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伯爵家の秘密  作者: BUTAPENN
第10章「王都騒乱」
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第10章「王都騒乱」(4)

 エドゥアールが王立軍に連れ去られた翌日から、大雪が降り始めた。ラヴァレの谷はたった一夜で、純白の冬景色へと染めかえられた。

 春が来るまで、この恵みの雪が外敵の侵入から谷を守ってくれる防壁になるだろうと、領館の使用人たちはそう言い交わした。

「でもなあ。もう一日早く降ってくれていたら」

 灰色の空を見上げて、うらめしそうに呟く者もいた。

 メイド長のアデライドは、水をいっぱいに満たした鉄瓶を手に、厨房から大旦那さまの部屋に向かおうとしていた。

 途中、若奥さま付きのメイド、ソニアの甲高い声が廊下まで聞こえてきた。

「いいえ、絶対にどきませんから!」

「まあまあ、元気なこと」

 と、アデライドは開け放した扉から、ひょいと中を覗いた。

 エドゥアールの近侍の騎士ユベールが、自分の剣と上着を手につかみ、部屋から出て行こうとしているのだ。

 十日も床に就いていたせいで、金色の髪はもつれ、頬はこけ、はだけたシャツからは痛々しいほど幾重にも包帯で巻かれた胸が見える。何よりも驚いたのは、いつも氷のように冷静な騎士が、はっきりと焦りの色を浮かべて、年若いメイドをにらみつけていることだった。

「いいから、そこをどけ」

「どきません!」

 ソニアは、腕をいっぱいに広げて火がついたように叫んだ。「どうしても、この扉を通りたいのなら、わたしをその剣で刺し殺してください!」

「では、望みどおりにしてやろう」

「ええ、どうぞ」

「ユベールさま、どうぞお赦しを」

 アデライドは鉄瓶を置いて、ふたりの間に割って入った。

「ですが、ソニアの言うことも、もっともでございます。今のその体で、馬に乗ることがおできになりますか? 王都に着いた途端にばったりと倒れて、若旦那さまを牢からお救いすることなど、無理でございましょう」

 ユベールは、ふいごのような息を吐きながら、憎々しげに唇をゆがめた。「あなたの知ったことではない」

「いいえ、メイドが立派に主人にお仕えすることが、メイド長としてのわたくしの責務でございます。ソニアは若旦那さまから直接、あなたを死なせないでくれと頼まれたのです」

「なんだと?」

 ユベールは灰緑色の目を見開いて、ソニアを見た。彼女は目にいっぱい涙をためて、うなだれている。

「あなたの傷は肺にまで達していて、生きているほうが不思議なくらいなのです。この娘は何日も夜昼なく、あなたの命をお救いするために看病いたしました。それがエドゥアールさまのご命令だからです。あなたが若旦那さまにとって、かけがえのない御方だからです」

 アデライドはまなじりを決し、両足をふんばって体を思い切りそらした。

「もし、若旦那さまがここにおられたら、あなたに何とおっしゃるでしょう。幼いころからおそばに仕えた近侍のあなたが、一番よくご存じのはずではありませんか」

 驚いたことに、長身の騎士は小柄なメイド長に完全に気圧された。敗北を認め、ふらふらと部屋の中に戻ると、安楽椅子に崩れるように座り込む。そのままユベールの手足はだらりと力を失った。

「おやまあ。気を失われたわ」

 アデライドは「しかたのない人」と肩をすくめて、おろおろしているソニアに言った。「あとで誰かを寄こして、ベッドに運ばせます。これでしばらく、おとなしくなるでしょう。あなたは引き続き、しっかりと看病してさしあげるのよ」

