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伯爵家の秘密  作者: BUTAPENN
第8章「王の資質」
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第8章「王の資質」(1)

 王宮の奥に、そんな場所があることを知っている者は少ないだろう。

 国王だけが使うことのできる射的練習場。だが実態は、王の隠れ家だった。

 いつもは大勢つき従っている侍従たちも、ひとりも姿がなく、冷たく冷やした梨酒の用意をしているのは侍従長のギョームひとりだ。

「王妃が、そなたたちに迷惑をかけた礼をせよと、言ってきかない」

 ボウガンの矢じりをためつすがめつしながら、フレデリク国王は不機嫌にそう弁解した。テレーズ王妃は三日前から十回以上、催促の使いを寄こしたのだそうだ。そのしつこさに、さすがの陛下も根負けしたらしい。

 エドゥアールはヒュッと口笛を吹いて、セルジュにいたずらっぽい目配せをした。

「迷惑などとは、とんでもありません。お招きに預かり光栄です」

 リンド侯爵は頭を下げ、完璧な所作で椅子についた。ラヴァレ伯爵はその隣に、笑いを噛み殺しながら座る。

「想像もつかぬ取り合わせだな。親が敵同士の息子ふたり、つるむのを見ることになるとは」

 国王は、揶揄する眼差しを若者たちに送った。

「父とわたしは関係ありません。自分の交遊範囲は自分で決めます」

「そうそう、『英雄相知る』って言うじゃねえか」

「そなたのどこが英雄なのだ」

 軽口を飛ばしながら、王は探るような目つきで見る。

「何を企んでいる?」

「すでにラヴァレ伯より、事の仔細はお知らせ申し上げたはずですが」

 セルジュは居住まいを正して、まっすぐに王の目を見た。

 国王の御前ではクラインの上位貴族は、聞くにも話すにも目を伏せて敬意を表するもの。もちろん下位貴族や平民は、陛下の顔を見ることさえ許されていない。

 だが、セルジュは幼いころから、誰に対してもそのような屈辱的な姿勢を取るようには躾けられていなかった。次代の王たる者としてのごく自然な威厳と自信が、彼の全身からにじみ出ている。

「わたしとラヴァレ伯は、【私的徴税特権】の廃止と【物品税】の創設を求めて、法案を提出するつもりでおります」

「そんなもの、廃案になるだけだと申したはずだ」

「【物品税】の創設によって、国庫にいかほどの増収があるかも、すでにおおまかな試算をすませております」

「ふん、無駄なことを」

「今はどうしても、それだけの税収が必要であることを、陛下ならおわかりいただけますでしょう」

 フレデリク三世は、「む」と口元を曲げた。

「カルスタンの派兵要求のことか」

「国境紛争への派兵が現実のものとなれば、莫大な戦費が必要になります。国の経済は混乱をきたし、クライン紙幣は紙くずのごとく価値が下がることは確実」

「貴族会議でそのことを発表すれば、まず人心が大混乱に陥るぞ」

「もちろん、まだ発表はいたしません。国力を高めるために国庫の増収が必要だと説くだけです」

「ならば、なおさら可決の見込みはない」

「父には、すでに話を通してあります。この法案に父が賛成票を投じれば、貴族たちもこぞって右にならうでしょう」

「プレンヌ公が、賛成しただと?」

「はい、いたしました。カルスタンの派兵要求に応えるために必要なことと説いたら、納得してくれました」

 セルジュは平然と答えた。

 リオニアとの同盟をもくろんでいることは、まだ国王には伏せておく。いずれ王宮内部の流れを一気に、【反カルスタン、親リオニア】へと傾ける。そのときは、王も拒否する理由はない。

