王宮の時計塔の令嬢は、その時刻を信じない
王都に住む人々は、王宮の時計塔は機械仕掛けで、自動的に動いているものだと思っているだろう。
人によっては、時間は女神様によって与えられたもので、いつも正確な時を刻む王宮の時計塔は、その御業によって動かされているのだと思っている人もいるかもしれない。
いずれにせよ、時計塔を管理する私のような存在など、ほとんどの人は知らないはずだ。
いつものように、我が家に代々引き継がれる日時計と照らし合わせると、時計塔の時計がわずかに遅れていた。そこで私は時計の振り子に、調整用の薄い錘を乗せる。それとは別に、時計を動かしているのは、鎖につながれた駆動用の錘だ。
時計は機械仕掛けではあるが、女神様の神秘の力で動いているのではない。
そして、時刻の進み具合を調整しているのは、この私、リーゼ・アルトマンだ。残念ながら、女神様とはほど遠い貴族くずれの娘なので、人々は知らないほうが幸せかもしれない。
私はこの日、女神様の存在を疑う気分でいた。少なくとも女神様の「優しさ」を疑っていたというべきか。
仕事などする気分ではなかったのだけれど、王国の時間を止めるわけにはいかなかった。
友人の公爵令嬢アデライーデ・ヴァレンベルクが死んだのを知ったのは昨晩の9時17分だった。
私が時計塔の中の小部屋で本を読んでいると、王宮の中が騒がしくなるのが聞こえた。
異様な様子に、私は胸騒ぎがして外に出た。
外には夜更けとは思えないほど多くの人がいて騒がしかった。
私は王宮の衛兵や役人たちが向かうほうについていった。たどり着いた先は、今は使われていない旧鐘楼だった。
そこに集まっていた人垣を見たとき、私の胸騒ぎはいよいよ大きくなった。
私は恐る恐る、そこにいた衛兵の一人に何があったのか尋ねた。
「王太子殿下の婚約者が身投げしたらしい」
この王国の王太子フェリクス殿下の婚約者は、この世に一人しかいなかった。
王宮医師によって、アデライーデの死亡が確認されると、私はその場に崩れ落ちた。
つい二日前にも、私は彼女と紅茶を飲んでおしゃべりをしていた。
人々は、時間は誰にも等しいと思っているかもしれないが、それは違う。
私が感じている時間と、他の方が感じている時間は違うものだと私は知っている。
そして、まだ若く美しかったアデライーデのことを思うと、時間は平等に人に与えられているわけではないのだと改めて思い知らされた。
※
12時20分。時間だ、と思ったその瞬間だった。
「リーゼ」
現れたのは、コンラート・エーレンベルク侯爵だ。
コンラート様は若くしてエーレンベルク侯爵家の当主となり、その才覚を買われ、近衛騎士団副団長として王宮警備を取り仕切っている。
「今日も時間どおりですね」
私がそう言うと、コンラート様は頷く。
コンラート様は王宮内でもちょっとした有名人だ。その理由は、容姿端麗で、優秀であることもあるのだけれど、それ以上に、恐ろしく時間に正確なためで、王宮内では「定刻卿」という異名を持っている。
「ではやるか」
コンラート様は表情も変えずに、そう告げた。
一年ほど前、それまでずっと一緒に時計塔を管理していた父が倒れ、私は一人で時計塔の管理を行うことになった。仕事はしっかり覚えていたので、ほとんどの仕事は一人でもこなせたのだが、どうしても私一人ではできないことがあった。
それが、時計の動力を生み出す錘を巻き上げる作業だった。巻き上げ機のハンドルを回すだけの作業なのだけれど、非力な私では、ひどく時間のかかる作業で、どうがんばっても1時間はかかってしまい、巻き上げた後は疲労でしばらく動けなくなるほどだった。
半ば絶望的な気持ちになっていたときに現れたのが、コンラート様だった。
困っていた私に何も言わず、コンラート様は巻き上げ機を回した。
それ以来、毎日きっかり12時20分にコンラート様は時計塔を訪れ、錘を巻き上げてくださった。
侯爵のコンラート様が、なぜ私のような下位貴族の娘を助けるのか、さっぱりわからなかったが、ただ私はコンラート様に感謝した。これで、父が必死に守ってきた王国の時間を、途絶えることなく守り続けていけると安堵した。
領地も屋敷もない男爵家に、父が私に残したのはこの時計塔と、王宮からまともな予算もつけてもらえなかった時計塔の補修をするために費やした借金だけなのだ。
コンラート様はきっかり30分、時計塔に滞在し、12時50分に出て行く。巻き上げは10分で完了するのだけれど、コンラート様はそれからここで昼食を食べたりして、30分滞在する。あまり口数の多い方ではないので、二人で黙り込んでしまうこともある。それでも必ず30分、コンラート様は私とここで昼食をとり、12時50分に去っていく。
しかし、この日は初めての例外となった。
「リーゼ、君はアデライーデ様と友人だったね」
昼食を終えると、コンラート様がそう尋ねてきた。
私は、その問いが来ることをわかっていた気がした。それがコンラート様の口から出てくるだろうということも。
「……はい」
「アデライーデ様が身投げした理由について、心当たりは?」
「……ありません」
「アデライーデ様が、フェリクス殿下とあまりうまくいっていないことは知っていたのか?」
「はい、知っていました」
「そのことが、自殺の原因だと思わないか?」
「思いません」
それは絶対にない、と私には確信に近いものがあった。もっと言えば、アデライーデ様が、自殺をしたなどとは信じていなかった。
「なぜ?」
「私は……一昨日、アデライーデ様とお会いしています。そのときも、フェリクス殿下とはほとんどお会いもしてくれなければ、お話もしないと仰っていました。ですが、アデライーデ様は、そんなことは気にしておらず、王家に嫁ぐことを楽しみにされていました」
「不仲な殿下に嫁ぐことを楽しみに?」
「はい……」
