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伯爵家の秘密  作者: BUTAPENN
番外編
75/91

冬至祭(2)

(4)


 港町ポルタンスの裏通りが一年で一番静かなのは、意外にも冬至祭の日だ。もともと冬は南の海が荒れるうえに、この時季は船員たちも里心がついて、故郷に戻りたがる。

 夜を徹して居酒屋をはしごし、道端で乱痴気騒ぎをする豪傑たちも、いるにはいるが、数はそう多くない。

 冬至祭は、家族とともに過ごすお祭りなのだ。

 娼館イサドラの店も、暮れ方の書入れ時だというのに、灯りを消し、扉を閉めていた。

 ジョルジュ・ド・マルタンは、その扉の前で、かなりの間ためらってから、ノックした。

 薄暗い室内から、ランプを掲げて、ひとりの女が出てきた。

「まあ、騎士さま」

 それは、以前にも会ったことがある、ネネットという若い娼婦だった。

「プランケット夫人に、ラヴァレ伯爵からの届け物を持ってきたのだが」

「まあ、お入りください」

「いや、だが今の時間は」

「だいじょうぶです。客は誰もおりません」

 羽根帽子を脱ぐと、くりかみの騎士は地獄の門をくぐるかのような面持ちで扉をくぐった。

 確かに、中はしんと静まり返っていた。いつもなら賑やかに階段を上り下りしているだろう娼婦の姿もない。

「毎年、この娼館は冬至祭の日は休業なんです」

 ネネットは、戸惑い顔の騎士に説明した。「みんな朝から町へ買い物に繰り出したり、家族の顔を見に田舎へ帰ったり、思い思いに過ごしていますわ。ミストレスも、何人かと一緒に町へ出かけてしまいました」

「なるほど」

 ラヴァレ伯爵は四年前までここに住んでいたから、そのことはよく知り尽くしているに違いない。だから、彼を使いによこしたのだ。母と水入らずで冬至祭を過ごせるように、と。

「まったく、あの方は頭が回りすぎる」

 口の中でつぶやいていると、ネネットは爪先立って、彼の背後を覗くようなしぐさをした。

「あの、いつもの従者の方はおられないのですか」

「ああ、トマならラヴァレ領で、細君と冬至祭を過ごしているよ」

 ジョルジュは肩をすくめた。「つまり、ひとり身の僕だけが、あぶれてしまったというわけだ」

 ネネットは「まあ」と、細い眉を寄せた。顔に化粧っ気がなく、身なりも清楚な休日の娼婦は、良家の子女と言っても通りそうだ。そう言えば、下町のはすっぱな訛りも、以前ほどは気にならなくなっていた。

「しかし、この店は、確かに変わっているな」

「どうしてです」

「普通、娼館というものは、売られてきた娼婦たちを無理矢理閉じ込めるもの、娼婦たちは隙あらば逃げ出そうとするもの、ではないのか。それが自由に町へ買い物に出るとは」

「そんなものなのですか」

 ネネットは目をぱちくりさせている。

「あたしたち、ここを逃げ出しても、行きたいところなんかありません。お腹いっぱい食べられて、一番居心地がよくて、楽しいのがここなんですもの」

(なるほど、これがミストレス・イサドラが作り上げた貧しい少女たちの理想郷、というわけか)

 皮肉な思いを抱きかけたジョルジュは、手に持っていた荷物を差し出した。

「では、あなたからこれをミストレスに渡してほしい。伯爵からの冬至祭の贈り物と手紙だ。こちらは皆さんへの土産の品々。ひとりずつにラヴァレ産の絹のハンカチーフ、ほかにマルベリーのジャムの大瓶が入っている」

「あ、ありがとうございます」

「では」

 帽子をかぶり、立ち去りかけた騎士を、ネネットはあわてて呼び止めた。「待ってください。ミストレスはもうすぐ帰ってきますから」

「そうも、ゆっくりはしていられないのだ」

 ジョルジュは、持っていた乗馬用の革手袋をはめながら答えた。「実は、市内のめぼしい宿屋をいくつか当たってみたが、どこも今夜は満員だと言われた。日が暮れきる前に帰路につき、近くの村で宿をさがそうと思う」

