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伯爵家の秘密  作者: BUTAPENN
第9章「第二の秘密」
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第9章「第二の秘密」(3)

「へえ。すげえ」

 王宮の廊下を歩きながら、エドゥアールは目を見張った。

 近衛兵が小走りに庭を横切っていく。広間や回廊のあちこちで、ひそひそと貴族たちが立ち話。いつも玄関の間に無表情に立ち、訪問者を儀礼にのっとって先導する儀仗兵たちも、どこか、そわそわとした雰囲気だ。

「不穏な空気が満ち満ちてるな」

 先だっていたひとりの侍従が、「は」と肩越しにあいまいな答えを返してきた。

「俺が王都を留守にしてた数日のあいだに、いったい何が起きたんだ」

「それは、ここではお答えいたしかねます。拝謁のおりに、陛下から何かお達しがあるかと」

 侍従は、ぐいと首に腕を回されたのを感じた。

「ラ、ラヴァレ伯。おやめくだ……」

「こっちにも、心の準備というものがあるんだよね。今ここで教えてくれないかな」

 最初はふわりと軽く、だが少しずつ確実に腕には力がこもってくる。侍従は必死で首をかくかくと縦に振った。

「二日前、陛下がカルスタンの大使を、謁見の間にお呼びになりました」

 解放された太い首をさすりながら、侍従は答えた。

「リオニアとの国境紛争への支援要請に対して、クライン王国は中立を保つと、ひとこと仰せられたのです」

「ふうん。陛下が」

 と言って、エドゥアールは唇をすぼめた。

「カルスタン大使はカンカンになり、席を蹴るようにして退出。いつ宣戦布告がなされるか、王宮の者はみな戦々恐々としております」

「あはは。そりゃ、すごい見ものだったろ。居合わせたかったな」

「恐れながら、笑いごとではございません」

「あの王サマが本気になったのなら、この国は大丈夫だよ」

 伯爵はもたもたしている侍従を残し、さっさと歩みを再開した。

 いつも大勢の人間が居並んでいた謁見の間には、入口を固める近衛兵数名の他は、たった三名しかいなかった。ひな壇の脇にいた侍従長ギョームが、入って来たエドゥアールに向かって深く頭を下げる。彼はこの王宮で、確実に王の味方だと信頼できる数少ない人物だ。

 そして、玉座には王衣をまとったフレデリク三世。その御前の赤いじゅうたんの上に直立しているのは、リンド侯爵セルジュ・ダルフォンス。

 まるで、一幅の絵画だった。広間に射し込む午後の残光が、フレデリクの王冠と王錫を輝かせ、侯爵の臙脂色の礼服の背中に流れる金髪を鈍く光らせている。

 真剣な表情で言葉を交わし合っているふたりを見たとき、エドゥアールは微笑んだ。

「わ、楽しそうだな。何してんだ」

 明るい声をかけながら近寄ると、同時にじろりと睨まれた。

「ひとこともなく、どこへ行っていた」

「あ、嫁さんの実家に挨拶に」

 と言いかけて、エドゥアールは真顔に戻った。「……って、冗談言ってる場合じゃなさそうだな」

 玉座の前に進み出て、正式な臣下の礼を取る。

「現状を、どこまで聞いている?」

 フレデリクが、簡潔に訊ねた。

「カルスタンの大使が怒って、本国に帰っちまったところ、かな」

「では、その後あったことを話してやろう」

 セルジュが、皮肉な笑みを浮かべた。「今朝、プレンヌ公爵を含む大臣五人全員が、辞表を提出した。理由は『陛下の誤った対外政策をお諌めするため』だ。ただちに、王国法に従い、新しい大臣を決めるための臨時の貴族会議が招集された」

「ぶったまげたな」

 エドゥアールは大きくため息をつきながら、玉座の階段に腰をおろした。「運命の水車ってのは、ときどき信じられないほど速く回る。四日留守にしてるあいだに、そんなふうに事態が進んでるとは」

「貴族会議が終われば、今度は死刑台まで進んでいるかもしれぬぞ」

 冗談とも本気ともつかぬ口調で、国王が言った。「臨時会議でプレンヌ公爵たちが再選されるのは、ほぼ確実だ。そうなれば、余は彼らの言に異を唱えることが、きわめてむずかしくなる」