「何か言いにくいことでも?」
普段は何を考えているのかわからないコンラート様だけれど、王宮の警護をされているだけあって、鋭いところがある。
「はい、私とアデライーデ様の二人だけの間の話なので、他の方にはお話ししにくいのですが……」
「これは、とても大事なことなのだ。私は王宮の治安を任されている。もし自殺以外の要因でアデライーデ様が亡くなられたのであれば、私はそれを明らかにしなければならない」
自殺以外の要因……。もしそんなものがあるのであれば、確かに明らかにしなければならないだろう。きっとアデライーデ様もそれを望むはずだ。何より、友人として、それを果たすべきだとも思えた。
「……わかりました。でも、決して口外はしないでください」
コンラート様が頷いた。
「アデライーデ様は、第二王子のヴィルヘルム殿下のことをお慕いしていらっしゃったのです。たとえ決して結ばれることがないとしても、ただ近くにいられるだけで幸せなのだと、目を輝かせてお話ししていらっしゃいました」
「……」
「アデライーデ様の名誉のために言っておきますが、決して不貞を働こうと考えてらしたわけではないですよ。正直なところ、私にはその気持ちは理解できませんでしたが、アデライーデ様は本当に、心から希望を持っていらしたと思います」
「なるほど、よくわかった。ありがとう、リーゼ」
その表情から、コンラート様がどう思っているのかはさっぱり読みとれなかった。せめて、アデライーデ様を軽蔑はしないでほしいと思った。それから、アデライーデ様は自殺するような方ではなかったのだということもわかってほしかった。
「実は私も、王宮警備の観点から、自殺以外の可能性を考えていたのだ」
「えっ?」
「事故であれば、設備の安全や閉鎖を考えなければならないし、そうでないなら……」
「待ってください。それは……」
「君は公爵令嬢が、夜更けにひとりで旧鐘楼などに登って足を滑らせて落ちるなどということがあると思うか?」
「なくはないかと……。アデライーデ様と、時計塔の展望台で王都の様子を眺めることはよくありました」
「アデライーデ様は、夜更けに王都を眺めるために、暗くて慣れない階段を、それでもひとりで上ろうとするような方なのですか?」
違う。アデライーデ様はそんな無謀なことをする方ではない。
「では……」
「殺害された可能性も考えています」
「嘘……」
「動機を持つ方にも心当たりがあります」
アデライーデ様が殺された? あの善良で美しい令嬢が? そんなことはにわかに信じられない。
「伯爵令嬢のマリアンネ・ローデンという方を知っているか?」
私は社交界には参加していないので、会ったことはないのだが、アデライーデ様からその名前を聞いたことがあった気がした。
「ご存じなのですね」
「その方を疑っていらっしゃるのですか?」
「アデライーデ様は高位貴族でありながら、驕らず、どなたにも分け隔てなく優しい方と評判だった」
コンラート様はそう言うけれど、そんなことは私にはわかりきっている。そんな方でなければ、没落男爵令嬢の私なんかと友人になどなるはずがない。
「殺意を持たれるほど恨まれるようなことはなさそうなのだ。ただ、もしアデライーデ様を排除することで、得るものがある方はいる」
「それは……誰ですか?」
「マリアンネ嬢、あるいは恋仲にあるフェリクス殿下だ」
「恋仲……?」
「アデライーデ様に不貞の意思がなくとも、フェリクス様はそうではないようだ。社交界では有名な話だ」
もちろん私はそんなことは知らなかった。アデライーデ様は、殿下に他に恋人がいると私に話したことはなかったが、ご存じだったのだろうか。
「フェリクス殿下とマリアンネ様が結ばれるために、アデライーデ様が邪魔になったということですか?」
「……」
コンラート様ははっきりと肯定はしないが、可能性はあるということなのだろう。
それが本当であれば……あまりに身勝手でひどい話だ。けれど、私はそんなことがありえるとは信じられなかった。
「なぜ、そんなことを私に……」
「私が君のことを信頼しているからだ」
コンラート様が迷いなく断言するので、私は少し驚いた。
「本当は君を巻き込みたくはなかったのだが、真相を知るのに君の協力が必要だと思って……すまない」
「私の協力ですか? アデライーデ様のことはお話しできることもあると思うのですが、フェリクス殿下やマリアンネ様のことはあまり存じ上げないのですが……」
「協力をお願いしたいのはそこではない。時間のことなのだ」
「時間……ですか?」
「アデライーデ様が身投げをしたとされる9時頃に、フェリクス殿下とマリアンネ嬢はお二人で王宮の本殿にいたことが目撃されているのだ。そこから旧鐘楼にまで移動して、ある程度の高さに上がるのに、急いでも10分近くは要するのだ」
「9時頃というのは……? 9時を過ぎていたということではないのですか?」
時計塔を管理しているせいか、あいまいな時刻の言い方に引っかかってしまう。
「いや、すまない。9時きっかりだ」
コンラート様が訂正した。
「それであれば……やはりアデライーデ様は殺害されたのではないということですか?」
「しかし、その後、すぐにお二人が本殿を後にしたことも目撃されている」
「ですが、直後に旧鐘楼にたどり着くのは不可能なのですよね?」
「ああ」
「身投げ……されたとされるのが9時きっかりだというのはどう確認されたのですか?」
「旧鐘楼の近くの王宮の西門の衛兵たちの証言だ。彼らは9時に、アデライーデ様が地面に落ちた音を聞いている。それで駆けつけたら、アデライーデ様が血を流して倒れていたとのことだ。ちょうど交代の時間だったから、時間は間違いないと言っている。衛兵は私の管理下なので、9時が交代の時刻であることは確かだ」
「では……」