「部屋なら、いくらでも空いています」

「悪いが、それはできない」

 ジョルジュは薄く笑った。「騎士の名にかけて、娼婦の店などに泊まるわけにはいかない」

 ネネットは、恥ずかしさのあまりさっと顔を赤らめ、深く頭を下げた。「申し訳ありません。出すぎたことを申しました」

 その消え入るような声を聞き、騎士は自分の不用意な言葉が、彼女の心を少なからず傷つけたことに気づいた。

 立ち去りかけ、足が自然に止まる。

「ひとつ尋ねるが、このあたりに、うまい料理を食べさせる店はないか?」

「はい?」

「出立する前に、腹ごしらえをしていきたい」

 我ながら、言い訳するような響きだと思った。「よければ、あなたも一緒に」


 水路に停泊している舟は思い思いの飾りをつけ、水路沿いの街路樹にぶら下げられたたくさんの提灯が、水面を渡る風に揺れている。

 イサドラの店の裏のカフェで、きのことチキンのタルティーヌと熱いクリームスープを平らげたジョルジュは、水路に沿ってゆっくりと歩いた。

 潮の香りがする。内陸の雪の多い地方で育ったジョルジュにとって、冬至祭の夜に、のんびりと街を歩けることが不思議だった。

 もっと不思議なことに、カフェを出てからずっと、背中の皮膚が温かい。一歩離れた後ろをついてくるネネットを意識しているのか。

「なぜ、あなたは、みんなと一緒に出かけなかった」

「留守番です」

「鍵をかければ、留守番など必要なかったはずだ」

 少女は、水路に映った提灯の灯りをじっと見つめながら歩いた。

「あたし、冬至祭のお祝いが嫌いなんです。家のことを思い出すから」

 ジョルジュは、息を詰めた。

「ばかみたいでしょう。この年で親兄弟が恋しいなんて。でも街の飾りを見るとどうしても、子どものころ一番楽しかった冬至祭の夜を思い出してしまうの」

 ネネットの親も小作農だと聞いている。貧しさのあまりに、娘を仲買人に売ったのだ。金のために親に捨てられた――年端も行かぬ少女にとって、それはどれほどの衝撃だったろう。

「僕もそうだったよ」

 気がつけば、つぶやいていた。「母が家を去ってしばらくは、冬至祭のたびに、捨てられた哀しみがよみがえってくるようだった」

「待ってください。ミストレスは、あなたを捨てたわけじゃ――」

「わかっている。だが、事実はどうあれ、子どもというものは、そう感じるものじゃないのかい?」

 ふたりは立ち止まって、見つめ合った。

「ええ、そのとおりですわ」


 娼館に戻ると、イサドラが彼を戸口で待っていて、膝をかがめた。

 母子は、台所の大テーブルで、紅茶のカップを手に向かい合った。

「だまされました」

 ジョルジュは、くつくつと喉の奥で笑った。

「ネネットと僕を、ふたりきりになるように仕向けたでしょう」

「まあ、心外な。会ったその日にカフェで一緒に食事をするなんて、神さまだって計画できやしませんよ」

「プランケット夫人」

 ジョルジュは真剣な眼差しで、まっすぐに見つめた。

「それだけは、できません。娼婦をマルタン士爵家の一員として迎え入れることは、絶対にありえません」

 仮にも昔は母と呼んだ人に、酷なことを言っていると思う。なのに、そう言わせているのは、彼の騎士としての誇りなのか、捨てられた子の理由なき反抗なのか。

「おや、もうそんなことまで思い悩んでおられるのなら、話は早い」

 イサドラは機嫌よく、トトンと人差し指でテーブルの表面を叩いている。「ラトゥール州の州長官が知り合いにいて、ネネットを名前だけの養女に迎えてもよいと言ってくれています。手続き次第で、公的書類から過去は消せますよ。あとはあなたの気持ちひとつ」

 ジョルジュは、ほうっと長いため息を吐いた。

「なんと手回しの良い。あなたとラヴァレ伯爵の共同戦線、というわけですか」

「あはは。何の話でしょう」

 頭をかかえている騎士の前で、裏町の娼館の女主人は、体をのけぞらして笑った。




(5)