 国政を自分の思うままに操ることが、何とも心地よい。蟻の行列の先頭を靴先で踏みつぶし、種族の運命を決めるときのようだ。

「それならよい。どうせ余は、貴族会議には一切口をはさまぬ」

「お願いいたします。あとは我々が、うまくやりますので」

 フレデリクは話に興味を失ったとばかりに、立ちあがった。

「どうだ。戯れに、これを試してみるか?」

 矢をつがえたボウガンが、セルジュの前に置かれる。

「わたしが、これを?」

「扱えぬか」

「いえ、陛下のお許しがあれば」

 セルジュは立ちあがり、背中で揺れる金髪を器用にくるりとまとめ、物騒な武器を取り上げた。

 ボウガンは、弓に比べて格段に殺傷力の高い武器である。普通の弓では届かない位置にいる鹿の心臓を、完全に射抜くことのできるまでの威力がある。

 征服民族が原住民族を戦力において圧倒できたのも、このボウガンの原型となるクロスボウのおかげだと伝えられている。金髪の種族にとっては、民族の誇りとも言える得物だった。

 長身の侯爵は、離れたところにある的に向かって斜交いに立った。

 腕を構える。しなやかな動きによって引かれた矢は、放たれるとたちまち、吸い込まれるように的の中央の赤い部分に当たった。

「すげえ!」

 エドゥアールは、盛大な拍手を送った。「なんだよ、みんな自宅に射的場でも持ってるのか」

「次は、そなただ。小わっぱ」

「ふん、征服民族の武器なんて、触ったこともねえよ」

 ぶつぶつ不平をたれながら、エドゥアールは不器用な手つきでボウガンを握った。

 すっと背筋を伸ばして、目を閉じ、目を開ける。次の瞬間、矢は的の上で震えていた。

「わ、当たった。俺、ツイてる!」

 躍りあがって喜ぶエドゥアールを横目で見ながら、(本当に、初めてなのか)とセルジュはいぶかった。

 そもそも、初心者なら、的に届くことすらない。しかも彼の矢は、セルジュの矢のわずかに外側だ。

(わざとわたしに負けるように、狙ってあそこへ撃ったとすれば)

 疑念とともに、セルジュは彼に得体の知れぬ恐さを感じる。勝つことを運命づけられた彼にとって、他人に平気で勝利を譲るような輩は、不気味以外の何ものでもない。

「それでは、余がやろう」

 それまで梨酒をちびちびと口に含んでいた国王は、着ていたジレを脱いだ。薄いシャツの下から透けて見えるのは、たくましい筋肉と胸を覆う薄い鎖かたびらだった。

(鎖かたびらだと?)

(こんな重い防具を、王はいつも身につけているのか)