やはり事故なのでは、と言おうとした私を、コンラート様が制した。
「念のため、彼らがどう時刻を確認しているのか確認してくれないか? 君なら時計には詳しいだろう?」
※
17時50分。時間だ。
「リーゼ」
時計塔の、私がいる小部屋の外から声がした。
今日二回目のコンラート様の訪問だ。
私は立ち上がって、外に出た。
コンラート様は、にこりともせずにそこに立っていた。
「夕方でも、やっぱり時間どおりにいらっしゃるのですね」
「当然だ。行こう」
そうして私たちは、王宮の西門に向かった。
西門には、二人の衛兵が立っていた。
コンラート様によると、普段は必ず二人の衛兵がいるらしい。
衛兵たちは、コンラート様を見ると、敬礼をした。
「申し訳ないが、今日これから様子を見させてもらう」
コンラート様が衛兵たちにそう告げた。
衛兵たちは少し緊張したように、「はっ」と答え、再び敬礼した。
素人ながら、よく訓練された衛兵のように思えた。
しばらくすると、王宮に鐘の音が響いた。鐘はきっちり6回鳴った。
もちろん鐘を鳴らしたのは私の時計塔だ。時計塔の鐘は、毎日午前6時、9時、正午、午後3時、6時の5回、その時刻の数だけ鐘が鳴る。ただ、西門の詰所では、王宮の本殿に遮られて時計塔が見えない。
鐘が鳴り始めた瞬間、衛兵の一人が小さな平らの台に乗せられたものをひっくり返していた。
そして別の衛兵二人がどこかからかやってきて、交代した。
私は台の上に乗っているものをよく知っていた。
それは、父が作った砂時計だ。
近くで砂時計を見させてもらうと、木枠の上部にアルトマン男爵の刻印があった。間違いない。
父の作る砂時計は恐ろしいほどに正確なことを私は知っている。時間がきっちり30分測れるように、くびれの部分は精巧に加工され、砂も粒の揃ったものが選ばれている。
それからコンラート様と私はじっと待った。
そこで砂時計の砂が落ちきったところで、衛兵の方がまた砂時計を反対にひっくり返す。
そして衛兵が交替する。
「申し訳ないが、9時まで見てもらってもいいか?」
「はい、私は大丈夫です。コンラート様はご自身のお仕事に戻っていただいても大丈夫ですよ」
「だめだ。君をこんなところにひとりにしてはおけない。この王宮に殺人者がいるのかもしれないのだぞ」
「ですが……。衛兵の方もいらっしゃいますし……」
「君に頼んだ立場の私が、君にすべてを押し付けるようなまねはできない」
「そんなことはお気になさらないでください。アデライーデ様は私の大切なお友達でした。私も死の真相は知りたいですし」
「あ、ちょっと待っていてくれ。すぐ戻る」
そう言って、コンラート様はどこかに行ってしまった。口ではひとりでも大丈夫と言ったものの、実際にひとりにされてしまうと心細かった。
ところが、コンラート様は本当にすぐに戻ってきた。
その手に、小ぶりな椅子と紙袋を持って。
「座って」
コンラート様が椅子を地面に置き、私に言った。
「……でもコンラート様は?」
「私は武人だ。何かあればすぐ対応できるよう、立っている」
「でも……」
「いいから座って」
コンラート様が強い口調で言うので、私は申し訳なく思いながら椅子に座った。
それからコンラート様は紙袋からパンを取り出し、私に差し出した。
「こんなものしかなくてすまないが……」
「えっ、いえ、大丈夫です」
と言った途端に「ぐぅ」とお腹が鳴って、赤面した。
「ほら」
コンラート様は笑いもせずにパンをさらに前に差し出してきた。
やはり有無を言わせぬ様子なので、私はパンを手に取った。
「ありがとうございます。では……いただきます」
そうしてパンを口にすると、コンラート様がかすかに笑顔を浮かべた気がした。気のせいかもしれないけれど。
コンラート様もパンを頬張り、二人での奇妙な晩餐になった。
私に友人と呼べる方は、アデライーデ様おひとりだと思っていたけれど、コンラート様も私の心の支えになってくださっているのだということに、今さらながら私は気づいた。
お美しく朗らかだったアデライーデ様とは正反対に、無愛想な方ではあるけれども。
そうこうしているうちに日は落ち、王宮は暗く染まっていった。
私は椅子に座り、コンラート様は立ったまま、周囲や私の様子に気を配っていた。
砂時計は二度、三度とひっくり返され、そのたびに衛兵は交代した。
やがて、午後6時の一回目から数えて、六度目にひっくり返された砂時計の最後の砂が落ちたとき、私は立ち上がり、駆け出した。
時計塔の鐘は午後6時を最後に鳴らなくなるので、今の正確な時間がわからない。
時計塔が見えるところまで行き、灯火に照らされた時刻盤を見た。時刻は9時1分だった。西門からここまで、走ってほぼ1分程度だ。
つまり、砂時計の最後の粒が落ちたのは、ほぼ9時きっかりだったことになる。
西門に戻ると、衛兵は交代していた。
父の作った砂時計は正確に時を刻んでいた。
確かに「9時」だったのだ。
※
「衛兵の砂時計は正確なものだったか……」
コンラート様が表情も変えずに言った。
「はい、あの砂時計は父が作ったもので……正確に30分の時間を測れるものでした」
「そうか……」
私にはどこかコンラート様が少し残念そうにも見えた。コンラート様には何か確信があったのだと思うが、きっと私がそれを裏切ってしまったのだ。
「コンラートか?」
そのとき、誰かがコンラート様に声をかけた。
振り返って見ると、それはフェリクス殿下だった。
「フェリクス殿下……」
コンラート様も言葉を返そうとするが、フェリクス殿下が遮った。
「こんな時間にこんなところで、何をしているのだ。衛兵もいるのに、おまえが自ら警備する必要もあるまい。女まで連れて」
「……逢引きです」
私は思わず吹き出しそうになった。
「逢引きだと? その女と?」
殿下が見下すような視線を私に向けたので、おかしな気持ちはすぐに吹き飛んだ。