 クライン国王は、あずまやの、いつものお気に入りの寝椅子に仰向けに寝ころんでいた。

「まあ、あなた。この寒い夜に」

 探しにきた王妃は、あわてて駆け寄ると、ありったけの毛布で夫の体を覆い始めた。

「案じておりました。デザートの頃になると、いつのまにか姿がお見えにならないんですもの」

 彼は、「うう」と唸る。

「あれは、余の天敵なのだ」

 王宮の冬至祭の晩餐会に必ず出るのが、プラムプディングだ。何ヶ月もかけて果実とともに仕込んだ菓子は、ただでさえ吐き気がするほど甘ったるいのに、さらに仕上げにカスタードソースをかけるという念の入れよう。

 金髪の征服民族が東からの侵入の折に袋に入れて持ち運んだという歴史的な謂れがあるため、ファイエンタール家にとっては一族を象徴する大切な祝いの菓子でもあった。

 テレーズは、あきれたように笑った。

「わがままな王さまですこと。苦いものは嫌い、甘いものも嫌いとおっしゃっていたら、いったい何を召し上がるのです」

「余は中庸を好むのだ。右にも左にも偏らぬ。良き王の資質ではないか」

「減らず口ばかり」

 肩口にさらに毛布をかけようとする王妃の手を、フレデリクはつかんで、体ごと自分の胸元に抱き寄せた。

「もっとこの上から、どんどん毛布をかけよ。ふたりで蓑虫となり、春まで寝て過ごそうではないか」

「魅力的なお誘いですけれど、ひとときもじっとしていない王子がそうさせてくれません」

「む、余よりシャルルめのほうが、大事だと申すか」

「どちらのほうが手がかかる坊やか、真剣に考えるときがありますわ」

 テレーズは、癖のある夫の髪の毛を、なだめるように手櫛で梳くと、毛布の重なりの中から起き上がった。

「ギョーム」

 それを合図に、侍従長がお茶を乗せた銀の大盆を運んできた。王が顔をしかめたことには、大きく切り分けたプラムプディングの皿までついている。

 冬至祭の真夜中。国王夫妻はあずまやの中で、湯気の立つお茶を向かい合って飲んだ。

「そう言えば、その悪魔のような菓子を、実に美味そうに食す男がおったな」

 フォークをあやつる王妃の手元を見つめながら、フレデリクはぼんやりとつぶやいた。

「『おいしそうに食べると、姫君がお喜びになるから』――ぬけぬけと、そう申しておったわ」

「先代のラヴァレ伯のことですね」

 王妃は、プディングの皿を優雅にテーブルに置いた。「エレーヌさまは、甘いものが何よりもお好きだったと、うかがいますもの」

「いつもデザートの仕上げだと言って、フォンダンショコラを追加で食していたほどだ」

「まあ」

 聞き上手な話し相手は、にこにこと微笑を絶やさぬまま、相槌を打つ。

「テレーズ」

「はい」

「一度聞こうと思っていた」

 王はゆううつそうに、言葉を継いた。「そなたは、不快ではないのか。余がエレーヌの思い出を語るたびに、そなたを居たたまれぬ思いにさせているのではないか」

「いえ、陛下。そんな」

「そなたは、完璧に自分を押し殺し、表情に出さぬだけに、余計に始末が悪い。今も心の中では、こう疑っているのであろう。『夫は、妹のことを思い出すのが辛いあまりに、プラムプディングを避けているのだ』と」

 テレーズはゆっくりと首を振った。

「陛下。わたくしは陛下が妹君のことを思い出されるとき、お幸せになれるのなら、それでよいのです」

 穏やかに耳に溶け入るような、しかし迷いのない声だった。

「でも、万が一にも、思い出が陛下をお辛くさせてしまうのなら、妻であるわたくしの務めは、お忘れになっていただくことだと思っております」

「すまぬ、いらぬ気遣いをさせる」

「いえ」

「だが、そなたには、知っておいてほしいのだ」

 フレデリクは身を乗り出し、テーブルに置かれた妻の手に触れた。

「王宮という狭い世界の中で、長いあいだ余が愛し、慈しむことのできる相手は、妹しかいなかった」

 そして、小さな息を吐くと、ふたたび顔を上げた。

「だが、この歳になって、本当に人を恋うるということがどういうことか、ようやくわかった――そなたのおかげだ。礼を言う」

 テレーズの瞳の中に、ゆらゆらと小さな美しいさざなみが生まれた。「……もったいないお言葉です」

 王は照れ隠しに立ち上がった。「もう中に入ろう。余にうりふたつの、わがまま王子の寝顔を見たくなってきた」

 腕を王妃に差し出す拍子に、王服の袖がテーブルに当たり、手つかずのプディングが横倒しになって皿からこぼれた。

 こほんと咳払いする。

「ギョーム」

「はい。なんでございましょう」

 王の子どもじみた表情に、侍従長は笑いを押し殺しながら近寄ってくる。

「見よ。余の天敵が余のもとにひれ伏しておるぞ。これで来年のクラインの平和と繁栄は、約束されたも同然だ」




(6)


