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伯爵家の秘密  作者: BUTAPENN
番外編
73/91

5. 王太子の孤独(5)

 国王の喪が明けてから開かれた貴族会議で、フレデリクはさっそく窮地に立たされた。

『クライン国王は、外国に公使を送る際に、国務大臣の承認を必要とする』

『王族は、結婚・離婚その他政治情勢に重大な影響を及ぼすことがらに関して、前もって議会の承認を必要とする』

 次々に、国王の権限を弱め、貴族の権限を強める法案が可決されていったのだ。言うまでもなく、プレンヌ公爵の策略だった。

「このままでは、国王は、あくびをするのにも議会の承認が必要になる」

 憤懣やるかたない思いを叩きつけるように、王太子は手近なクッションを次々と投げ捨てた。

 エレーヌはあずまやの隅にそっと立ち、そんな兄の様子を、体をこわばらせて見つめていたが、

「大臣の方々となんとか話し合うことはできませんか」

 おずおずとした声で提案した。

「ふん、ファイエンタールを滅ぼすことを終生の目的としている、あの公爵の一派とか」

 王太子は引きつったような笑いを漏らした。「案ずるな。わたしは負けるものか。いざとなれば、公爵の出生を暴いてでも、奴を失脚させてやる」

「お兄さま!」

 それは、王宮の中では、決して口に出してはならない言葉だった。

 プレンヌ公爵家に下る以前、エルヴェはファイエンタールの一族であり、フレデリク一世の第二子であり、父の寵愛を受けて、やがては玉座を継ぐものとされていた。しかし彼が先王と王妃とのあいだに生まれた不義の子だとわかったとき、王宮のすべては狂い始めた。

 ファイエンタールに属する者は、決してこの秘密を世に明かしてはならぬ。それを犯せば、クライン王国は終焉のときを迎える。――なかば呪いのような戒めが、王族のあいだにはひそかに伝わっていた。

「かまうものか」

 吐き捨てるように答えた兄がまとっている荒々しさに、エレーヌは身震いした。 「どなたかに相談をなさってはどうでしょうか。ティボー公……それとも、ラヴァレ伯爵は」

 フレデリクは妹の進言を黙殺して、卓の上の酒をごぶりと飲み干すと、長椅子の隣をぽんと叩いた。「座りなさい」

 いつもなら少女は、「はい」と弾むように彼の命令に従っていた。今は、錆びた時計のぜんまいのように、ぎこちなく腰をおろす。

 王太子は、その手首を取り、彼女にしか聞こえない声でささやいた。「褒美がほしい」

 エレーヌは恐怖を目に宿して、小さく首を振った。

「できません」

「できぬ、と?」

「お兄さま。ごめんなさい。でも、もう子どもの頃のような無邪気な戯れはできないのです。わたくしたちは……兄妹なのですから」

 フレデリクは耳を疑うとばかりに何度もまばたきをした。その水色の瞳に、底知れぬ怒りが渦を巻き始める。

「ラヴァレ伯なのか」

「え?」

「おまえが変わってしまったのは、あいつのせいなのか?」

「あの方は、関係ありません!」

 王女は必死で兄をなだめようとする。「わたくしは、何も変わっていませんわ。ねえ、エドゥアールの話をしましょう。わたくし、またあれから、話の続きを書いたんですのよ。氷山を壊して船を進めるために、思いついたことは――」

「うるさい!」

 王太子は立ち上がり、マントをひるがえして行ってしまった。

 ひとり、あずまやに残されたエレーヌは両手で顔を覆い、あふれでる嗚咽に必死で耐えた。

「エルンストさま……助けて。会いたい。会いたいのです。どうかここへ来て……」



「カスティエ士爵の言ったとおりだな」

 陸軍元帥のユルバン・ド・ティボー公爵は、小鳥のかごに粟をぱらぱらと撒き終えると、元部下をからかうように見やった。「青菜に塩をかけたような覇気のなさだ。これが、わしの号令を待たずに真っ先に突撃していった男とは思えぬわ」

 エルンストは返す言葉もなく苦笑いしながら、執事に勧められた椅子に座る。

「リオニア貴族の亡命計画は、首尾よく終わったようだな。革命評議会は、あれから手続きを踏んで、貴族抜きの三部会を召集し、法律を改正したと聞いた。来月には正式に『リオニア共和国』と名を変える」

