ちょっと長めのプロローグ3
「――!」
急に視界が開けた。
寂びれた展望台を中心に、開けた広場。取り囲む木々にはもう桜色はなく、若々とした新緑が上弦の月の光に照らされている。その光は、不思議なくらいに明るかった。
――ちょうど何処かへ去ろうとしていた、黒い影。
その光に照らされて、はっきりとその輪郭が見える。
「……よくも俺を殺してくれたな……このヤンチャさんめ……」
その姿は、狼。体長は、大型犬と同じくらいだろうか。狼の基本的な大きさとか種類とかは分からないが、とりあえず目の前にいる狼が尋常なモノではないという事は分かる。
「おまえ、めちゃくちゃ嫌な思いしちゃったじゃないですか。体の中を直に漁られる体験なんてしたくもなかったのに……」
通じないであろう言葉を発する。しかし言葉裏腹、正直、さっきはあんな事言ったけど……
(……ヤバい)
怖い。めっちゃくちゃ怖い。虚勢張って喋ってないと逃げ出したくなる程の恐怖心を抑え込めない。
狼は俺を睨みつけて、威嚇の体勢をとっている。低く唸る声が、まるで奈落から轟いているような感じだ。
俺は狼との距離を縮めずに――いや、縮められずに対峙する。
そうしている間にも、どうしても浮かんできてしまう。先ほどあの狼に殺された時のビジョンが。
(ええい怖がるなって俺! なんか訳分かんない透明な人から、これまた良く分からない力を貰ったんだろう!?)
それが頼りになるのか全くもって不明だが、実際にこうして五体満足で立ち上がれたんだ。……多分、その力とやらを信じていいんだろう。
『ええ、信じちゃって構いませんよ』
「おわっ!?」
と、突然聞こえた声に驚いてしまう。どこから響いてんだ……?
『テレパシー的なもので、君の頭に直に声を送り込んでいます』
(テ、テレパシー的なものって……)
なんだその曖昧な表現は?
『そうですね……簡単に言うと、君と僕は、今繋がっているんです。ああ、もちろん肉体的な意味じゃないので安心して下さい。僕も男には興味ありませんから』
(……ああ、なんかすごい脱力した)
ふざけた調子の声に、肩の力が抜ける。
『で、君に与えた力ですが……軽く後ろに跳んでみて下さい』
(飛ぶって……こう?)
言われた通り片足に力を入れて、軽く跳んでみる。すると、自分的には一歩ぐらい後ろに飛んだつもりだったが、実際には3、4メートルほどの距離を飛んでいた。
(うっわ、体がめっちゃ軽い。軽すぎて逆にキモい)
『君に与えた力の一つは、あの狼にも対抗できる身体能力。そしてもう一つは――』
透明な人が言い終わる前に、俺が下がった距離分の勢いをつけて、狼が俺に飛びかかってきた。
「うわ!?」
そこで訪れる既視感。脳裏に描かれるフラッシュバック。
――いきなり『影』に出くわした俺は、驚いて立ち竦んでる内に『影』に飛びかかられて、何とか避けようとして足に喰いつかれ――……
「わわわ!!」
俺は不様に、左に転がってそれを避ける。今度は上手く――とは言えなくともそれを避けられた。
狼は避けた俺の方へすぐ振り返り、また走り寄ってくる。
『えー、取り込み中に申し訳ないのですが……動きながらでいいので話を聞いて下さい』
「無理! そんな修学旅行の食事中に連絡事項を伝えるみたいに軽く言われても!」
もう一度飛びかかってくる狼。俺はめちゃくちゃに横へ転がってかわす。
『君に与えたもう一つの力ですが……それを使わないとあの狼は倒せません』
「はいぃ!? じゃあその力ってのを早く教えてください!!」
とにかく俺は狼と距離を取ろうと、狼の方を向いたまま下がる。
『えー、その力の使い方ですが……ちょっと厄介でして……』
「いいから早く教えてくれ!!」
『非常に面倒なのですが、想像してください』
