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伯爵家の秘密  作者: BUTAPENN
第1章「裏町の貴公子」
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第1章「裏町の貴公子」(1)

 大陸を貫くラトゥール河に面した交易の町ポルタンスは、水路の町として知られている。

 街の中は網の目のように水路でつながれ、馬車よりも舟のほうが、ずっと早く目的地まで行けることも少なくない。

 人々の生活は水路を中心に営まれる。

 家々や工場が水路の上に張り出し、人々は朝になると、勝手口から洗濯物や汚れた食器をカゴに入れて階段を降りてくる。隣近所でにぎやかに話を交わし合いながら、通りかかる行商の舟から野菜を買う。

 職人たちが羊毛を洗ったり、革をなめすのにも、水路の水が使われる。

 さて、戦勝記念広場を一筋西に入った水路沿いに、一軒の娼館がある。

 二階建ての一階部分は頑丈な石づくりで、その重厚な外観は、この界隈でもひときわ古い歴史を感じさせる。

 娼館の三代目の女将イサドラは、衰えぬ美貌とともに、その気丈さでも有名だ。おまけに、凄腕の用心棒をひとり雇っているという。

 娼館に用心棒がいるのは、不思議でもなんでもない。行儀をわきまえない困った客に丁重にお引取り願うために、この手の店は、見た目も屈強の男を、ひとりやふたり置くのが常だからだ。

 だが、この噂の奇妙な点は、その用心棒を見た者が誰もいないことなのだ。



「やめて、やめてったら!」

 狭い廊下の両側に連なる扉のひとつがバタンと開き、まだ顔にあどけなさの残る若い女が、中の小部屋から飛び出してきた。

「ミストレス(女将さん)!」

 胸元のレースはびりびりに引きちぎられている。同じ扉から上半身裸の巨漢が現われ、後を追いかけてきた。

「わはは」

 暗い廊下で、その男の毛むくじゃらな腕がぬっと伸びて、必死で逃げる女の腰のリボンを捕まえた。

「怒るなよ。ちょっとご挨拶をしてやっただけじゃないか」

「あれのどこがご挨拶よ。冗談じゃないわ」

 もみ合っているうちに、階段をちょうどそのとき登ってきた人影がある。

 両手にモップとバケツを下げた青年。若く、形の良い口元にはまだ髭の気配もない。

 もつれたくりいろの髪を後ろで束ね、よれよれの白シャツの前をはだけ、裾が破れた黒のショースを留める革ベルトと靴だけは、もらいものなのか妙に質がいい。

「エディ」

 彼女は男の手をすり抜けると、彼の後ろに回りこんで、首をすくめて体を隠した。

「どうした? ネネット」

 そんな異常事態にもかかわらず、若者はのんびりした声で肩越しに訊ねた。

「そいつが。いきなり私を叩いて、髪を引っぱって、服をちぎって――」

「ははあ」

 彼は掃除用具を床に置き、正面に向き直ると、熊のような男に愛想よく笑った。

「困りますね、お客さん。そういう遊びは、よそでやってもらわないと」

「ふん、イサドラの店はいつから、そんなお上品になりやがった」

「少なくとも、俺がもの心ついた頃からは、あんたみたいなヘンタイは出入りしてませんでしたね」

「いいから、そこをどけ!」

 凄む客に、若者はまったく動じる気配がない。背後にいた娼婦に、ちょいちょいと後ろ手で「離れろ」の合図を送った。

「どかないと言ったら?」

 相手は真っ黒に日に焼け、鍛冶屋か船大工のような、いかつい腕をしている。仮に殴りかかられたとしても、細い通路、どこにも避ける場所はない。

「顎の骨をへし折ってやろうか。それとも、てめえをまず、お慰みの相手にしてやろうか、『お嬢ちゃん』」

 ことばと同時に、客は子どもの頭ほどもある拳骨をグイとふりかざした。

 瞬間、それまで暗がりで眠そうに細められていた若者の目が、光を帯びた。まるで雲間から一瞬のぞいた青空のように。

 彼はひょいと腰をかがめて攻撃をやり過ごすと、そのまま相手の懐にもぐりこんだ。

「うげえっ」

 巨漢は何が起きたかもわからないうちに、切り口に楔をかまされた立ち木のように、ゆっくりと仰向けに倒れた。

 その隙に、ネネットは身をひるがえして階段を駆け下った。

「ミストレス! 誰か来て」

 女将が特大のすりこぎをふりかざして、コックや下働きの下男を従え、厨房から飛び出てきた。

「無事か、ネネット」

「今、エディが……」

 二階に走り上がった一行の見たものは、床にぶざまに転がされた巨体と、その腹に悠々と馬乗りになり、勝利の凱歌をあげている若者の姿だった。

「『お嬢ちゃん』に手も足も出ないようじゃ、ざまあねえな」

「ク……クソ」

「どきな」

 イサドラはずかずかと近寄り、エディを肘鉄砲で小突いてどかせると、ふくよかな腰に手を当てて、客を冷たく見下ろした。

「お引取りを、お客さん。うちは客筋のいい店で通ってるんだ。二度と立ち入らないでもらいたいものだね」

 豊かなアルトの声には、二十年来この店を仕切ってきた女将の、なまなかではない気迫がこもっている。

「た、頼まれたって来るか」

 男は気圧されてふらふらと立ち上がり、「おぼえてろ」とばかりに若者を睨みつけようとした。だが、その拍子にツツと垂れてきた鼻血をあわてて拳で押さえながら、階段を逃げるように降りていった。