「はい」

「よくやった。すべては、きみの手柄だ」

「……いえ。王太子殿下のとっさのお力添えがあればこそ」

「そのせいで、双方ともエルヴェの憎しみを買ってしまったようだな」

 公爵は、ゆっくりとテラスを一周して、戻ってきた。「わが身を責める気持ちはわかるが、仕方あるまい。大勢の命を救うため、ほかに道はなかったのだ」

 元帥の慰めの言葉も、今はとても素直に受けることはできない。彼は無言で頭を垂れた。

「王太子と言えば、貴族会議で今、八方ふさがりの状態に陥っておられるぞ、エルンスト」

 ティボー公は、ふたたび、板張りのテラスをめぐった。カツカツと急いた靴音に、内心の焦燥が表われている。

「きみも知っているだろう。戦場で多くの敵を相手にするときは、できるだけ信頼できる味方を背中に持つことだと。背後が信じられなければ、消耗が早い。長期間の戦闘は、死を意味する」

「わたしも、何度となく殿下に面会の請願を出しました」

 エルンストは、うめくように答えた。「が、受けていただけないのです」

「その言い訳は、本心からのものかな。だとしたら、きみらしくもない」

 公爵は、厳しい眼差しを元中尉に注いだ。「何を臆病になっている。王宮に入る方法は、いくらでもあるはずだ。何のために、わたしが今日きみを呼び出したと思っている」

 エルンストは静かに立ち上がった。そして、元帥に深々と一礼すると、大股で歩み去った。

 ティボー公は体をゆすって笑うと、手に握っていた粟を手すりごしに空に放り投げた。屋根の上に姿を隠していた幾十羽もの小鳥たちが、いっせいに芝に舞い降りた。



「呼んでおらぬぞ」

 謁見の間の玉座に座っていたフレデリクは、入ってきた伯爵の姿を見て、腰を浮かした。

 下位貴族の身でここまで来れたのは、彼の大叔父であるティボー公爵の肝煎りらしい。

「何の用だ」

「殿下をお助けに」

「助けなど必要ない」

 王太子は、広間の折り戸のそばに立ち、庭を見晴らした。「『正しい願いなら、おのずと天から力は与えられる』、そなたの言葉ではないか。余は今、正しいことを行なっているのだ。だから人の助けは必要ない」

「殿下」

「それでもわからぬようなら、ついてまいれ」

 王太子は近衛兵を手で制して、自らの手で玉座の奥の扉を開けた。

 廊下は直接、王の居所へ、さらに王の庭へとつながっている。

 庭の片隅にしつらえられた射的場で、ボウガンを手に取ると、フレデリクはきりきりと矢を番えた。

 一瞬後に、矢は的の中央に深く突き刺さり、ぶるぶると震えていた。

「エレーヌのことを、どう思っている」

「大切な方と、お慕い申し上げております」

 伯爵の答えに、迷いはなかった。「しかしながら、わたしの手が届くお方ではないことも、承知しております」

「賢明なことよ」

 あざけるような調子だった。「妹も、そなたを好いておるらしい。だがあの子は、どこにもやらぬ。一生、この王宮で余のそばにとどめ置く」

「それが、妹君に対する、あなたの愛情なのですか」

「愛情? そんなものを心に抱いたことはない」

 フレデリクは、冷ややかに笑った。「あれは、余の命そのものだ。エレーヌがいなくなれば、余は死ぬ。人が生きるために空気を必要とするように、余のそばには、あの子がいなければならぬ」

