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伯爵家の秘密  作者: BUTAPENN
番外編
80/91

7. 伯爵夫人の涙(1)

 するすると旗竿に白い旗が掲げられると、それは休戦の合図。

 つまり、昼ごはんの時間だということだ。

 湖の向こう側の森の中から、ときの声が上がる。こちら側の陣地からも、応答の雄叫びが木霊のように返る。

「よし。今日はここまでだ」

 真紅のスカーフを頭に巻いた船長が立ちあがった。

「クロード、今日の戦績は?」

「宝の箱がふたつであります、キャプテン」

 十一歳の参謀長が立ちあがる。「ひとつは絹織物三反と銀貨50枚。もうひとつには、真鍮の鍵がひとつと宝の地図一枚が入っていました」

「よし、次の探検はその地図に沿って行なう。諜報チーム、それまでに解読を頼む。主計長チームは、宝箱をオスト村の村長のもとに運び、病人や老人の家庭に温かい食べ物を届けるように頼んでくれ」

「はい」

「航海長チームは、新しい宝箱をどこかに隠して、相手に渡す宝の地図を作成。掌帆長チームは敵の次の攻撃に備えて、陣地を補修。余力があれば見張り小屋をもうひとつ作る」

「はい!」

 首に真紅のスカーフを巻いた少年少女たちは、そろって返事をし、胸に手を当てて敬礼した。

「よし、それじゃ昼飯だ。食うぞーっ」

「おーっ」

 船長の号令一下、彼らは一斉に草むらを走りだした。

 湖畔の道のところで、向こう岸からやって来る緑のスカーフの海賊たちと合流し、敵と味方は仲良く丘を駆け登った。

 小高い空き地に備えつけられた丸太の長卓には、すでにサンドイッチや温かいスープ、野菜のスティックや湯気を立てる蒸かし芋が、ところせましと並んでいた。

「さあ、みんな、どんどんおかわりしてね」

 ボンネットとレースのエプロンをつけた伯爵夫人とメイドたちが、腹をすかせきった海賊たちに、食べ物がたっぷり乗った皿と碗を次々と流れ作業で渡していく。

 海賊の長は、丘を登りながら頭から真紅のスカーフを外した。輝くような金髪。今日の青空そのものの水色の瞳――誰あろう、このラヴァレの谷の領主、エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵だ。

 向こう岸の子どもたちを指揮していたジョルジュとトマと微笑み合う。

「まったく、元気なものですね」

「ああ」

 無心に昼食を頬張る子どもたちの顔を、彼らは満足げにながめた。



 伯爵領の中央に位置するリムネ湖を舞台に、ラヴァレ伯爵が谷の子どもたちを集めて、大掛かりな海賊団を組織したのは、去年の夏だった。

 水がぬるむ夏は、湖に浮かべた小帆船の速さを競わせ、泳ぎに興じる。春や秋は野いちご摘みやキノコ狩り競争。雪にふりこめられる冬は雪合戦と、退屈する暇もない。

 ときおり、暗号文を作っては敵の陣地に送りつけ、谷じゅうで宝箱の争奪競争を繰り広げる。

「あの子たちに、この谷のすみずみまで知り尽くしてほしいんだ。たとえどこにいても、自分の故郷を世界で一番好きな場所として思いだせるように」

 エドゥアール自身が大人になるまで、谷から離れて暮さねばならなかったからこその、切実な思いであろう。

「まったく若旦那さまは、いらぬ用事を作ってくださいます」

「一番楽しんでおられるのは、子どもたちよりも若旦那さまでしょう」

 と不平を鳴らしながらも、執事のロジェを初めとする使用人たちも、嬉々として雑用を引き受けてくれる。

 豊かな収穫を終えた大地は、麦わら色ののどかな平和の中にたゆたい、人々が幸福な思いで冬の支度にとりかかる季節だった。

 一点の曇りもない青空が、ラヴァレの谷を覆っている。

「あなた」

 丘から谷の景色に見入っていた夫に、ミルドレッドが泡立つ琥珀色の液体の入ったグラスを差し出した。

 この時期ならではのブリュは、ワインの発酵が始まったばかりの白葡萄のジュースだ。秋が深まるにつれて発酵が進み、風味も微妙に異なっていく。

 谷を彩る紅葉のように、一日一日の季節の移り変わりを肌で感じる飲みものだ。

「お疲れではありませんの。王都から帰っていらしたばかりだと言うのに」

「うん、平気」

「遠くからでは、お顔の色が悪いように見えたのです」

「シラカバの葉の黄色が映るから、そう見えるだけだって」

「そうだとよいのですけれど」

 ミルドレッドは静かなため息を吐いた。エドゥアールは一ヶ月ぶりに帰郷しても、ひとときもじっとしていない。夫の身を案ずる気持に嘘はないのだけれど、本当は少々さびしさを感じていたのだった。

