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伯爵家の秘密  作者: BUTAPENN
第8章「王の資質」
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第8章「王の資質」(4)

 高い空には、小魚の群れのような秋の雲が浮いていた。北のラヴァレ領ではそろそろ、どの家も薪を小屋いっぱいに積み上げ、冬支度を終えている頃だろう。

 ポルタンスの市庁舎前広場の屋外カフェに、洒落た服装の男がぶらりと歩いてきて、テーブル席に腰かけた。

 コーヒーを注文したあと、伊達男は頬杖をついて広場をながめるふりをする。

「何度来ても、ここはいい街ですね」

 背後の席に座っていたくりかみの少年は、蜜をまぶした揚げパンをちぎって、広場で羽根を休める鳥たちに放り投げながら、答えた。

「昔から、この町ではリオニア訛りが飛び交ってる。リオニア人にとって、こんな居心地のいい場所はないでしょう?」

「カルスタンがどんな軍事大国だとしても、リオニアに絶対勝てないことがひとつあります。海軍ですよ。かの山国には海軍がない。海はリオニアのものです。もし、クラインがリオニアに宣戦布告したとしたら、二十四時間でクラインの海岸を制圧してみせますよ、ラヴァレ伯爵」

 ラウロ・マルディーニは少し体をねじって、横目で笑いかけた。「海賊と共同戦線を組んでね」

 エドゥアールは平然と微笑み返した。何度となく交渉しているうちに、このリオニアの密使がとんでもない嘘つきであることがわかった。前回の約束を平気で反故にする。言っていることはハッタリだらけだ。

「では、リオニア海軍が海賊と手を組んでいるという噂は、本当なのですか」

「本当だと言っておいたほうが、交渉を有利に進められますかな」

 という具合に、のらりくらりと、こちらの追及をかわす。

(親父とこの男が、若いころ親友だったというのもうなずけるな。要するに、へそまがり同士だ)

 心の中でため息をついていると、ウェイトレスが運んできたコーヒーをうまそうに口に運びながら、ラウロは言った。

「都に帰り、首相と話をまとめてきました」

「なんと?」

「カルスタンと和平条約を結ぶことを前提に、まずクラインと不戦協定を結びましょう」

 心臓が跳ねた。思いがけない朗報だ。

「場所はここ、ポルタンスの港に停泊したリオニア帆船の上で調印式を行なうということでどうでしょう」

「……こちら側の条件は?」

「国王フレデリク三世にお越し願いたい。当方はリナルディ首相が出席します」



 ミルドレッドは、ジルといっしょに台所の桶に水を満たしていた。

 客とは言え、メイドという身分を自称している以上、遊んでいるわけにはいかない。エドゥアールのほうも体が勝手に動くとばかりに、暇さえあれば、せっせと石炭運びなどやっている。

「もう、ミル……さまってば。わたくしが……」

 ジルは何度言い聞かせても、主人が水汲みなど下賤の仕事をすることをどうしても我慢できないらしく、口の中でぶつぶつこぼしている。

「ジル、そんなことより、ジョルジュのほうはどう?」

「それが……、まったくもって困ってます」

 ジョルジュは、騎士の誇りにかけて娼館などには泊まれないと言って、広場の宿に移ってしまった。従者のトマと恋仲のジルは連絡役となり、毎日何度となく彼の様子を聞きこんでくるのだが。

「すっかり意固地になっておられるらしく、トマの説得になんぞ、耳も貸してくれないそうです」

「そう」

 幼いころ家を出た母イサドラとの対面を、徹底的に避けているのだ。食事に呼んでも、理由をつけて固辞される。

 もっと悪いことに、エドゥアールが自分を雇ったのは、イサドラの息子であるからだと誤解しているのだ。

「おまけに、『トマ。おまえだけがラヴァレ領にいれば、わたしは必要ないんだ』と、もうおっしゃってることがめちゃくちゃなんです」

「すっかり、自信を失ってしまわれたのね」

 ミルドレッドは、ほうっと長いため息をついた。「なんとかならないかしら」

(――ほんのちょっとしたきっかけさえあれば、人間は変われるはずなのに)