「で、貴族会議の日は?」

「一週間後の来月四日だ」

「俺の結婚式の前日じゃねえか!」

 エドゥアールは頭をかかえて、うめいた。「最悪の前祝いだな」

「例の話は、いつになっている」

 セルジュが『例の話』と言うのは、もちろんリオニア共和国との和平条約の調印式のことだ。

「予定では、来月下旬。その頃には国境付近も雪に埋もれるし、冬至祭を控えて、前線の兵のあいだでも厭戦ムードが高まるころだろうという計算だ」

「もっと早くすることは可能か?」

 セルジュの声には、かすかな焦りが混じっていた。

 エドゥアールは、心の中で「あれ?」といぶかしく思った。いつも傲岸なほど自信に満ちているはずの貴公子の蒼い瞳の奥に、おびえの影がちらついている。かつて、そんなセルジュは見たことがなかった。

 エドゥアールは立ち上がった。「俺も同じことを言おうと思ってた」

 三人の視線が、一点で鋭く交わった。

 エドゥアールはぐいとセルジュの袖を引き、ひな壇を上がった。同時に王は玉座から身を乗り出した。

「四日の貴族会議を混乱させて、国務大臣の選挙を妨害する」

「翌日に持ち越されるだけだ」

「翌日は聖アンヌの祝日で会議はお休み。おまけに、俺の結婚式」

 エドゥアールは、茶化したように指をパチンと鳴らした。「大聖堂での式には、貴族全部に招待状を送ろうと思う」

「貴族全部? 男爵まで含めれば、千五百人を超えるぞ」

「もちろん全部来るとは思ってないけど、貴族会議でたまたま王都に居合わせてるから、かなりの人数は行ってみようかって気になるはず。大聖堂周辺は、馬車や馬の往来で大混乱だ」

「ふむ?」

 フレデリクは、それで計画を察したのか、興味深げに片眉を上げた。

「その騒ぎの隙に、あんたたちふたりは王都を脱出し、ポルタンスへ向かう」

 エドゥアールは屈めていた背を、気持ち良さそうに伸ばし、笑った。「ナヴィルからポルタンスまで早駆けで四時間。五日の夕刻には、楽しい船上パーティってわけだ」

「先方は?」

「これから連絡を取る。向こうも早いにこしたことはないから、万難を排して融通はつけてくれる約束だ」

「肝心のおまえは、出席しないつもりか」

 納得のいかない様子のセルジュに、エドゥアールは屈託ない笑みを向けた。

「悪いな。俺の仕事はここまでだ。あとは一切、政治から引かせてくれ」

「なんだと?」

 フレデリクとセルジュが異口同音に問い返した。

 エドゥアールはバツが悪そうに、ぽりぽりと頭を掻く。

「はじめから、そのつもりだった。成り行きで関わっちまったけど、俺は自分の領地にひきこもって静かに暮らしたいんだ。もともと国政なんてガラじゃねえし。第一、そういう身分じゃなし」

 彼は、国王と侯爵をかわるがわる、まっすぐに見つめた。

「現国王と次期国王のあんたたちふたりが協力すれば、この国は絶対にうまくいく」

 そして、有無を言わせず、ふたりの手をぐいと引っ張り、重ね合わせる。

「フレデリク。あんたは人の心に隠れているものを見抜ける人だ。何よりも、十人の大臣よりも有能な王妃さまがそばにおられる。――セルジュ。あんたは百年にひとりの優秀な実務家だ。説得力と実行力を兼ね備えている。クラインの歴史に名を残す賢王になれる人だ」