 夫が王都に行くときは必ず付き従おうと固く決めていたのに、幼い息子がいる身では、それもままならない。それに大切な収穫の時期に、民の支柱であるべき伯爵夫妻が、ふたりとも領地を留守にするわけにはいかなかった。

 このところエドゥアールは、ますます多忙に、不在がちになっていく。国務大臣として、王族として、クライン王国の外交や内政の、一刻を争う重要な問題を双肩に担っているのだ。

 いったいどうして、こうなってしまったのだろうか。ようやく彼が戻ってきたというのに、こんな不安な気持ちに駆られるのはどうしてだろう。

 ぽんと頭に温かな手が乗るのを感じた。

「ごめんな、ひとりにして」

 長い指先が器用に、彼女のうなじの後れ毛をくすぐる。「しばらくは、ゆっくりできるから」

 そのやさしい労りの声に、胸がつまって何も言えず、ミルドレッドはただうなずいた。

 誰よりも、静かに谷で暮らすことを願っているのは、彼自身なのだ。そのことを、妻である私が理解してあげなければ。

「ちちうえー」

 それまで母親のエプロンにしがみついていたジョエルが、とうとう我慢できなくなって、懸命に両腕を差し伸べた。

「お、どうした。何を泣いてるんだ」

「ボクも、かいぞく、なりたいー」

「おまえはまだ三つだろ。五歳になったら海賊団に入れてやる」

 軽々と息子を抱き上げると、エドゥアールはぽんと空に放りあげた。

「早いとこ、大きくなれ。そして俺の代わりに、この谷を守ってくれ」

 幼い息子は、その言葉の重みも知らぬげに、きゃあきゃあと笑い声を上げた。

 

 遊び疲れた一日が終わり、絵本の半ばで力尽きてしまったジョエルを侍女のソニアに預けると、エドゥアールは寝室からバルコニーに出た。

 日が落ちるとたちまち、谷は冬の気配に包まれる。

 髪を結い上げて晩餐用のドレスに着替えたミルドレッドも出てきて、夫の肩に自分のショールをふわりと掛けた。

 エドゥアールは彼女の体を引き寄せ、ショールを分け合う。

「ユベールさまは、いっしょにお戻りになれませんでしたの?」

「ああ、用事で、ちょっと王都に残らせてる」

「わたくし、ひそかに心配しておりますの」

 伯爵夫人は、茶色の優美な眉をひそめた。「あの方が、あまりにもソニアと過ごす時間が少ないので、このままではカスティエ家は後継ぎが授からないことになりはしないかと」

「あはは。だいじょうぶだって。あいつなら、ちゃんとやることはやってる」

「殿方の都合だけではありません。女にとって出産は命がけの事業なのですよ。子を産むことができるのは、若く元気なうちだけなのです」

 ソニアを思いやる言葉の裏に、ミルドレッドは自分の身を重ねていた。ジョエルが生まれてから、三年。第二子を望む声がちらほらと周囲から聞こえてくるようになったのだ。

「おふたりとも、もう少し谷で過ごす時間を増やすわけにはいかないのですか」

「……そうだな」

 エドゥアールの横顔は、どことなく苦々しげだ。

「王宮に、何かむずかしい問題でも?」

「ややこしい問題が、あることはある」

 しぶしぶ認めるような歯切れの悪い答えに、ミルドレッドは彼が心中に大きな悩みを抱えているのではないかと直感した。

「わたくしにはお話しになれないようなことですか」

「いや……けど、説明がむずかしい。ひどく複雑で入り組んでるんだ」

「きちんと順序だてて説明してくだされば、きっと理解できます」

 気の進まぬ夫を励ますように、ミルドレッドは明るく言った。「そうすることで、もつれた糸がほぐれることもあるものですわ」

「わかった。話すよ」

 エドゥアールの瞳は、頭上の夜の空を映すように藍色にきらめいた。もうそこには、迷いはない。

「ただし――晩餐の後にしてくれないか。今はめちゃくちゃ腹が減ってる」

「まあ」

「それから、ひとつだけ約束してほしい。俺の話が終わるまで、決して途中で席を立たないこと……それに」

「若旦那さま」

 家令のナタンがバルコニーの入口から声をかけた。

 王都の居館執事だったナタンが、オリヴィエの後を継いで家令になってから、もう五年あまりになる。オリヴィエのような押し出しの強さがなく、存在感が薄いのが玉にきずだが、彼なしではラヴァレ伯領は一日とて回っていかない。