「彼女はリーゼ・アルトマンです。ご存じありませんか? とても素敵な女性です。侮辱するのはお控えいただきたい」
コンラート様が真顔で言うので、私はまたおかしな気持ちになった。
取り繕うためとはいえ、私なんかを「素敵」だなんて……。冗談にもほどがあるでしょう。
「アルトマン? 時計塔の管理をしている家か。貴族と言っても男爵家ではないか」
フェリクス殿下は訝しげに私に視線を向けた。
「殿下こそ何を?」
コンラート様も殿下に尋ねた。
「……アデライーデに花をたむけてやったのだ。俺の婚約者だったのだから、当然だろう」
「そうですよね。とても悲しい事件でした」
「事件だと……? アデライーデは自ら身を投げたのだろう?」
「そうでした。失礼いたしました」
「夜の王宮をむやみにうろつくものではない。暗い場所も多い。足元に気をつけるのだな」
そのフェリクス殿下の言葉が、私には警告のように聞こえた。
なぜかフェリクス殿下がアデライーデ様の死を悼んでいるようにも見えなかった。
※
コンラート様は私を時計塔まで送ってくださった。
こんなに長くコンラート様と一緒にいたことがなかったので、別れたときに少し寂しいと思ってしまった。
私は考えごとをしながら、ぼんやりと時計塔のらせん階段を登っていた。
展望台まで上がり、夜風を受けながら、アデライーデ様のことを想った。
夜も更けていたが、月明かりは美しかった。
王都の街を眺めると、ところどころにランプの灯火がついていた。
灯火に照らされた人々の中には、酒でも飲んだのか、陽気に笑っている者たちがいた。きっとあの人たちは時間のことなど忘れているのだろう。
と、私は何かに引っかかった。
それは何かとても重要なことに思えた。
「まさか……」
そのとき、後ろから強い力に押され、私は前のめりになり、展望台の縁の背の低い壁に上半身を押し出された。
驚いて足を踏ん張り、縁に手をつく。
——何なの?
振り返ろうとしたとき、腰のあたりを誰かに掴まれた。
私は恐怖に襲われ、必死に手足をばたばたさせ、床に這いつくばろうとした。
力が強い。私の力ではとても敵わない。
この人は私をここから突き落とそうとしているのだ。——アデライーデ様のように。
「何をしている!」
男の人の声がした。
コンラート様だ。
その瞬間、私は安堵して、油断してしまっていた。
私を掴んでいた人物が、力任せに私を突き飛ばした。
私の体が、展望台の縁に勢いよくぶつかった。
コンラート様が私のほうに向かって駆け出しているのが見えた。
私の上半身は縁に乗った。
——ああ、ここで私の人生は終わるのだ。
そこに私はまた強い力を感じた。
コンラート様が私の腰のあたりを掴んでいた。
私は、落下せずに済んだのだ。
コンラート様が私を引き上げたが、そのまましばらく私を離そうとしなかった。
気づくと、私もコンラート様に強く抱きすがっていた。
※
「なぜこんなところに?」
ようやく少し気持ちが落ち着いてきて、私はコンラート様に尋ねた。
「ここに戻るときに、誰かにつけられている気配がしたのだ。私が狙われているのならどうにでもなる。だが、君が狙われているかもしれないと思ったら、帰るに帰れなくてな。君を送った後も、周囲を警戒していた」
「なぜ犯人を追わなかったのですか?」
「君が落ちそうになっているのに、犯人を追っている場合ではないだろう」
コンラート様は何を言っているのだと言わんばかりだった。
「コンラート様……」
「何だ?」
「明日は、私だけで衛兵の方の様子を見たいと思います」
私の提案に、コンラート様には珍しく露骨に不満そうな顔をした。
「こんな目にあって、そんなことをさせられるわけがないだろう」
危険なことはわかっていた。けれど、それが絶対に必要なことだと確信があった。
「コンラート様がいてはだめなのです。どうかご理解ください」
※
数日後、王宮で裁定が開かれた。
その裁定は、アデライーデ様の死についての裁定だった。
つまり、アデライーデ様の死が、事件による可能性があると王宮で判断されたのだ。
「先日、旧鐘楼から身投げして、自死されたと思われたアデライーデ様ですが、自死ではなく事件の可能性が浮上いたしました。そこで本日の裁定を開かせていただきました」
裁定の開始を宣言したのは、法務卿ルドルフ・ヴァイスベルク侯爵だ。
「なぜこんな茶番に付き合わされねばならんのだ。どう考えてもアデライーデは自死であったろう」
一言目から、裁定そのものに異議を唱えたのは、フェリクス殿下だった。
「殿下、お言葉ですが、なぜそう断言できるのでしょう? 例えば、事故の可能性も考えられる状況だったかと思います」
ルドルフ法務卿は狼狽えもせずにフェリクス殿下に尋ねた。
「俺はアデライーデが死にたがっていたことを知っている」
「ほう。アデライーデ様が『死にたい』と仰っていたのですか?」
「直接俺にそう言ってきたわけではない。だが、アデライーデは俺があいつを愛していないことを知っていたのだ。それでも俺たちは結婚しなければならない。それが王家と貴族の政治というものだとわかっていたのだ。だが、ついにそれに耐えられなくなってしまったのだろう」
「何か、自死を決断するようなきっかけがあったのでしょうか?」
ルドルフ法務卿は落ち着いて質問を続ける。
「マリアンヌのことだろう。俺に、マリアンヌという恋人ができたことが、そのきっかけになったのだろう」
フェリクス殿下は、隣に立つマリアンヌ様に微笑みかけた。
マリアンヌ様もフェリクス殿下に微笑みを返す。
私はマリアンヌ様を見たのは初めてだったが、裁定の場がまったく似合わないほど、とても華やかで可愛らしい方だった。顔に塗った濃い白粉に、より強い違和感を覚えた。
「殿下が不貞を働いたということですか」
