深邃の森の住人たち〜兄の見た夢〜
オスー氷河は近年、急速に厚みを失っている。研究者たちは、そう遠くない未来に、ピレネーの氷河が「記憶の中のもの」になる可能性を指摘している。
五つ上の兄が死んだ。兄の訃報を最初に見たのはテレビのニュースだった。
ピレネー山脈登山中の日本人ジャーナリスト死亡。
テロップで見た時、山崎花は嫌な予感がした。すぐに外務省の人から両親へ連絡が来て、本人確認のために現地に来られないかと言われたようだ。スマホの向こう側には、半狂乱で泣いている母の声がしていた。父は平静を装ってはいたが、花には父が気落ちしているのが声ですぐに分かった。
兄の翔平は、自由な人だった。
中、高と日本でも上位に入る私立に行き、大学も一流大学に入学し両親も花も、そのまま商社や外資系の有名企業に就職すると思っていたし、両親の期待も目に見えて凄かった。でも、花は知っていた。兄は立派な肩書きよりも、長期休みのたびに父と行く山や自然が好きだったこと。母に隠れて、勉強の合間にフランスやスイスの山の本を読んでいたこと。本当は、進学も有名企業にも興味がなかったこと。それでも、嬉しそうに話す母を前に何も言えなかったこと。
そして、兄はついに、誰にも相談しないまま、決まっていた会社の内定を辞退し、大学卒業と同時に海外に行った。家族からしてみれば、兄は失踪同然で出て行ってしまった。
お兄ちゃん、そんなに窮屈だったんだ。兄が消えた日、花が一番最初に感じた気持ちはそれだった。部屋の荷物はきれいに片付けられ、必要最低限の荷物だけを持って兄はいなくなった。その後の母の落胆は想像以上だった。兄が渡航した時、まだ高校生だった花に毎日兄に対する愚痴を言っていた。
父に嗜められても、母は兄のした事を許せなかったようだ。塾や大学の入学金にいくら使ったと思ってるの。と、耳が痛くなるほど聞かされ、花がギリギリで大学や会社に入っても何も言わなかった。兄ほど期待されていなくてよかったと、花は心底思った。
兄は、数年間音信不通で、ジャーナリストとして活動しているのを知ったのは、花が大学を卒業した年だった。
「大学卒業できたか?単位取り忘れなかったか?」
電話口の兄は、数年行方不明だったくせに驚くほどいつも通りだった。花は知らない番号からの電話を取った時、驚くことも怒ることも忘れて、気の抜けた声で返した。
「できたに決まってるじゃん。もう子供じゃないんだからそんなことしないよ」
兄とは、よく口喧嘩をした。花がテストの答えを間違えたりすると、兄はよくからかってきた。
「お前は、いっつも気づくのが遅いんだよ。その計算式は違うだろ?こっちを先に解かないと」
「うるさいな、わかってるよ」
記憶の中の兄は、いつも口うるさかった。渡航する直前も急に花の部屋に入ってきて、居座ったかと思ったら自分の大学受験の時のノートや問題集を渡してきて「後で気づかないように、先にやるから勉強しろよ」と、余計な口を出してきた。
「お兄ちゃんね、こっちで火葬するからね」
フランス側との遺体の輸送手続きが終わった後に、そう母から連絡が来た。花は転勤先の大阪でその連絡を受け、有給を使い、兄の葬儀に合わせて実家へ戻る事にした。職場の人たちは一様に優しく励ましてくれたが、まだ現実感のない花にとって、悲しいのか辛いのか寂しいのか、どう受け取っていいのかわからない感情だった。
『次は、名古屋に停まります』
新幹線のアナウンスが、次の停車駅を告げる。
車窓の向こうでは街灯の灯りや家々の灯りが流れていた。
(……いないって実感ないな)
車窓の外を見ながら静かに呟いた。
「……また、黙っていなくなるんだもんな」
フランスからの飛行機は、時間通りに兄を日本へ連れ帰って来た。遺体と一緒に空港から家に移動する間、母はずっと泣いていた。父は、そんな母のそばを離れなかった。
兄の顔は、綺麗に化粧を施されていて、まだ息をして眠っているかのようだった。なのに、どこか空っぽのような気がして、もうそこには兄はいないのだと、花はなんとなく思った。