「どうした、ナタン」

「モンターニュ子爵ご夫妻がご到着になられました」

「親父さまとおふくろさまが!」

 エドゥアールは、思わずミルドレッドと顔を見合わせた。夫人は首を振った。「いいえ、聞いておりません」

 パルシヴァルとダフニ夫妻は、ミルドレッドの実の父母だ。

 すでにエドゥアールに家督を譲ってはいるものの、非公式な場所では、いまだにモンターニュ子爵を名乗ることが多い。

 王都の居館で悠々自適の老後を営みながら、子爵領やラヴァレ伯領を頻々と訪れたり、クライン王国のあちこちを旅して回ったり、けっこう多忙で活動的な生活を送っている。

 しかし、使いも立てずにいきなりという性急な訪問は、これがはじめてだった。

 いやな予感に胸を騒がせながら、ミルドレッドは玄関に急いだ。

「お父さま、お母さま!」

「おお、ミルドレッドや」

 老いた両親は満面の笑みに涙まで浮かべて、かわるがわる愛娘を抱きしめる。まるで、十数年ぶりに再会するかのような喜びようだ。

「お元気そうでよかったわ」

「おまえこそ、無事なんだね。元気なんだね」

「あたりまえよ。夏にお会いしたばかりなのに」

 いつもに輪をかけて大げさな両親の様子に、ほっとするものの、どこか不安はぬぐいきれない。

「伯爵さま」

 ふたりは、大階段を下りてきたエドゥアールの前にひざまずいた。「突然の訪問になりました非礼をどうぞお許しください」

 笑顔は消え、その声には張りつめたものが混じっている。

「他人行儀だなあ、親父さま、おふくろさま。いつだって大歓迎だよ」

 快活に答えるエドゥアールの声も、いつもとどこかが違うように、ミルドレッドには感じられた。



 どんな突然の来客にも、ラヴァレ伯爵家の使用人たちは動じることがない。

 ふだんから掃除の行き届いた客間には花が活けられ、リネン類が調えられ、暖炉には、よく乾いた薪の作り出す炎がぱちぱちと燃え始める。

 ラヴァレ伯爵一家の食卓には、たちまちにして客用のグラスやカトラリーが用意され、人数分のご馳走が並ぶ。

 父エルンストも交えて、なごやかな晩餐が始まった。

 ラヴァレ大伯は、一時に比べて見違えるほど健康を取り戻してはいたが、まだ腹に爆弾を抱えていることに変わりはない。できるだけ無理をしないように、本人も周囲の者も気配りを怠ることはなかった。

 いつもなら、われ先にと賑やかなおしゃべりに興じるパルシヴァルとダフニは、ここでも口数が少なかった。

(やはり、お父さまとお母さま、どこかおかしい……)

 ミルドレッドは心に暗いわだかまりを抱きながらも、晩餐のあいだ当主夫人としての役割を忘れず、朗らかにふるまった。

 父伯が部屋に引き取るのを見送ったあと、彼女は両親の使う客間に行き、すみずみまで調えられていることを確かめた。

 満足して大食堂に引き返すと、隣の書斎で食後のひとときを過ごしているはずの両親のもとへ向かった。

「ご返答いただきたい」

 扉の隙間から、父パルシヴァルの気色ばんだ大声が漏れてきた。「あなたは、娘を離縁なさるおつもりなのですか」

――え?