「不貞だと? 法務卿ならば、言葉に気をつけろ、ルドルフ。国王は側妃も持てるのだ。不貞ではない」
国王であればそうだろうけれど、フェリクス殿下はまだ王太子なのでは、という疑問が浮かんだが、まだ私が口を出す段ではない。
「……失礼いたしました。つまり、愛していない相手とはいえ、殿下に恋人ができて、アデライーデ様は嫉妬したということですか?」
「……嫉妬とは違うな。アデライーデにあったのは、屈辱、というべき感情だろう」
「なるほど、死にたいほどの屈辱を味わったということですな。それに関して殿下は罪悪感を感じますか?」
「明らかに罪ではないのだから、罪悪感などは感じようもない。だが、追い詰めてしまったのであれば、多少の哀れみはある。愛はなかったとしても、他人などではなく、婚約者ではあったのだ」
「なるほど。とても貴重なお話をありがとうございます。この後の裁定でもその内容が意味を持つことになりそうです。参考にさせていただきます」
「裁定をする必要がない、と言っているのだ」
フェリクス殿下が苛立ちを隠しもせずに言った。
「残念ですが、殿下のお話は、裁定の必要性を否定するほどのものではございませんでした。むしろ、裁定を進めるべき判断の正しさを強めるものでした」
「何だと?」
フェリクス殿下の表情に、苛立ちを超えて、怒りの色が浮かぶ。
「なお、今回の裁定は、アデライーデ様のお父上であるヴァレンベルク公爵からの訴えを受理してのものです」
「訴えがあればいちいち裁定を開くのか? そんなことでは国が回らんだろう」
「もちろん、裁定を行うかどうかは、私の責任のもとで判断をしております。今回は、訴えとともに、信用に足る証拠がございました」
「証拠だと? 何の証拠だ?」
なおも苛立たしげに殿下が問う。
「アデライーデ様が殺害されたことを示す証拠です」
「何? アデライーデが殺害されたというのか?」
「はい。そのとおりです」
フェリクス殿下は慌てた様子はなかったが、訝しげにルドルフ法務卿を見た。
「……まさかと思うが、俺を疑って裁定に呼んだわけではあるまいな。アデライーデが身投げをした9時には、俺は王宮の本殿の中にいた。王宮の者たちも証言するだろう。アデライーデに関する話を聞きたくて俺を呼んだのであれば、もう話はした」
「はい、確認は取れております。殿下は間違いなく9時に本殿にいらっしゃいました」
「では、俺にはもう聞くこともないのだな?」
「はい。ですが、いくつか不審な点がございますので、他の方のお話にも耳を傾けていただければと思います」
ルドルフ法務卿が答えた。
「何でもいいから早く終わらせろ」
フェリクス殿下はなおも苛立ちを隠さなかった。
「いくつか確認しておきたいことがございます。まず一つ、大きな謎は、アデライーデ様のようなうら若い女性が、なぜ夜の旧鐘楼にいらっしゃったのかということです。身投げされたのだとしても、今は使われておらず、無断で入ることは禁じられている旧鐘楼を、なぜアデライーデ様は選んだのでしょうか」
「俺への当てつけだろう。あそこなら俺がいる本殿からも近いからな」
フェリクス殿下が答えた。
「なるほど。それはあるかもしれませんな。他に心当たりのある方はいらっしゃいませんか」
「僕からお話しさせていただいてよろしいですか?」
そう言って前に出たのは、第二王子ヴィルヘルム殿下だ。
アデライーデ様がお慕いしていた方だと思うと、私は複雑な気持ちになる。
「ヴィルヘルム、余計なことを言うのではないぞ。話がややこしくなりかねない」
「フェリクス殿下、申し訳ございませんが、まずは証言される方の話をお聞きください。証言者の発言を歪めるようなことは、殿下に不利に働きますよ」
「ルドルフ法務卿、大丈夫です。僕は虚偽の証言をしない、と誓います。私もアデライーデ嬢に何があったのか知りたいのです」
「そうですか。では、証言をお願いできますか、ヴィルヘルム殿下」
「旧鐘楼に来るように、と伝言するようにマリアンヌ様に頼まれました。兄上からの伝言だが、アデライーデ嬢を驚かせたいので誰からの依頼かは伏せて、そう言えと。僕がこのことを何も考えずに伝えたことを今はひどく後悔しております。そのせいでアデライーデ嬢が亡くなったかと思うと……。僕が彼女を殺してしまったようなものかもしれません」
これまで知られていなかった内容に裁定の場がどよめく。
「それではまるで、ヴィルヘルム殿下と待ち合わせするかのようにも聞こえたでしょうな」
マリアンネ様は、アデライーデ様がヴィルヘルム殿下への恋心を知っていて、それを利用したのだろうか。もしそうだとしたら、あんまりだ……。
「アデライーデ様は第二王子殿下を愛していました」
思わず、私は声を上げてしまった。
どうしても我慢ができなかった。
「えっ」
ヴィルヘルム殿下が驚いた表情をした。
「私はアデライーデ様の友人でしたので、そのことをよく伺っていました。ご存じなかったのですか……?」
「……アデライーデ嬢は兄上の婚約者です。もちろん、お話しする機会も多く、兄上は良い婚約者の方に巡り会えたな、と羨ましくも思ってはおりましたが……」
「アデライーデは不貞を企んでいたということか? それが叶わぬと思って身投げしたということか?」
フェリクス殿下が口を挟んできた。
「フェリクス殿下。黙って証言に耳を傾けていただくことをお勧めします。大事な点をはぐらかそうとしているように思われますぞ。今、重要な点はそこではないでしょう? リーゼさん、申し訳ないが、ヴィルヘルム殿下とのその話は後にしてもらえますか?」
ルドルフ法務卿にそう言われ、私は慌てて謝罪し、後ろに下がった。
まだ私の番ではない。
「今最も重要な点は、なぜ、マリアンヌ様はアデライーデ様を旧鐘楼に呼び立てたのかということです。あるいはなぜ、フェリクス殿下がマリアンヌ様にその指示をしたのかということです」
