冬至祭(1)
(1)
雪を運ぶ山おろしの風は、昼のうちにすっかり止んでいた。
雪かきを終えた大通りの道は、黒々と光る川のように見える。両側の家々の窓には、素焼きのランプが温かい灯りをこぼし、ときおり、人々の笑い声が漏れ聞こえてくる。
領館の礼拝堂で祈りの儀式を終えたラヴァレ伯爵夫妻は、それぞれの馬に乗って大通りに立っていた。
まだ生まれて四ヶ月に満たないジョエルは、侍女に預けて出てきている。
「ふだん、ぜいたくな暮らしをしている分、せめてこの日だけでも、寒さとひもじさに凍えなきゃな」
「ええ」
白い息を吐きながら、ミルドレッドは夫と微笑を交わした。
「行こうか」
馬から下り、手をつないで大通りを歩き出す。
「結婚して最初の冬至祭は、海賊船の上だったな」
「その前の年は、破談だと言われて、ひとりで泣きながら過ごしました」
ふたりは、箱から宝を取り出して眺めるように、過ぎし日々を振り返った。
村人たちが暖かな暖炉を囲みながら、一年で一番のご馳走に舌鼓を打つ冬至祭の夜に、領主夫妻がひそかに城下町をめぐるしきたりは、先代の伯爵エルンストとエレーヌが始めたことだ――谷の中に飢えに泣いている領民がいないか、笑い合う相手をなくしたひとりぼっちの者はいないかと見守るのが、領主の務めであることを肝に銘じるために。
十年ぶりの今年になって、その務めを若伯爵夫妻が復活させたのだ。
「冬至祭と言えば、とても苦い思い出がありますわ」
白い息を吐きながら、ミルドレッドがぽつりと言った。
「どんな?」
「まだ五歳になったかならないかの頃だと思います。モンターニュ領館の庭に小ぶりのモミの木があって、わたくしは侍女といっしょにリンゴや金色のリボンやガラス玉を飾りつけて大喜びでした。ところがその年は、常にないほどの大雪が降って、木がどこにあるかもわからない有様で。わたくしは大泣きして、モミの木をもう一度出してほしいと駄々をこねたの」
夫が手袋ごしにぎゅっと握り返してくれたのを、伯爵夫人は感じた。
「泣きながら寝てしまい、夜になって目をさまして、窓から外を見ると、周囲の雪がすっかりなくなって、モミの木までの通路さえできていました」
「館の使用人たちが総出で準備してくれた?」
ミルドレッドは、ため息まじりでうなずいた。
「大喜びのわたくしを抱き上げて、父が教えてくれましたの。みんなが凍えながら雪かきをしてくれたのだよと。わたくしの我がままのせいで……。さらに父は言いました。『人は命じれば思うままに動くかもしれない。けれど、それが当たり前だと思ってはいけないよ。まして、自然とは、決して人間の言いなりにはならないもの。そう思うのは、人間の思い上がりなのだ』と」
「親父さま、さすがだなあ」
エドゥアールは、またちらつき始めた冷たい雪を真っ向から顔に浴びるかのように、頭上の夜空を見上げた。
「ああ、俺も、ひどく思い上がっていたのかもしれない」
彼がそう思うのには、理由があった。
今年、ラヴァレ領の小麦は害虫の大打撃を受けてしまったのだ。冬蒔き小麦を導入してから、初めての凶作だった。
かろうじて害が及んでいない春蒔き小麦の畑を守るために、立ち枯れてゆく麦の穂に火をつけるように農民たちに命ずるとき、谷の主は、自分が炙られているような心地を味わった。心労のため、眠れぬ夜が何日も続いた。
喜びに沸くはずの春蒔き小麦の収穫も、被害の大きさを確定する手続きに過ぎなかった。結局、かろうじて収穫できたのは四割ほど。収穫期にはいつも夜通しガラガラと鳴り響いている水車小屋の粉挽き臼は、どこも早々と動きを止めて静まり返った。
伯爵家は、その年の領内すべての租税を免除した。収入を失った村人たちに対しては、代わりに森の伐採や養蚕の仕事に就けるように取り計った。
その合間にも、エドゥアールは農業大臣として、近隣で同様の被害を受けた地域の復興策のために駆け回った。
害虫に強い種類の種を手に入れるため、幾度となく王立農業試験場を訪れた。
