「お前の弁当は地味だ」と言った彼氏へ。その弁当、三年間あなたの会社の会長も食べていました
「もう弁当、作らなくていいから」
日曜日の夜のファミレスで、翔くんは私の顔を見ないまま言った。
「え?」
「地味なんだよ。毎日毎日、茶色くてさ。卵焼きと煮物と、きんぴらと。同期に見られるの、正直ちょっと恥ずかしかった」
私は、ドリンクバーのカップを握ったまま固まった。
藤堂翔、二十九歳。
食品メーカーの営業部で働く、私の彼氏だ。
付き合って三年になる。
「それとさ。俺、今、麗奈と付き合ってるから」
「……麗奈さんって、同じ部署の」
「そう。あいつ、毎日おしゃれなカフェのランチ食べてて、写真もうまくて。一緒にいて楽しいんだよ」
翔くんは、ようやく顔を上げた。
「春香は、いい子だと思う。でも、なんていうか。弁当と同じで、地味なんだよな」
テーブルの上のハンバーグが、冷めていく。
私は、笑おうとして、うまく笑えなかった。
「……分かった。今まで、ありがとう」
それだけ言って、伝票を持って席を立った。
翔くんは、引き止めなかった。
◇
森下春香、二十七歳。
小さな設計事務所で事務をしている。
毎朝五時半に起きて、弁当を三つ作る。
自分の分と、翔くんの分と、もう一つ。
卵焼きは、だし多めの甘くないやつ。
鶏と根菜の煮物に、ごぼうのきんぴら。
ほうれん草のおひたしと、梅干しを一つ。
全部、亡くなった祖母に習った味だ。
確かに、茶色い。
写真映えはしない。
でも、祖母はよく言っていた。
茶色いおかずは、手間の色なんだよ、と。
帰りの電車で、私は祖母の顔を思い出していた。
窓に映った自分の顔は、少し泣きそうだった。
スマホが震える。
三つ目の弁当の、届け先からだった。
『明日の煮物は、いつもより大根多めで頼む。源』
祖父だ。
祖母が亡くなってから、祖父は一人暮らしをしている。
料理は一切できない人なので、三年前から、私が毎朝弁当を作って届けている。
正確には、祖父の運転手の田中さんが、毎朝七時に私のアパートまで取りに来てくれる。
『了解。大根多めね』
返信を打ちながら、少しだけ笑えた。
◇
月曜日の朝も、私は五時半に起きた。
弁当箱を並べる。
いつもの癖で、三つ出してしまった。
しばらく、一番大きな青い弁当箱を眺めた。
翔くんの分だ。
私はそれを、そっと棚に戻した。
七時ちょうどに、アパートの前に黒い車が止まる。
田中さんが、いつものように頭を下げて、祖父の弁当を受け取ってくれた。
「おはようございます、春香さん。今朝は二つですか」
「はい。今日から、二つです」
田中さんは何も聞かずに、ただ優しく頷いた。
◇
それから二週間ほどたった、ある夜。
祖父から、珍しく電話がかかってきた。
「春香。来週の水曜、昼に会社まで来られるか」
「会社って、おじいちゃんの?」
「そうだ。うちの五十周年の記念商品でな、わしの弁当を再現した商品を出すことになった」
「え、おじいちゃんの弁当って、私が作ってるやつ?」
「他に誰がおる」
祖父は、電話の向こうで得意げに鼻を鳴らした。
祖父の名前は、東雲源一郎。
東雲フーズの創業者で、今は会長をしている。
東雲フーズ。
翔くんが勤めている会社だ。
三年間、翔くんには言えなかった。
付き合い始めたとき、「会長の孫」と知られるのが怖かったのだ。
祖父は母の父で、私の名字は父方の森下だ。東雲の名前は一度も出さずに、私はずっと、ただの森下春香でいた。
「開発の連中が、わしが毎日食べている弁当の味を知りたいと言うてな。作っている本人に聞けと言うておいた」
「おじいちゃん、私、ただの素人だよ」
「素人の弁当を、わしは三年、一日も欠かさず食べとる。役員会でも自慢しとる。問題なかろう」
祖父は、昔から言い出したら聞かない人だ。
「それと、春香」
「なに?」
「その会議には、営業の者も何人か来る。記念商品の売り方を考える担当だそうだ」
祖父の声が、一段低くなった。
「会議の資料に、若い営業の意見が書いてあった。『会長の弁当は地味で古い。茶色いおかずばかりでは、若い世代に響かない。彩りを重視した現代風のアレンジを提案する』とな」