 そう言い残して部屋を出ると、メイド長はふたたび水の入った鉄瓶をぶらさげ、二階へ上がった。

 南向きの当主の部屋の扉が開いている。覗いてみると、部屋付きのメイドふたりが座り込んで、懸命に木の床をブラシでこすっていた。

「う……うう」

「ばか。泣いたらだめよ。ナタリア」

「だって……」

「しっかりするの。若旦那さまが帰ってこられるまでに、この部屋をぴかぴかに磨き上げるって約束したでしょ」

 ジョゼのほうも、すっかり泣き声だ。アデライドはそっとその場から離れると、東の奥の部屋に向かった。

 ノックをして中に入ると、執事のロジェが彼女にうなずいて見せた。

 アデライドはミトンをはめ、暖炉の吊り金具から空の鉄瓶をそっとはずし、持参したものと入れ替えた。鉄瓶の口が具合よく湯気を上げ始めるまで、彼女はじっと見守った。

 奥のベッドでは、大伯爵が昏々と眠っている。

「おかげんは?」

「相変わらずです」

 執事とメイド長は、声をひそめて会話を交わした。

「まるで、時計の針が二年前に戻ってしまったかのようですね」

 ロジェは目をしばたいた。「若旦那さまがおられないと、この領館そのものの命が失われたような気がします」

「ほんとうに」

 アデライドはうなずいた。「でも、決して以前と同じではありませんわ。使用人たちはみな、エドゥアールさまのことを思いやり、ひとりひとりが伯爵家のために、今なにができるかを考え始めています。このラヴァレの谷から、命は決して消えてはおりません」

「ああ、そうでした」

 白髪の執事は、目じりを下げてほほえんだ。「少し弱気になっていたようです。冬が終われば、春は必ずやってきますね」

 ふたりは顔を見合わせた。

「ええ、必ず」



 暖炉にかけた鉄瓶の口から、しゅんしゅんと湯気が立ち始めると、エドゥアールは看守にティーポットに湯を注ぐように命じた。

「な、ぼこぼこ大きな泡が出るくらいの湯が、ちょうど空気を含んだ適温なんだ。そして三分待つ……プラムプディングには、ブランデーをたっぷりかけてくれよ」

「うわー。酔っ払いそうですね」

「あとで火をつけて酒の気を飛ばすから、いいんだよ。あ、ジャン=ジャック。そっちの綴りが間違ってる、Aの前にEだ」

「はい、だんなさま」

 看守の部屋では、今しも、午後のお茶会が始まろうとしている。その中に平気な顔をして囚人がひとり混じっているのだ。

 毎日のように差し入れられるシモン特製の栗のタルトやレモンパイを苦労して切り刻み、いちいち怪しいものが入っていないか確認するエティエンヌに、「じゃあ、俺があんたの部屋でいっしょに食べればいいじゃねえか」と軽く提案したら、目を剥かれた。

「ここは牢獄で、あなたは囚人なのですが」

「知ってる」

 エドゥアールは、些細なことだとでも言うように、にっこり笑った。「俺は、脱走したりしないよ。そんなことしたら、看守のあんたが処罰されちまうんだろう?」

「……」

 翌日からお茶の時間になると、ラヴァレ伯爵は独房から出され、エティエンヌの部屋に招かれた。両手の鎖は、ごく緩くかけられている。そこでお茶とおしゃべりを楽しむひとときは、文盲のジャン=ジャックに字を教える時間ともなった。

 どんよりと白く濁った眼をしていた老人は、石板に熱心に覆いかぶさっている。ほめると、にっと歯のない口を開けて笑った。

「あなたは、やはり不思議な御方です」

 エティエンヌがしみじみと言った。「この王牢に笑い声が満ちる日が来るとは、思いませんでした。ここは絶望と終焉の塔と呼ばれていたはずなのに」

「でも、本当のことを言えば、逃げられるのなら逃げたいと思ってるよ」

 エドゥアールは、自分の心を隠さずにさらけだした。「待っている人がいる。やらなきゃいけないことも山のようにある。なのに、ここにいなければならないことが歯がゆくてたまらない」