「ですが、あなたの度を越したご執着に、逆に姫君はむしばまれておられます」

「むしばまれている、だと?」

 王太子の瞳が突如として、嵐の色に染まった。

 手にしていたボウガンを構え、エルンストに狙いを定めて引き絞った。

「そなたのせいだ。そなたがいなければ、あの子は余のもとで幸せに暮らしていた」

「そう見せかけておられただけです」

「黙れ、最初からおまえなどに会わねばよかった。邪魔者め、この世から消えうせろ!」

 伯爵は平然とその場から動かず、じっと王太子をにらみ返している。ぶるぶるとボウガンを持つ手が震え、やがてだらりと垂れた。

「エルンスト」

 フレデリクは、芝生の上に落ちた武器を悄然と見つめながら、抑揚のない声でいった。

「お願いだ。余には、あの子しか心を許せる者はいない。エレーヌの心を余から奪わないでくれ」

「わたしもお願いいたします」

 ラヴァレ伯は、両膝を地面についた。

「もし心から愛しいと思し召すなら、どうぞ、あの人をがんじがらめの檻から解き放ってあげてください」

「できぬ。あの子が王宮とは別の場所で幸せに暮らせるはずはない。あの子はわたしにとって、たったひとりの――」

 王太子は大きく呼吸を継いだ。

「生きる意味そのものだ」



 王の庭を辞したとき、会えるという予感があった。

 中庭の木の茂みは、沈みかけた夕陽の陰に黒々と沈んでいた。最初に会った場所で、あのときと同じように王女はいた。

 あのときと同じ? いや、違う。

 エルンストは息を呑んだ。エレーヌは豊かな胸をゆるやかな服で包んでいる。くびれた腰から脚にかけての、柔らかな曲線。成熟した女性の持つたおやかさ。

 王女は、自分を縛りつけていた縛めの布を、すべてほどいていた。

「お会いしたかった」

 エレーヌは、穏やかにほほえんだ。「ティボー公爵に文を書いて、あなたを呼び寄せてくださるように頼んだのは、わたくしです。最後に一目お会いして、お別れを言いたかったのです」

「最後?」

 自分の声が遠くから聞こえるようだ。

「わたくし、兄に内緒で修道院にまいります」

 そのなめらかな肌は、樹陰の中で、透き通るような光をたたえていた。

「王都の西にある厳格な宗派で、志願者は神に身をささげる印として、顔に焼印を押すのだそうです。それならば、たとえ王宮に連れ戻されたとしても、兄を罪へといざなわずにすみます」

 声に、抑えきれぬ潤みが混じった。「ただ、あなたには、最後にわたくしのありのままの姿をご覧になってほしかった。ありがとう。あなたと過ごした日々は、本当に楽しゅうございました」

 もう己を抑えることができなかった。

 ラヴァレ伯爵は有無を言わせぬ力で、彼女を腕に抱き取り、太陽のような金髪の中に顔をうずめた。

「あなたは、わたしの気を狂わせるおつもりですか」

「え?」

「そんなおぞましい場所は神の国ではない。そんなところに比べれば、ラヴァレの谷のほうがずっと天に近い」

「……エルンストさま」

「ただし、あなたを幸せにするという約束はできません。この王宮には、わたしたちの結婚に賛成する者は誰もおりますまい。おそらくは、心に焼印を押されるような、数々の苦痛が待っている。それでよいのなら……それを耐えてくださるのなら、わたしとともに、谷にいらっしゃいますか」

「まいります!」

 王女は、語尾が終わる前にあわてて叫んだ。そのあまりの即答ぶりに、エルンストだけではなくエレーヌ本人も驚いた。だが、やがて彼女は花のつぼみが開くように、静かに微笑した。

「連れて行ってくださいまし。エルンストさま。あなたのいらっしゃるところなら、どこへでもまいります。どんな苦難もいといません」

 伯爵は、王女の柔らかな唇にそっと口づけした。最初は触れるだけ。次は舌で味わうように。次第に大胆に、細心に、濃密に。

「一枚だけ、子どものころ庭に隠したまま、どうしても見つからない金貨があるのです」

 涙で濡れたまつげを伏せて彼の胸に寄りかかる王女の耳元に、彼は低く甘くささやいた。「わたしといっしょに探してくれませんか。あなたなら、きっと失くした宝を見つけてくださる」



「ならぬと申したであろう」

 足元にひざまずく伯爵と妹に、フレデリクは冷ややかに告げた。

「そなたたちの結婚、未来永劫、許すつもりなどない」

 もう何度、同じことばを繰り返しただろう。

 彼らを残して部屋を退出したフレデリクは、暗澹たる思いに囚われた。

 まるで篭城戦だ。難攻不落の城を攻めあぐねているのは、むしろこちらのほうなのだ。

 反対すればするほど、ふたりの決意は強固になっていくような気がする。あきらめるどころか、喜んで刃向かって来るのだ。

 近衛兵たちが力ずくでふたりを引き離すあいだも、目を合わせて微笑み合う。やがて、恋人たちに手をかけようとする兵はひとりもいなくなった。

 侍従や女官たちの彼らに向けるまなざしも、同情に満ちている。

(あのふたりとともにいることが、怖い)

 会うたびに、入り込む余地のない絆を見せつけられる。こちらが降伏するのは時間の問題だと、嘲笑っているかのようだ。

(――いや。わたしが本当に怖いのは、己自身の心だ)

