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伯爵家の秘密  作者: BUTAPENN
最終章「新たな時代」
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最終章「新たな時代」(3)

「少し、お変わりになりましたわ」

 エドゥアールの腕に支えられながら、ミルドレッドはうるんだ瞳で丹念に彼の顔をたどり始めた。体のぬくもりと、低くやさしい声と、唇の感触を堪能しつくした後さえ、なお彼がそこにいる現実が信じられないとでもいうように。

「そうだな。背がちょびっとだけ伸びたかな」

「そうかもしれません」

「それに、かなり日に焼けた」

「南の国は、冬でも日差しが強いのですね。異教徒の美女たちと浮気はなさいませんでした?」

「みんなヴェールをかぶってるから、美女かどうかもわかんなかった」

「まあ、安堵いたしました」

「あ、そう言えば、髪の毛の色が変わった」

「ああ、それで。どことなく違って見えるのですわ」

 ふたりは互いの額を押しつけながら、他愛もない冗談を言っては、くすくすと笑い続けた。

「いつまで、そんなところで、いちゃいちゃしておられるのです」

 ユベールが呆れたように、二頭の馬を引きながら通り過ぎた。「館に着く前に、夜になっても知りませんよ」

「ほんとうですわ。みんなが玄関に整列したまま待ちくたびれてしまいます」

「ああ、そうだな」

 ミルドレッドは、エドゥアールが差し出した腕に、恥ずかしそうに手をからめた。こうやって歩くと、大聖堂での結婚式を思い出してしまう。もうあれは五か月も前のことになるのだ。

「ティムもダグも、あなたが海賊の船長になってお帰りになると思っていますわ。壁に、あなたが送ってくださった海賊旗を飾っていますのよ」

「あはは、そうか」

「お義父さまは、すっかりお元気になられました。昼間は起きて、書斎で執務をとっておられますわ」

「ああ」

「アルマお婆さんも、助けなしにひとりで歩けるようになりました。マリオンさまとオルガさまが、とてもやさしく看病してくださって」

「うん」

「冬蒔き小麦の発育も順調だと聞いています」

「うん」

「それから、それから……ああ、離れているあいだは、あれもこれもと思っていたのに、いざとなると頭がからっぽで、何も話すことがありませんわ」

「ミルドレッド」

 エドゥアールは立ち止まり、まだ涙に濡れている妻の頬を両手ではさんだ。

「そんなに焦らなくとも、時間はたっぷりある」

「……」

「俺たちは、これからずっと二人でいられるんだ。ふたりとも六十歳まで生きられたとして四十年以上」

 ミルドレッドはうれしそうに微笑み、こっくりとうなずいた。「ほんとうに、そうですわ」

 ふたりは再び腕を組み、領館までの坂を登った。

 鳥の声に耳をすませ、ときおり立ち止まっては芽吹いたばかりの木々を見つめながら、エドゥアールが数ヶ月ぶりに見る故郷を全身で味わい、喜びにうち震えていることがわかった。