「何を!?」
『なんでもいいです。自分にとって、「牙」……そうですね、分かりやすく言うと武器に足り得るものを』
いきなりそんな事を言われても非常に困る。そもそも武器って言われたって、漠然としすぎだ。
そんな事をしている間にも狼は俺に飛びかかってくる。俺はそれを、何度も、馬鹿の一つ覚えに転がってかわす。もう着ている服は土にまみれてしまった。
何回目かの狼の攻撃をかわし、狼の方を見た時。狼の背後の空に、上弦の月が浮かんでいるのが目に入った。
「見えない人!」
『なんですかそれ? 僕の事ですか?』
「あなたしかいないでしょ!! それより、想像するものって武器ならなんでもいいんだよな!?」
見えない人のボケに律儀にツッコミを入れつつ、俺は想像できたものが使えるかを尋ねる。
『ええ、まぁ。しかし、エッチなお姉さんだとかロリィな義妹だとか可愛いメイドさんだとかでは困りますよ?』
「あんたはこの非常時に何考えてんだ!?」
『ツンデレってあるじゃないですか。アレって、アンビバレンスの一種なのかな、と。その場合、リハビリにはツンデレの『デレ』のみを引き出し定着させられる人物が必要で、やっぱりそのツンデレの子はなにか調教でもされるのかな……ですかね』
「人の命の危機になんて事を!!」
ってこんな漫才をしている場合じゃない。
「それより、その武器になり得るものを想像してどうすんだ!?」
『なり得る、じゃなくて足り得る、ですよ?』
「んな事どうだっていいでしょ!?」
『武器に足り得るものを想像したら、それを使いこなせると勘違いして下さい』
「要は思い込めって事でオーケー!?」
『ええ。ところで『勘違いしないでよね』ってセリフがあるじゃないですか。あれって勘違いしてねって言ってるようなものですよね。でも『素直に言えないけど、好きって伝えたい、あなたにこうして欲しい、あなたにこうしてあげたい。でもこっちから言うのは恥ずかしいし悔しい。だからこの気持ちに気付いてほしいけど、でも気付かれて、関係が疎遠になったりするのが怖い』っていう気持ちをまとめて『か、勘違いしないでよねっ!』っていう言葉に入れたんだとしたら、その気持ちに気付かないのはもう罪だと思うんですよね。その辺、その手の話の主人公って鈍感すぎると思いません?』
「それ今必要な情報!?」
『今だけでなく、これからの日本に必要なものです』
「予想以上にスケールがでかい!?」
何なんだこの見えない人のツンデレに対する想いは!? あのセリフの中だけで、また狼に二回も攻撃されたぞ!?
『というか、君はまだ思い込みの激しい勘違い野郎になれないんですか?』
「誰のせいだと思ってる!? ていうかその言い方すっごく嫌なんだけど!?」
『世の中の誰しもは、一回くらいは中二病にかかるんですよ? ちなみに僕は世界の怖い病気ランキング二位くらいにランクインしていた病気にかかりっぱなしですが、なにか?』
「こいつ声優好きか!? しかも妙に誇らしげ!!」
『分かる君も末期ですね。というか話を逸らさないで下さい。はやく君も恥を捨て去りなさい』
「話逸らしたのあなたでしょ!?」
……言っとくけど、こんな下らないやり取りしてる間にも、俺は狼の攻撃にさらされてるんですよ……?
(ええい、真面目になれ、俺……)
狼を見据えながら、どうにか思考をクリアにする。ついでに見えない人が何か喋り出さない事祈る。
頭を切り替える。こんな日常よりの平和なボケ思想なんかじゃなく、中二病乙ななりきり思考に。
大丈夫、俺は戦える、と。
(武器を扱っている自分を想像……)
自在に武器を振るい、狼を――『影』を切り裂く。
(思い込め。武器を、俺は自在に扱える。……この手に持っていると……!)
