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伯爵家の秘密  作者: BUTAPENN
番外編
60/91

2. 王妃の密約(2)

 王の婚姻を祝って、北方三国のひとつユルギスが祝いの使節と歌劇団を送ってきたのは、翌月のことだった。

 北方の三王国は言語が互いに似通っている。いずれも政治が安定していて、すぐれた文化を持ち、特に医学においては大陸最高の水準を誇る。

 芸術の分野でも、暗く長い冬を楽しむための数々の舞台芸術を発展させており、ことに古くから伝わる英雄譚や悲恋話を情感たっぷりに歌い上げる歌劇は、他の国には真似のできない巧みなものだった。

 この訪問はテレーズを喜ばせた。ユルギスはアルバキアとも国交がさかんで、二番目と四番目の兄も留学したことがあるほどだ。

 テレーズ自身も少女のころから歌劇に親しみ、演目によっては歌をそらんじられるほどだった。

 使節は国王夫妻にうやうやしく祝賀のことばを述べると、言った。

「演目は、我が国では祝の席につきものの『白鳥の騎士の婚礼』でございますが、ほかに何かご希望の演目はございますでしょうか。なんなりと」

 黙したままの夫の横で、テレーズは控え目に答えた。「いいえ、特に」

「それでは、大広間にて準備に入らせていただきます。明晩はごゆるりとお楽しみください」

 百人規模の劇団の本格的な歌劇が大広間の中で催されるのは二十年ぶりとのことで、ふだん静かな王宮内は、華やかな色とはちきれそうな期待が満ちた。

 翌日は、特別にしつらえられた舞台を四方から取り囲むように、ぎっしりと椅子が並べられ、着飾った貴族がつめかけた。国王夫妻、公侯爵たちは、ひな壇の絹張りの特別席に居並び、侍女や従者たちは外の回廊や中庭に鈴なりになって、まばゆい明かりと漏れ聞こえる音楽のおこぼれを待ち受けていた。

 『白鳥の騎士の婚礼』は、手に汗握る戦いと、騎士と王女の恋、聖堂での大合唱の場面と続く、壮麗な物語だ。

 第一幕では、謎の騎士が現われ、窮地に陥っていた王女を救う。第二幕では、素性を明かさぬ騎士に王女は名前を教えてほしいと懇願するが、聞き入れられない。「あなたのことが知りたいのに」と嘆く王女に、魔女は疑念を吹きこむ。

 何回も見た演目であるはずなのに、テレーズは嗚咽で喉をふさがれ、幾度も落涙した。愛する相手を信じようとして信じられぬ王女の苦しみが、今まで以上に胸にせまってくる。

 すばやく隣を見れば、だらしなく片肘で顎を支えながらも、王は眠っていない。舞台に灯された無数の蜀台の光を受けて、水色の瞳は食い入るように舞台を見つめている。

 第三幕では、魔女にだまされ、騎士への疑念を口にしてしまう王女の前で、騎士はついに自分の出自を明かす。

 彼は異国の王子で、旅の途上で、妹として可愛がっていた女性を魔女の手によって殺されてしまった。結局、騎士は魔女を倒した後、後悔に苦しむ王女を赦して、ふたりは結ばれる。

 舞台の幕が降りると、会場は万雷の拍手で埋め尽くされた。

「よかったですわ」

「なんてロマンチックなお話でしょう」

 興奮した侍女たちのおしゃべりが止まぬまま、回廊を抜けてアメリア離宮に戻る途中。

 テレーズは、はっと足を止めた。離宮への廊下の暗がりの中で、幾人もの侍従をつき従えたフレデリク三世が立っていたのだ。

 王は近づいてきて、険しい眼差しで王妃を射抜いた。

「あれは、そなたの指図か」

「え?」

「三幕目の筋立てが違っていた。王子の妹を想う歌は、別の歌劇のものだ」

「……ごぞんじでしたのね」

 彼は王妃の手をぐいと強くつかむと、耳元にささやいた。「余計なことをするな。人質は人質らしくしておればよい」

 思わずぞっとするほど低く、凍てついた声だった。

 まるで、世の中のすべてのものを憎んでいるような。

 去っていく背中を見つめ、膝を小刻みに震わせながら、テレーズは確信した。

(あの方は、やはりご自分を偽っておられる)

 無為に過ごしているように見えて、五感を研ぎ澄まして全てを知っている。それでいて誰にも心を許さず、すべてを遠ざけ、荒野のような絶対的な孤独の中に身を置いている。

 それは何故?