 玄関では、領館の人々が、一列にせいぞろいして待ち構えていた。

 小道を登ってくるエドゥアールに、はじめは大歓声をあげて手を振っていた人々は、次第に沈黙し、あんぐりと大きな口を開けた。

「若旦那さまの御髪が……」

「金色だ!」

 騎士ジョルジュは、命より大切な剣をあやうく取り落とすところを、すんでのところで従者のトマに助けられた。

 マリオンとオルガ母娘は驚きのあまり、へたへたと座り込みそうになり、メイドがあわてて椅子を運んできた。

 使用人たちが動揺してざわめく中、エドゥアールは、エルンストの前でぴたりと立ち止まると、凛然と頭を下げた。

「父上。長く留守をして申し訳ありません」

「うむ」

「お元気そうでなによりです」

「当面の目標だった二度目の冬至祭も、無事に過ぎた」

 父は感慨深げに、本来の姿に戻った息子を見つめた。「よく戻ってきてくれたな」

「そういう丁寧な言葉づかいをなさっている限りは、大奥さまそっくりでいらっしゃるんですけどねえ」

 家令のオリヴィエが茶化した調子で口をはさんだが、すでに目は真赤だ。

「おかえりなさいませ」

「よくご無事で」

 執事のロジェとメイド長のアデライドも、感極まった表情を浮かべている。

「みんな」

 エドゥアールは、使用人たちに向きなおった。感傷を振り払うと、顔を上げて、はっきりとした言葉で告げる。

「みんな。今まで騙していてすまなかった。わたしの母が娼婦だというのは、嘘だった」

 場はしんと静まりかえって、身じろぐ者もいない。

「わたしの母は、先代のラヴァレ伯爵夫人エレーヌ・ファイエンタールだ」

 エレ―ヌの名を聞いて、泣き出す者もいた。六年前までこの領館で暮らし、その美しさと高貴さでラヴァレの地を太陽のように温かく照らしてくれた王家の姫君。

「それでは」

 ジョルジュは、紙のように蒼白な顔色で主を見つめた。

「それでは、あなたは、ラヴァレ家の正統なご嫡子というだけではない。ファイエンタールの血を受け継がれる御方」

 あわてて床に膝をつく。「おっ、お赦しくださいませ。今までの数々のご無礼を、平に」

 騎士であるだけに、使用人たちが与り知らない貴族の序列も、身にしみて理解している。目を合わせることすら許されない彼我の身分の差があることを。それなのに、ポルタンスではいっしょに水路の泥さらいをし、殴り合いまで演じてしまったのだ。

 だが、エドゥアールは彼の拝跪を認めず、がっしりと彼の腕をつかむと無理やりに立ちあがらせた。

「それでよかったんだ」

 若き伯爵は、のびやかに屈託なく笑った。「そうでなければ、きみとわたしは今のような友人にはなれなかった」

「ゆ、友人とお呼びくださるのですか」

「あたりまえじゃないか」

 エドゥアールは、きりと背筋を伸ばし、一同を見渡した。

「だから、わたしは――俺は、これからも下町のことばを使う」

 その口元をゆるませるのは、もうひとつの誇りだった。王家の血を引くことの誇りよりも、もっと確かで大きなもの。

 平民と貴族とが平等であることを知っている誇り。王宮と下町と、生きている場所は違っても、人間が懸命に生きている値打ちに何も違いはないことを知っている誇り。

「髪の色が金色だとかくりいろだとか、どうでもいい。俺はこれからも、厨房でソース鍋に指をつっこむし、バルコニーから下へ伝い降りるし、みんなといっしょに汗を流して働く。それで血筋がどうとか言うヤツは、くそくらえだ!」

「うわああ。口のお悪さが余計ひどくなってるぞ」

 ひとりが素っ頓狂な声で叫んだ。みんなが笑った。

 うれしかったのだ。若旦那さまが、いつもの下品で粗野な、けれど誰よりも親しみやすく、誰よりも大切な、彼らだけの若旦那さまのままでいることが。



 その夜は、結婚お披露目の祝宴の再現となった。

 使用人たち全員が大食堂に集まり、ごちそうに舌鼓を打ち、にぎやかに踊って歌った。

 違ったのは、馬丁見習いのダグが酔ってひっくりかえらなかったことだ。あれからこっそり親方の酒瓶をちびちび盗み飲んで練習をしていたそうで、そのことがバレて、親方に頭をぶん殴られた。

 この冬16歳になったダグは、見習いから昇格して正式な馬丁となっていた。

 ティムもダグも、一冬のうちにうんと背が伸びた。さながら雪の下ですくすくと芽を出した牧草のようだった。

「それで若旦那さまは、海賊船の船長になれたんですか」

「うーん。そいつは無理だったな。今の船長は百回けんかしても百回とも負けちまうような、強いヤツだからな」

「じゃあ、船のかじ取りは?」

「そいつも航海長の仕事だ。舵には、触らせてももらえなかった」

「じゃあ若旦那さまは、海賊船で何をなさってたんですか」

「雑用係、かな。全員の汚れものを洗濯したり、甲板を掃除したり」

「えーっ。じゃあ俺たちとおんなじじゃないですか」

 若い使用人たちがエドゥアールの回りに群がり、海の冒険譚をせがんだ。誰もが瞳を輝かせ、話は尽きることを知らず、興奮した若者たちによって、とうとうラヴァレの谷に海賊団が結成されることになった。夏になれば、湖に二艘の船を浮かべて、それぞれが秘密の砦を作り、宝を奪い合うというのだ。

(ほら。ずっとわたくしのそばにいてくださるとおっしゃったくせに、結局は話しかける暇もないのだわ)