 若者たちは、がく然とする。

 フレデリクは、ボウガンに矢をつがえ、引き絞った。きりきりと金属のきしむ音は、武器から聞こえるというよりも、王の全身の筋肉そのものが鳴動する音に思えた。

 矢が放たれた瞬間、空気が切り裂かれたような衝撃があり、矢は的の中心に命中した。矢じりが見えなくなるほど、深々と突き刺さっていた。

 間近で見ていた者たちは、そのあまりの威力に気押され、声すら出てこない。

 国王は、ボウガンを芝生の上に放りだした。甘い梨酒に飽きたのか、琥珀色の蒸留酒を入れたガラス瓶をテーブルから鷲づかみにしてきて、立ったまま手酌する。

 立て続けに二杯を飲み干すと、「飲め」とふたりの前に突き出した。

「お、俺は未成年――」

「いただきます」

 闘争心を煽られたセルジュは、自分のグラスを差し出し、注がれた酒を一気に喉に流し込んだ。

 フレデリクは、彼のグラスに二杯目を注ぐと、自分にもなみなみと満たした。

 ふたりは、うっすらと微笑み合うと、ものも言わずグラスを干した。

「王族の奴らは、どいつもこいつも、とんでもなく丈夫な臓腑をしてるんだな」

 見ているだけで胃が焼けそうな光景に、エドゥアールは半ば呆れかえっている。

 ガラス瓶を片手に仁王立ちの姿勢で、フレデリクはセルジュをねぶるように見つめながら、低いうなり声を上げた。

「良き王たる資質とは、なんだ?」

 酔いにまかせた戯れ言に見せかけて、フレデリクの瞳には真剣な色が宿っている。

「答えよ。リンド候。そなたにとって、もっとも重要な王の資質とは何だ」

 セルジュは蒼色の目を細めた。即答はしない。国王がどのような答えを求めているのか、相手の態度から推し量るのが問答の基本だ。

 フレデリク王は武具を手にし、強い酒を酌み交わして、常になく猛々しい気分になっている。おそらく今欲しているのは、人心を鼓舞するような答えだ。

「強い国を作り上げることです」

 信念をこめて、答えた。「たとえ周囲に難題が山積みであろうとも、いついかなるときも堂々と勇敢な態度を崩さぬのが王の資質だと考えます。緻密な戦略を駆使しながら、外国の前では弱みを見せない。民の心をくじくことをしない」

 王は、口の端を皮肉げに持ち上げた。「なるほど」

 次いで、その隣に頭をめぐらす。「そなたは、どう思う。小わっぱ」

 エドゥアールは手持ちぶさたに、テーブルの小鉢に盛られた干しブドウの房を頬ばっていた。「え、なに?」

「王の資質について、問うておる」

 くりかみの伯爵はそっぽを向いたまま、こくりと喉を動かして、干しブドウを飲みこんだ。

「想像力」

「なに?」

「戦争で兵士がひとり死んでも、道端で幼子がひとり飢えても、玉座で身もだえすることができる想像力。それができなければ、国王なんて王宮を這っているヤモリと変わらねえ」

 フレデリク王の笑みがゆっくりと凍りついていくのを、間近にいたセルジュははっきりと見た。



 王宮の東の端に位置する離宮が、王妃の住まいだ。

 フレデリク大王の寵妃の名にちなんで、【アメリア宮】と呼ばれている。王の住まいとは細長い庭で隔てられており、衛兵のいる渡り廊下を通らなければ、王のもとに行くことはできない。

 その庭に面するテラスの白いテーブルの上には、宝石のような果物のゼリーやビスケット、メレンゲの細工菓子が美しく大皿の上に並べられていた。

「ときどき、お若い貴婦人方を招いて、このようなお茶会をいたしますのよ」

「あ、王妃さま。わたくしが」

「いいのよ。お客さまなのだから、ゆっくり座っていて」

 そばには大勢の侍女たちも侍っているが、テレーズは、自らの手でミルドレッドの皿に菓子を取り分けた。「今日お呼びしたのは、あなたひとりだけ。陛下がラヴァレ伯爵をお召しになられたと聞いたので、わたくしも急にあなたとお話がしたくなりましたの」

「光栄でございます。王妃さま」

「ずっと教えてほしいと思っていました。どうやって、あの素敵なラヴァレ伯爵の心を、あれほど完璧に虜になさったの?」

 王妃は彼女のすぐ隣に座り、茶目っ気たっぷりにささやいた。「だって、あなたと不仲だったときの伯ったら、この世の終わりという顔をなさっていたんですもの」

「まあ」

 ミルドレッドは、清楚なクリームイエローのレースの袖で、赤く染まった頬を隠した。「わたくしにも、わかりませんわ。どうしてあの方が、わたくしのような者を好いてくださるのか」

「ラヴァレ伯もこの場にお呼びして、おふたりのお話を聞ければよいのですけれど」

 テレーズは、悲しげにほほえんだ。「わたくしには、そうしたくてもできないのですよ」

 『王妃は夫である国王の目の届かないところで、他の男性と同席してはならない』という決まりが王宮にあるという。王宮舞踏会の席でも、彼女だけは仕切られた場所に座って、カーテン越しにしか見ることができない。