 女将と並んで、その後ろ姿を見送りながら、ネネットは心配げに言った。

「あとで仲間を大勢連れて、エディに仕返しに来ないかしら」

「だいじょうぶ。あいつも馬鹿じゃない。こんな優しげな小僧っ子にやられたなんて、口が裂けたって人に話せるもんか」

 肝心の噂の主はと言えば、ネネットの部屋に残っていた上着とシャツを引っつかむと、男が通りに出た頃合をみはからって、窓から放り落とした。

 そして、なにごともなかったようにバケツとモップを取り上げ、鼻歌を歌いながら、血で汚れた床を拭き始めた。

「な、ここでは、こんなこと日常茶飯事なんだよ」

 女将はつかつかと近づくと、彼の頭を後ろから思い切り叩いた。

「いて!」

「三十ソルドだ。お出し!」

 掌をぐいと彼の胸元に突き出す。「馬乗りになったとき、ヤツのふところから抜き取っただろう」

「ちぇっ」

 片手で頭を押さえながら、エディはしぶしぶショースのポケットから、くしゃくしゃの札を三枚取り出した。

「これは、ネネットが稼いだ揚げ代だからな」

 と念を押す。

「わかってるよ。ちゃんと帳簿につけとく」

 ミストレス・イサドラは、威風堂々と肩をゆすって降りて行った。

「ありがとう、エディ。お金を取り返してくれて」

 ネネットは興奮だけではない理由で、頬を赤く染めていた。「――あんた、見かけによらず、すごく強いんだね」

「あはは。見かけによらず、は余計だろ」

 エディは彼女の髪のほつれを直してやると、急に真顔で諭す口調になった。

「ネネットは、まだ新顔だからわからねえだろうけど、さっきみたいな乱暴な客はときどき来る。危ないと感じたら、うまくあしらうことだ。姉さんたちにやり方を教えてもらうといい」

「そうする」

 彼女は埃をはらうふりをして、ぎゅっと彼の袖を握った。

「あたい、田舎から出てきて、まだ二ヶ月だろ。みんな優しいし、ご飯もいっぱい食べさせてもらえるけど、客を取るときは恐くて、心細くて……」

 切々と訴える声は、どこか鼻にかかって甘ったるく、稚拙ながらも男を誘う響きがある。

「お礼をしたいの。今夜は暇になったし、あたいの部屋に来ない?」

 彼は首をかしげて微笑んだ。「さあ、ミストレスがなんて言うかな」

「黙っていればわからないわよ」

 互いの唇同士がもう少しで触れ合いそうになったとき、階下から、ものすごい勢いですりこぎが飛んできた。エディはひょいと避けて、肩をすくめる。「ほらね」

 そして、去り際にポケットから十ソルド紙幣をもう一枚取り出して、娼婦の手にそっと握らせた。

「あの下衆野郎のおごりだ。これで仕立て屋に行って、新しいブラウスを買うといい」

 すりこぎを肩に乗せてホールに下りると、女将が腕を組んで待ち受けていた。

「娘たちが湯浴みする水は汲んだの?」

「あ、いけね」

「いったい何年ここで暮らせば、まともに仕事を覚えるんだ!」

 イサドラは大きな片手でぐいと彼の顎をつかんだ。頬に細い筋状のひっかき傷が見え、血がうっすらと滲んでいる。

「この傷は?」

 女将はぎろりと睨んだ。

「ああ。ヤツの爪でやられた」

「このバカ! テオのところへ行って手当てしてもらいな」

「唾をつけときゃ自然に治るさ」

「いいから、すぐに行っておいで!」

 そして、耳元で彼にしか聞こえない声で、うめいた。「大切なお顔に傷をつけたとユベールさまの逆鱗に触れるのは、真っ平ご免ですからね」



「またけんかか。今年に入って、もう何度目だ」

「仕事だよ。けんかじゃねえ」

「それでも、暴力沙汰には違いない!」

 度の強い眼鏡をかけた若き医師は、ランプで彼の頬を照らし、消毒薬を傷口にたっぷり塗りつけた。患者は手当ての間ずっと、否応なしに彼の小言を聞かされる羽目に陥る。

 テオドール・グランは王立大学で医術を修め、自ら進んで、他の医者が誰も寄り付かないような裏町で開業している。

 当然、満足に治療費を払える住民はほとんどいない。医者仲間たちから物好きと揶揄されながら、川に張り出した煉瓦作りの診療所に腰を落ち着けて、もう二年になる。

 小言さえ我慢すれば腕は確かなので、朝早くから玄関前の橋のたもとまで、順番待ちの患者が列をなす。診療室がようやく静けさを取り戻すのは、家々の煙突から夕餉のためにかまどの煙が立ち昇る、この時間になってからだ。

