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「お前の弁当は地味だ」と言った彼氏へ。その弁当、三年間あなたの会社の会長も食べていました

作者: ま
掲載日:2026/09/30




「もう弁当、作らなくていいから」



 日曜日の夜のファミレスで、翔くんは私の顔を見ないまま言った。



「え?」


「地味なんだよ。毎日毎日、茶色くてさ。卵焼きと煮物と、きんぴらと。同期に見られるの、正直ちょっと恥ずかしかった」



 私は、ドリンクバーのカップを握ったまま固まった。


 藤堂翔、二十九歳。

 食品メーカーの営業部で働く、私の彼氏だ。

 付き合って三年になる。



「それとさ。俺、今、麗奈と付き合ってるから」


「……麗奈さんって、同じ部署の」


「そう。あいつ、毎日おしゃれなカフェのランチ食べてて、写真もうまくて。一緒にいて楽しいんだよ」



 翔くんは、ようやく顔を上げた。



「春香は、いい子だと思う。でも、なんていうか。弁当と同じで、地味なんだよな」



 テーブルの上のハンバーグが、冷めていく。


 私は、笑おうとして、うまく笑えなかった。



「……分かった。今まで、ありがとう」



 それだけ言って、伝票を持って席を立った。

 翔くんは、引き止めなかった。




◇




 森下春香、二十七歳。

 小さな設計事務所で事務をしている。


 毎朝五時半に起きて、弁当を三つ作る。

 自分の分と、翔くんの分と、もう一つ。


 卵焼きは、だし多めの甘くないやつ。

 鶏と根菜の煮物に、ごぼうのきんぴら。

 ほうれん草のおひたしと、梅干しを一つ。


 全部、亡くなった祖母に習った味だ。

 確かに、茶色い。

 写真映えはしない。


 でも、祖母はよく言っていた。

 茶色いおかずは、手間の色なんだよ、と。


 帰りの電車で、私は祖母の顔を思い出していた。

 窓に映った自分の顔は、少し泣きそうだった。


 スマホが震える。

 三つ目の弁当の、届け先からだった。



『明日の煮物は、いつもより大根多めで頼む。源』



 祖父だ。


 祖母が亡くなってから、祖父は一人暮らしをしている。

 料理は一切できない人なので、三年前から、私が毎朝弁当を作って届けている。

 正確には、祖父の運転手の田中さんが、毎朝七時に私のアパートまで取りに来てくれる。



『了解。大根多めね』



 返信を打ちながら、少しだけ笑えた。




◇




 月曜日の朝も、私は五時半に起きた。


 弁当箱を並べる。

 いつもの癖で、三つ出してしまった。


 しばらく、一番大きな青い弁当箱を眺めた。

 翔くんの分だ。


 私はそれを、そっと棚に戻した。


 七時ちょうどに、アパートの前に黒い車が止まる。

 田中さんが、いつものように頭を下げて、祖父の弁当を受け取ってくれた。



「おはようございます、春香さん。今朝は二つですか」


「はい。今日から、二つです」



 田中さんは何も聞かずに、ただ優しく頷いた。




◇




 それから二週間ほどたった、ある夜。


 祖父から、珍しく電話がかかってきた。



「春香。来週の水曜、昼に会社まで来られるか」


「会社って、おじいちゃんの?」


「そうだ。うちの五十周年の記念商品でな、わしの弁当を再現した商品を出すことになった」


「え、おじいちゃんの弁当って、私が作ってるやつ?」


「他に誰がおる」



 祖父は、電話の向こうで得意げに鼻を鳴らした。


 祖父の名前は、東雲源一郎。

 東雲フーズの創業者で、今は会長をしている。


 東雲フーズ。

 翔くんが勤めている会社だ。


 三年間、翔くんには言えなかった。

 付き合い始めたとき、「会長の孫」と知られるのが怖かったのだ。

 祖父は母の父で、私の名字は父方の森下だ。東雲の名前は一度も出さずに、私はずっと、ただの森下春香でいた。



「開発の連中が、わしが毎日食べている弁当の味を知りたいと言うてな。作っている本人に聞けと言うておいた」


「おじいちゃん、私、ただの素人だよ」


「素人の弁当を、わしは三年、一日も欠かさず食べとる。役員会でも自慢しとる。問題なかろう」



 祖父は、昔から言い出したら聞かない人だ。



「それと、春香」


「なに?」


「その会議には、営業の者も何人か来る。記念商品の売り方を考える担当だそうだ」



 祖父の声が、一段低くなった。



「会議の資料に、若い営業の意見が書いてあった。『会長の弁当は地味で古い。茶色いおかずばかりでは、若い世代に響かない。彩りを重視した現代風のアレンジを提案する』とな」