 厨房にイサドラが入ってきた。

「ガストン。今夜は、油商のブリュエール旦那が接待にここを使いなさるからね。豪勢なつまみをいくつか頼むよ」

「はいよ。まかしときな」

 イサドラは、エプロン姿のミルドレッドを見ると、にっこり笑った。

「遠慮なんかしないで、ゆっくりおしよ……と言っても、じっとしてられないだろうね」

「いいえ、ミストレス、こうやって働くのがとても楽しいんです」

 ミルドレッドは、言い訳ではなく本心を打ち明けた。「家では、あたりまえみたいに皆にかしずかれて。考えたら、自分の飲む水一杯、井戸から汲んだことがないまま、今まで生きてきたのですわ」

「いいことだね。人間いつ、どうなるかわからないんだから。自分の力で生きる訓練は大切だよ」

「あの……ミストレス。実は折り入ってお話ししたいことが……」

 訴えかけるような令嬢の瞳を見て、イサドラは何かを察したようだった。

「じゃあ、あたしの部屋においで」

 女将は自室に彼女を招き入れると、扉に鍵をかけた。

「さあ、これでいい。話というのは?」

「わたくし、エドゥアールさまの秘密を存じ上げています」

「あの子が自分からしゃべったのかい?」

「はい」

「きっとそうじゃないかと思ったよ。あんたたちの様子を見てるとね」

 イサドラは、ポケットから鍵を取りだすと、部屋の奥にある扉の錠前をはずした。「中を見てごらん」

 瀟洒な調度の部屋は窓がなく、四方の壁をぎっしりと古今東西の書物に埋め尽くされていた。

 部屋のかもしだす歳月の重みに打たれて、ミルドレッドはしばし息をするのも忘れた。

「エドゥアールは、ここで育ったんだよ。一歩外に出れば、娼館の下働きのエディとして、最下層の身分の人間として生きた。でも、この部屋にいる限りは、ラヴァレ伯爵の嫡子、この国で最も尊い血を受け継ぐ御方として考え、ふるまった」

 頭ではわかっていたつもりだった。だが、目の前に広がる現実は、あまりにも想像を超えている。

(私は何という重い秘密を知ってしまったんだろう)

 ミルドレッドの髪に、暖かい手が触れた。

「本当の自分とは何か。きっと毎日が葛藤だったと思うよ。そういう子だからこそ、身分に囚われない、身分によって人を偏り見ない生き方ができるのさ」

「わたくし、ときどき恐くなることがあるんです」

 ミルドレッドの声は、かすかに震えていた。「そんな御方が、なぜわたくしを選んでくださったんでしょうか。身分というものさしの中で、何も知らず、何も知ろうとせずに生きてきたわたくしを」

「でも、お嬢ちゃんは、少なくとも変わろうと努力してるだろう?」

 イサドラは、すべてを受け入れるおおらかな笑顔で言った。「それが、あの子には一番うれしいことなんだよ」

 ミルドレッドは、ハンカチーフを取りだして、丁寧に目をぬぐった。そして顔を上げ、両手をそろえて居住まいを正した。

「ミストレス。もうひとつ、わたくしの話を聞いていただけますか」

「なんだい」

「エドゥアールさまは、あなたに受けた愛情に心から感謝しておられます。その分、ジョルジュさまに対して負い目を感じておられるのです」

 ジョルジュの名前を聞いたとたん、イサドラの顔から笑みが消えた。

「子が親を恋しくないはずはありません。わたくし、エドゥアールさまのお手伝いで、聖マルディラ孤児院に何度かまいりました。孤児の中には、親に見捨てられ、ひどい虐待を受けてきた子がたくさんいます」

 うつむいた頬から、涙がぽとりと落ちる。「それでも……帰りたいのは、やはりお父さんお母さんのところだと、みんな口をそろえて言うのです」

 長い沈黙があった。

「お嬢ちゃん、ごめんよ。心配かけて」

 背中を向け、小さいが弱さを感じさせない声でイサドラは言った。

「けど、もう遅いんだよ。もっと幼いときなら、何度でもごめんねと謝って、抱きしめてもやれたろう。でも、あの子はもう一人前の男なんだ。騎士という立派な地位を自分の手で勝ち取ったんだ。娼館の女将なんかが、一事をなそうとしている男の洋々たる未来の前に立ちふさがっちゃいけない。今はよくても、きっと足手まといになる」