 そのとき彼の目は、自分の内側を見つめる深い色を帯びた。

「でも、もし今自由になったら、俺は立ちはだかるものを片っ端から壊そうとするだろう。誰かを傷つけてしまうかもしれない」

「そんなことにゃ、ならねえよ」

 突然声を上げたのは、ジャン=ジャックだった。「かみさまは、あなたにそんなことは決してなさらねえ!」

 エドゥアールは下男の曲がった背中を、愛情をこめてさすった。もちろん、鎖の伸びる範囲でだ。

「だから、たぶん俺はここで、何かが起こるのをじっと待つべきなんだと思う」

 エティエンヌはうなずいた。

「何より、ここにおられるほうが安全です。王宮は今、不穏な空気が漂っていると申します。陛下はいまだに行方不明、密室で何もかもが決められ、まるで、あの方の独裁政……」

 【プレンヌ公】という禁句を言いそうになり、あわてて口をつぐむ。

 エティエンヌは、没落した子爵の五男坊という、まがりなりにも貴族の家柄の出身だ。暇を見つけては手を尽くして王宮の情勢を調べ、こうしてエドゥアールに報告してくれるのだった。

 そのせいか、紙のように白かった彼の顔は、この数日で少しだけ日焼けしていた。

 背後で、温かみのある声が聞こえた。

「王宮は、相変わらずのようだな」

 驚いて振り返ると、老境に入ったばかりと見える白髪の紳士が、執事を従えて、ステッキを頼りに階段を降りてくるところだった。

「プラムプディングとは、なつかしい。久しぶりに、ひとつ馳走になるとするかな」

「し、し、失礼しました。公爵さま」

 看守が、口に入っていた菓子をあわてて飲み込み、直立不動の姿勢になった。

「ラヴァレ伯爵。こちらは、ユルバン・ド・ティボー公爵であられます」

「え、あなたが……」

 エドゥアールも、急いで席から立ち上がった。

 元陸軍士官の父を持つ身でなくとも、クラインじゅうにティボー公の名を知らぬ者はいまい。五公爵のひとりにして、十年前まで勇猛果敢で知られる陸軍元帥だった。45年前のラクア戦役では、弱冠十八歳ながら敵将の首を取る活躍をしたという。

 先年、病を得て軍から引退したとは聞いていたが、なぜ王牢などに閉じ込められているのか。

「エルンストに声がそっくりだな」

 公爵は慈愛に満ちた笑みをたたえて、年若き伯爵を見つめた。「下の部屋から大声が聞こえてくるたびに、あれの息子ではないかと思っていたよ。せひ一度会いたくなってな」

 公爵の礼装のまま。囚人服は着ていない。公爵のために椅子を引いた男も老練の執事で、王牢から宛がわれた下男ではない。

 王牢のカビくさい空気が、彼らの回りからは退いたようだった。

「かねがね、お名前は伺っておりました」

 自然と膝を屈めたくなる威厳に、エドゥアールは言葉を正した。「でも、王国の功労者である御方が、どうしてここに?」

「なに。自分から勝手にここに入ったのだよ」

「ご自分から?」

 ティボー公爵は、優雅なしぐさでカップを傾けた。「おお、美味い紅茶だな」

「おそれながら、公爵さまは囚人ではございません」

 エティエンヌが、傍らでこっそり耳打ちした。「独房の扉は錠をかけず、いつでも出入りできるようにしてございます」

「俗世が、つくづく嫌になったのだよ」

 菓子を大きく切って口に運び、丹念に味わう。「伯爵家のコックは、王家秘伝のプラムプディングの味を知りつくしているようだな」

 どうやら、老公爵の速度でしか会話は進まないようだった。それを察したエドゥアールは、黙って相伴にあずかることにした。彼にとっては甘すぎるはずのプラムプディングが、ゆっくり味わうと不思議に美味しく感じる。