(人間の体が入れ物だって、本当なんだな)
兄は、ここにはいない。じゃあ、兄はどこにいるんだろう。
家に戻ってきてからは、告別式や火葬の準備と時間は慌ただしく過ぎて行った。長い間不在にしていた兄の、友人知人に関する情報は手元にはほとんどなかったが、ニュースで事故を知ってきてくれた関係者や古い友人知人が予想以上にやってきて、花も家族も葬儀場での対応にてんやわんやだった。
火葬が終わり、ようやく落ち着いてきたところで、会場の係員に花は呼び止められた。
「あの、来賓の方がご親族にお話があると言われて受付で待たれているんですが」
怪訝そうな顔をして受付の方を見ると、黒い喪服を着た、髪を一つに束ねた女性がこちらに向かって深くお辞儀をした。花は近づいて、その女性に軽く会釈をした。
「あの、母と父は立て込んでまして、私が代わりにお話を伺います」
加藤まどかと名乗った女性は、線の細い物静かで綺麗な人だった。
「私、翔平さんと一緒に登山をしておりまして、亡くなった際にも一緒にいました。最後の状況をお話ししたいと思って、お時間をいただけますでしょうか」
まどかは泣きそうになるのを、まるで自分に言い聞かせるように必死に抑えながら話していた。
震える手を必死に隠しながら、心細そうに立ちすくんでいるまどかを見て、花は、その女性が兄の彼女だったのではないかと思った。
「あ……。両親に確認するので、こちらでお待ちください」
そう言って、会場の奥の待合室へ案内した。まどかの話をすると、両親は少し黙って、それから静かに待合室へきた。
部屋に入ってくるなり、父と母を見て、まどかは三つ指をついたまま、申し訳ございません。と言うばかりで、最初は顔を上げなかった。
「あなた、あの子と一緒に山にいたんですよね」
母の声は震えていた。
「どうして止めてくれなかったの。体調が悪いことに、気づかなかったの?」
まどかは俯いたまま、唇を噛んだ。
「……申し訳ありません」
座敷の床についた指が震えるのを、花は母の横に座りながら眺めていた。
「やめなさい」
父が、母に向かって静かに遮った。
「誰の責任でもない。登山中の事故は、本人が引き受けていたことだ」
母は父を見た。
「あなたが、あの子を山に連れて行かなければ……」
声が途切れた。母は顔を覆い、その場で泣き崩れた。まどかは、何も言わなかった。ただ俯いたまま、動かなかった。花はその様子をどこか他人事のように見ていた。
みんな、お兄ちゃんがいなくて泣いてるのに。お兄ちゃんは何にも言わないんだもんな。
いつも大事なことは誰にも何にも直接言わないで、急に消えて急に現れて。
私がいつもお母さんの愚痴を聞いてきたのに。お父さんだって何も言わないだけで心配してたのに。
黙っていた父が、不意に口を開いた。
「翔平は、楽しそうでしたか」
花と母は、一斉に父に目を向けた。父は、まどかをまっすぐに見ていた。
「あなたの目に映っていた、翔平は、楽しく山に登っていましたか」
まどかは、また目にいっぱいの涙を溜めて頷いた。
「はい。幸せそうでした」
ハンカチで目元を抑えながら、震える声で続けた。
「あの日も、天候不良の予報が出ていたから、何度も止めたんです。でも、翔平くん、この氷河がなくなってからじゃ遅い。って。大丈夫だって。まさか、足を踏み外すなんて……」
父はそれを聞いて、深いため息をついた。
「翔平は、昔から、いつかピレネー山脈に行きたいと言っていました」
その言葉を聞いて、机の引き出しの奥、参考書のカバーで偽装していつも兄が見ていた本の事が、花の頭をよぎる。
まどかが、そっとカバンから一通の封筒を取り出し、父と母の間に出した。
「翔平くんが生前残していた遺言状です。山に登る前には、いつもお守りがわりにって、用意していました」
父は、封筒の中身を確認し、折り畳まれた紙を一枚取り出した。
遺言書
遺言者 山崎翔平は、以下のとおり遺言する。
第1条
私の所有する預貯金その他一切の財産は、妹 山崎花に相続させる。