 柔らかい雨のように注がれる声を聞きながら、フレデリクとセルジュは互いを見つめ合った。

「あんたたちふたりが固く手を取り合えば、俺の出る幕はもうない」

 まるで遺言ででもあるかのように、満足げに言葉を結び、エドゥアールはふたりから手を離して、壇を下りた。

「今さら何をほざく」

 フレデリク国王は、どさりと背中を玉座に預けた。「おまえのせいであろう。余がまんまと、居心地のよい隠れ家から引きずり出されてしまったのは」

「俺はそんなの、ひとことも頼んじゃいねえぜ」

「ぬけぬけと言いおるわ」

「万が一のときは、おまえの首を父にさし出そうと思っていたのに」

 セルジュも怒りにまかせて、言い放った。「ここで、自分だけさっさと安全なところへ逃げ出す気か」

「あはは。全部俺のせいにしてくれていいぜ。難攻不落のラヴァレの谷に引っ込んで、出てこないつもりだから。少なくとも一年か二年は」

 「それに」と、エドゥアールは肩をすくめた。

「実は、もうすでに俺は、プレンヌ公の逆鱗に触れるようなことをしでかした」

 ことばを舌の上でしばらく転がしてから、続ける。「フォーレ子爵夫人を知ってるか」

「父の愛妾のひとりだ」

「その令夫人と令嬢を、うちの伯領にかくまっている」

 秘密に触れずに話せる部分だけ、かいつまんで事情を話す。

 伯爵家に長年仕えていた家令のオリヴィエが、プレンヌ公から訣別しようとしていること。彼の娘と孫であるマリオンとオルガの命が人質に取られる恐れがあること。

 マリオン夫人は時間稼ぎのために、『しばらく巡礼の旅に出たい』と夫に当てた自筆の置き手紙を残した。『相談すれば反対を受けるので、こっそり出て行きます』とも。

 プレンヌ公のもとに手紙が届き、そのことばの真偽を確かめるまでには、いくらか時間の猶予はあるだろう。

 それまでに、すべての計画を終え、ラヴァレの谷で万全の防衛体制を固めなければならない。

 マリオンとオルガの救出は、伯爵家にとっては最悪の選択だった。誘拐された妻子を取り戻すという大義名分を、プレンヌ公爵側に与えてしまったからだ。

「だけど俺は、俺を頼ってくる人たちの生命を守らなきゃならない」

 エドゥアールは強い決意に、水色の瞳を燃え立たせる。「悪いけど後は頼む」

「父は……執念深い方だ」

 セルジュは、薄い唇を軽く噛む。「おまえは、父が死ぬ日まで、命を狙われ続けることになるぞ」

「覚悟はしてる」

 エドゥアールは、同じ懸念の眼差しを友に返した。「それよりセルジュ、あんたのほうは大丈夫なのか」

「さすがに、アルフォンス家の嫡男を殺しはせぬだろうが」

 セルジュは苦い笑いを浮かべた。

 それまでは、心のどこかに甘えがあったのだ。

 どんなに反目し合っても、裏切るような言動をしても、父はたったひとりの嫡子である彼を完全に切り捨てはしまい。最後には、和解の手を伸べてくるはずだと。

「だが、あの激昂した様子では、わたしの手足を切り、喉を焼いて、おのれの傀儡とするくらいのことはしかねぬな」

「このままでいいのか」

「もう関係の修復は不可能だ」

「……つらいな」

「おまえに、同情される覚えはない」

 その会話を黙って聞きながら、フレデリク三世は、ふたりの若者が立ち向かおうとしている苛酷な現実を思った。

(余が二十年間、国を放置し、プレンヌ公爵のなすがままにしておいたツケが、彼らに回ってきたのだ)