ようやく肩の重荷を下ろすことができたのは、収穫後の村長会議の席上。あれほど被害の大きかった冬蒔き小麦を自分の畑に蒔きたいと申し出る農民たちが、倍増したというのだ。
どの農地も、ふだんより深く念入りに耕され、新しい改良品種の種が蒔かれるばかりに準備が整っているという報告を受けたとき、伯爵は人目もはばからずに涙を流した。
「俺、努力すれば何でもできる、誰の心も動かせると錯覚していた」
素焼きのランプと雪明りの織り成す美しい光の回廊を歩みながら、エドゥアールはまっすぐ前を見つめた。「だから、自然でさえも、人間の英知で思い通りになるなんて、大きな間違いを犯しちまったんだ」
「わたくしたち、慢心してはいけないという諭しを天から受けたのですわ」
「第一、あんな小っこいガキんちょでさえも、思い通りにならないんだからな」
ふたりは立ち止まり、声を合わせて笑い出した。
家の中でご馳走を楽しんでいる村人たちは、誰ひとり想像もしていない。彼らの領主夫妻が、冷え切った頬を真赤に染めながら、道で笑い転げているなど。
伯爵家が苦境に立っていた最中の九月、ジョエルが生まれた。身を切られるような日々を送る両親にとって、幼な子は慰めそのものだった。
乳を吐いたり熱を出したり、予想もしない寝返りを打って窒息しかけたり、さんざん振り回されながらも伯爵夫妻は、ジョエルを乳母にまかせきりにせずに、自分たちの手で育てようと決めた。
「今年は悪いこともありましたけど、良い年でしたわね」
「親父も元気だし、家族がひとり増えたしな」
「ジョエルを授かったことも、もちろん幸せですけれど」
ミルドレッドは恥ずかしそうに、夫の腕にぎゅっと顔を押しつけた。「でも、わたくしにとっては、こうしてふたりきりで過ごせることが、何よりも幸せなんです」
エドゥアールは甘えてくる妻を胸に抱き寄せ、自分のマントですっぽりと包んだ。
「最高の冬至祭だ」
(2)
城下町の見巡りから戻ってきた伯爵夫妻のもとへ、揺りかごに眠っている小さなお子さまをお返しした後、ソニアは自分たちの部屋に戻った。
「あ……おかえりなさい」
若旦那さまたちに付き従っていた夫が、腰の剣をはずしているところだった。
「雪が」
ソニアはあわててタオルを手に取ると、彼のもとに駆け寄り、雪片をちりばめた黒のマントを、爪先立って懸命に拭った。
彼の手が伸びてきて、はっと動きが止まる。ユベールは妻の手首をぎゅっと握って、微笑んだ。
「ね、手も氷のようだろう?」
「は、はい。外はとんでもなく寒かったのですね」
「ああ、凍えそうだった。きみに温めてもらえることだけを楽しみに、帰って来た」
低いささやきとともに、熱い息が耳たぶに触れる。ソニアはたちまち顔を真赤に染めた。
「あ、あの。もう少し、あの」
「なんだ?」
「もう少し、あの、離れて」
彼の唇が頬にいつ触れるかと想像するだけで、背筋がざわめき、気が遠くなりそうだ。
ユベールは、深い吐息をついた。
「ソニア。ここにおいで」
「は、はい」
言われたとおり、ソファの彼の隣に、少し離れて座る。
「わたしたちは、結婚して一年になったかな」
「はい、この秋に」
「それなのに、きみはまともに、わたしを見てくれたことは一度もない」
「だって……」
いまだに夫の灰緑色の瞳を間近で見つめると、心臓が跳ね上がりそうになるのだ。耳元で甘くささやかれるたびに、武人の長い指が彼女の肩や鎖骨をやさしく撫でるたびに、息がうまく吸えずに苦しくてたまらなくなる。
寝台の上で夜衣の紐がほどかれる頃には、もう意識を手離してしまったほうが、いっそ楽だった。
「だって、無理ないわ。私たち、それぞれのご主人さまとともにいることが多くて、ふ――ふたりきりになることが少なかったのですもの」
「なるほど。それもそうだな」
じりじりとユベールの体が覆いかぶさるように迫ってきて、ソファの上で逃げ場を失ったソニアは、まるで納屋の隅に追い詰められた子猫だった。