 あれほど愛しいはずのエレーヌにさえ、嫌悪をもよおすときがある。この体のどこに、あの男が触れたのだと、打ち叩いてやりたいほど憎らしくなるときがある。

 もう、ほとほと疲れてしまった。妹に報われぬ恋情を抱き続けることにも、決してかなわぬ大きな男を相手に戦うことにも。

 すぐにでも、降伏の旗を揚げてしまいたい。

 エレーヌはあるとき、瞳に涙をいっぱい溜めて、こう言った。

「フレデリクお兄さま。わたくしは、また以前のように、この庭で三人で仲良くお茶を飲みたいの。そんな当たり前の幸せを望んではいけないのですか。エルンストもわたくしも、自分たちだけが幸せになって、お兄さまをひとりぼっちにするつもりなど決してありません。エルンストと結婚しても、わたくしはあなたの妹です」

 そのときは、腹が煮えくり返る思いで聞こうともしなかった。だが、今になって、その暖かな光景はすんなりと心に入ってきた。

 もしかして、今からでも、やりなおせるのだろうか。

 普通の兄が愛するように、妹を愛することができるのだろうか。ラヴァレ伯を妹の伴侶として、腹心の友として王の庭にふたたび迎え、他愛のないおしゃべりに三人で笑い合うことはできるのだろうか。

 差し伸べられた手にすがれば、わたしたちは、ひとつの家族になれるのだろうか。

 うつうつと思いに耽っていたとき、侍従のひとりが居室の扉を叩いた。

「プレンヌ公爵さまが、謁見の間でお待ちです」

「……すぐに行く」

 あれほど貴族議会で、王権を制限する法律を次々に作っておいて、まだ何か要求することがあるのか。

 もしや、一度正式に断ったエレーヌのカルスタンへの輿入れを、また蒸し返すつもりではないか。

「カルスタンの王子にやるくらいなら、ラヴァレ伯にやったほうがましだ」

 広間に向かう廊下で、そうつぶやいている自分に気づき、王太子は苦笑した。

(そうだ。伯爵のもとにエレーヌを嫁がせると、プレンヌ公に宣言してやる。あの者はどんな顔をするだろう)

 謁見の間に入ったとき、フレデリクはありえないものがあるのを見て、我が目を疑った。

 それは、赤子だった。ようやく一歳になろうという男の赤子。プレンヌ公爵のかたわら、従者に抱かれて眠そうな目で、玉座につく王太子を見ている。

 髪の金色、目の蒼色が、プレンヌ公とそっくりであることに気づいたとき、臓腑がきゅっと鉄床の上でねじられたような心地がした。

「王太子殿下。初めてお目見えいたします。わが嫡男、セルジュでございます」

「嫡男?」

 プレンヌ公の正妻に男子が誕生したなどとは、聞いたことがなかった。

「陛下の喪中でもあり、一切の祝いごとを自粛しておりました」

 公爵は、明らかに底意のある笑みを浮かべる。

「もうすぐ一歳の誕生日を迎えます。命名の儀を機に、お披露目いたしたいと存じまして」

「そ――それは、めでたいことだ」

 フレデリクはうわの空で、祝い文句を口にした。

「ありがとうございます。これでわがアルフォンス家も安泰だと、年甲斐もなく、はしゃいでおります」

 エルヴェはくびれた顎を持ち上げ、ハハと笑い声を上げた。

「二十余年、望んでも授からなかった嫡男を得るとは、なんとうれしきことでしょうな。殿下も即位されたあかつきには、お妃さまをめとられればよろしいのに。ファイエンタールの血筋を絶やさぬためにも」

 陽気な言葉とはうらはらに、王太子を見つめるプレンヌ公爵の目からは激しい敵意が放たれている。

――つまり、今のはこういう意味なのだ。

『この子が、クライン国の次の王位に着く。それを妨げる者、ファイエンタールの血筋に連なる子は、決して容赦せぬ』

「そう言えば、エレーヌ姫もラヴァレ伯爵とのご婚儀が進んでいるとか。明るい金髪を持つ、さぞや愛らしい子が生まれるでしょうな。ラヴァレ伯には、さっそく祝いを述べに参らねば」