第2条
私の死後、私の登山記録、写真、取材ノート、原稿データの管理は、加藤まどかに任せる。
第3条
私の遺骨については、可能な限り、山に近い場所へ帰してほしい。
その具体的な方法は、父 山崎誠および加藤まどかの判断に委ねる。
付言事項
花、今しか見れないもの、たくさん見て、好きに生きろよ。
令和10年9月10日
東京都文京区川北町3丁目30番1号
山崎翔平 印
母は、遺言状を見て、また涙を流した。
「なんで、こんな勝手に……」
好きに生きろよ。
涙なんて出なかった。その一言が、ただ、花にはほんの少しだけ腹立たしかった。
好きに生きたのはお兄ちゃんで、好きに生きさせてくれなかったのも、お兄ちゃんじゃない。
花は黙って立ち上がった。そして、隣の祭壇のある部屋の襖を勢いよく開け、真っ直ぐに祭壇へ歩いて行った。
兄の写真の後ろにある、白い布に包まれた骨壺を持ち上げると、そのまま戻ってきて、まどかの前に差し出した。
「連れて帰ってあげてください」
まどかが、驚いたように顔を上げる。父も母も、同時に花を見上げた。
「え……」
花は、骨壺をまどかの腕の中へ押し付けるように預けた。
「いいんです。一緒に帰ってあげてください」
母が、窓の外まで届くような声で言った。
「花!何勝手なこと言ってるの」
花は、堰を切ったかのように話し始めた。
「お兄ちゃんは、好きに生きた。何もかも放り出して、勝手に消えて勝手に連絡してきて。それなら、最後まで遺言通りにしてあげればいい」
怒っているんじゃない。悲しいのとも違うこの感情がなんなのか、花にはわからなかった。
「貴方が決めることじゃないでしょう!翔平がやっと帰ってきたのよ」
母が、まどかから骨壺を奪い取って抱きしめた。
立ち尽くした花と、骨壺にしがみついて泣く母とで部屋の中はひどくちぐはぐな空間だった。
父が、黙って母から骨壺を受け取ると、包んであった白い布を丁寧に外し、おもむろに蓋を開けた。
「お父さん、何してるの」
母の制止する声を無視して、布の上に骨をパラパラと流し込む。
「分骨だ」
そう言うと、骨を包んだ布をまどかに持たせた。
「まどかさん、遺骨の全部は差し出せないが、この骨は、あなたが好きにして構わない」
まどかの目から、涙が落ちた。受け取った布を大事そうに両手で包み込み、下を向いて泣いている。
「ありがとうございます」
その言葉を言うのが、精一杯のように花には見えた。まどかは、深くお辞儀をしながら肩を震わせていた。
東の空が、白み始めていた。藍色の空が淡いグラデーションを描き、遠い山並みの輪郭を少しずつ浮かび上がらせていく。
翌年の七月の初めに、花は父と、長野県安曇野市にある北アルプスの蝶ヶ岳の山頂に立っていた。
兄が初めて父と登り、山に魅了された場所を見に行かないかと、父に誘われた。母も誘ってはみたが、一周忌が終わっていないから。と理由を付けて断られた。母は、あの葬儀の後からどこかおとなしくなった。
蝶ヶ岳の山頂は、山小屋から離れている。夜が明ける前にヘッデンを付け、灯りを頼りに尾根を歩くと15分ほどで山頂に到着した。
「日の出の前後三十分が、一番綺麗だぞ」
父が隣で、水筒から注いだ熱いコーヒーを飲みながら言った。
「うん」
やがて、遠い山並みの向こうから太陽が顔を出した。朝の光が、槍・穂高連峰の山肌を赤く染めていく。
花は、モルゲンロートに目を奪われていた。頬にあたる風は冷たく、ダウンを着ていないと寒いくらいなのに日が昇るにつれて徐々に空気が暖かくなるのがわかる。
お兄ちゃん、いつもこんな景色を見てたの。
「いっつも気づくのが遅いんだよ、お前は」
花は、咄嗟に振り返った。
昇り始めた太陽の光の中に、笑ってこちらを見ている兄がいたような気がした。
不意に、涙が頬を伝った。あの時感じた感情に、自分の中で、やっと名前がついた。
頬を拭い、鼻を啜ると、隣に立つ父が静かに言った。
「また、命日に来るか」
花は、ただ頷くことしかできなかった。




