってきました」

 暖炉の前に通されても、固くこわばった表情は崩れない。寒さのせいではないのだろう。

「『王都ナヴィルは今や、大勢の飢えた農民が押し寄せて、路上に寝ている。王宮政府の対策も後手後手で、騒ぎを起こす民衆に警察隊が銃剣を突きつけ、不穏な空気は増すばかり』」

 考え得るかぎりの最悪の事態だ。

「『平民会議での演説以来、あなたは領地にこもったまま、何の行動も起こそうとはしない。もはや法によっては、われわれの主張はかなえられることはないと悟った。今一度、あなたの真意を正したい。あなたはわれわれの味方なのか。それとも敵なのか。口先ばかり共和主義を唱えて、平民の側に立つふりをして、その実は、骨の髄まで貴族なのか』」

 貴族なのか。平民なのか。それはエドゥアール自身が、ずっと自分に問いかけ続けてきたことばだった。

「……俺は、平民として育った。だが、ラヴァレ伯爵家の継嗣でもある。どちらも否定することはできない」

 暖炉の火を見つめてつぶやく伯爵の横顔に、ロナンは次のことばをいったん飲み込んだ。そして言った。

「ジャケはこうも言いました。『もし、われわれを止めたければ、三日のうちにラヴァレ伯爵みずからが来い』と」

「なんだと?」

「ボードリエは、蜂起を呼びかける新聞を都じゅうに撒いています。続々と市民は広場に集結しつつある。武力による衝突は時間の問題です」

「くそっ。それだけは避けてくれと、あれほど頼んだのに」

 安楽椅子から弾かれたように立ち上がるエドゥアールを、ロナンがあわてて呼び止める。

「行くのですか」

「行かなければ、彼らを止められない」

 ロナンは暗い顔で首を振る。「わたしはもう、彼らにはついていけません。『貴族だから敵だ、ブルジョアだから仲間ではない』なんて。彼らのやり方は、かえって人々の結びつきさえ分断しているような気がするのです」

「正義をつらぬくだけでは、人は幸せにならない」

 廊下に飛び出ようとした伯爵は立ち止まった。黒ずくめの騎士が扉の外に立ちはだかっていたからだ。

「あなたを王都に行かせるわけにはいきません」

「どけ、ユベール」

「行けば、人質にされるかもしれません。あなたが捕まれば、国王陛下はどんな条件でも飲むしかないでしょう」

「そんなことはさせねえ」

「あなたには、守るべき大切な方々がおられるのですよ。大伯爵さま。奥方さま。ジョエルさま。あなたを慕う大勢の領民。それをあなたは捨てるのですか」

 ユベールは苦渋の表情を浮かべた。「すみません。自分がこんな言葉を言うようになるとは思ってもいませんでした。どんな死地の中でも、黙してあなたをお守りするのが騎士の使命だと、今までなら迷いなく思っていたのですが……」

 エドゥアールは口元をゆるめた。「おまえも、人の親になったというなんだろうな」

「あなた」

 廊下の暗闇から凛とした声が響いた。燭台を掲げるアデライドとともに、ラヴァレ伯爵夫人が現われた。

「どうぞ、行ってくださいまし。谷のことは心配せずに。お義父さまとともに、みなで留守をお預かりします」

「ミルドレッド」

 灯火の中で輝くばかりに微笑む妻を、エドゥアールはそっと抱き取った。「すまない。心配をかけて」

「いいえ。あなたはいつも、わたしのところに帰ってきてくださいますもの」

「俺は、クラインという大きな家族も守らなきゃならねえ。家族が傷つけ合い相争っているのを、このまま見過ごしにはできない」

 伯爵は振り向いて、熱意をこめて長年の友を見つめた。「わかってくれ、ユベール」

「失念しておりました。あなたはそういう大きな星のもとに生まれた御方だということを」

 ユベールは腰の剣をぐっと握りしめた。「承知いたしました。どこまでもお伴します」

「ありがとう」

 主従が互いを見つめ、微笑みを交わすのを見て、ロナンは思わず「わたしも!」と叫んだ。 「一足先に発って、あなたが到着なさるまでに、なんとかジャケたちを説得してみます」

「よろしく頼む、ロナン」

 男たちは、堅い握手を交わした。その様子を見つめながら、ミルドレッドはそっと目に浮かぶ涙をぬぐった。



 冬至祭まであと四十日という日、王宮前広場に通じるすべての道路が市民たちの手によって一斉に封鎖された。

 綿密な計画に基づく同時行動だった。荷車や馬車が運び込まれて道路の真ん中で横倒しにされ、集まった市民たちがたちまち土嚢を積み上げた。広場にいた近衛兵たちが手出しをする暇もなく、気がつけば、四方のバリケードからマスケット銃の銃口が衛兵たちを狙っていたのである。