それまで多く発言していたフェリクス殿下は黙ってしまった。
代わりに、マリアンヌ様が前に出た。
「フェリクス殿下の指示ではないわ。私が勝手にしたことよ。ヴィルヘルム殿下も利用させていただいただけ」
「なぜそのようなことを?」
ルドルフ法務卿がマリアンヌ様に尋ねた。
「誰も私のことなど信用してくださらないのですもの。仕方ないではないですか。だから、アデライーデ様への伝言では、私の名前を伏せるようお願いしたのです。同じように、ヴィルヘルム殿下にお願いするときには、フェリクス殿下のお名前をお借りしました」
そんなことまでしないと信用されないなんて、この方は今までどのような行いをしてきたのだろうか……。
「なぜ、アデライーデ様を旧鐘楼などに呼び出す必要があったのですか?」
「法務卿なのにそんなこともわからないの?」
「想像はつきますが、裁定で想像に頼るわけにはいきませんので、お聞かせください」
「私はフェリクス殿下の正妃になりたかったの。それに、殿下が愛してもいない女性と結婚しなければならないなんてあんまりだわ。ですから、アデライーデ様と二人きりになれるところで、フェリクス殿下との婚約を破棄できないか相談するつもりだったのよ」
「それで、旧鐘楼には行かれたのですか?」
「いいえ。だって、私が行く前にアデライーデ様は身投げしてしまったのですもの」
「もし旧鐘楼に行っていたとしたら、例えばアデライーデ様と口論になって、突き飛ばしてしまうようなこともあったと思いますか? あるいは、最初から突き飛ばすことを考えて、旧鐘楼に呼び出したということはないですか?」
「ふふふ。法務卿の想像はすごいわね。ええ、もし旧鐘楼でアデライーデ様にお会いしていたら突き飛ばしていたかもしれないですね。でも、私は旧鐘楼には行っておりませんので」
マリアンヌ様が残忍な表情を見せるので、私はぞっとした。
「そうだ。裁定の場で、法務卿が空想の話などするな。マリアンヌもあの時間は、俺と一緒にいたのだ。他の者たちも見ている」
「ですが、マリアンヌ様は9時を回ったところで、すぐ退出されていることも確認されておりますな」
「ああ。俺も見送っている。だが、9時の時点では間違いなく王宮の本殿にいた。旧鐘楼までは急いでも10分程度かかるだろう?」
「女性の足で、7分です。検証しております」
「何分だろうと、マリアンヌが9時に旧鐘楼にいることは不可能だ」
「ともかく、マリアンヌ様にはアデライーデ様を殺害する動機があったことがはっきりしたのは、この裁定においてとても大きな意味を持つでしょう」
「殺意があろうとなかろうと、マリアンヌが何もしていないことははっきりしているではないか」
「では、もし犯行が可能であったと証明できれば、殺害をお認めになるということですな?」
「ばかばかしい。不可能なことを証明などできるわけがないだろうが。今度こそ、もう終わりだ」
法務卿が私を見て頷いた。
私も頷き返して前に出た。
「殿下、お待ちください」
言ってしまった。もうやるしかない。
「おまえは……アルトマン男爵家の娘だったな。もう話は終わったのだ。おまえなどが出る幕ではない」
「法務卿のお言葉をお借りしますが、退室されたいのでしたらどうぞ。この裁定で、ただ何の反論も受けず、アデライーデ様が殺害されたのだということが証明されるだけですので。事件に関わった方々にはできるだけ聞いていただきたいとは思うのですが」
「何だと?」
フェリクス殿下はやはり退室しない。代わりに私に強い視線を向けた。
「では私のほうから、アデライーデ様が旧鐘楼から落ちた時刻についてお話しさせていただきます」
「夜の9時ちょうどだ。すでにはっきりしているではないか」
「その9時という時刻ですが、私は、それが正確なものであったのか確認するため、王宮警備の責任者であるコンラート様とともに、証言をした衛兵の方々の様子を確認させていただきました。彼らがどう時刻を確認しているのかを」
フェリクス殿下がじっと私を睨み続ける。
「彼らは、私の父が作った精巧な砂時計を使っておりました。私は時計塔の6時の鐘が鳴ったときから、3時間ほどそこで砂時計と、彼らを観察しました。砂時計は正確に30分を刻み、そのたびに衛兵の当番の交代をすると、彼らは砂時計をひっくり返し、次の30分を測り始めました。そして、彼らの証言のとおり、砂時計は9時きっかりに砂を落とし切り、彼らは交代しました」
フェリクス殿下は薄く笑みを浮かべた。
「9時が間違いなかったことを確認しただけか」
殿下はご自身の勝ちを確信したのだろう。
「いえ、その日、コンラート様と私が観察した衛兵たちの時間は、普通ではなかったのではと疑いました」
私の言葉に、殿下の笑みが消えた。
「正確な時間どおりに働く衛兵たちが異常だと?」
「はい、そうです」
私は続けた。
「疑いを持った私は、その翌日から今日に至るまでの数日、西門の近くを頻繁に行き来しながら、衛兵の方々をこっそり観察しました。今度は、コンラート様の姿は見せないようにいたしました。それでも遠目からコンラート様は私を見守っていてはくださったのですが、決して衛兵の方々の目に触れないようにしていただきました。そうして見ていると、日が暮れて暗くなった頃に彼らは驚くような行動をとり始めました。当番の最中にも関わらず、一人の衛兵の方は地面に座り込み、一人の方はものを食べ始め、あるいはおしゃべりを始めました。そして午後8時の交代の際には、衛兵が酒を持ってきて、前後の当番の衛兵が一緒になって酒宴まで始めたのです。