 フレデリクの背筋をすっと冷たいものが駆け抜けた。

 この男は、悪魔だ。常軌を逸している。

 これまでは、ファイエンタール王家に対する漠然とした敵意だけだった。しかし、嫡男を得た今、その憎悪は立ちふさがる全ての者に容赦なく襲いかかるだろう。

 嫡子セルジュより上位の王位継承権を持つ者が現れれば、秘密裏に、即座に抹殺されるだろう。それを可能ならしむるだけの闇の力が、公爵にはある。

 おまけに、リオニア貴族の亡命の件でラヴァレ伯爵に出し抜かれたことを、彼は深く根に持っている。

 下手をすれば、エルンストとエレーヌは――命さえも危うい。

 頬が、ひくひくと痙攣している。乾いた唇を湿し、ようやくフレデリクは口を開いた。

「人払いを」

 かすれた声で命じる。「プレンヌ公。そなたに折り入って、話がある」



 ラヴァレ伯爵が入ってきたとき、フレデリクは玉座にだらしなく背中を預けて座っていた。

 拝礼して、頭を上げたエルンストは、その様子に眉をひそめ、そして言った。「殿下、このご書状はどういう意味でしょうか」

「どういう意味も何も、そのままだ」

 喉の奥に笑いを含みながら、王太子はあざけるように答える。

「そなたの、貴族会議の議員資格を剥奪する。もうそなたには、王宮に訴え出る権利も、裁判を受ける権利もない」

 フレデリクは、愉快げに目を細めた。「それが、そなたとエレーヌが結婚するための条件だ」

 エルンストは、ひざまずいたまま、じっと上目づかいに王太子を見つめた。「それだけですか」

「もうひとつ、ある。できるならば、二度を余の前に姿を見せるな。エレーヌとともに雪の谷に引っ込んでおれ――そして一生のあいだ、子をなすことは考えるな」

「ご本心ですか」

「本心だ」

「……承知いたしました」

 伯爵は、もう一度深々と額ずくと、立ち上がった。

「姫君は、泣かれましょうな」

「恋しい男のもとに嫁げるのだ。本望であろう。王宮になど、後ろ足で砂をかけていけばよい」

「それほどまでに、あなたは、ご自分が愛されていないとでもお思いですか」

 低く押し殺した声を残して、ラヴァレ伯爵が退出した後、フレデリクは玉座でしばらく天井を仰いでいた。

 それから立ち上がり、王の間への扉をくぐった。

 王の庭を守る近衛兵に「誰も入れるな」と命ずると、中に入り、扉を音を立てて閉めた。

 広大な庭は、自然の森そのままを模している。鳥がさえずり、緑の風がそよぎ、四季折々の花が咲き乱れる。

 もうここには二度と、誰かの笑い声が響くことはない。少女が飛び込んできて、「フレデリクお兄さま」と鈴のころがるような声で呼びかけることもない。

 あずまやの寝椅子に、仰向けになる。

「エレーヌ」

 フレデリクは、最後にそうつぶやくと、そのつぶやきさえ封印して、目を閉じた。

――時が止まった。



 王宮の礼拝堂の祭壇では、父と母に抱かれた幼子の頭に司祭が手を置いている。

「エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵夫妻に与えられし男子の初子は、神の御前に、両親の願いによりジョエルと名づけられたり」

 会衆席には、幼子に縁のある親族たちが座っていた。エルンストは儀式を受けている孫をまっすぐ見つめながら、隣のフレデリク王に静かに言った。

「あのときは、わかりませんでした。あなたは、プレンヌ公と取引をなさっていたのですね」

「なんのことだ」

「わたしとエレーヌに手出しをしない代わりに、国政から退くと。だから、あなたはあの庭にご自分から閉じこもられたのだ。臆病のゆえでも怠惰のゆえでもない。すべては、わたしたちの命を守るためだった」

「ふん、いまさらの話だな」

「そのことに気づいたエレーヌは泣いていました。わたしが『陛下のもとに帰りたいか』と尋ねると、首を振って、『それではお兄さまの気持ちを無にしてしまう』と」

 エルンストの目から、一筋の涙が伝い落ちた。「十八年間の牢獄を――ありがとうございました」

 フレデリクは、自分の膝の上でひっきりなしに体を動かしている息子の髪を、さらりと撫でた。

「エルンスト」

「はい」

「あの子は、幸せな一生を送ったのか」

 ラヴァレ大伯は、心をこめて「はい」と答えた。

「エレーヌは、わたしとともに毎日庭を散歩し、夜更けまでバルコニーで語らい、なんでもないことで声が枯れるまで笑いました。ラヴァレの谷を馬でめぐっては、村人たちを気づかい、皆に慕われていました」