 恐ろしいのは、プレンヌ公ひとりだけではない。

 公爵を取り巻く特権階級。利権にむらがるウジ虫ども。そして、背後にそびえるカルスタンという巨大な軍事国家。

 やがては、それらすべてと対決しなければならない。それが、これまでの怠惰のつぐない。この国を統べ治める者としての責務だった。

「フレデリクちゃん」

 思いにふけっているあいだに、さっきまでの悲壮な雰囲気はどこへやら。エドゥアールはいたずらっぽい笑いを浮かべながら、玉座の彼を下から覗きこんでいた。

「ちょっと見ない間に、すっかり雰囲気が変わったな。そう思わないか、セルジュ」

「確かに」

「男らしくなった。好きな女の前でいいとこ見せようって気負いが、ありありと見えるよな」

「ふふ。なるほど」

「あっはは」

 彼らの笑い声に、フレデリクも不本意ながら笑みをこぼすしかなかった。

 どれほど前途に多難が待ち受けていようとも、それを明るい希望に変えてしまう力。エドゥアールが持っているのは、そんな力だ。

 紛うことなく、その力は妹エレーヌから受け継いだものだ。

 本当なら、この国の未来を託す相手は、この若者であるべきなのに。

 エドゥアール・ファイエンタール・ド・ラヴァレ――ファイエンタール王朝の直系の血を継ぐ者なのだから。



 ミルドレッドは、子爵家居館のバルコニーから、遠くのラロッシュ河の漁火をぼんやりと見つめていた。

 結婚式まで、あと六日。

 着々と準備が整っていく一方で、肝心のエドゥアールに、あれから全く会えない。無事に王都に戻ったことが人づてに伝えられただけだ。

 今日、王宮からの使者が訪れ、臨時の貴族会議の日程を告げて行った。おそらく、彼はその会議の準備で多忙をきわめているのだろう。

 しかも最悪なことに、その日は、ふたりの結婚式の前日だ。

(もしかすると、式は延期になるのかも)

 エドゥアールの立場になってみれば、それしかない。もし延期を告げられても、平静な心で受け入れねばと思う。

 けれど、けなげな覚悟とは裏腹に、大きな塊が喉の奥につまっていて、今にもわっと泣き出してしまいそうだ。

(エドゥアールさまのお命は、本当にだいじょうぶなのかしら)

 王都の民衆が、ひそひそと声をひそめて話す声が、ここまで聞こえるようになった。

『国王陛下と大臣さま方が、えらく反目をされているそうな』

『若い伯爵さまが、生意気にも王政に口をはさんでいるのが原因だそうだ』

 おそらくプレンヌ公爵一派の流した噂だろう。エドゥアールがひとりだけ悪者になっていくのではないかと、心配でたまらない。

「……ッド。ミルドレッド」

(ほら。恋しさのあまり、あの方が呼ぶ空耳まで聞こえるわ)