彼らは談笑しながら、酒宴に夢中になっておりました。そのため、8時30分の時点で、砂時計の砂が落ち切っていたにも関わらず、8時40分になるまで、砂時計がひっくり返されることはありませんでした。もちろん次の砂が落ちたのは9時10分です。帳尻を合わせるためか、そのまま9時30分まで砂時計は放置されました。その日だけではありません。時間のずれ具合はまちまちでしたが、砂時計の砂が落ちたときの時刻は、いずれも9時ではありませんでした。砂時計は正確でしたが、それを使う人間のほうが、時間をいい加減に扱っていました。
つまり、コンラート様と観察したときだけ、彼らはその目を気にして真面目に務めを果たしただけで、普段は怠けるような方々だったのです。
コンラート様は、『定刻卿』とあだ名されるほど時間にうるさい上司です。そんな方の前でいい加減な時間管理など許されるわけがありません。だからコンラート様の前でだけは、彼らは必死に時間を守った、というだけです。
ですから、彼らの証言の9時には、まったく信頼がおけないとわかりました」
フェリクス殿下は苛立たしげに私の話を聞いていたが、すぐに反論をしてきた。
「だからと言って、アデライーデが身投げした時間が9時ではなかったということの証明にはならないだろう」
「私のほうで、当時の当番だった衛兵を問い詰めました。怠慢に関する処分を軽減することを条件に、彼らはすべて正直に話しましたよ」
私に続いて、コンラート様が再び口を開いた。
「事件のあった当日も彼らは、酒を飲んでいました。砂が落ち切った砂時計をひっくり返したのは8時40分だったのです。仕事を怠けていたことを必死に隠すために、『9時ちょうど』と言い張っていたのだと白状しました。騒ぎを伝えるために衛兵のひとりが持ち場を離れてすぐに時計塔を目にし、時刻が9時11分だったことを確認しています」
「父の砂時計はやはり正確でした。間違っていたのは砂時計ではなく、『9時』だと言い張った人のほうだったのです」
それは、私がアデライーデ様の事件の真相を知るために、一番証明したかったことだ。
「つまらない罪を隠すことで、大きな罪が隠されてしまうところでしたな」
ルドルフ法務卿が言った。
「大きな罪だと……?」
フェリクス殿下の声はか細いものになっていた。
「はい。アデライーデ様が旧鐘楼から落ちたのが9時10分過ぎだったことがはっきりしたので、フェリクス殿下も、マリアンヌ様も、犯行は可能であったとみなされます。他の状況や証拠を鑑みますと、アデライーデ様は身投げしたのではなく、殺されたと断定できます」
ルドルフ法務卿の視線が移動し、ひとりの人物の前で止まった。
「アデライーデ様を殺害したのは——マリアンヌ様、あなたです」
「何を……」
マリアンヌ様はこの期に及んで、驚いたような表情を見せた。
「残念ながら、もう言い逃れの余地はございません。アデライーデ様のお父上、ヴァレンベルク公爵から示された証拠もそのことを示しております」
「証拠なんて嘘に決まっているわ! きっと捏造よ」
マリアンヌ様は必死に否定するおつもりのようだ。
「アデライーデ様の爪に、どなたかの血がついていたそうです。抵抗したときに相手を引っ掻いたのでしょうな。マリアンヌ様、白粉で隠しているおつもりでしょうが、顔の引っ掻き傷の跡は見えておりますよ」
「この顔の傷は……飼い猫に引っ掻かれただけです」
「爪の血以外にも、アデライーデ様は亡くなってからも、手に服の生地のようなものを握っていらっしゃいました。その布地は、失礼ながら伯爵家から拝借いたしましたが、マリアンヌ様が当時お召しになっていたドレスの裂けた袖口と一致しています。アデライーデ様が、死の直前にあなたにお会いしていたという証拠です。
マリアンヌ様、あの日の夜、顔に傷を負って、服が裂けていたと、伯爵家の御者や侍女の方々も証言しております。皆、ただ事ではない様子に、驚いたようですよ。王宮を出る直前まではきれいなお姿で、フェリクス殿下と一緒にいらっしゃって、そのすぐ後、帰宅するときにはぼろぼろの姿で出られているのです。そうそう、帰る前に、アデライーデ様とお会いする約束をされていたのですな」
マリアンヌ様は黙り込んで、ただ唇を固く結んで、ルドルフ法務卿を睨んでいた。
「これだけの証拠があっても、我々にはどうしても9時の死亡時刻の壁だけが越えられなかったのですが、リーゼ嬢が見事に壁を破ってくださいましたな」
法務卿はマリアンヌ様の視線には応じず、私のほうを見た。
「残念だが、ここまでだな、マリアンヌ」
フェリクス殿下はまるでもう興味を失ったかのように、力の抜けた声で言った。
「えっ……」
マリアンヌ様が言葉を失う。
「罪を認めるしかないと言っているのだ」
「そんな……。殿下、どうかお助けください。私たち、未来を約束したではありませんか……。私は、王妃になりたいのです」
マリアンヌ様は哀れみを誘うような声でフェリクス殿下にすがる。
「マリアンヌ様、ご心配には及びません。フェリクス殿下にももう未来はないでしょう。無理して殿下と結婚しても、きっと王妃にはなれませんよ」
「何を言っているのだ、ルドルフ。アデライーデを殺したのはマリアンヌだぞ。私は事実を知っている」
「フェリクス殿下。あなたはご自身の言動も省みるべきでしょう。その事実を知っていたにも関わらず、マリアンヌ様の殺人を隠蔽しようとしたではないですか。これも当然、重罪です」
「ルドルフ法務卿、それだけではありません」
そのとき、私の後ろで、私を守るように立っていたコンラート様が前に出た。
「リーゼ嬢が衛兵の調査をしていた夜、彼女もまた何者かに襲われました。そのことで、私は、彼女が真相に近づいており、そのために狙われてしまったのではないかと考えました。殿下、お心あたりがございますね?」
フェリクス殿下は何も答えなかった。
「リーゼ嬢を襲ったのは、私の部下の王国兵士でした。もちろん、私は部下を問い詰めました。その男は、王太子フェリクス殿下の依頼だということをすでに白状しております。リーゼ嬢のことを、目障りな女だと言っていたそうです」