 目からあふれ出した温かいものは、たちまち夜風にさらされて、テレーズの頬を冷たく濡らした。



 王妃の心に、不思議な感情が生まれていた。

 夫を必死で理解したいと願う気持ち。彼女はそれを『一方通行の友情』と名付けた。

 すべてを拒絶して生きる孤独な王に、異国に嫁いで来た孤独な外国人の王妃が抱く、ワインの底のおりのような共感。

 女として愛しまれなくとも、せめて友人として接することができればよいと思った。どんなに時間はかかっても、誠意をもって気持ちを伝えれば、必ず心は通じるはず。

 テレーズは、まずは慈善活動に着手することにした。

 親に捨てられた子どもを集めた孤児院。貧しさゆえに治療を受けられない人々の病院。学費無料の学校など。詳細な計画書を作らせて離宮に取り寄せ、これはと思うものに寄進をする。

(人質と呼ばれるなら、それでもいい。人質だって、できることはたくさんあるわ)

 王宮からの外出はままならぬ身だが、これならば、離宮にいながらにして全クラインに支援の手を伸ばすことも可能だ。

 王妃として側面から夫を支え、地に落ちた王の評判を少しでも回復する。アルバキアでも、王女として父と兄を助けて国政の一翼を担っていた。成功させる自信はあった。

(今は理解されなくともいい。人質のくせにと罵られてもいい。無視されるよりはまし)

 いつか、王が彼女のやっていることに目を留めてくれれば、そこから話し合いの糸口が生まれる。

 その信念に似た想いが木端微塵に砕かれたのは、秋が日一日と深まり、王庭の地面が落葉に覆われ始めるころのことだった。

「兄上が、クラインにいらっしゃると?」

 外務大臣を務める三番目の兄が、アルバキアの特使として王宮を表敬訪問するという。嫁いだ娘がどうしているか、父は日々案じて、いてもたってもおれないのだろう。

(父上や兄上たちのご様子が聞ける。アルバキアの近況も)

 祖国のことばで語り合える。土産物はなんだろう。みずみずしいオレンジや干しブドウ。甘いワイン、異民族の大陸特産のコーヒー。

 アルバキアのなつかしい景色を思い浮かべただけで、心が震える。強がっていても、自分は思いのほか精神的にまいっているのだ。

 謁見の式、歓迎晩さん会と、とどこおりなく公式行事は進んだ。涙が出るほどなつかしい兄と、決まった式辞と視線を交わすだけの、もどかしい時が過ぎた。

 その夜、テレーズは王妃の離宮に彼を呼ぶように、女官長に命じた。

「それはなりません」

 クライン人の女官長は両手を前で組み、恭しく頭を垂れながらも、固い声で答えた。「王妃さまが、国王陛下の御目の届かぬところで、男性と同室なさることは法令で禁止されております」

「なんですって?」

 あまりに異常なことばに、テレーズは椅子から立ち上がった。

「特使のマデラ公爵は、母親が違うとは言えど、わたくしの実の兄なのですよ。家族に会うのに、何を禁じられることがあるのです」

「おそれながら、王妃さま。あなたはクライン国王妃であらせられるのです。クラインのしきたりには従っていただきます」

「陛下にお願いしてみてください。陛下のお許しさえいただければ」

 テレーズは急いで王に使いをやった。使いは、すぐに戻ってきた。「ならぬとの仰せにございます」

「そんな……」

 腰がくだけたように力を失う。

(この仕打ち、あまりにも理不尽すぎる。どうして? やはり王はわたしを嫌っていらっしゃるの? 人質が余計なことをしたから?)