私は、スマホを握りしめた。
「……それ、誰が書いたの?」
「藤堂という男だ」
◇
水曜日の昼。
東雲フーズ本社の十二階、大会議室。
長いテーブルの上に、私の作った弁当が五つ並んでいる。
開発部の人たちが、試食用に取り分けるためだ。
私は会議室の端で、祖父の隣の椅子に座っていた。
紺色のスーツは、就職活動のとき以来だ。
扉が開いて、営業部の人たちが入ってくる。
三人目に入ってきたのが、翔くんだった。
隣には、華やかなワンピースの麗奈さん。
翔くんは、会議室を見回して、私に気づいた。
目が、まん丸になる。
「……春香? なんで、ここに」
私は、小さく会釈だけした。
祖父が、ゆっくりと口を開いた。
「揃ったな。では始めよう。今日は、記念商品の元になる弁当を、作っている本人に来てもらった」
祖父が、私の肩に手を置く。
「孫の森下春香だ。この三年、わしの昼飯はすべてこの子の手作りだ」
会議室が、ざわめいた。
「会長のお孫さん……?」
「あの、毎日自慢されている弁当の……」
翔くんの顔から、音を立てるように血の気が引いていった。
◇
「さて、藤堂くん」
祖父は、手元の資料をめくった。
「君の提案書を読んだ。『会長の弁当は地味で古い。茶色いおかずばかりでは、若い世代に響かない』。これは、君が書いたものだな」
「は、はい……あの、それは、商品として売るための、一般論として……」
「一般論か。では、食べてから意見を聞こう」
祖父は、目の前の弁当を翔くんのほうへ押しやった。
卵焼き。
鶏と根菜の煮物。
ごぼうのきんぴら。
ほうれん草のおひたしと、梅干し。
翔くんは、弁当を見下ろしたまま動けなくなった。
三年間、毎日昼に食べていたものだ。
見間違えるはずがない。
「どうした。食べんのか」
「い、いただきます……」
翔くんは、震える箸で卵焼きを口に運んだ。
噛んで、飲み込んで。
それから、うつむいた。
「……おいしい、です」
「そうだろう。わしは三年、毎日これを食べて、一度も飽きたことがない」
祖父は、椅子の背にもたれた。
「藤堂くん。この卵焼きのだしは、昆布と鰹を一晩かけて引いている。煮物の根菜は、前の晩に下茹でしてある。きんぴらのごぼうは、太さを揃えて切ってある。毎朝五時半に起きて、全部一人でやっている」
会議室が、しんと静まり返った。
「茶色いのは、手間の色だ。わしの死んだ女房の口癖でな。この子は、それを守ってくれとる」
祖父の声が、ほんの少しだけ揺れた。
「その手間を、地味で古いと言うのか」
翔くんは、何も言えなかった。
隣の麗奈さんが、居心地悪そうに視線を泳がせている。
◇
「会長、あの」
会議室の奥で、一人の男性が手を挙げた。
開発部の、背の高い人だった。
「開発部の真壁です。発言してもよろしいですか」
「言ってみろ」
「記念商品の味は、この弁当から一切変えずに作りたいと考えています。彩りは、容器と掛け紙で工夫できます。中身を変えたら、会長の弁当ではなくなります」
真壁さんは、まっすぐに私を見た。
「森下さん。レシピを、一から教えていただけませんか。この卵焼きを、工場で同じ味に作れるようになるまで、何度でも試作します」
私は、少し驚いて真壁さんを見返した。
この人は、さっきから一度も弁当の見た目の話をしていない。
試食の卵焼きを、三回もおかわりしていた。
「……はい。私でよければ」
祖父が、満足そうに頷いた。
「決まりだな。記念商品の担当は、開発は真壁、監修は春香だ。営業の担当は……」
祖父は、翔くんを見た。
「藤堂くんには、外れてもらう。味の分からん者に、この弁当の売り方は任せられん」
「そ、そんな……」
「会社をクビにするとは言うとらん。弁当一つの手間も分からん者に、五十年の看板は背負わせられんと言うておるだけだ」
翔くんは、うなだれた。
◇
会議が終わって、エレベーターホールに出ると、翔くんが追いかけてきた。
「春香、待ってくれ」
私は、足を止めた。
「会長の孫だなんて、なんで言ってくれなかったんだよ」
「言ったら、何か変わった?」
「変わったよ! 俺、あの弁当がそんな大事なものだって知ってたら……」