「世界で一番おろかな法令ですわ」

 王妃は紅茶をひとくち飲み、ほうっと吐息をついた。

「たぶんクライン王家のうちに、歴史書に記せないような不祥事が起こったのでしょう。人は傷つくことを恐れて、自らを縛る決まりごとを増やしていくものだという良い見本です」

 つまり、王妃は王の許しなくしては、大臣高官たちはおろか、祖国アルバキアからの使者にも会うことはできないのだ。

 なんという孤独な毎日だろう。そう考えるとミルドレッドには、この豪奢な離宮がまるで鳥かごのように見えてくる。居並ぶ侍女たちはまるで牢獄の看守のようだ。

 アルバキアにいたころのテレーズ姫は、快活な才媛として知られていた。兄王子たちに混じって、たびたび国政にも参与したという。

「わたくし二十八歳になるまで、一生結婚などしないつもりだったのですよ」

 と、テレーズは笑った。

「自己主張の強い、生意気な女だったと思います。でもこの国に嫁いでからは、完全にその鼻っ柱をへし折られてしまいました」

 六年前、嫁いで初めての夜にさえ、新しい夫は彼女の部屋に足を運ぼうとはしなかった。その屈辱。女としても、王妃としても、自分は必要とされていない。

「自分は軍事同盟のためだけに差し出された、ただの人質だと思い知らされました。お召しがなければ、陛下と言葉を交わすこともできないのですもの」

 喉がからからで、ミルドレッドは相槌を打つこともできない。

(なぜ、こんな話をわたくしに?)

 このような王妃の本心からの告白は、おそらく今まで誰も聞いたことがなかっただろう。

 長い失意の日々を過ごしたあと、王妃は慈善事業に打ちこみ、王宮舞踏会を開いては若い貴族たちに親しく声をかけるようになる。

「陛下のために自分にできることをしようと、王妃として認めてもらおうと一生懸命でしたわ」

 小さくとも実りある務めだった。エドゥアールとミルドレッドも、あの舞踏会の場で出会っていなければ、まったく違った結末をたどっていたかもしれないのだ。

「貴族の子女たちは、王妃さまをずっとお慕いしております」

 ミルドレッドはありったけの熱意をこめて、訴えた。「この王宮が、わたくしたち下位貴族にとっても開かれた場所になったのは、王妃さまのおかげです」

「ありがとう。そう言ってもらえて、わたくしのしたことは報われます」

 王妃は遠くに眼差しを向け、ぽつりとつぶやいた。「でも、一番認めてほしい御方とはすれ違ったまま。とうとうこんな年になってしまいましたわ」

「そんな、王妃さまはまだ……」と言いかけて、ミルドレッドは、あふれでた涙のために口をつぐんだ。

 フレデリク王より八歳年下のテレーズ王妃は、三十四歳になろうとしている。

 女性は二十歳には結婚して子を産まねばならないとされている時代である。一般的な常識で言うならば、国王夫妻は、もうとうに子を生す年齢を過ぎていた。

「ごめんなさいね。愚痴ばかり聞いていただいて」

 王妃はくすくす笑いながら、止める暇もなく、自らの手でミルドレッドのカップに紅茶を注いだ。

「だから、せめて」

 せめて、あなたは。あなたたちは、幸せな結婚をしてちょうだい。

 王妃のやさしい微笑みには、若い恋人たちに対する切ないほどの願いがこめられている。



 執事ナタンは悄然とした気持ちで、書斎の扉をノックした。

 大伯爵に、すぐに辞表を書いて持ってくるようにと言いつけられたのだ。

(やはり、こうなってしまったか)

 若旦那さまからは、自分の言うとおりにすれば辞めさせないと確約を得た。だが所詮、父伯の意向の前では、そんな約束は反故も同然。

 あわてて、館の中から金目のものを持って逃げようかとも思ったが、さすがにナタンにも、なけなしの誇りというものは残っている。

(ねちねちと嫌味を言われるようなら、辞表を机に叩きつけてくれる)