「王宮のありかたに、ほとほと嫌気がさしてな」

 しばらくして、会話は再開した。「貴族会議でエルヴェの提出しようとした理不尽な議案に待ったをかけた。あやつは烈火のごとく怒り、わたしを屋敷に蟄居させようとした。そんな屈辱を受けるくらいならば自分から幽閉されてやると、ここに越してきたのだよ」

 ティボー公はフレデリク大王の弟君の息子。フレデリク二世およびプレンヌ公の従兄弟にあたる。近しい血筋であり、それゆえに、プレンヌ公にとっては目の上のたんこぶとも言える存在だったようだ。

「それで、きみは? エルヴェからどんな不興を買った?」

 菓子を食べ終え、大きな拳をテーブルの上に置くと、老公はエドゥアールをからかうような眼でまっすぐに見つめた。

「国王陛下誘拐のかどで、捕縛されました」

「フレデリクを誘拐とな? ははは。大嘘だな」

 と、愉快そうに笑う。

「無実を信じてくださるのですか?」

「もし本当に国王を誘拐したのなら、一刻も早く王の居場所を白状させるために日夜の尋問を受けておるわ」

 確かに、そうだ。王牢に入れられてから二週間、一度も尋問らしきものは受けていない。

 それに、もしプレンヌ公が本気でエドゥアールを始末する気なら、王の誘拐犯人という汚名を着せたまま、拷問のすえにさっさと殺してしまうのが一番てっとり早いだろうに。

 お茶を終えたティボー公爵は、口ひげをぬぐったナプキンをポンとテーブルの上に投げ捨てた。

「安寧の日々が打ち壊されるのは心外であるが、ほかならぬ我が忠実な部下エルンストの息子に壊されるのなら、それも運命だろう。話してみよ、ラヴァレ伯爵。王宮に何が起こったのかを」

「はい」

 伝説の大元帥を前に、エドゥアールの胸はうち震えていた。彼が受けている理不尽な苦しみは、この人に会ったことで報われたとさえ思える。

 エドゥアールは、今までのいきさつを、かいつまんで話した。

 娼館で育ったという彼自身の出自。プレンヌ公の嫡子セルジュ・ダルフォンスとの出会い。

「セルジュと俺は、貴族の私的徴税権を廃止し、新しい税制を作る法案を共同で議会に提出しました。思惑はそれぞれ異なっていましたが、貴族の力を弱め、国王に権力を集中させるという点では一致していました」

「ほう。エルンストは共和主義者だと思っておったが、その息子が絶対王政を支持するとはな」

「絶対王政と共和政の間には、大きな溝はないと思っています」

 公爵のさぐるような視線を、エドゥアールは力強く受け止めた。「民衆が王を選ぶ時代が来れば、共和政治に移行できる。重要なのは、貴族による搾取をやめ、民衆が知識と経済力を身につけることです」

「ふむ」

「国王陛下も賛同してくださり、カルスタンとリオニアとの国境紛争を止めるための平和条約への締結に動き始めた矢先でした。リオニアとの調印式に赴いた陛下とセルジュが行方不明になったのです」

 懸念と後悔に身を浸している若き伯爵の顔を見つめながら、ティボー公爵はひげをしごいた。

「陛下とリンド侯爵を拉致したのはエルヴェだと、きみは思っているのだな」

「プレンヌ公、そして背後にいるカルスタン勢力です」

「もうひとつ、やつらに与する組織がいるのを知っておるか?」

「組織?」

「武器商人が作る闇ギルドだ。45年前のラクア戦役のときには、すでに地下で活動していたと言われる。どの民族にも、どの国にも与することはない。奴らの狙いはただ、人々を主義主張によって、あるいは宗教によって争わせ、この大陸全土から戦争を絶やさぬように仕向ける」

 エドゥアールは、ぶるりと震えた。「そんな奴らが――」

「知らぬのも無理はない。今まで歴史の表舞台には決して出てこなかった輩だ。しかし、リオニアとの和平条約がまとまれば、国境紛争は回避される。それは、武器を商う奴らにとって極めて都合の悪いことだった」