「いつまで、イサドラのところにいるつもりだ」

 テオドールは、化膿止めの軟膏を塗ったガーゼを傷口にテープで止めながら、決まり文句を繰り返した。「きみのような将来のある青年がいつまでも、あんな場所で暮らしていてはいけない」

 エディは『いつものこと』と言わんばかりに、涼しい顔で答えようとしない。医師もあきらめて、そこで口をつぐむのが常だった。

 もし、「じゃあ、どこへ行きゃいい」と真面目に問われたら返答ができないのだ。

 エディの母親は、イサドラの店の元娼婦だと聞いた。彼は母親が亡くなって行き場を失い、九才のときにイサドラに引き取られ、以来下働きとして働いているのだという。父親には会ったことがないと自分で言っていたから、たぶん一夜限りの関係だったのだろう。

 彼のような卑しい生まれの人間は、学問も専門職も身につけることができず、さりとて店員や召使いとして働くためには絶対に必要な上品な話し方を教わることもなく、一生をその日暮らしの貧しさの中で終えることになる。

 家柄や身分が、すなわち富の配分を享受する社会においては、この図式は永遠に変わることがない。

「あかぎれの薬も出しておこうか?」

「いや。水がぬるんできたから、もう要らない」

「じゃあ、代わりに熱いレモネードとチーズクラッカーをあげよう。遠慮することはない。少しでも栄養をつけるためだ――ちょっと待って」

 医師の耳に、カツカツとノッカーを叩く小さな音が聞こえた。

「また、金のない患者がやってきたぜ」

 と笑うエディを残して、テオドールは立ち上がり、扉を開けた。

 そこに立っていたのは、黒い外套に身を包んだ、凶悪な人相の三人連れ。

「やあ、先生。お忙しそうだな」

 止める間もなく、ずかずかと上がりこんできた男たちは、板張りの粗末な診察室をきょろきょろと見渡した。

「だが、それも今日で終わる。二千ソルドの借金を払ってもらうまでは、あんたは牢屋に入るんだ」

「ど、どうして」

 テオドールはぽかんと口を開けた。

「わたしは、あなたたちに借金をした覚えはない」

「羊毛組合のウィレム親方なら、覚えがあるだろう」

「ウィレム親方?」

 ようやく事態を飲み込みかけ、医師はすうっと蒼ざめた。

「確かに二年前、開業資金として二千ソルドをウィレム親方から借りたが、当面の返済は月々の利息だけでいいと約束してもらっていたはず」

「それが、事情が変わったんだよ」

 先頭の男が大げさな身振りでふところから紙切れを出し、ひらひらと打ち振った。

「俺たちゃ、ウィレムからこの借用証を買い取ってね。ほら、奴の裏書きもちゃんとある」

「そ、そんな」

 渦を巻いた近視眼鏡がずり落ち、医師は力なく待合用の椅子にすわりこんだ。「まさか、借用証を売り買いするだなんて」

 借金取りの男はにやりと笑った。『だから貴族のお坊ちゃんはカモなのだ』と言わんばかりに。

「これはとっくに返済期限が来ているようだな。というわけで元金と利息の返済をお願いできるだろうね。いや、さすがに今日明日とは言わねえ。一週間の猶予を差し上げよう」

「む、無理だ。二千もの金など――」

「あんたのお父上はノッティンガル郡北部に領地を持つ男爵さまだと聞いている。なあ、一週間もあれば、お父上に金の無心の手紙を届けるには、十分な時間だろう?」

 薬品戸棚のガラス戸がかたかたと鳴っている。その戸棚を背にして座っているテオドールが、小刻みに震え始めたのだ。

「もし――もし仮に、返せないと言ったら?」

「王国の法律に基づき、告訴する。持ち物一切合財を売り払い、そのうえ囚奴となって働いて、日に二ソルドずつ返済していただこうじゃねえか」

 男は地獄の使い魔のような下卑た笑いを浮かべた。「あんたがもう少し『美人』なら、別の使い道もあっただろうがね」

 そのとき、気配もなく片隅に座っていた若者が、コトリと椅子を鳴らして立ち上がった。

「なあ、兄弟。それはちょっと、あくどすぎやしねえか?」

 診察用のランプに照らされた水色の瞳は、無邪気なほど楽しげに輝いていた。

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