 おののく一方で、そんなやけっぱちな考えも湧いてくる。

 灰色の髪の伯爵は、書斎机の前に座っていた。軍隊を退いてまもなくの昔に比べれば、見る影もなくやつれてはいるが、茶色の双眸にはなお、強い意志の光が宿っている。

 辞表を机に置き、後ろに下がって平伏して、宣告を待つ。

 伯爵は静かに口を開いた。「おまえはわたしのことを、あまり知らなかったようだな」

「……恐れながら、どういうことでございましょう」

「おまえが執事として、この伯爵家に仕えるようになったのは十五年前。わたしが領地にひきこもり、ほとんど王都に出てくることもなくなった時期にあたる。主が留守の居館を、おまえは長い間よく守ってくれたと思う。礼を言う。だが」

 エルンストは、低く威圧的な声で続けた。「おまえは、わたしがもっとも嫌うことをしてしまった。この館じゅうの財宝を勝手に売り飛ばしても、わたしは咎めなかっただろう。だがおまえが為した悪事は、この町の民衆から金をせびりとることだった。おまえはこのラヴァレ伯爵家に、ゆすりやたかりと同じ汚名を着せたのだ」

 ナタンは、震え始めた。

 顔を伏せていても、伯爵の全身から憤怒が立ち昇っているのを感じる。間違いなく、武人のみが放つことのできる荒々しい殺気だ。

「最初に幾度も念を押したはずだ。私的徴税特権は絶対に行使するなと」

(殺される)

 早いうちに、さっさと逃げ出せばよかった。ラヴァレ伯爵が懐から短剣を取り出し、彼の首に突き刺す光景まで浮かんでくる。すでに膝が萎えて動けない。

「お、お赦しくださいませ。もう決していたしませぬ」

「何をもって、そのことばを信ずればよい」

「て、天に誓って」

「おまえに誓われた天は、さぞいい迷惑だろう」

「では、わたくしの! わたくしの命にかけて」

「違う。おまえが誓うのは、ラヴァレ伯爵家の名誉だ」

「は?」

 顔を上げると、伯爵は立ちあがり、手にしていたナタンの辞表をびりびりと破いた。

「心せよ。これで、もしおまえが再びわたしを裏切れば、おまえを信用したわたしは、伯爵家の名誉を地に落とすことになる」

 ナタンは驚きのあまり、口をあんぐりと開けた。「そ――それでは、大旦那さま、わたくしを信じると? 首にはなさらないと?」

「まず誓うのだ、ラヴァレ家の名誉にかけて」

「誓います。ラヴァレ伯爵家の……ご名誉にかけて、お誓い申し上げます。もう決して不正はいたしません」

「それでよい」

 声が、一瞬にして柔らかい温かみを帯びた。「これからも、よろしく頼む」

 ナタンは主が部屋を出ていくまで、震えながらじっと額を床にこすりつけていた。



 修道女がお茶を並べて出て行ったあと、ガブリエル孤児院長が深々と頭を下げた。

「マルディーニさま。このたびは、当孤児院にたくさんのご寄付をありがとうございます」

 濃紺の無地のジャカード織のコートを着た男は、ほっそりとした手を軽く振った。

「礼には及びません。ラヴァレ大伯爵には若いころ、ひとかたならぬお世話になった者。こうしてご恩返しの機会を与えられて、感謝しております」

「それでは、ごゆっくり」

 院長が応接間の扉を閉めて出ていくあいだ、エドゥアールは窓を見ながら紅茶のカップを口に運んだ。今は授業中で、子どもたちの姿は外にはない。

「本当ですか」

「え?」

「あなたが父に世話になったというのは」

 ラウロ・マルディーニは、くるくると丸まった褐色の髪を、さらりと指で梳いた。「本当ですよ。僕とエルンストは同じ下宿でね。酒場で酔いつぶれた僕を、よく担いで帰ってもらったものです」