 などと不平を鳴らしながらも、ミルドレッドは楽しかった。エドゥアールの姿を見て、声が聞けて、同じ空気が吸えるだけで、心は喜びに満ち足りる。

 だが同時に、小さな不安も芽生えていた。

 伯爵家の秘密は、ついに白日のもとに明かされた。二十年必死に隠し通していたエドゥアールの出生の真実が、全クライン王国民の前にあばかれたのだ。

 今回は幸いにも、苦難の旅を経て、無事に帰ってくることができた。けれど、王位継承権を持ちうる身であることが公になった以上、これからも命を狙われ続けるだろう。あの祝宴の夜と同じ惨事が、いつまた繰り返されないとも限らない。

(神さま。この平和が、いつまでも続きますように。もう二度とエドゥアールさまと離れ離れになりたくありません)

 気がつくと、あたりはしんと静まり返っていた。

「ミルドレッド」

 いつのまにか食堂には誰もおらず、エドゥアールひとりが目の前に立って微笑んでいた。

「どうしたの。みなさんは?」

「みんな眠いからって、部屋に引き取った。実にみごとに整列して出て行ったよ」

「こんなに早く?」

 エドゥアールは、ひょいと彼女の体を抱き上げる。

「俺たちを、ふたりきりにしてくれるんだってさ」

 いたずらっぽい目の表情を見れば、彼があらかじめ、そのように仕組んでいたのは明らかだった。

「今から、あの夜のやり直しをする。肝心なところで邪魔が入ったきりだからね」

 大階段を、ゆっくりと一歩一歩踏みしめて上がっていく。しんと静まり返った夜の館は、とくとくと心臓が打つ音までが互いに聞こえそうだ。

「あーあ。また軽くなったんじゃないか」

「あなたが……前よりも強くなられたのですわ」

 夫の胸が少し広く、たくましくなったことを感じ、ミルドレッドの目から、また新しい涙があふれてくる。

「ごめん。長いあいだ、つらい思いをさせたね」

「いいえ、いいえ。そうじゃないんです」

 それは、哀しみの涙ではなかった。エドゥアールが彼女のもとに帰ってきた瞬間、つらい思い出は良き思い出へと形を変えてしまった。だから、これは喜びの涙だ。試練は壮麗な喜びの序曲であることを知った者だけに与えられる涙だった。

 エドゥアールの居室に入り、寝台の上に降ろされた。

「ミルドレッド、言っておくことがある」

 エドゥアールは隣に腰をおろすと、彼女のほつれた髪を指でいとしげに梳いた。

「なんでしょうか」

「俺は、国王陛下に王位継承権を要求した」

「えっ」

 ミルドレッドは小さく悲鳴を上げた。「でも……」

「わかっている。きみの手紙を読んだから」

「あの手紙が、無事に届きましたの?」

「うん、ミストレス・イサドラが、ラガス島海域に向かう船に託してくれた。ちょうど帰路に着いている途中、ラガス島の西港で受け取ったんだ」

「広い海で一通の手紙が……奇跡のようなお話ですわ」

「奇跡のようだが、そうじゃない。海では船乗り同士の緻密な網が張り巡らされ、港ごとに情報の拠点がある。行き交う船も、旗やのろしで信号を送り合ってるんだ」

「よろしかったのでしょうか。わたくしのしたことは、出すぎた真似ではなかったかと案じていました」

「そんなことあるもんか。きみのおかげで、今回の計画を思いついたんだ」

「でも、王位継承権だなんて!」

 ミルドレッドは、愛らしい眉をひそめた。「あなたは、ますますプレンヌ公爵の恨みを買ってしまいます」

「それでいいんだ」

 エドゥアールは力強くうなずいた。「俺たちよりもっと大変なのは、国王陛下ご夫妻だ。俺たちはこうして一緒にいられるけれど、おふたりは今も互いに会うこともできない。せめて、俺たちにできることは何でもしてさしあげたい」