 ティボー公は、深い溜息を吐いた。「――きみたちは、狡猾な蛇を巣穴から引き出してしまったのだよ」



「お取次ぎを!」

 ミルドレッドは王宮の玄関に立ち、大声で叫んだ。

 新婚とは思えない質素な藍色のドレス。薄茶色の豊かな髪を結いあげ、帽子のレースで目元を覆ったミルドレッドは、まるで喪に服している未亡人のようだ。

 夫の処遇に対する抗議の意志を、全身で表している。

「どうしても、王妃さまにお目にかかって、お願いしたき儀がございます」

 応対に出てきた侍従は、彼女の頭からつま先までを冷ややかな目で見やった。

「あなたは、ラヴァレ伯爵夫人でいらっしゃいましょう」

「そうです」

「ならば、先にご自分の夫君にお頼みになるのですな。陛下のご無事な姿さえご覧になれば、伏せっておられる王妃さまも、たちまち回復なさりましょうに」

 目の中が赤く染まるような怒りと屈辱を覚えながら、ミルドレッドは黙って耐えた。

(どうすればいいの。エドゥアールさま。あなたなら、どのようにお答えになるの)

 息を吐き、顔をあげると、彼女はおだやかな微笑を浮かべて、侍従に言った。

「わたくしは、夫であるラヴァレ伯爵の代理として来ております。どうぞ王妃さまにお取次ぎを。もしわたくしに何かの罪があるならば、この場で捕らえてくださいまし。そうでないなら、クライン貴族としての正当な権利を主張いたします」

 侍従は、彼女の毅然とした態度を見てバツの悪そうな表情になり、「しばらく」と言い残して中に入った。

 ミルドレッドは、じっとその場に立ち続けた。

 夜まで立っていることを覚悟し始めたとき、玄関に飾られた彫刻の向こうで、ちかっと光るものに気づいた。

 あたりの様子をうかがい、走り寄る。

「遅くなり、申し訳ございません」

 侍従長のギョームが、手鏡をポケットにしまうところだった。「どうぞ、こちらへ。王妃さまがお待ちかねです」

 ミルドレッドは、いったん王宮の外に導かれ、すぐに荷置場のような部屋の扉をくぐった。王宮にこんな場所があったのかと思うほど、狭く人目につかぬ迷路のような通り道を、侍従長は鍵束を手にすいすい奥へと抜けていく。途中、誰にも会わなかった。

「エドゥアールさまがこの抜け道を知ったら、たいそうお喜びになりますわ」

「絶対に内密に願いますよ……しっ」

 ふたりはすばやく、低い塀のうしろに隠れた。

 回廊の円柱の向こうに、移動中の集団が見える。

 先頭を切って歩いているのは、紅い礼装のプレンヌ公爵。その後ろに続くふたりは、毛皮の帽子の特徴から言って、カルスタンの使者だろう。

(他国の使者が、王宮をわがもの顔に闊歩しているだなんて)

 次いで、その後ろの商人の服装をした恰幅のよい男が、ミルドレッドの目を引いた。まるで王侯貴族のような豪華なマントを羽織って、堂々とのし歩く。なにか面白い冗談でも言ったのか、男の高笑いが風に乗って聞こえてきたとき、言いようのない悪寒が、ぞっと背筋を駆け抜けた。