 ラヴァレ伯爵領は、クライン王国のどこよりも夜が長い。

 東と西の両側を山にはさまれた谷にあるために、日が昇るのが遅く、沈むのが早いからだ。

 特に冬至祭のころは、陽光はほんのわずかの時間しか、谷底には届かない。一日数時間しかない昼に、そそくさと外に出かける用事をすませ、あとは雪除けをした家の中で、暖炉の火を取り囲むようにして思い思いに手仕事をしながら過ごすのが、村人たちの冬の一日だった。

 エレーヌは二、三度、力ない咳をすると、目を開いた。バルコニーへ通じる折り戸は何枚か折り畳まれ、長く薄い日差しが寝台まで差し込んでくる。

「あなた」

 暖炉のそばのテーブルで、先祖から伝わる革鎧の鋲を磨いていたエルンストは、妻の声に立ち上がった。

「今日は、冬至祭ですのね」

「ああ」

 夫は寝台のへりに腰をおろすと、妻の絹糸のような金髪を指先にからめ、そして額に手を置いた。ここのところ彼女をずっと悩ませている熱も、今は引いている。

「起きたいわ」

「だいじょうぶなのか」

「ええ、だいじょうぶ。急いで行きたいところがあるのです。太陽が傾く前に」

「外に行くというのか」

 伯爵はうめくように言った。

 もし妻の病気が望みのあるものなら、こんな寒い日に無理をするなと何をおいても反対しただろう。だが今となっては――三回目の吐血をした今となっては。

「わかったよ」

 彼は微笑んで、エレーヌの頬にキスを残すと立ち上がった。

「アデライド」

 侍女の名を呼び、着替えを命じて、妻の部屋を出る。

 自室に戻ると、エルンストは大きく深呼吸した。やがて来たらんとする喪失の痛みに、自分は耐えられるだろうか。

 耐えなければならぬ。ふたりには守るべき大切なものが、まだ残されているのだから。

 支度ができた。

 やせ衰えた身体を暖かいフードつきのマントで隠した妻は、若いときと同じく、いやそれ以上に美しく見えた。

「歩けるか」

「歩きたいの」

 しっかりと妻の背中に腕を回し、支えながら部屋を出る。

 鎧戸を下ろした暗い廊下には、たくさんの素焼きのランプが用意されて足元を照らしている。

「みんなったら」

 エレーヌはうれしそうに笑った。いつのまに準備されたのだろう。廊下から階段まで、見渡す限り連なる暖かな光は、冬至祭の灯りをともす家々を思い出させる。

「この廊下を、何度走り回ったことでしょう」

「ああ」

「楽しかったですわ。隠し扉に秘密の抜け穴。わたくしにとって、この領館は冒険の国そのものでした」

 涙を押し殺して、執事のロジェが笑顔で出迎える。押し開かれた玄関の扉をくぐって、外に出た。

 庭は、夜来の雪で白一色だった。

「きれい」

 血の気のない雪のような頬を、わずかに染めているのは化粧の紅だろうか。どこまでも澄み渡った青空のような瞳を幸せそうに細めて、庭を見渡す。

 勾配のある小道を進んでいこうとしているのを見て、エルンストはすくい取るように妻の身体を抱き上げた。

「あなた。わたくし、自分で歩けますわ」

「若い頃、王立軍で厳しい訓練に耐えたのは、何のためだと思っている。ひとえに女性を軽々と抱き上げるためだぞ」

「あなたったら、そんな不純な動機で入隊なさったのね」

 白い古代風のあずまやに指しかかったとき、エレーヌは「降ろして」と言った。あたりの木立は、見晴らしがよいように南に面した斜面まで切り開いてある。

 ふたりは、しばらく無言で谷の景色を眺めた。淡く透明な陽光が低空から斜めに射しこんで、雪を宝石のようにきらめかせ、さながら森も村も、雲の上に浮かんでいるようだった。