「そんなはずありません。ミストレス。ジョルジュさまは、今でもどんなにか……」

「メイヨー伯爵家を出るときに、そう自分に誓ったんだよ。もう二度とあの子には会わないと」

 搾り出すように言いきると、イサドラは傲然と頭を上げた。「決心を変えるつもりはない」

「人は変わることができないのですか――貴族と平民の壁は壊せるものだと、信じておられるのではなかったのですか?」

 ミルドレッドの叫びは、むなしく部屋の壁に吸い込まれていく。



 その朝、ジョルジュが宿の寝心地の悪い寝台から起き上がり、用意された水差しの水で顔を洗っていると、下からガラガラとけたたましい音が響いた。

「なんだ?」

 従者のトマが扉を開けて、廊下の手すりから階下をのぞきこむと「わっ」と叫んだ。

 大きなバケツを手に、長い柄のシャベルを肩にかついだエドゥアールが、どかどかと階段を上がってきたのだ。

「今から、運河の川底をさらう。手伝え」

「わ、若さまが?」

「舟に乗ってみて、わかった。娼館前の水底にドロが堆積していて、舟底にこすりそうなんだ。このまま放っておいたら、舟が通れなくなっちまう」

「お待ちください、若さま」

 ジョルジュはとっさに、主の持つ道具の先をつかんだ。「おやめください。必要ならわたしが人を呼んでまいります。川ざらえなど伯爵さまのする仕事ではありません」

「やっちゃいけねえってのか?」

 エドゥアールは険のある目でにらんだ。しかし、ジョルジュも負けてはいない。

「はい、お止めします。卑しい仕事には、それにふさわしい身分の者がいるのです。他人が気まぐれに手を出しては、その者から仕事を奪うことになります」

「命令だと言っても?」

「恐れながら、拒否させていただきます。騎士の誇りにかけて」

 床に投げ出されたバケツが、雷鳴のような音を立てた。

「騎士の誇りなんか、くそくらえだ!」

 ジョルジュもトマもすくみあがった。まなじりを吊り上げた彼らの主は、それほどに恐ろしい気迫にみなぎっていた。

「いいから、来い!」



 水路の回りは、あっという間に人だかりで埋め尽くされた。

 爵位を持つ騎士さまが、水路の底ざらえをやっているという噂が、たちまちにして下町じゅうに広がったのだ。

 イサドラの娼館の裏手の船着き場のあたりで、エドゥアールとジョルジュは水に腰までつかり、競うようにして泥をすくいあげていた。

「この世には、役割はあっても身分なんか必要ない」

「いいえ、必要です。王には王たるべく定められた人がいるのです。このバケツを作る鋳掛け屋という職業に定められた者がいるように」

「違う。生まれたときから全てが定められ、自分の力では絶対に変えられない社会は間違ってるんだ」

 二階の窓からは、着飾った娼婦たちが鈴生りになって、「がんばれーっ」とやんやの喝さいを送る。従者のトマは、主の羽根帽子と上着と剣を両手に抱え、橋の上から悲壮な面持ちで見下ろしている。