 王宮のこれほど奥に商人が入り込むなどとは、今までクラインではありえないことだった。ミルドレッドのような小娘でさえ、国の尊厳を踏みにじられた怒りが湧き上がる。

「一番後ろにいた、あの商人は誰です」

 一行が回廊の角を曲がって見えなくなったとき、小声でギョームに訊ねた。

「最近は公爵さまとともに、どこにでもついて回っているようで」

 温厚な侍従長の口ぶりに、嫌悪がにじむ。「フラヴィウスと申す、武器商人です」

「武器商人?」

  「戦争をおのれの糧としている連中ですよ」

 そのとき、先ほどの一行から少し遅れて、もうひとりの人間が回廊を横切った。

 臙脂色の礼装の背に金色の長い髪がゆらめいたのを見たとき、ミルドレッドはもう少しで悲鳴を上げるところだった。



 アメリア離宮に招じ入れられるや否や、ラヴァレ伯爵夫人は、拝跪も忘れて駆け寄った。

「王妃さま……!」

「ミルドレッド」

 ふたりは、しばらく固く抱き合って、互いの肩を涙で濡らした。

「王妃さま、お顔の色が真っ青です。どうぞ、お体を楽に」

「いいえ、大事ありません。あなたの来訪を聞いて、気力を取り戻しました。百人の味方を得た思いです」

「すぐに駆けつけることが叶わず、申し訳ありません。……それで、陛下のご消息は」

「まだ何も」

 テレーズ王妃が寝椅子に座ると、ミルドレッドはその前にひざまずいた。

「先ほど、リンド侯爵を王宮の中でお見かけしました」

 もどかしさのあまり、つい早口になる。「ポルタンスに向かわれる陛下のお伴をなさったのが、リンド侯爵だったはず。なぜ、あの方だけが王宮に戻っていらっしゃるのでしょう」

「わかりません」

 王妃は力なく首を振った。「問い正したくとも、わたくしはここから一歩も出られません。殿方を部屋に呼ぶことも許されていないのです」

「では、わたくしが王妃さまの代理として、侯爵さまに会ってまいります」

「ミルドレッド……いえ、ラヴァレ伯爵夫人」

 テレーズは、すがるように彼女の細い指を握った。「辛いでしょうが、今は無用な動きは避けてください」

「それほど、危険が迫っているのですか」

「それもありますが、今は、じっと時を待つことが必要な時期だと思えるのです」

「時を――?]

 王妃はつかんでいた手を引きよせ、屈みこんだミルドレッドに、あることばをささやいた。

「え?」

 少女の透き通った瞳が、驚きに大きく見開かれた。



 エドゥアールは、独房の中を一晩じゅう歩き回っていた。

 ティボー公爵のことばが、ぐるぐると頭の中を駆け巡っている。

「武器商人ギルド」

 カルスタンとリオニアの国境紛争にとどまらない。ましてや、プレンヌ公爵の王室に対する怨念どころの話ではない。もっと大きな争いの火種が、この大陸の地下深いところにくすぶっていることを、今ようやく悟ったのだ。

 フレデリク三世は、組織の存在を知っていたのだろうか。知っていたからこそ、その強大さに尻込みして王宮の奥深くに引きこもっていたのではないだろうか。

「いまいましい。こんなところで」

 本当の敵は、プレンヌ公でもカルスタンでもない。その正体を見定めたというのに、おのれの身は王牢から一歩も出られないのだ。

 ひとときもじっとしていられないほど歯がゆい思いをしたのは、生まれてはじめてだった。

「脱獄するか」

 だが、どうやって? この牢を抜け出したとたん、エドゥアールは本物の犯罪者になる。さらに、看守のエティエンヌは彼を逃がした罪を問われることになるだろう。

「ああ、くそっ」

 苛立ちのあまり、砕けよとばかりに石壁を叩いていると、

「あいかわらず、落ち着きのない男だ」

 聞き覚えのある声だった。いや、ひどく聞きなれた声。

「……セルジュ」

 牢扉が開き、冷たい微笑を浮かべて入ってきた貴公子、リンド侯セルジュ・ダルフォンスを、エドゥアールは呆然と見やった。

「なんの用だ」

 彼は肩をすくめた。「おまえのみじめな格好を笑いに来たのさ。何かいけないことでも?」

 エドゥアールは両手の鎖をチャリと鳴らして、ゆっくりと拳を組むと、次の瞬間セルジュに殴りかかった。





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