「そうですわね。わたくしも微力ながら、お手伝いさせていただきます」

「ひとこと礼が言いたかった。きみは俺にとって、最高の智略家で、最高の戦友だ」

「そんな……もったいない」

「そしてもちろん」

 エドゥアールは、彼女を腕の中に抱きよせる。「最高の妻だ」

 味わうように何度もミルドレッドに唇を重ねる。寝台の上に横たわるとき、彼の髪ひもがいつのまにかほどけて、金色の柔らかな髪が彼女の視界を覆った。

 月の光に体を包まれているような錯覚を覚え、ミルドレッドは静かに目を閉じた。全身が幸福という名の甘いしびれに満たされる。

 その夜、唇を交わし、指先をからめながら、ふたりは決して離れぬという結婚の誓いを何度も確かめた。いっしょにいられなかった時間の分だけ、吐息を交わらせた。曙光の空に二羽の鳥が飛び立つように、冷たい海流の中を二匹の魚が尾びれを煌めかせて泳ぐように。

 ただひたすらに、激しくやさしく、想いこめて。



 王位継承権をめぐる臨時の貴族会議は、二週間後に開催されることが決まった。

 いきなり王族宣言をし、王位を要求し、それきり何の政治活動もせずに姿をくらませているラヴァレ伯爵のことを、貴族たちは王宮で、サロンで、暇さえあれば噂し合った。今や、エドゥアールは王国じゅうの耳目を引きつけていると言っても過言ではない。

 当の本人はそんなこともまったく無頓着で、妻とともにラヴァレの春を、のんびりと穏やかに満喫していた。天気の日は、馬や馬車で谷じゅうをめぐった。

 冬蒔き小麦の畑や、大麦の製粉真っ最中の水車小屋。蚕の飼育場や村人たちの機織りの様子を見て回る。弁当を持って日がな一日、釣りや野イチゴ摘みに興じる。

 村人たちは若当主夫妻のむつまじい姿を見かけるたびに神に感謝し、ラヴァレの谷の永遠の平穏を祈るのだった。

「アルマ、来てみろよ」

 エドゥアールは、養い親をせきたてながら、小屋の扉を開けた。

「そんなに引っ張るでないよ。腕が肩から抜けちまうじゃないか」

「いいから見ろって。あの森の小屋の中身をすっかり運ばせたんだ。ほら、俺が子どものころ使ってた、切り株のテーブルと椅子もあるぞ」

「ふん、余計なことを」

 アルマは、さんざん悪態をつく。「老い先短い婆のために、そんな贅沢をしていいのかい。あんたは領民のお情けで暮らしてる若造にすぎないんだよ」

「じゃあ、当分は昼飯を抜いて倹約する。それなら文句ないだろ」

 どんな罵声を浴びても、エドゥアールはにこにこしている。長年の付き合いで、アルマが内心喜んでいることはわかっている。ただエドゥアールに余分な負担をかけていることを心配して、素直に甘えられないのだ。

「いい森だぜ」

 エドゥアールは、今の彼には低すぎる椅子にどっかと座って、頬づえをついた。

「セップ茸も採れるし、栗の木もある。この谷で一番の森をさがしたんだ」

 ミルドレッドもすかさず、助け舟を出す。「近くには水の澄んだ池もありますの。オルガもとても気に入って、毎日でも遊びに来たいと言っていましたわ」

「そうだ。夏になったら、水辺で串焼きをしようぜ」

「ええ。池の魚をあぶって食べましょう。お婆さん、食べられる茸の見分け方を教えてくださいな」

「そういえば、アルマの茸のスープは絶品なんだ。久しぶりに食べてえ」

「まあ、わたくしもいただきたいわ。ねえ、ぜひお願いします」

 小柄な老女は、とうとう甲高い声で笑い出した。

「あんたたちは、本当に海だぬきのつがいのようだね。地獄の悪魔だって、あんたたちふたりにかかれば天使に改宗するよ」



「王都にはいつ、おいでになるおつもりです」

 あずまやでエドゥアールが午後のお茶を飲んでいるとき、後ろにいたユベールが訊ねた。

「ああ。会議の直前ぎりぎりに。本会議に間に合えばいいんだ」

「よろしいのですか」

「心安らぐ美しい領地を離れて、権力争いに憂き身をやつしている奴らがうじゃうじゃいるところには長居したくない」

 と、黒スグリのジャムを詰めたパイを思い切り頬張る。「それに本音を言えば、できるだけ時間を引き延ばしたい。会議がもつれ、大臣たちが自らの保身に汲々としている限り、他国との戦争どころじゃないからな」