「あ、あなた。待って。私まだ顔も洗っていないし、着替えも」
妻のどんぐりのような黒い瞳の中に、明らかなおびえを見つけたとき、ユベールは表情をすっと消して、長椅子から立ち上がった。
「わかった」
その声は、珍しいほど怒りをあらわにしている。
「わたしたちが結婚したことは、どうやら間違いだったようだ」
低くうめくように言葉を切ると、騎士は体をひるがえし、マントと剣をふたたび手に取って、豹のようにすばやく扉に向かった。「出かけてくる」
「え……」
ソニアが体を起こしたときは、もう彼の姿は部屋になかった。「あなた!」
あわてて外へ飛び出したが、領館の長く暗い廊下が彼女の声を吸い込んでゆくばかりだった。
「結婚したことが――間違いだった?」
去り際のユベールの言葉を口の中で繰り返したソニアは、ぽろりと涙をこぼした。
そんなことは、もうとっくにわかっていた。貴族階級のカスティエ士爵と、メイドあがりのソニアでは所詮、釣り合うはずはなかったのだ。
誰もが振り返るほどの麗しさに恵まれ、優雅で気品があって、教養と強さを兼ね備えた夫に、野育ちの彼女はいつも引け目を感じていた。
自分が彼の妻だということさえ、ときどき自分でも信じられなくなった。いつかきっと裏切られる。飽きればいつでも捨てられる――その『いつか』が、冬至祭の今夜だったというだけ。
今夜こそ、ユベールは自分にふさわしい美しいお相手を見つけに、どこかに行ってしまうだろう。
ソニアは小さな悲鳴を上げた。そして、部屋に駆け込んでフードつきのマントを羽織ると、長い廊下を走り出した。ホールに駆け下りて、玄関番に「ユベールさまは、どちらへ?」と詰問した。
庭の白いあずまやの中で、夫は金色の髪に雪を宝石のようにちりばめて、立っていた。
「あなた!」
と叫んで、そのままの勢いで彼のふところに飛び込む。
「よかった。迎えに来てくれるのがもう少し遅かったら、頭を冷やすどころか、凍え死んでいたところだ」
ユベールは、なだめるように彼女の背中をさすった。
「寒いのに、こんなところにいるからです」
嗚咽でしゃくりあげながら、ソニアはぐいぐいと力任せに彼のマントを引っ張った。「早く部屋に戻りましょう。私が温めてあげますから!」
冬至祭の夜更け。互いの体温で体がすっかりと温まったころ、妻は暗がりの中でおずおずと訊いた――いったい、私のどこが好きなのですか、と。
夫は、実に楽しそうに笑って、こう答えた――ひとつずつ数え上げていたら、夜が明けてしまうよ、と。
(3)
リンド侯爵の地下のワイン蔵には、夜になると領館じゅうの蜀台が持ち込まれ、何百本の蝋燭で真昼のように明るかった。
セルジュは階段を降りてくると、まばゆい光の中でひとり座って洞窟の壁を見ている妻の姿を見つけた。
「ヒルデガルト」
夫の呼びかけにも、ユルギス生まれの高貴な血筋の妻は振り向きもしない。
「わたしが、ほんの二、三日留守にしているあいだに、いろいろあったようだな」
侯爵は首に巻いている絹のストールをはずして、ヒルデガルトの華奢な肩にそっと乗せた。彼女は無言で、それを振り払って床に落としてしまう。
セルジュはため息をついた。
「侍女に暇をやったそうだな。これで二人目だったと記憶するが」
彼女のそばを離れて、ホールをゆっくりと巡る。「侍女たちはすべて、ユルギス語の堪能な者を苦労してさがしている。あまり無碍に辞めさせることは避けてほしい」
「だって、うるさいんだもの」
押し殺した声で、ヒルデガルトは答えた。「もっと食べなきゃだめだとか、こちらはいかがですか、とか。クラインの食事は、どれもこれも不味くて、全然食欲が湧かないのに」
「ふむ」
セルジュは、ワインの古い樽に腕をかけて、振り向いた。「故郷の味がなつかしいというわけですか、ユルギスの姫君」
「そうよ、クラインのものは、何もかもいや! 料理も、ワインも、石鹸の香りも」