「王や領主が尊敬を受けるのは、民の幸福のために大きな責任を負っているからだ。娼館の女将が伯爵夫人より劣っているということにはならない」

「いいえ、あなたのおっしゃることは世の中の常識からかけ離れています。どう弁護しても、娼婦は人から後ろ指をさされる卑しい職業だ」

 ふたりは、ぜいぜいと息をつきながら睨み合った。

「あ、5ソルド見っけ」

 エドゥアールは、シャベルの泥の中から、一枚の銅貨をつまみあげた。「そう言えば、このあたりは、客と娼婦が痴話げんかのあげく、よく窓から物を投げ落とすところなんだ」

「それなら、わたしも、さっき宝石のついた耳飾りを見つけましたよ」

「え、ちょっと見せてみろ」

 エドゥアールは、泥まみれになった金細工の耳飾りを受け取ると、「わ」と叫んだ。

「これ、ナナが何年も前になくしたやつだ。おーいナナ、見つかったぞ」

 上の窓に向かって装飾品を振ってみせると、ひとりの中年の娼婦がきゃあきゃあと歓声をあげながら、何度も投げキスをよこした。

「……それほど、高価なものだったのですか」

「まがいものだよ。それでも、彼女たちにとっては大事な宝なんだ」

 エドゥアールは汚れた顔を袖でぐいと拭くと、同じく汚れた騎士の顔をじっと見つめた。

「娼婦たちの多くは、農民の娘だ。貴族の荘園で小作をしていて、地代が払えなくなって売られてきた。イサドラはメイヨー伯爵夫人だったとき、近隣の領地でそういう非道なことが行われていることを知って心を痛めてきた。だから、せめて、そうやって売られてきた娘たちをひとりでも救うために、伯爵から渡された手切れ金を全部つぎこんで、この娼館を買い取ったんだ」

「わたしには、関係のないことです」

 ジョルジュはぶっきらぼうに叫ぶと、ふたたび腰をかがめ、シャベルを水中にずぶりと突き立てた。エドゥアールも負けじと再び水底をさらう。

「売られてきた娘のかさぶたに薬を塗ってやり、何度も逃げ出そうとする娘には添い寝をしてやる。そうやって、イサドラは捨ててきた息子に罪滅ぼしをしてきたんだ。たぶん俺も、おまえが受けるべき愛情を身代りに受けていたんだと思う」

「若さま、わたしはそんなことが言いたいんじゃありません」

「あ、今度は20ソルド銀貨だ」

「わたしは――母に捨てられたことを恨んでるんじゃありません。娼館の女将であることを恥じているのでもありません」

「じゃあ。なんだよ」

「あ、100ソルド金貨を見つけました」

「……おまえ、俺より宝探しの才能があるなあ」

「ただ、わたしは悔しいのです」

 ジョルジュは屈めていた背を伸ばし、空を見上げた。「せめて、母がもう少し、わたしが大きくなるまで我慢してくれたら……せめて六歳、いいえ、五歳でもいい。そばにいてくれたら、わたしは母を守れたのに」

 うなだれて、きゅっと強く唇をかむ。「母を蔑視して笑う奴らをやっつけてやれたのに。幼い頃から何度も何度も、寝台の上で空想したのです。祖母や使用人たちの前につかつかと進み出、『母上の悪口を言うやつは、わたしが赦さない』と力強く宣言する自分を……バカげているでしょう? だが実際には一度もそんな機会を与えられずに、母は去ってしまいました」