 扉を開けようとするミルドレッドの手が凍りついた。

「そんなつもりは、ない」

 エドゥアールの静かな、しかし聞きようによっては、ひどく疲れた声で、返答があった。

「では、せめて妾夫人として、一生の面倒を見てくださる思し召しだと考えてよろしいのですな」

「そうじゃないって、言ってるだろう。親父さま」

「ありがとう存じます。しかし、そのような親しげな呼び方は、もはや金輪際ご無用に願います」

 衣ずれの気配に、ミルドレッドはとっさに扉の陰に隠れた。

 父が顔をこわばらせて出てきた。母は目を真っ赤に泣き腫らしている。

 ふたりが立ち去ったあと、彼女はのろのろと体を動かした。開け放した扉から、ちらりとエドゥアールの姿が見えた。

 書斎机の隣に立ち、彼は机の上にじっと目を落としている。いきなり、ペン立てからペンを握りしめると、書類の束の上に突き立てた。

 引き結んだ唇は青ざめ、その横顔に浮かんだ表情は凄絶なまでだった。ミルドレッドは生まれて初めて、彼が怖いと思った。

 その場を逃げ出すように、両親の後を追う。

 モンターニュ子爵夫妻は、ソニアがジョエルのお守をしている子ども部屋に来ていた。ベッドを覗きこんでは、涙声でささやきを交わしている。

「まあ、なんて長いまつ毛」

「ミルドレッドの小さいころにそっくりだよ」

「ええ、本当に」

 ミルドレッドが入ってきたことに気づくと、父は振り向いた。

「話があるのだ」

 客間に入り、メイドたちを下がらせると、三人は暖炉の前のソファに腰をおろす。

「いったい、どういうことですの、先ほどのお話は」

 夫妻は顔を見合わせた。「聞いていたのか」

「ええ、すみません」

「ならば、話は早い。いったいどう切り出したものかと迷っていたのだが」

 ダフニがまた泣き出したので、子爵はまた話を中断して、よしよしと背中をさすった。

 パイプ入れからパイプを取り出し、煙草の葉をつめようとして、そのままテーブルに置く。

 ミルドレッドは、一刻も早く聞きたい気持ちと、聞きたくない気持ちに引き裂かれて、ぼんやりと父の手元を見ている。

「五日ほど前、うちのメイドが、ある噂を街で聞きつけてきたのだ」

 ひゅうと喉を鳴らしながら、父は話し始めた。「ラヴァレ伯爵が、新しい夫人をお持ちになったと」

「え……?」

 あまりに意外なことばに、耳が音をすべらせたように感じた。

「王都の居館には、すでにその女性が住まわれていると」

 頭が理解することを拒否している。

「わたしは、何度もラヴァレ伯の居館に赴き、真偽を問い質そうとしたが、エドゥアールさまは王宮からお戻りになられぬとの一点ばりで、執事にことごとく追い返される始末」

「そのうち、ヴェロニクが友人から聞きつけて来たのですよ」

 母がハンカチを絞るようにして目をぬぐう。

 ヴェロニクとは、母の妹にあたる男爵夫人で、貴族社会に広い情報網を持っている。「エドゥアールさまがお娶りになった女性とは、陸軍元帥ティボー公のご令嬢レティシアさまであると」

「つまり、大臣会議にも連なっておられるティボー老公の、孫娘にあたられる御方」

「うそ……」

「元帥閣下と姻戚になることは、いわば、陸軍全体を味方につけるも同然。国事をになう国務大臣としてエドゥアールさまは、その計り知れぬ利益を天秤にかけられ、決断なさったのだろう」

 パルシヴァルは重々しく首を振った。「所詮は、あの方も人の子だったのだ。たやすく権力の虜になってしまわれた」

 ミルドレッドは視線を宙にさまよわせ、助けを求めるように母親を見た。

「あなたがラヴァレ伯爵家の正夫人であるのは、万人の認めるところです。けれど、お相手は公爵令嬢。子爵階級の出身であるあなたが上に立つわけにはいきません。名門ティボー公爵家の誇りが、それを許さないでしょう」

「では、わたくしは――」

 母親は、娘を胸にかきいだいて、はらはらと涙を落した。「いずれはレティシアさまに……正夫人の座を譲ることに」

 それでは。

 私の代わりに、その方がエドゥアールさまの隣に立つ。

 私の代わりに、その方がエドゥアールさまと食事をともにし、舞踏会で踊り、微笑み合いながら、生まれた赤子をやさしく撫でる――。

「――ジョエルは?」

 母親の腕から離れ、ミルドレッドは小さな悲鳴を上げた。「ジョエルはどうなるの?」

「もうすぐレティシアさまとの間に生まれる子が男子ならば、その子が新たな嫡子となろう」

「……もうすぐ?」

 目じりを濡らした子爵は、ひどくかすれた声で答えた。

「噂によれば、レティシアさまは、すでに身ごもっておられるのだよ」

 


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