ヒルデガルトは拳を握りしめ、うなだれる。
「あの国がなつかしく思えるなんて、金輪際ありえないと思っていたけど、間違いだったわ。この退屈な土地に比べたら、あそこのほうが十倍ましよ。ドロテアお姉さまの大きな付けぼくろさえも、思い出すと涙が出るわ」
「帰りたいのか」
「帰れるわけないでしょう。あれだけの騒動を演じて、たった三ヶ月で」
「では」
セルジュは冷たい視線を妻に注ぎながら、ゆっくりと歩いてきた。「わたしに何を望むのだ」
「何を望んでも無駄よ。どうせ、わたくしのことなんか、どうでもいいくせに。うわべだけ気にかけているふりをして」
ぐいと手首を握ると、妻は顔をひきつらせて逃げようとした。「何をするの、離しなさい!」
「やはり、そうか」
さながら氷像のようだったリンド侯爵の表情が、少し和らいだ。「ヒルデ。あなたは、わたしを怒らせたいのだな」
まっすぐな眼差しを注がれて、ヒルデガルトは戸惑ったように顔をそらせた。
「あなたを見ていると、わたしの母を思い出す」
「え?」
「父が訪れるたびに、母はいつも不機嫌で、わめき散らしていた。もう少し愛らしく笑えばよいのに、やさしく振舞えばよいのに、と子ども心に感じたものだ」
「……」
「当然、父は母を避けるようになった。たまに顔を合わせても、ふたりの間にはしらじらとした沈黙が存在するだけだった」
乾ききった喉に無理に唾を飲みこもうとして、ヒルデガルトの顎が苦しそうに動いた。
「次に母の考え出したことは、さらに愚かだった。病気で死にそうだという偽りの知らせを、父に送るようにわたしに命じるのだ。あまりにも頻繁だったもので、とうとう本当に死の床についたときも、父は来なかった」
「そんな、ひどい……」
十六歳の妻の瞳が、数多の蝋燭を映し、きらきらと光の屑をこぼした。「どんなにか会いたかったろうに」
「そう。わたしも大人になって、ようやく母の気持ちがわかった気がする。罵ってばかりいたのは、夫を自分に振り向かせたかったからだ。自分だけを見てほしかったからだ。母は本心では父を愛していたのだろう。ただ誇りと頑なさゆえに、それを口に出すことができなかった」
セルジュは、黒光りする洞窟の天井を仰いで、うつろな笑い声を漏らした。「哀れなものだ。あれでは、自分から幸せを遠ざけているのと同じなのに」
野いちご色の金髪がふわりと、彼の腕に触れる。ヒルデガルトが、ぎゅっと額を押しつけてきた。
「では、わたくしも、母上と同じ運命をたどるのだな」
「いや。ひとつだけ、父とわたしが違うことがある」
長身の侯爵は、妻の顎に手を添え、森の中の湖のような瞳を上から覗きこんだ。
「あなたがどんなに意固地に振舞っても、あなたのことが愛しくてたまらない。約束する。母のような不幸な目に会わせることは、決してない」
「セルジュ」
まぶたを閉じた拍子に、ヒルデガルトの目から、はらはらと雫がこぼれ落ちた。
「きっと心底から、あきれておろうな。もっと賢い妻をめとればよかったと――たとえば、ミルドレッドのような」
「ああいう小ざかしい妻は、エドゥアールのような箸にも棒にもかからぬ輩がお似合いだ。わたしのような完璧な男には、必要ない」
「どうしよう。侍女には、悪いことをした」
「安心なさい。引き止めておいた。明日は何もなかったかのように仕えよと命じてある」
「……ありがとう、セルジュ」
「それでは、行こう」
侯爵は、妻が振り払ったストールを、もう一度その肩に巻いた。
「冬至祭のご馳走を、大食堂に準備させてある。ただし、匂いの少ない特別メニューで、あなたの席にワインは置かない」
「……え?」
「首を切られた侍女が、わたしに進言してくれた」
セルジュは彼女を抱き寄せ、甘く諭すように耳打ちした。
「あなたには妊娠の兆候があるそうだ。明日、医師を呼んで診察させる。クラインの料理が口に合わないのではない――ヒルデ、あなたの不機嫌はすべて、悪阻のせいだったのだよ」