「……ジョルジュ」

「わたしは、何もできなかった自分の無力さが赦せないのです」

「じゃあ、今からそうすればいい」

「今から? 今から何をしろとおっしゃるのです」

「イサドラを一番悲しませている極悪非道な男から、守ってやるんだよ」

 エドゥアールは、シャベルを放り投げると、ジョルジュの顎を思い切り殴りつけた。

「ジョルジュ・ド・マルタン士爵。おまえが、その非道な男だ!」

 盛大に水をはね上げ、ジョルジュは水路に倒れこんだ。

 見物していた民衆は、いきなり始まった乱闘に、わっと歓声を上げる。

「何をなさるのです!」

 ジョルジュはずぶぬれになりながらも、すぐに立ちあがった。さすがに武人、たいしたダメージは受けていない。

「この世の中で、一番の親不孝はな。親を親として認めねえことだ」

「先にわたしを捨てたのは、あっちのほうじゃないか!」

 ジョルジュも完全に理性を失っている。

「じゃあ、そう言って、なじったらいいだろ。面と向き合う勇気もないくせに」

「……いくら主でも、その言葉は赦せない。取り消せ!」

 今度はジョルジュが飛びかかり、ふたりは水の中に倒れこんだ。

「何の騒ぎですか!」

 大勢の人だかりをかきわけ、ミルドレッドが悲鳴をあげた。

「ばかーっ。ふたりとも、何やってるんです」

 子爵令嬢の火の出るような叫びに、つかみ合っていた姿勢のままで男たちは橋の上を見上げた。

「ウィレム親方の奥方さまが、急に産気づかれたんです。テオ先生のところは今、大騒ぎです。そんなことをして遊んでる場合じゃありません!」

 ポルタンスの裏町に一瞬の静寂があり、人々は今度はテオドールの診療所へと、雪崩を打ったように走り始めた。



「鼻から深く息を吸って、口からヒューッと出して。もう一度」

 イサドラが妊婦に呼びかける声が聞こえてくる。

「なんですか、あなたたちは」

 戸口に出てきたゾーイは、泥だらけの若者たちを見て、即座に扉を閉めた。「汚い。ばい菌が入るから、近寄らないで」

 ジルに井戸端に引っ張っていかれ、何度も桶で水を浴びていると、トマがふたりの着替えを持ってきた。

「予定日より半月も早いのに、陣痛が始まったんだそうです」

 ジルが懸念を宿した声で説明した。

「危ないのか」

「赤ん坊がお腹の中でまだ十分に育っていないんです。無事に生まれてくる子もいますが、なにしろイヴォンヌさんはお年を召しておられるので、なんとも……」

「俺たち、何ができる?」

「お祈りでも捧げててください。お産は、殿方には出る幕はありません」

 ジルは厳しい表情で答えた。「その代わり、お嬢さまがお手伝いに中に入られました」

「ミルドレッドが?」



「ミリ―。汗」

「はい」

 ミルドレッドは、患者の腹部に聴診器を当てているテオドールの額を柔らかい布で拭った。

 妊婦は蒼ざめ、力尽きるように、うとうと眠っていた。

「だめだ、陣痛が弱い」

「……やっぱり、帝王切開かい?」

 医師と女将は顔を見合わせた。

「このままじゃ、赤ん坊は胎内で息絶えてしまう。それしかありません」

「ウィレム親方には?」

「前もって、説明して承諾をいただきました」

「親方も、よく承諾したものだ、よほど先生を信頼していなさるんだね」

 テオドール医師は、ラヴァレ伯爵領から運ばれた医学書で理論を学んでいた。近所の豚の飼育場に出かけていって、卵巣摘出手術をやらせてもらったりもした。しかし、実際に人間を執刀するのは、これが初めてだ。王立医学校でも学ばなかった新しい技術。クライン王国内で帝王切開が報告された例は、まだない。

「ゾーイ、患者の下腹部の体毛を剃ってください。それからアルコールで腹部全体をよく消毒して。ミリ―も手伝って」

「はい」

「それが終わったら、あなたは退出してください」

「テオ先生」

 ゾーイは目を見開いた。「私もいさせてください。大丈夫です。手伝えます」

 医師は首を振った。「あなたには、無理です。下腹部を切開して、赤ん坊を取りだすのです。気の弱いあなたに正視できる状況ではありません」

「だって……」

「ゾーイ。あなたを愛しています。ずっと僕のそばにいてほしい。だからお願いするのです。血まみれの悪鬼のようになった僕を見て、嫌いになってほしくない」

 こんな緊急時だというのに、時が止まったかのように、テオドールとゾーイは見つめ合った。

「わたくしが、代わりに入ります」

 着替えを終えたジョルジュが診察室に入ってきた。

「これでも、武人です。血を見て取り乱すようなことはありません。心得として、応急手当もひととおりは教わっています」

「テオ先生。大丈夫だよ」

「エディ」

 彼の後から入って来たエドゥアールも、口を添えた。「こいつは信頼に足る立派な騎士だ。どんな状況でも対処できる」

「若さま――」

 ジョルジュは口の中でつぶやくと、目に涙をためて、一礼した。

「わ、わたしも手伝わせてください。八人兄弟で、弟妹を取り上げた経験も――」

「俺も、何かやらせてくれ」

 従者のトマとエドゥアールも、協力を申し出た。

「わかりました。助けはひとりでも多いほうがいい。それではお願いします」

 医師はてきぱきと行動に移った。「まずは全員、白衣に着替えて、よく手指を洗ってください。ミリー、あなたは患者の鼻に眠り薬のガーゼをあてがって。ミストレス、煮沸の終わった道具を並べてください。エディとトマ、患者の体を固定して。ジョルジュさん、あなたは向こう側に立って、私が合図をしたら子供を下に押し出すように腹部を押さえてください」