翔くんは、言いかけて口をつぐんだ。
「知ってたら、地味って言わなかった?」
「……それは」
「翔くん。お弁当は、三年間ずっと同じだったよ。変わったのは、誰が作ってるか知ったことだけ」
翔くんは、何も言い返さなかった。
「やり直せないかな。俺、今度はちゃんと……」
「ごめんね」
私は、できるだけ普通の声で言った。
「もう、お弁当は二つしか作ってないの」
エレベーターの扉が開いた。
私は一人で乗り込んで、閉まるボタンを押した。
扉の隙間から見えた翔くんは、三年前に初めて会ったときより、ひと回り小さく見えた。
先に下りた祖父が、一階のロビーで待っていた。
田中さんが、少し離れたところで車の鍵を持って控えている。
「おじいちゃん。……知ってたの? 翔くんのこと」
「田中から聞いた。弁当が二つになった日のことをな」
祖父は、ロビーの窓の外を眺めたまま言った。
「三つ目の弁当が誰の分かくらい、三年も見とれば分かる。お前が話さんから、わしも黙っとった」
「じゃあ、今日の会議に営業が来るって言ったのも」
「提案書を読んだのは偶然だ。だが、あの文を読んだとき、女房の顔が浮かんでな。黙っておれんかった」
祖父は、ようやく私のほうを向いた。
目尻のしわが、祖母の写真の隣に並んだときと同じ形をしていた。
「春香。お前の弁当は、地味なんかじゃない。わしが一番よう知っとる」
私は、ロビーの真ん中で、少しだけ泣いた。
ファミレスでは出なかった涙が、今になって出てきた。
祖父は、黙ってハンカチを差し出してくれた。
祖母が昔、祖父の誕生日に刺繍した、紺色のハンカチだった。
◇
それから三か月、私は仕事帰りに東雲フーズの試作室へ通った。
真壁さんは、本当に何度でも試作した。
卵焼きだけで、四十七回。
工場の大きな鍋で、家庭の小さな鍋の味を出すのは、想像よりずっと難しかった。
「四十八回目です。お願いします」
真壁さんが、白い皿に卵焼きを載せて差し出す。
一切れ、口に入れる。
だしの香りが、ふわっと広がった。
祖母の味に、限りなく近い。
「……真壁さん。これ、です」
真壁さんの顔が、ぱっと明るくなった。
普段はほとんど表情の変わらない人なので、少し驚いた。
「よかった。本当に、よかった」
「四十八回も、ありがとうございました」
「いえ。森下さんの卵焼きを、毎回食べられたので」
真壁さんは、少し照れたように目をそらした。
「実は、会議の前から、この卵焼きのことは知っていました。会長が毎日、役員フロアでおかずを一つずつ配って自慢していたので。僕も一度、もらったことがあります」
「おじいちゃん、そんなことしてたんですか」
「はい。一口食べて、作った人に会ってみたいと思いました」
試作室の換気扇の音が、やけに大きく聞こえた。
「森下さん。記念商品が出たら、一緒に食事に行ってもらえませんか。今度は、誰かが作ったものを、二人で食べに」
私は、皿の上の卵焼きを見た。
四十八回分の、真壁さんの手間の色をしていた。
「……はい。喜んで」
◇
半年後。
東雲フーズ五十周年記念弁当『源さんの茶色い弁当』は、発売一か月で十万食を売り上げた。
掛け紙には、祖父の似顔絵と、祖母の口癖が印刷されている。
茶色いおかずは、手間の色。
コンビニの棚でそれを見つけるたびに、少しくすぐったい気持ちになる。
翔くんは、別の部署に異動したと聞いた。
麗奈さんとは、すぐに別れたらしい。
この前、社員食堂で『源さんの茶色い弁当』を黙々と食べている姿を見かけた、と真壁さんが教えてくれた。
私は今でも、毎朝五時半に起きている。
弁当箱を並べる。
自分の分と、祖父の分と、もう一つ。
一番新しい弁当箱は、濃い緑色だ。
真壁さんが、四十八回目の卵焼きのお礼にと言って、自分で選んできたもの。
七時ちょうどに、アパートの前に黒い車が止まる。
田中さんが、祖父の弁当を受け取って、にこにこしながら言った。
「会長から伝言です。『明日も、茶色いやつを頼む』とのことです」
私は笑って、三つ目の弁当の蓋を閉めた。
「はい。明日も、いちばん茶色いやつを作りますね」