「しかし、そのためには、もうひとつかふたつ、隠し玉を仕込んでおきたいところですね」

「王立軍は、どうなってる?」

「感触は悪くありません。ティボー公が相変わらず、ご老体に鞭打って走り回っておられます。士爵たちのほうは、ジョルジュとわたしで、なんとか取りまとめています」

 近侍の騎士は、のんびりと雑談をしているように見えて、いつも油断なくあたりに気を配っている。伯爵は皿の上の菓子をきれいに平らげると、椅子の背にもたれて、手を組んだ。

「あとはセルジュだ。もう少し本気になって俺を憎んでもらわなきゃな」

 前庭のほうから、奥方づきメイドのソニアがやってきて、当主の前で一礼した。

「若奥さまが、まもなくお見えです」

「ああ、ありがとう。ソニア」

 ソニアがあわててお辞儀して立ち去ると、エドゥアールは笑いだした。

「見たか、ユベール」

「なにをでしょう」

「ソニアだよ。おまえを見たとたん、みるみる真っ赤になった」

「あれは、若さまのお姿を見たからです。わたしのせいではありません」

「頑固なやつだな。いいかげん認めろ」

「わたしこそ、若さまの過去の女性関係を押しつけられては心外です」

「人聞きの悪いことを言うな」

「なにが、人聞きの悪いことですの?」

 白い日よけの傘を差したミルドレッドが、あずまやに入ってきた。「エドゥアールさまの過去の女性関係についてなら、わたくしも詳しくお聞きしたいわ」

「ミ、ミルドレッド!」

「冗談ですわ」

 軽く膝をかがめてから、彼女は向かいの長椅子に腰をおろした。「お茶の時間に遅れて、申し訳ありません。レスト村の村長夫人のお招きで出かけておりました」

「ちぇっ。みんなでよってたかって、俺たち新婚夫婦を引き離そうとしてるな」

「それ以上くっついておられると、回りが当てられっぱなしで迷惑なんですよ」

 ユベールは笑いをかみ殺したような顔で一礼し、そのまま立ち去った。

 ミルドレッドはポットを取り、彼のお茶を優雅に注ぎ足しながら言った。

「ユベールさまは、以前から比べると、ずいぶん表情が柔らかくなられました」

「うん」

 エドゥアールは、それを口に含む。「父親のアンリが死んでから、あいつはずっと感情を殺してきたんだ。自分を縛ってきた枷がやっと外れたんだろう」

「幸せになってくださるといいですわね」

「うん」

 そよ風に揺れる新緑のざわめきが、あずまやを包む。ふたりは向かい合って座りながら、その心地よい音を聞き、言葉少なにお茶を飲んだ。

 ときおり、目を合わせて微笑み合う。きっと十年後も、二十年後も、こうしてお茶を飲んでいるのだろうと思えるような、穏やかな時の流れ。

 けれど、領地の外へ一歩出たならば彼らはたちまち、王国に吹き荒れる暴風の中に投げ込まれるのだ。それがわかっているからこそ、今の時間がいとおしい。勇気を熟成させるために必要な時間だった。

「あさって、王都にお立ちになるのでしょう」

 カップを置いたエドゥアールに、ミルドレッドは伏せていた睫毛を上げた。先ほどまでの安らいだ表情とは違う、静かな気迫。伯爵家の妻であるという自負にあふれている。

「わたくしも、ご一緒に連れていってくださいまし。危険なのはわかっています。でも、どうしても王妃さまにお会いしたいのです」

「そのつもりだ」

 エドゥアールは、揺るぎのない微笑を浮かべた。「きみには、王妃さまのおそばで力になってもらわなきゃならない」

「ありがとうございます」

「老兵には、お声はかからぬのかな」

 灰色の髪の伯爵が、ユベールに支えられながらも確かな足取りで歩いてきた。

「わたしも、ともに行こう」

「本気か、親父。危険な旅になるぞ」

「承知のうえだ。見届けたいのだ。陛下が呪縛から解き放たれ、クラインに歴史の新しい一頁を記される瞬間を。王宮に巣食う古い怨念を晴らし、プレンヌ公を多少なりとも楽にしてさしあげるためにも」

「わたしとジョルジュが、必ずお守りします」

 ユベールが確信をこめて、口を添えた。

「わかった」

 あずまやを出て、エドゥアールは青く澄みわたった大空を、同じ色の瞳で仰いだ。ついに、この国に長く垂れこめた暗雲が晴れる日が来たのだ。

「わかった。みんなで行こう。これは、俺たちみんなの戦いだ」





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