目を閉じる。脳裏には確かなカタチが浮かび上がる。
それを手に取る。柄は俺の手に吸いつくように、俺の手の一部のように。刀身は掌よりも長く、幅広の両刃。重さはいらない。重いと疲れるし、軽くていい。
「……できた」
目を開く。右手に視線を移す。
そこにはナイフ。刃渡りは十五センチほど、柄は少し短く、太い。刀身は幅広く、薄い両刃。鍔はない。
それをしっかりと握り、存在を確かめる。……うん、思った通りに出来たみたいだ。
『おめでとうございます。上手く武器が出来たみたいですね。それが君に与えた二つ目の力。外敵を噛み砕く『牙』ですよー』
見えない人の能天気な声が脳内に響く。無性に腹がたったが一先ず無視して、あとはこのナイフを使って狼を切り裂けば……
『いやー、それにしてもナイフを選ぶとは。いくら月の形がナイフっぽく見えたからっていう安直な考えだとはいえども、上手く作り出せたようでなによりです』
「うるさい! いきなり無理難題を吹っ掛けてきたのはあなたでしょうが!!」
『ははは、そう憤らない、憤らない。体の力を抜いて戦わないと、倒せる敵も倒せませんよ?』
「くっ……」
ヤバい。人生で初めて、人の笑い声に殺意を覚えたぞ。
『ほらほら、そんな事やってる間にも……』
「え? うわ!?」
気付くと、狼がすぐ目の前に迫って来ていた。そして、学習もなにもせずにまた俺に飛びかかってくる。
いくらなんでも、何回も同じ攻撃にさらされていればその軌道も読める。それに、対抗できるものを手に取った途端、心に余裕が出来た。
俺はその攻撃を狼の下をくぐってかわすと、今度は着地してこちらを振り返ろうとしている狼との距離を詰める。
(ああ、俺、そういえば何やってんだろ)
一歩、踏み込んで近づく。その度に、他人事のような考えが浮かぶ。
(なんでこんな非日常を体験してんだろ)
二歩。
(おかしいなぁ。俺はただ、友達と楽しく遊びたかっただけなのに)
三歩。
(……しかも、俺はなんでこんな訳の分からない人? の言葉を聞いて、訳の分からない狼と対峙して、ナイフなんて持ってるんだ)
四歩。
(ああ本当、これが夢で気付いたら自分の部屋にいて、『俺はなんて恥ずかしい夢を……!!』なんてのたうち回るっていう展開があればいいのになぁ)
だけど、この体に感じるものはすべて本物。
五歩。踏み込んだ地面の感触。もう目の前にいる狼の存在。手には月光に煌めく白刃。何回も転んでるせいで、あちこち汚れて破けたりしてる服。やけに遠く感じられる傷の痛み。
(ああ、もう夢でなくても現実じゃなくてもいいや。とにかく俺は、)
六歩。もう戻れない、最後の一歩を――俺は踏み込んだ。
「生きて、帰りたいん、だっ!」
狼が完全にこちらに振り返る前に、ナイフを振るう。イメージ通り、威力はないが、軽いナイフ。風を切る感触。あまり正確な狙いはつけられなかったが、狼の右耳を切り飛ばした。
狼は変な声を上げて怯む。その隙にもう一歩踏み込み、次は眉間をめがけて、俺は逆手に握りなおしたナイフを振り下ろした。
『ザクッ』とも『グサッ』ともとれない、なんとも言えないような感触が掌に伝わる。正直、かなり嫌な感触だったが、ここで手を離すわけにはいかない。
力一杯ナイフを突き立て、引き抜く。引き抜いたところから血は噴出せず、代わりに黒い霧がもうもうと吹き出てきた。それらは月光を浴びると、たちまち夜の空気の中に霧散していく。その度に、狼の体は徐々に薄くなっていき、やがて消えていった。
「倒せた……?」
終わってみれば案外あっけない。もう少し苦戦するものだと思ってたけど。
狼のいなくなった広場に、俺はポツンと立ち尽くす。手に握っていたナイフは、スルリと俺の手から抜け落ち、地面に刺さった。