 彼はふと、あたりを見回す仕草をした。「お父上は来られていないようですね。二十年ぶりに再会できることを楽しみにしていたのに」

「残念ながら、父は今朝早く伯領に戻りました」

 遊学時代の旧友というこの男と父とを、今は絶対に会わせるわけにはいかない。万が一このことが漏れた場合、父が首謀者ということになってしまうからだ。

 たとえ最悪の事態になっても、断罪されるのはエドゥアールひとりでとどめなければならない。

「父は大病からやっと回復したばかりで、まだ大事を取っています」

「うかがいました。奥方さまが亡くなられた直後からの長患いだったとか。お母上のことは心からお悔やみ申し上げます」

「俺には関係ありません。庶子ですから」

 彼は、軽く目を見張った。「や、まさか! エルンストに正夫人以外の女性がいたとは。信じられない。あのころ僕がどんなに娼館に誘っても……いや、これは失礼」

 エドゥアールは用心深く微笑んだ。相手はすでに、彼のことをエレーヌ姫の実子ではないかと疑い始めているはずだ。さすがにリオニア政府を代表する密使は、一筋縄ではいかない。

「本来なら、王都の居館でおもてなしするべきところですが、今は時機が悪い。それで、この孤児院を会談場所に選び、あなたには、この地に立ち寄った外国の篤志家を演じていただきました」

「しかも、一万ソルドの寄付を強要されるとはね。今度の旅費は高くつきましたよ」

「ご存じのとおり、今のクライン王国はカルスタン派の巣窟です。リオニア密使のあなたが、王都にお入りになるのは危ない」

「念には念をいれて安全は確保してありますよ。若伯爵。王都ナヴィルには何人のリオニア密偵がひそんでいるとお思いです?」

 ラウロは両手を組み、ぐいと身を乗り出した。

「まず、いくつか質問をさせていただきたい。親カルスタン派筆頭のプレンヌ公爵の嫡子であるリンド侯爵が、わがリオニアとの同盟を進めようとする理由は何ですか?」

「彼が、父親とまったく別の意見を持っているということです」

「それでは逆に、エドゥアールどの、あなたがエルンストとまったく別のご意見を持っていることもありうるわけですな」

「可能性としては」

「では、この密談が罠ではないと、どうすれば証明してもらえますかな」

「証明はできません。ただ信じていただくだけです」

 密使は先ほどまでの軽薄な雰囲気を脱ぎ捨て、剣のように鋭い視線を放つ。エドゥアールは、彼から目を逸らさぬまま、紅茶を飲んだ。

 やがて密使は口の中で「やはり似ているな」とつぶやき、わざとらしく大きなため息を漏らした。

「わかりました。ラヴァレ伯爵。とりあえずは、あなたのおことばを信じることとしましょう」

 いよいよ、本題に入った。話し声は知らず知らずのうちに、ひそやかになる。

「国王陛下は、本気でプレンヌ公と訣別なさるご決意を固められたのですかな」

「あなたがたの条件次第です」

「条件は元よりひとつしかありません。クライン・アルバキア同盟は、カルスタンとリオニアの国境紛争における、わがリオニア共和国の立場を擁護する」

 だが、エドゥアールはきっぱりと首を振った。

「いえ、それはできません」

「なんですと?」

 ラウロは一瞬、驚いて後ろに体を引いた。エドゥアールは彼の心を逃さぬように、静かな光をたたえた水色の瞳で見つめ続けた。

「クライン・アルバキア同盟は、カルスタンとリオニアの国境紛争において、完全な中立を守る」

 暗示をかけるように、一語一語を区切って発音する。

「もしこの条件を飲んでいただけるのなら、我々がカルスタンとリオニアの間に立って、双方の和平条約を仲介します」


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