「そうだ。その女は不審な動きをしていたのだ。アデライーデと近い友人であったのだろう? 王宮内をうろついて、よからぬことをしていたのではないか? 逆恨みでもして俺を殺そうとでもしていたのだろう? 俺も王太子という重要な地位の人間だ。自分の身を守るためには手を尽くすのは当然だ。それに俺は殺せなどとは命じていない。捕らえて話を聞けと命じただけだ」
「その王国兵士は『殺せ』と命じられたと言っています」
コンラート様の証言に、フェリクス殿下の顔が険しくなる。
「男爵家の娘ごときが死んだところで……」
なおも主張を続けようとするフェリクス殿下を、コンラート様が遮った。
「男爵家の娘だろうと、殿下が命を奪っていい理由になどなるはずがありません。彼女をとても大切に思っている者もいるということもわかってください。男爵だろうが平民だろうが、その事実は変わりません」
コンラート様は無表情ながら、その声にとても力がこもっていた。
けれど、親しい友人も失い、私を大切に思ってくれる人などいるだろうか……。
……もしいるのだとしたら、ひとりしか思いつかないけれど。
「リーゼ・アルトマンは生きている。それで良いではないか」
さすがのフェリクス殿下も怯んだのか、その口調は弱かった。
「良いわけがないでしょう。人の命を自分の都合で簡単に奪おうとする者を、殺害の試みが失敗して、何もなかったからと、王宮警備の責任者である私が見逃せると思いますか? それに、あなたはリーゼ嬢ご本人に傷を負わせ、大変な恐怖を与えたのです」
コンラート様は無表情だったが、ひどく怒っていることが私には伝わった。
傷といっても擦り傷程度なのだが……。
「あなたの罪も、決して許されるものではありません」
「そのとおりです。本日裁かれるべきはマリアンヌ様だけではなかったのです」
コンラート様の発言を受け、ルドルフ法務卿がフェリクス殿下にそう告げた。
※
裁定の後、身勝手な殺人を犯したマリアンヌ様は処刑されることが決まった。処刑のときに呪いの言葉を向けたのは、最後に自分を見捨てたフェリクス殿下だったという。
そのフェリクス殿下は、マリアンヌ様の呪いが届いたのかはわからないが、王太子には相応しくないと判断され、廃嫡となり、王宮の地下牢への無期限の幽閉が決まった。
私が王国の重大な犯罪を暴いた功績により、アルトマン男爵家は子爵家へと昇爵し、時計塔の管理には正式に予算がつけられた。中でも、ヴァレンベルク公爵が強く支持してくださったそうだ。
アデライーデ様が、いずれ王妃になったら、王国の時間を守る大事な時計塔に必要な予算を充ててくれるよう働きかけると仰ってくださっていたそうで、その意思を継いでくださったのだそうだ。
事件の後始末も落ち着いた頃、私はコンラート様と、時計塔の展望台に上がって、王都の風景を眺めていた。
「アデライーデ様とよくここで王都の町を眺めていたんです」
「そうか……。では私も友人と認められたのかな」
そんなことを言うコンラート様は、相変わらず無表情だ。
「もちろんです。いえ、友人以上の……恩人です」
私はコンラート様との関係を何と言ってよいのかまだよくわからなかった。
「そうか……。恩人か」
コンラート様の表情は変わらない。
「時計があっても、人が生きている時間は必ずしも時計に従っているのではないと思うと、私の仕事が少し虚しくなります」
無表情のまま、コンラート様が私の顔を見る。
「この世界に時間があって、そこに時計があるから、人は同じ時刻に同じ場所で会えるのだ。時計がなければ、私と君も、ずっとすれ違って、出会ってもいなかったかもしれない。時計があるから、私は毎日12時20分にここに来て君に会うこともできているのだ。
特にこの時計塔は私にとって特別なものだ。すばらしい仕事をされるあなたのお父上とここで出会い、そのお嬢様の君とも出会えた」
時計のおかげで誰かと出会えるというのは、確かに特別かもしれない。
同じ時の中で、同じ場所にいなければ、その人とは決して会えないのだから。
「父は、時間を忘れられるようなことを見つけなさい、ってよく言ってたんです」
「時間を忘れる……?」
「父にとってはそれが時計だったんです。おかしいですよね。時間を刻むための時計を作ったり、整備することに夢中になって、時間を忘れてしまうなんて……。でもそれが父にとって一番幸せな時間だったんです」
「それはとてもすてきだ」
コンラート様が無表情なお顔に、少しだけ笑みを浮かべたように見えた。
「私も、君といるときだけは、時刻を忘れてしまう」
「『定刻卿』が時刻を忘れてしまうのですか?」
今度ははっきりと、コンラート様は笑顔を見せた。
初めて見たコンラート様のその笑顔はあまりに素敵で、私も時間を忘れて見続けていたいと思った。
「そういえば、時計塔の管理に予算がつけられたので、人も雇えそうですし、もうお手伝いは大丈夫ですよ」
「いや、私が手伝いたいのだ。続けさせてほしい。予算は他のことに使えばいい」
「それはありがたいですが……。そういえば、コンラート様、いつも12時20分にいらして、巻き上げは10分で終わるのに、なぜ12時50分までいらっしゃるのですか?」
コンラート様がまた真顔に戻る。
「それは君と少しでも長く一緒にいたいからだ」
あの20分の謎の真相を、私は知ってしまった。
それは私の胸を高鳴らせる真相だった。
「では、これからも毎日12時20分にお待ちしています。でも……いつか時間も忘れてずっと一緒にいられるといいですね」
私がそう言うと、コンラート様の無表情が、いつも以上に固まった。
その様子が、何だかとてもおかしかった。
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