「ミルドレッドってば」

 子爵令嬢は「きゃっ」という悲鳴とともに、思わずのけぞった。バルコニーの手すりを誰かの手がつかんだかと思うと、エドゥアールがにゅっと顔を出したのだ。

「エ、エドゥアールさま」

「ごめん、驚かせて」

 バルコニーの縁石に足をかけ、軽々と上半身を持ち上げる。

「一目だけ会って行きたかったんだ。今からラヴァレ領に戻る」

「今からですか!」

 どきどきと鳴りやまぬ胸を押さえながら、ミルドレッドは駆け寄った。

「うん。一晩だけ向こうにいて、その翌日には、また王都に戻ってくる」

「そんな強行軍、お体がどうかなってしまいます」

「だいじょうぶ。今の俺は、ふだんの五割増しくらい元気だから」

 そう言いながら、エドゥアールは手すり越しに、すばやくミルドレッドのうなじを引き寄せ、唇を捕らえた。

「せめて……熱いお茶……だけでも」

「だめ。親父さまとおふくろさまに会ったら、ずるずると長い時間引きとめられるし」

 夜明かりを映した水色の瞳が、間近でせつなげに何度もまばたく。「それに、一度でも抱きしめたら、俺がきみから離れられなくなる」

 もう一度、軽く唇を重ねると、エドゥアールはきっぱりと体を離した。

「次に会えるのは、結婚式の朝かもしれない」

「式は、本当に予定どおりに? だいじょうぶなのですか」

「だいじょうぶ。俺を信じろ」

「はい」

 こっくりとうなずいたミルドレッドは、愛くるしい笑みをこぼした。「信じています」

「ユベールを見張りに置いていく。誰かが外出するときは、必ず同行させてくれ」

「ユベールさまがわざわざ、わたくしたちのために?」

「凶悪なほど魅力的な花嫁が、男どもにさらわれないようにね」

 明るい笑い声を残して、もう次の瞬間、彼の姿はバルコニーから消えていた。



 朝駆けの早馬で、エドゥアールは翌日の昼にはラヴァレ領に着いた。

「若旦那さま」

 オリヴィエは、娘のマリオンと孫のオルガとともに深々と拝跪した。

「このたびのご恩情、お礼の申し上げようもございません」

「なんの」

 エドゥアールは、オリヴィエの口癖を真似て、にやっと笑った。「その分、うんとこき使ってやるからさ。覚悟しとけよ」

「ありがたき仰せに、涙が出ますな」

 ことばに違わず、オリヴィエは本当に涙を浮かべていた。

「オルガ。この谷の居心地はどう?」

「はい、伯爵さま」

 くりくりと大きな緑色の瞳が愛らしい14歳のオルガは、優雅なお辞儀を披露した。「大伯爵さまにも、使用人の方々にも、とても良くしていただいております」

「でもさ。古くて広くて陰気な館だろう。幽霊が住みついてるからな」

「幽霊?」

 オルガの目がようやく輝いた。少女は、生まれ故郷から引き離され、見知らぬ場所ですっかりしょげていたのだ。

「それが、出るんだよ」

 エドゥアールは、口に手を当てて声を落とした。「がちゃがちゃと足に鎖を引きずって歩く敵国の捕虜の幽霊が。もし今晩遅くまで起きていられたら、いっしょに見に行くかい?」

「行く! 行きますわ」

「げほげほ」

 家令は、何度も咳ばらいをすると、

「それはそうと言い忘れておりましたが、今朝、サンレミ村からご老女が到着いたしました」

「坊や!」

 杖を振りまわすようにして、アルマが部屋に入ってきた。

「どういうつもりだい、まったく。ひとことの相談もなく、人をさらって」

「元気になったな。アルマ婆さん!」

 若き伯爵は駆け寄ると、放浪民族の老婆に子どものように抱きついた。

「ラヴァレの谷は、いいところだぜ。きっと気に入る」

「ふん。こんな寒い谷。雪が降って住めないじゃないか」

「冬のあいだはこの領館にいろよ。春になったら水車小屋の近くの森に小屋を建ててやる。山菜も茸もたくさん生えてる、いい森だ」

「まったく頑固な子だよ」

「頑固な婆さんに育てられた」

 アルマは首に巻いていたスカーフをはずして、くしゅくしゅと涙をぬぐった。「あんたは、どこまで余計な荷物を背負い込む性分なんだい」

 その夜の晩餐は、かつてないほど賑やかなものとなった。

 広い食卓についたのは、ラヴァレ伯爵父子。

 フォーレ子爵夫人と令嬢オルガ。彼らの父オリヴィエも食卓に連なるようにという誘いは、見事に蹴られた。「わたくしは、あくまで伯爵家の使用人でございますので」

 騎士ジョルジュ。そして、アルマ婆さん。

 その席のあいだを手際よく、執事のロジェがワインを注いで回る。

「あと一週間すれば、さらに子爵令嬢が加わることになる」

 エルンストは食卓を見渡し、そしてうれしそうに付け加えた。「いや、そのときはもう、我が伯爵家の嫁御寮だ」

 にやけている父を呆れたように横目でにらみ、息子は黙々と、シモンお得意の黒胡椒ステーキを平らげている。

「子爵ご令嬢って?」

 マリオンの娘オルガは、母親のドレスの袖をきゅっと引っ張った。

「馬車の中でご一緒したミルドレッドさまのことよ。伯爵さまのご婚約者で、来週結婚なさるの」

「まあ、あのやさしい女神さまのような方がここに?」

 オルガは、うっとりとした顔つきになった。「お母さま。わたし、フォーレからこの谷へ来てよかったわ」

「ええ」

「こんなに大勢でいただく楽しい食事ははじめて。まるで祝祭のようだわ。毎日ふたりきりの、あんな寂しいお屋敷へは帰りたくない。ずっとここに住みたいわ」

「ええ。きっと、そうしましょうね」

 母は娘に見えないように、そっと目頭を押さえた。

 空っぽの皿の上に残った生クリーム入りブランデーソースを、きれいにパンでぬぐい取ってから、エドゥアールはデザートを待たずに、ナプキンをテーブルに置いて立ち上がった。