 王の背後に、アルバキアの干渉を恐れるプレンヌ公の影があったことは、このときはまだ知るよしもない。

 兄がその翌日、彼女に何も告げずに故国に旅立ったことを知ったとき、テレーズを支えていた気持の張りが、ぷっつりと折れてしまった。

 アルバキアとの連絡手段が一切断たれていることに、ようやく気づいた。幾度となく祖国に文を送ったが、それに対する返事は一度も来ない。途中で検閲され、あるいは止められているのだろう。

(わたしは一生この離宮で、籠の中の鳥のように閉じ込められるのだ)

 鳥ならば歌えるだろう。しかし、彼女はそうではない。誰にも愛されず、何も生み出さず。見ることも聞くことも、自由に人に会うことも許されず。

 ひとりになると、胸から毒薬の小瓶を取り出して眺めるのが習慣になった。今となっては、祖国とのたったひとつの絆だ。

 この無色透明の死の薬だけが、女々しく涙ぐむ彼女を叱咤激励してくれる。

『それでもあなたはアルバキアの王女らしく、強く生きているのか』と。



「庭もさびしい色になったわね」

 王宮の庭を歩くことは、テレーズに許された数少ない自由のひとつだった。彼女は木枯らしの吹く日も雨のそぼ降る日も、まるで意地になったように庭を散策した。

「庭師に命じて、お好きな花を植えさせてはどうでしょう」

 アルバキアから連れてきた侍女のひとりが、なんとか女主人の気分を引き立てようと、そう申し出た。「アルバキアのカーネーションを見れば、きっと御心も晴れますわ」

「そうね……そうしてちょうだい」

 王の謁見の大広間の東側の、奥まった細長い庭の一角に、彼女は深紅のカーネーションの種を蒔かせた。その隣にはクラインの国花であるバラの苗も丁寧に植えこんでもらう。

(せめて、庭の花だけでも隣り合って咲くことができたら)

 現実には、フレデリク王と隣り合って立つことも、ことばを交わすことも、ほとんどない。

 同じ孤独の中にいるふたり。きっといつか、わかり合えるはずだ。たとえ時間はかかっても。

 翌春、可憐なカーネーションの花が次々に咲き、花壇を鮮やかに彩った。見ているだけで、心が沸きたつようだ。さすがに雪の舞う冬のあいだは部屋に引きこもりがちだったテレーズだが、温かな陽光に誘われて外に出ることが多くなった。

(謁見の間の折り戸を開ければ、この花壇が見えるはず。そのとき陛下はどんな顔をなさるかしら)

 あれこれ想像して心ときめかせ、ひそかに微笑む毎日。

 だが、ある日通いなれた小道を歩いていくと、花壇の一角は地肌が剥き出しになっていた。カーネーションが無残に抜かれている。

「どうしたの。これは!」

 庭師はあわてて飛んできて、地面に頭をこすりつけるように平伏した。

「お赦しくださいませ。国王陛下のご命令でございます。アルバキアの花など見たくもないとおっしゃられたということで」

 どうやって、離宮に戻ったかも覚えていない。

「ひどい……あんまりです!」

 叫びながら、王妃はソファに突っ伏した。

 あの御方は、とっくに人の心など捨ててしまわれているのだ。みなが言っているように、妹君以外の人を愛することは生涯ないのだ。

 伝えようとした、せいいっぱいの思いさえ無碍に捨てられて、テレーズは激しく泣き続けた。

 そして、泣きながら、同時に気づいてもいたのだ。

 自分がいつしか、渇いた者が水を乞い求めるように、フレデリクを求めていることに。そしてその渇きは、彼以外には決して満たせないことに。



 そこまで黙って聞いていた国王はガバと跳ね起きて、王妃の話をさえぎった。

「余は、そんなことは知らぬぞ。そんな命令を出した覚えはない!」

 そう言ったきり、喉の奥で野獣のようにうめいた。

 王妃は微笑みながら、うなずいた。「存じておりますわ。陛下はそのようなことをなさるお方ではないと、今ならわかります」

「いったい誰が」

「気を利かせた侍従かどなたかの仕業でしょう。忠義からしたことを、どうぞお咎めになりませぬよう」

 フレデリクは、弱々しく首を振った。

「いや、やはり悪いのは余なのかもしれぬ。あのカーネーションの花を窓から見たとき、悲しかったのだ。そなたは、きっとアルバキアに帰りたくてたまらぬのだろうなと。それほどに余を嫌い、憎んでおるのだろうと。その苦々しい思いが、そばの者に伝わっていたのかもしれぬ」

「いいえ、陛下」

 妻は、おだやかな声で答えた。「運が悪かったのですわ。不幸なことに、植え替えたばかりのバラは咲くのが少し遅れたのです。あのときはまだ固いつぼみでした。もしカーネーションとバラが仲良く咲き誇っているのをご覧になれば、陛下もきっと、わたくしの真意をおわかりくださいましたでしょうに」