 小雪まじりの風を受けながら、赤い旗が幾本も高々とバリケードに掲げられた。

 衛兵たちは、王宮への門の前で整列して、沈黙した。近衛軍が市民を攻撃することは、軍規で固く禁じられているからだ。

 だが、均衡はほどなく破れた。駆けつけた王都警察隊が騎馬隊を投入し、バリケードを強制排除したのだ。ひとつ、またひとつと封鎖は破られ、とうとう真正面の大通りのバリケードだけが残った。

 そこに急進派は、数ブロックを占める最大のバリケードを築いていた。およそ千人が立てこもり、さながら前線基地だ。

「数十丁のマスケット銃のほかに、多くの剣、鋤や鍬で叛徒どもは武装しているものと思われます」

 王都警察長官のポミエが、苦虫をかみつぶしたようなリンド侯爵の前で報告する。

「して、やつらの要求はなんだ」

「食糧の配給、大臣の総辞職、そして――ラヴァレ伯爵を使者として立てるようにと」

「ラヴァレ伯?」

「あー、やっと俺の出番かな」

 鶯色の正装に身を包んだエドゥアールが、すたすたと執務室に入ってきた。

「きさま」

 セルジュはぎろりと睨みつける。「王宮は近衛隊によって厳重に警備されているはずだ。どこから入った」

「まあ、俺にかかったら、その程度」

「ドブネズミとしか思えぬな」

「行かせてくれ」

 エドゥアールは笑顔を消した。「なんとか、双方納得するような落としどころを見つけてくる」

「きさまに任せては、このクラインが一夜で共和国になってしまう」

「セルジュ、おまえは俺をよく知っているはずだ」

 青空のような水色の瞳が、海原のような蒼色の瞳をまっすぐに捕える。「たのむ、俺を信じてくれ」

 セルジュは短く息を吐いた。「そうするしかないようだな」

「だが、もし俺が彼らの手に落ちたら……交渉のコマにされるようなことがあったら、俺のことは遠慮なく切り捨ててくれ」

「言うまでもない」

「あとは、まかせたぜ」

 信頼に満ちたことばを残し、ラヴァレ伯爵は風のように部屋を飛び出した。



 マスケット銃の長い銃身が、冬の鈍い陽光にきらめいたかと思うと、粉雪がちらついてきた。

 底冷えのするような寒さの中で、もう一日以上、警察隊と叛乱軍は、狭い裏通りをはさんで、睨み合っている。

 ポミエ警察長官は、足を踏み鳴らしながら、じりじりと待っていた。

「王宮からの突撃命令は、まだないのか」

「長官、国務大臣が!」

 殺伐とした荒野に一条の光が射しこむごとく、明るい笑みをたたえたラヴァレ伯爵が、王宮前広場を歩いてくる。

「寒いのに、ご苦労だな」

 両側に分かれた隊員たちの敬礼を受けて、エドゥアールはポミエ長官にねぎらいの言葉をかけた。

「奴らは、ときどき威嚇射撃をしかけてきます。射撃命令が出ないので、このままでは埒があきません」

「わかった。俺が直接かけ合ってくる」

「なんですと?」

「それが、先方の条件だ。銃を下ろしてくれ」

「ご正気ですか!」

「命令だ。銃を下ろして、俺を通せ」

 警官隊の盾のあいだをすり抜け、破れた土嚢や、ちぎれた紙屑が散乱する通りを、エドゥアールはゆっくりと進んだ。ユベールもすぐ後ろにつき従う。

「ラヴァレ伯爵!」

 叛乱軍のバリケードの中から、声が上がった。

「ジャケか。中に入れてくれ」

「コートの前を開いて、武器を持っていないことをお示しください」

 エドゥアールは言われたとおりにした。

「お入りください。ただし、おひとりで。護衛の騎士どのはお断りいたします」

 悔しさをにじませるユベールを手で後ろに押しやって、エドゥアールはバリケードの一角に開かれた穴をくぐった。

 馬車や家具の堆積物のあいだに、数人の男たちが待ち構えていた。みな顔は煤だらけで、目だけが白く光っていた。

 彼らの後ろには、ロナン・デュシュマンが奥歯を噛みしめて立っていた。

「すみません。伯爵。わたしの力が及ばず」

「苦労かけたな。ロナン」

 エドゥアールは男たちの中心にいるヴィクトル・ジャケを、まっすぐに睨み据えた。

「なぜ、こんな暴挙に及んだ。あれほど忠告したはずだ」

「もう一刻の猶予もならないのです。多くの市民が飢えに瀕している。貴族の邸宅のゴミ箱には、ありあまったご馳走が捨てられているというのに」

「きみたちの条件は飲もう。市民に配給する食糧は、もう準備ができている。だが」

 エドゥアールは、バリケードの一部として積み上げられた商店のテーブルや椅子を指さした。

「きみたちは、混乱を大きくしているだけだ。見ろ、この騒ぎで市場は閉鎖され、商店も鎧戸を閉めてしまった。市民は働き場を失い、ますます困窮する」

「もうひとつの条件はどうなっています。大臣の総辞職、それに、平民会と貴族会の廃止、国民議会の開設」

「国政は暴力によって動くものではない」

「これしか方法がないのだ。平民会議はすでに機能していない。多数派のブルジョアは自分の財産が大切で、損になることには動こうとしない。もはや、武力による闘争しかわれわれに残された道はない」