 老いた伯爵の体は、そのときだけ三十歳のあの時に立ち戻ったかのように若さと熱情にみなぎった。

「こっそり涙をぬぐう次の瞬間には、もうほからかに笑っているのです。あの人は、わたしにとって、領館の使用人にとって、ラヴァレの民にとって太陽そのものだった」

「生まれた息子と一日もともに暮らせず、親子の名乗りを上げることもできぬ選択をした。なぜ、それが幸せだと言えるのだ」

 エルンストは、祭壇に立つ愛する者たちの背中を見つめ、柔らかく微笑んだ。

「それでも、わたしたちには希望がありましたから」 



 命名の儀が終わったあと、フレデリク三世は妻と息子を連れて、王の居所の東の部屋を開いた。

 カーテンやリネンは歳月のためにくすんでいたが、隅々まで掃除が行き届いていた。長年のあいだ誰も暮らしていないはずなのに、不思議と人の温もりが漂っていた。

「エレーヌの使っていた部屋だ」

 テレーズ王妃は、「わかっています」と言うようにうなずいた。

 シャルル王子は、面白いものはないかときょろきょろ部屋じゅうを見渡していたが、「あ」と声を上げて、書斎机に走り寄った。

 机のかたわらの壁には、低い位置に作りつけの棚があり、古い絵本が何十冊と並んでいた。表紙はどれもハツカネズミの絵を描いた厚紙で綴じられている。シャルルは表紙のネズミを、愛しげにぺたぺたと触っている。

「エレーヌがラヴァレ伯爵のもとに嫁いでいってしまってから、余は一度、この部屋を壊そうとしたのだ」

 一冊の本を手に取り、ゆっくりとめくる。

「あの子が残した手描きのこの絵本も破り捨てようとした。そして、これを見つけた」

 手を止めたのは最後の巻、もう数え切れないほど開いて、くっきりと折り目のついた頁だった。


『ネズミのエドゥアールは、数々の冒険を経て、元いた王宮にもどってきました。そして、さびしい王さまのいる庭に来て、今までの冒険のお話をすっかり聞かせました。王さまはとても元気になり、良い王さまになって、たくさんの人と協力して、りっぱに国をおさめました』


――――あなた。兄に伝えて。『良い王になってください』と。

『もう、わたくしたちのために、がんじがらめの檻に入る必要はありませんから』


 「終」の文字のすぐかたわらには、妹が兄に宛てた私信が走り書きされていた。


『フレデリクお兄さま。

どれだけ住む場所が離れていても、どれだけ時が隔てようとも、わたくしは、お兄さまのことを愛しています』


 フレデリクはゆっくりと目を閉じ、あふれ出ようとする瞼の裏の涙をしずめた。

 それから十八年経ったある日、エドゥアールという名の若者が、叙爵式のために王宮の彼のもとを訪ねてきた。名を聞いただけで、たちどころにわかった。彼が庶子などではなく、エレーヌの遺児であることを。

 そして、まさしく、この絵本の予言どおりの奇跡が、彼の身に起きたのだ。

 二歳のシャルルは、棚の中ほどから一冊の絵本を器用に抜き取ると、口をきゅっと結んで母親のところに駆け寄った。

 読んでくれという。

「『子ネズミ・エドゥアールの冒険 第十二巻』」

 王妃が題名を読むと、王子は水色の瞳をまんまるに見開いた。「おにーたん!」

「ええ、そうね。あなたの従兄弟さまと同じ、エドゥアールというお名前なのね」

「あいつは、このネズミそのものだ。ちょこまかとうるさい」

 悪態をつく夫に、テレーズは楽しそうに笑った。

「この絵本を、ラヴァレ伯にはお見せになりませんの?」

「冗談ではない。格好のおもちゃを与えるようなものだ」

 それに、これを読めば、あいつは母を想ってひどく泣くに違いない。まだまだ、あの若造に、そんな特権を与えてやるわけにはいかないのだ。

 王は、持っていた本をぱたりと閉じて、棚に戻した。

 もう、これは必要ない。今のフレデリクには、もっと大切なものがある。

「シャルル。わたしがその絵本を読んでやろう」

 彼は、妹の遺した古い揺り椅子に座った。幼い息子は彼の膝によじのぼり、妻は彼の髪に頬を寄せるようにして、後ろから覗き込む。

 議会で憲章を読み上げるのと同じ深みのある声、しかし限りなくやさしい響きの声で、クライン国王は文字をたどり始めた。


『子ネズミのエドゥアールは、たくさんの危険を乗り越えて、とうとう深い森を抜けました。しばらく歩くと、ザザザと大きなざわめきが聞こえてきます。

空の色を映したように青い、とても大きな鏡のようなものが見えてきました。

「海だ!」

エドゥアールは歓声をあげて、海に向かって走り出しました――』






第五話おわり


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