 私は、スマホを握りしめた。



「……それ、誰が書いたの?」


「藤堂という男だ」




◇




 水曜日の昼。


 東雲フーズ本社の十二階、大会議室。

 長いテーブルの上に、私の作った弁当が五つ並んでいる。

 開発部の人たちが、試食用に取り分けるためだ。


 私は会議室の端で、祖父の隣の椅子に座っていた。

 紺色のスーツは、就職活動のとき以来だ。


 扉が開いて、営業部の人たちが入ってくる。


 三人目に入ってきたのが、翔くんだった。

 隣には、華やかなワンピースの麗奈さん。


 翔くんは、会議室を見回して、私に気づいた。

 目が、まん丸になる。



「……春香? なんで、ここに」



 私は、小さく会釈だけした。


 祖父が、ゆっくりと口を開いた。



「揃ったな。では始めよう。今日は、記念商品の元になる弁当を、作っている本人に来てもらった」



 祖父が、私の肩に手を置く。



「孫の森下春香だ。この三年、わしの昼飯はすべてこの子の手作りだ」



 会議室が、ざわめいた。



「会長のお孫さん……?」


「あの、毎日自慢されている弁当の……」



 翔くんの顔から、音を立てるように血の気が引いていった。




◇




「さて、藤堂くん」



 祖父は、手元の資料をめくった。



「君の提案書を読んだ。『会長の弁当は地味で古い。茶色いおかずばかりでは、若い世代に響かない』。これは、君が書いたものだな」


「は、はい……あの、それは、商品として売るための、一般論として……」


「一般論か。では、食べてから意見を聞こう」



 祖父は、目の前の弁当を翔くんのほうへ押しやった。


 卵焼き。

 鶏と根菜の煮物。

 ごぼうのきんぴら。

 ほうれん草のおひたしと、梅干し。


 翔くんは、弁当を見下ろしたまま動けなくなった。


 三年間、毎日昼に食べていたものだ。

 見間違えるはずがない。



「どうした。食べんのか」


「い、いただきます……」



 翔くんは、震える箸で卵焼きを口に運んだ。


 噛んで、飲み込んで。

 それから、うつむいた。



「……おいしい、です」


「そうだろう。わしは三年、毎日これを食べて、一度も飽きたことがない」



 祖父は、椅子の背にもたれた。



「藤堂くん。この卵焼きのだしは、昆布と鰹を一晩かけて引いている。煮物の根菜は、前の晩に下茹でしてある。きんぴらのごぼうは、太さを揃えて切ってある。毎朝五時半に起きて、全部一人でやっている」