「きみたちが勝てる見込みなど、万にひとつもないぞ。今は陛下が抑えてくださっているが、きみたちの出方次第では、すぐにでも陸軍が王都に突入する」

「それこそ、われわれの望むところです」

 ジャケは勝ち誇って、胸を張った。「クライン全土が、この戦いの成り行きを注視している。もし軍が市民の血を一滴でも流せば、地方から無数の狼煙が上がるでしょう。そうなれば、革命はもはや誰にも止められない」

「それでいいのか」

 エドゥアールの瞳が、限りない憤怒に燃えた。「同じクライン人同士が戦い、傷つけ合う。そんなことを許していいのか!」

「ひとつ、方法があります」

 それまで黙ってジャケの隣にいたジョセフ・ボードリエが口を開いた。「ラヴァレ伯爵。フレデリク三世を説得して退位を促し、あなたが国王になることです」

「な……に?」

「あなたは征服民族の長、ファイエンタールの血筋をお持ちだ。一方で、被征服民族の血も引いている。国民融和の象徴として、あなたほど適任の方はいない」

「国民融和……だと」

 エドゥアールは、舌の上にころがすように呟いた。

「長い間、一方が他方を虐げ、ふたつの民族は分断されてきました。今こそが融和のとき」

 拳を振り上げ、恍惚とボードリエは叫んだ。「貴族も平民もない。征服民族も被征服民族もない。クラインがひとつになるべきときだと、あなたが国王となって宣言する。国民議会を開き、憲法を整え、共和政へと導く道を拓くのです」

「伯爵、われわれの側に立ってほしい」

 ジャケは食い入るような鋭い眼差しで迫る。「あなたは民衆に根強い人気がある。共和革命の旗印となっていただきたい」

「ことわる」

 エドゥアールは吐き捨てるように即答した。「俺は、国王陛下を裏切るつもりなどない。法の手続きに反する武力闘争など、断じて認めない」

 沈黙のあと、ボードリエが言った。「残念です。あなたは肉親の情に流され、おのれの信念を曲げておられる」

「交渉は決裂ですな」

 ジャケが、薄く笑った。「どうぞ王宮の奥深くにお戻りください、伯爵。もうあなたと話すことは何もない」

「どうするつもりだ」

「ここで籠城を続けます。そちらが痺れを切らし、攻撃をしかけるまで何日でも何か月でも」

 エドゥアールはロナンを見た。「きみはどうする」

 ロナンは奥歯を噛みしめていたが、顔を上げた。「わたしは……ここに残ります。彼らとともに」

「そうか。風邪をひくなよ」

 ラヴァレ伯爵が出るとたちまち、通り道はふさがれた。

 振り向いて、バリケードを仰ぐ。

 彼らとの間に、越えることのできない高い壁が築かれてしまった。


 あなたは、貴族なのか。平民なのか。


 もし、彼が王妹エレーヌの子として生まれていなかったら。フレデリク王とテレーズ王妃、セルジュや王宮の人々に会っていなかったなら。

(俺は今ごろ、このバリケードの内側にいたのかもしれない。彼らとともに理想を分かち合い、ともに戦ったのかもしれない)

 激しい懊悩をかかえて、包囲する警察隊のもとに戻る。

「交渉は決裂した」

 短く報告すると、ポミエ警察長官は「わかりました」とうなずき、マスケット銃で武装した隊員たちに、「かまえ」と命じた。

「待て!」

 エドゥアールは驚愕して、長官の腕をつかんだ。「待ってくれ。まだ別の手が――」

「この交渉が決裂した場合、実力を持って叛徒どもを排除せよとの命令を、リンド侯爵さまより受けております」

 危険を察知した急進派のバリケードの中から、一斉にマスケット銃が構えられた。

 長官は叫んだ。「危のうございます。どうぞ安全なところに退避を」

 ふたりの隊員が両側から彼の腕をつかもうとした。

「冗談じゃねえ!」

 彼らの手からすりぬけると、エドゥアールは脱兎のごとく石畳の上を走り出した。

「撃つな!」

 通りの真ん中に仁王立ちになり、両腕を広げる。

 警察隊から。バリケードから。

 その瞬間エドゥアールは、何十もの光る銃口に狙いを定められた。




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