「来週、王宮で臨時の貴族会議が開かれる。おそらくは、それを機に、プレンヌ公爵と全面的に争う事態に発展しそうだ」

 そして、頭を下げる。「俺のせいで、みんなを危険な目に合わせることになるかもしれない。すまない」

 食卓の給仕をしていたオリヴィエは、あわてて首を振る。

「若旦那さまのせいではありません。伯爵家に対して裏切りを重ねてきたわたくしが、この事態の元凶です」

「いや、誰のせいでもない。こうなることは運命だったのだ」

 主の席から重々しい声を上げたエルンストに、一同の視線が注がれる。

「エレーヌとの結婚を強引に推し進めたことによって、かの御方との間に憎悪の種を播いてしまった。その種が二十年後の今、刈り入れのときを迎えただけなのだ。責めるなら、わたしを責めてほしい」

「大切なのは、今から何をすればいいか、その場での最善を尽くせるかだ」

 エドゥアールは、一同を鼓舞するように見渡した。「あらゆる事態を想定して、やれることはすべてやっておく。たとえ相手が誰であっても、この谷に住む者たちに、指一本手出しはさせないという気構えでいてほしい」

 貴族から使用人に至るまで、「はい」と声をそろえた。

「村々の自警組織は、順調に結束をかためつつあります」

 騎士ジョルジュは、確信にあふれて報告した。「敵の襲撃、特に火による攻撃に対する防御を中心に、訓練を重ねています。物見やぐらを立て、交替で昼夜を問わぬ見張りもおこなっています。雪の季節さえ迎えれば、この谷はさらに難攻不落の要塞と化します。あと少しの辛抱です」

「サンレミ村のほうは、どうだ?」

「州長官に、警備兵を配備するように依頼しました。快く頼みを聞いてくれたはずです」

 件の長官は、イサドラに私生活上の弱みを握られているため、以前にもテオドール医師を借金取りの手から守ってくれたことがあった。

「もちろん、ポルタンスの娼館自体も心配はいりません。館の主があの気性ですし。裏町の住民すべてが味方ですから」

 母イサドラのことを話すとき、ジョルジュはわずかに誇らしげに顔をほころばせた。

「モンターニュ子爵領は、どうです?」

「あそここそ、天然の要塞だ。前面の湖と背後の山峰に、しっかりと守られている。使用人たちにも、よく状況は説明してきた」

 とエドゥアールが答える。

 ラヴァレ伯爵家に少しでもつながりのある人間には、プレンヌ公爵からの危害が及ぶ恐れがある。万一を考えて、あらゆる場所で対策を立てる必要があった。

「それより一番狙われる危険が高いのは、王都におられるモンターニュ子爵ご一家だと思われますが」

「そっちは大丈夫だ。ユベールが、子爵家に張りついている」

「肝心のラヴァレ家の居館は」

「ナタンは状況判断がうまいし、もし敵わないと見れば、あっさりプレンヌ公に投降するだろう。それでいい」

「ですが、結婚式の当日はどうなさいます」

 オリヴィエが懸念に目を曇らせながら、デザートを配った。今日はオルガの好物、コケモモのタルトだった。

「式の当日は、隠れ場から出ないわけには、まいりません。大聖堂の行き帰り、披露宴。襲われやすい場所はいくらでもございます」

「それについては、ちゃんと考えてある」

 エドゥアールは、腹に一物ある笑顔を浮かべた。

「衆人環視の中では、かえって公爵たちも手出しできないはずだ。だから、なるべく多くの招待客を呼ぶ」

「なるほど。して、いかほど」

「そうだな。できれば千五百人」

「せ、せ、千五百人!」

「クラインの貴族全員に、招待状を書いてくれないか。千五百通。それを、王都のそれぞれの居館に配って回ってくれ」

「……」

「あ、それから披露宴の御馳走だけど、都の民衆も交えて、ぱーっと賑やかにやりたいんだ。三千食準備してほしい」

 オリヴィエは、へたへたとその場に尻餅をついた。

「な、なんということを。伯爵家を破産させるおつもりですか!」

「ああ、そうなるかな。俺の代で伯爵家は終わっちまうかも」

「まあ、それもいいだろう」

 七代目と八代目のラヴァレ伯爵は、そんな呑気な会話を交わしながら微笑み合う。

「あっはっは」

 アルマ婆さんが、突然笑い出した。「さすが、あたしの育てた坊やだ」

 執事のロジェが平然と、お茶を注いで回った。

「神経の落ち着くボダイジュの葉でございます」




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