「長い回り道をしたな」

「ええ、お互いに」

 ふたりはじっと見つめ合って、ほほえんだ。それだけで、長かった苦しみが癒されていく。テレーズは夫のかたわらに座って、彼の手を握った。

「この六年は、わたくしにとって必要な時間でしたわ。心の穴を埋めるように、クラインの文化と伝統、政治、経済、ありとあらゆることを片っぱしから学びました。わたくしがこの国の良さをわかるにつれ、この国の人々もわたくしを受け入れてくれるようになりました。慈善活動も宮廷舞踏会も、仲のよい国王と王妃がするような催しは何でもしましたわ。心の片隅で、あなたとふたりで楽しんでいるという空想にふけりながら」

「余はそのあいだ、ますます内に引きこもっていた。妹の死を知らされてしばらくは、我ながらひどいものだった」

「ええ、あのときは、とても案じておりました。陛下とは半年近くもお会いすることができませんでしたから」

「……すまぬ。さびしい思いをさせた」

「責めているのではないのです。わたくしがそれほど、陛下のことをずっと慕……」

 続くべきことばは、突然の抱擁によって妨げられた。

「だめだ。余に先に言わせてくれ」

 せっぱつまった声で、フレデリクは王妃の耳にささやいた。「余のほうが、ずっとそなたのことを想っていた」

「まあ、そうでしたの」

 王の子どもじみた競争心に、テレーズは思わず笑いをさそわれた。

「六年間そなたの目は、いつも余を見守ってくれていた。余に代わって、王のつとめを果たそうとしてくれた。余の好物を調べ、干しぶどうをいつも絶やさぬように手配してくれた。わかっていたのだ。なのに余は、おのれの心にあるものを見ぬふりをしていた」

「陛下が変わられたのは、ラヴァレ伯爵とミルドレッド嬢のおかげですわ」

 エドゥアールの名を聞いたとたんに不機嫌になって、顔をそむけしまった夫を見て、王妃は明るく諭した。

「あの方が、陛下をからかってくださらなければ、熱心に辛抱強く、ご自分の思いに気づくように働きかけてくださらなければ、わたくしたちは、まだ長い回り道の途上でしたのよ」

 国王は「うう」と、いやいや同意のうめき声を立てると、照れくさげに話をそらせた。

「で、結局どうなったのだ。この毒薬の話のつづきは」

「ああ、そうでしたわ」

 テレーズは居住まいを正し、誇らしげに胸を張った。

「わたくし、六年間苦労して、アルバキアとの間に秘密の通信手段を作り上げました。もう今ではプレンヌ公にも誰にも邪魔されずに、自由に父や兄に文を送ることができます」

「存じておる。それで」

「つい先日も書状をしたためました。もうわたくしのことを人質などとお思いにならないように。わたくしは、もうクライン人です。クラインの王妃として生き、いざとなれば夫に殉じる覚悟でおります。どうぞ安心して、いつでもクラインとの軍事同盟を破棄してくださいませと」

「な――なんということを」

「ですから、もうこれは必要ありませんわ」

 王妃は立ち上がって、手袋をはめた手で瓶のふたを開け、何も植えていない植木鉢の土にふりかけた。「このまま、地中深く埋めさせます」

 そして、晴れ晴れとした微笑をたたえながら振り返った。

「これで、わたくしも本当の意味で、クライン国王妃に、そして、あなたの妻になれました」

 フレデリクは黙って席を立つと、妻のうなじに手を添えて口づけた。

 甘い果実を味わうように、何度も何度も。

「さあ、思っていたより時間がかかってしまいました。もうお戻りください。浴場で侍従長がのぼせておりますわ」

 短い逢瀬が終わり、去っていく夫の背中を見つめながら、テレーズ王妃は腹部にそっと手を当てた。

「ええ、クライン人なのですよ。……わたくしもあなたも」

 誰にも聞こえぬよう、ひそやかに。

「この国はこれから数々の難局をくぐります。でも、どんなときも父上をお助けして、一緒におそばについてゆきましょうね」

 それは、今はまだ明かされぬ存在であるわが子との、ふたりだけの秘密の約束だった。

 





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