「どこよりも、ここから見る景色が好きでしたわ」

「ああ、わたしもだ」

「暇さえあれば馬で駆け回って、ラヴァレの谷のすみずみまで巡りましたわね。どの道端の石も、どの森の木も、きっとわたくしのことを覚えていてくれますわ」

 エルンストは大きな塊が胸につかえているのを感じた。できることなら、喉をえぐり、かきむしりたい。妻が今日ここに来たのは、すべてのものに訣別するためだとわかったのだ。

「エレーヌ。わたしは」

 壊れものに触るように、そっと抱きしめる。「あなたに謝らなければならない。あなたをこの谷に連れてきたことは間違いだった。かびくさい城砦と、厳しい冬の寒さが、あなたの身体を蝕んでしまったのだ」

「では、カルスタンに嫁ぐほうがよかったと? ここよりもっと寒かったと思いますわ」

「でも、少なくとも、わが子とともに暮らすことはできた!」

「エルンスト」

 エレーヌはマフから手を出し、かぼそい指で、苦痛にうめく夫の黒い前髪に触れた。「何度も申し上げたはず。わたくしは後悔などしていません。もし今ここに天使が現れて、あなたと暮らした幸せな日々と引き換えに永遠の時間を与えようといわれても、決してうなずくつもりはありませんわ」

 そして、彼の両の手のひらに頬を寄せた。「永遠に過ごしたいと願える場所こそが、天国なのですから」

「エレーヌ」

 かすれた声で、エルンストは言った。「あの子をここに呼び寄せよう。今すぐに」

 今なら、まだ間に合う。まだ元気を保っているうちに、会わせることができる。たとえ、母と子の名乗りをさせることができなくとも。

「いいえ」

 エレーヌは弱々しく、しかしきっぱりと首を横に振った。「ここで急いては、十四年の多くの人々の苦労が水の泡になります。叙爵式を受けることができる年齢になるまで、決してあの子を危険にさらさないで」

「だが――」

「エドゥアールの冒険はまだ終わっていませんわ」

 少女のころ書いていた、ハツカネズミの絵本になぞらえて言っているのだ。

「ねえ、あなた。見て」

 伯爵夫妻は、後ろを振り返った。北国の冬至の昼下がりの太陽は、山の端すれすれから最後の光を放ち、ふたりの後ろに長い影を作っていた。ふたつの影は、雪に覆われた花壇を横切って、領館の苔むした花崗岩の土台にまで達していた。

「あなたといっしょに、これが見たかったの」

 妻が夫の胸に頭を押しつけると、影は完全にひとつの形になった。

「わたくしは、ずっとあなたとともにいます」

 一音一音、区切るようにささやく声。

「たとえ、定めのときが来て神に召されても、あなたの目を通してあの子の姿を見、あなたの耳を通してあの子の声を聞きます。だから心配しないで。嘆かないで」

「……エレーヌ」

「わたくしは幸せですわ、エルンスト。あなたたち二人の中に、いつまでも生きられるのですから――」



「エディ!」

 はっと我に返り、エドゥアールは自分を呼ぶ大声がする方角に顔を向けた。

 水路の反対側で、若い水夫が手を振っている。

「何してんだ。今日は仕事が休みだって言うから、おいらの舟、桟橋に回して待ってやってるのに」

 南部地方のポルタンスとはいえ、冬至の太陽は、枝のリンゴのように平原の地平の上にぶらさがったまま、ほとんど昇らない。ゆっくりと位置を変えながら、今はラトゥール川の河口にたゆたって見える。日差しはまるで夕方のよう、水夫の影も水路に沿って長く伸びていた。

 エドゥアールはもう一度、自分の足元を見た。

 石畳の上に落ちた自分の影は、でこぼこの石に当たるたびにカクカクと折れ、まるで回り灯篭に張りついた不恰好な紙人形のように見えた。

 その自分の身長よりはるかに長い影の向こうから、今しがた、ふと誰かが語りかけてきたような気がしたのだ。


 ――あなたの冒険は、まだこれからなのですよ。


 彼を見守ってくれる存在の、暖かな指先が頭に触れたような気がして、空を仰ぎ、不思議な安堵に身をひたす。

「エディってば。早くしねえとお天道さまが沈んじまうぞ」

「わかった。今行くって」

 影にきっぱりと背を向けると、十四歳の少年は黒い髪を揺らし、軽やかに街を走り出した。




「冬至祭」 終わり

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