 会議室が、しんと静まり返った。



「茶色いのは、手間の色だ。わしの死んだ女房の口癖でな。この子は、それを守ってくれとる」



 祖父の声が、ほんの少しだけ揺れた。



「その手間を、地味で古いと言うのか」



 翔くんは、何も言えなかった。

 隣の麗奈さんが、居心地悪そうに視線を泳がせている。




◇




「会長、あの」



 会議室の奥で、一人の男性が手を挙げた。

 開発部の、背の高い人だった。



「開発部の真壁です。発言してもよろしいですか」


「言ってみろ」


「記念商品の味は、この弁当から一切変えずに作りたいと考えています。彩りは、容器と掛け紙で工夫できます。中身を変えたら、会長の弁当ではなくなります」



 真壁さんは、まっすぐに私を見た。



「森下さん。レシピを、一から教えていただけませんか。この卵焼きを、工場で同じ味に作れるようになるまで、何度でも試作します」



 私は、少し驚いて真壁さんを見返した。


 この人は、さっきから一度も弁当の見た目の話をしていない。

 試食の卵焼きを、三回もおかわりしていた。



「……はい。私でよければ」



 祖父が、満足そうに頷いた。



「決まりだな。記念商品の担当は、開発は真壁、監修は春香だ。営業の担当は……」



 祖父は、翔くんを見た。



「藤堂くんには、外れてもらう。味の分からん者に、この弁当の売り方は任せられん」


「そ、そんな……」


「会社をクビにするとは言うとらん。弁当一つの手間も分からん者に、五十年の看板は背負わせられんと言うておるだけだ」



 翔くんは、うなだれた。




◇




 会議が終わって、エレベーターホールに出ると、翔くんが追いかけてきた。



「春香、待ってくれ」



 私は、足を止めた。



「会長の孫だなんて、なんで言ってくれなかったんだよ」


「言ったら、何か変わった?」


「変わったよ! 俺、あの弁当がそんな大事なものだって知ってたら……」



 翔くんは、言いかけて口をつぐんだ。



「知ってたら、地味って言わなかった?」


「……それは」


「翔くん。お弁当は、三年間ずっと同じだったよ。変わったのは、誰が作ってるか知ったことだけ」



 翔くんは、何も言い返さなかった。



「やり直せないかな。俺、今度はちゃんと……」


「ごめんね」



 私は、できるだけ普通の声で言った。



「もう、お弁当は二つしか作ってないの」



 エレベーターの扉が開いた。

 私は一人で乗り込んで、閉まるボタンを押した。


 扉の隙間から見えた翔くんは、三年前に初めて会ったときより、ひと回り小さく見えた。


 先に下りた祖父が、一階のロビーで待っていた。

 田中さんが、少し離れたところで車の鍵を持って控えている。



「おじいちゃん。……知ってたの? 翔くんのこと」


「田中から聞いた。弁当が二つになった日のことをな」



 祖父は、ロビーの窓の外を眺めたまま言った。



「三つ目の弁当が誰の分かくらい、三年も見とれば分かる。お前が話さんから、わしも黙っとった」


「じゃあ、今日の会議に営業が来るって言ったのも」


「提案書を読んだのは偶然だ。だが、あの文を読んだとき、女房の顔が浮かんでな。黙っておれんかった」



 祖父は、ようやく私のほうを向いた。

 目尻のしわが、祖母の写真の隣に並んだときと同じ形をしていた。



「春香。お前の弁当は、地味なんかじゃない。わしが一番よう知っとる」



 私は、ロビーの真ん中で、少しだけ泣いた。

 ファミレスでは出なかった涙が、今になって出てきた。


 祖父は、黙ってハンカチを差し出してくれた。

 祖母が昔、祖父の誕生日に刺繍した、紺色のハンカチだった。




◇




 それから三か月、私は仕事帰りに東雲フーズの試作室へ通った。


 真壁さんは、本当に何度でも試作した。

 卵焼きだけで、四十七回。

 工場の大きな鍋で、家庭の小さな鍋の味を出すのは、想像よりずっと難しかった。



「四十八回目です。お願いします」



 真壁さんが、白い皿に卵焼きを載せて差し出す。


 一切れ、口に入れる。

 だしの香りが、ふわっと広がった。

 祖母の味に、限りなく近い。



「……真壁さん。これ、です」



 真壁さんの顔が、ぱっと明るくなった。

 普段はほとんど表情の変わらない人なので、少し驚いた。



「よかった。本当に、よかった」


「四十八回も、ありがとうございました」


「いえ。森下さんの卵焼きを、毎回食べられたので」



 真壁さんは、少し照れたように目をそらした。



「実は、会議の前から、この卵焼きのことは知っていました。会長が毎日、役員フロアでおかずを一つずつ配って自慢していたので。僕も一度、もらったことがあります」


「おじいちゃん、そんなことしてたんですか」


「はい。一口食べて、作った人に会ってみたいと思いました」



 試作室の換気扇の音が、やけに大きく聞こえた。



「森下さん。記念商品が出たら、一緒に食事に行ってもらえませんか。今度は、誰かが作ったものを、二人で食べに」



 私は、皿の上の卵焼きを見た。

 四十八回分の、真壁さんの手間の色をしていた。



「……はい。喜んで」




◇




 半年後。


 東雲フーズ五十周年記念弁当『源さんの茶色い弁当』は、発売一か月で十万食を売り上げた。


 掛け紙には、祖父の似顔絵と、祖母の口癖が印刷されている。

 茶色いおかずは、手間の色。


 コンビニの棚でそれを見つけるたびに、少しくすぐったい気持ちになる。


 翔くんは、別の部署に異動したと聞いた。

 麗奈さんとは、すぐに別れたらしい。

 この前、社員食堂で『源さんの茶色い弁当』を黙々と食べている姿を見かけた、と真壁さんが教えてくれた。


 私は今でも、毎朝五時半に起きている。


 弁当箱を並べる。

 自分の分と、祖父の分と、もう一つ。


 一番新しい弁当箱は、濃い緑色だ。

 真壁さんが、四十八回目の卵焼きのお礼にと言って、自分で選んできたもの。


 七時ちょうどに、アパートの前に黒い車が止まる。

 田中さんが、祖父の弁当を受け取って、にこにこしながら言った。



「会長から伝言です。『明日も、茶色いやつを頼む』とのことです」



 私は笑って、三つ目の弁当の蓋を閉めた。



「はい。明日も、いちばん茶色いやつを作りますね」

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― 新着の感想 ―
彼氏は文句があるならてめえでポリシーに則った弁当を作ればいいだけの話。 世の母親や奥様は、「見た目」「栄養」「味」を考えて毎日家族の弁当を作ってる。例えばブロッコリーを茹でる時の色止め?とかの手間を知…
三年間、同じ内容のお弁当を毎日食べるのって、私なら辛いなぁ。 手間ひまかけてる、とか丁寧に作られてるとか言われても よほど好きじゃなかったら、やっぱり飽きる。 弁当のふたを開ける前から、どこに何が入…
>茶色いおかずは、手間の色なんだよ 至言ですな。 毎日煮物入りの弁当だなんてなんて贅沢な、その手間がわからない奴は食べる資格は無い! 一つだけ残念な所が…… ジャンルが違う……異世界じゃないです。
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