 母と息子は、ちらりと互いを見やると、それぞれの持ち場についた。

 ゾーイは涙をため、医師の白衣の袖をぎゅっと離さない。

「お願い。いっしょにいさせて」

「わかりました」

 医師は緊張にこわばっていた顔に、微笑を浮かべた。「たくさんのさらし布を用意して。そして僕の隣でささやいていてください。『あなたならできる』って」



 それからほどなく、静まり返っていた裏町に診察室の窓から元気な産声が響き、人々は歓喜と踊りと歌声に包まれた。



 エドゥアールの差し出した手を取って、ミルドレッドは屋根裏の窓から外に這い出した。

 秋の夕陽を受け、ポルタンスの赤屋根の海は、まばゆいほどに輝いていた。

「あなたのお育ちになった町は、本当にすばらしいところでした」

 日傘を差して屋根瓦に腰をおろした子爵令嬢は、遠くの平原までを見晴らしながら、ため息を漏らした。「わたくし、今日起きたことは、一生忘れません」

 帝王切開が終わったあと、ゾーイは白衣を真っ赤な血で染めたテオドールの胸に飛び込んで、わっと泣き出した。

 そして、黙々と手術道具の片付けをしているイサドラの背後には、ジョルジュが立った。

「お疲れさまでした。ミストレス」

 母とは決して呼ばない。

「騎士さまこそ」

 息子とは決して呼ばない。

「あなたは本当に素晴らしい女性です。ミストレス。気風がよくて、勇敢で、この下町の誰からも慕われている」

 ジョルジュは晴れ晴れとした笑みをたたえ、まっすぐに彼女を見つめた。

「ひとりの子どもだけの母親にしておくには、もったいない人だ。もしあなたに息子がいたとしたら、きっと遠くでひそかに、あなたのことを誇りに思っているでしょう」

「ありがとう存じます」

 イサドラは目を伏せ、必死に嗚咽をこらえていた。

「なぜ、母子の名乗りができないのでしょう」

 まだ不満げな様子の恋人に、エドゥアールは「まだ今はね」と笑って答えた。

「でも、必ずそう呼べるときが来るよ。人間は変わることができるから」

「そうですね。いつかきっと」

 ふたりは肩を寄せ合い、いつまでも飽かずに港町の夕景を眺めていた。

 気づくと、いつのまにか下の通りに大勢の人が集まってくる。

「どうしたんだ?」

 エドゥアールが立ちあがると、人々が屋根の上に向かって、手を振り始めた。

「おーい。エディ」

「伯爵さまになったんだってなあ」

「ええっ」

 顔をひきつらせるエドゥアールに、ミルドレッドは申し訳なさげに日傘の陰に隠れながら弁解した。

「今日の騒ぎで、ジルもトマもいつのまにか、元通りわたくしたちのことを「若さま」「お嬢さま」と呼んでいるし、娼館のみなさんもゾーイさんも何か変だと気づいたらしくて……問い詰められて、とうとう白状してしまいました」

「なんだ……」

 だが、ふたりを見つめる町の人の顔には、今までと変わらぬ、あけっぴろげな笑みが浮かんでいた。

「伯爵さま、お嬢さま、結婚おめでとう」

「幸せにねー」

「おれたちの町のエディ伯爵さま、ばんざーい!」

 それを聞いたエドゥアールは、これ以上の幸福はないという、とろけるような笑顔になった。

「みんな、ありがとう!」

 ちぎれんばかりに手を振り返す婚約者の隣で、ミルドレッドは日傘を後ろにそらし、潮の香りの混じる風を胸いっぱいに吸い込んだ。




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