森の朝
森の中に、やわらかな光が落ちていた。
それは朝のものに似ていた。
柔らかく、淡く、空気を解くような光。
頭上から差し込む光は、すでに高い位置にある。朝というには遅く、昼と呼ぶにはまだ曖昧な時間。
木々の隙間を縫うように、細く伸びた光が地面へ届いている。
だが、その光はどこか不安定だった。
揺れているわけではない。
けれど、まっすぐでもない。
まるで、途中で何かに触れて、わずかに歪められているような。……まっすぐ届いていないような、そんな歪みだった。
その光の中に、ひとつの影がある。
リオは、木の根元に背を預けていた。
座ったまま、ほんの少しだけ身体を傾けて休んでいたはずだった。
──どうやら、そのまま眠っていたらしい。
どれくらい、そうしていたのかは分からない。
時間の感覚が、やけに曖昧だった。
長かったのか、短かったのか。
その区別さえ、はっきりしない。
……まるで、その区別自体に意味が無いようにも思えた。
ゆっくりと、瞼が持ち上がる。
視界に入るのは、光。
だがそれは、はっきりとした輪郭を持たない。
木々の間から差し込んでいるはずなのに、どこから来ているのか分からない。
ただ、そこにある。
空気は静かに満ちていた。
冷たくも温かくもなく、ただやわらかく肌に触れている。
遠くで葉が揺れたはずなのに、その音は近くから届いたようにも感じられた。
木々は動いていない。
それでも、視界の奥行きだけがわずかに揺らいでいる。
どこまでが近くで、どこからが遠いのか。
その境界が、曖昧に溶けている。
それでもリオは、それを自然に受け入れていた。
「……」
体を起こす。
不思議と、重さはない。
むしろ、少し軽い。
長く休んだあとのような、そんな感覚。
(……寝てたんだ)
そう思う。
だが、それ以上は考えない。
眠っていた理由も、ここにいる理由も。
どちらも、必要ではないように思えた。
視線を上げれば、そこには森が広がっている。
変わらない景色。
それなのに、どこまで続いているのか、分からない。奥行きが、掴めない。
近くにある木と、遠くにあるはずの木。その距離が、どこか曖昧に重なっている。
見えているのに、測れない……そんな感覚。
どこまで行けば届くのか、それさえ分からない距離だった。
風が吹いて、葉が揺れる。
だが、その音はすぐには届かない。一拍遅れて、わずかに耳に触れる。
あるいは──途中で、ほどける。最後まで音にならないまま、消えていく。
森は、静かだった。
ただ音がないわけではない。
音はある。動きもある。それでもなお──静かだと分かる。そんな静けさだった。
(……落ち着く)
ふと、そう思う。
理由はない。
だが、それが自然だった。
光が、髪に触れる。
やけに光を拾う色だ。
白くも見えるし、淡い金にも見える。どちらとも決めきれない、不確かな色。
それでも、それが当たり前のようにそこにあった。
「……起きたか」
声が、横から落ちる。リオはそちらを見ると、隣には男がいた。
木にもたれるように立って腕を組み、視線はわずかに伏せられている。
最初からそこにいたかのように。
「……うん」
自然に、答える。
「……ちょっと休んでたら、寝てたみたい」
軽く言う。
事実のはずなのに、どこか他人事のようでもあった。
男は、少しだけ間を置いてから。
「……そうか」
とだけ返した。
それ以上は続かない。
だが、それで足りている。
少年は立ち上がる。
土の感触が、わずかに柔らかい。踏み込むと、少しだけ沈む。
だが、それもすぐに戻る。
まるで、形を記憶していないかのように。
「……音、少ないね」
ぽつりと呟く。
自分でも、なぜそう思ったのかは分からない。
ただ、そう感じた。
男は少しだけ視線を上げて。
「……そういう場所だ」
とだけ言った。
説明にはなっていない。だが、それで十分だった。
「……そっか」
少年は、小さく頷く。
それ以上は聞かない。
聞く必要がないと、どこかで分かっていた。
しばらく、沈黙が続く。
風が抜ける。
光が揺れる。
同じ景色のはずなのに、どこか固定されているようにも見える。
動いているのに、変わっていない。……変化しているはずのものが、どこにも進んでいないような違和感。
それでも──不思議と気にならない。
「……」
リオは森の奥を見る。
深く、続いている。
どこまで続いているのかは分からない。
けれど。
「……行ってみようかな」
ぽつりと、呟く。
理由はない。ただ、そう思っただけ。
男は何も言わない。
止めることも、肯定することもなく。ただ、そこにいる。
リオは少しだけ振り返って、
「……来る?」
と軽く言う。
男はわずかに間を置いてから、ほんの一瞬だけ、動きを止めて。
何も言わず歩き出した。それで、十分だった。
二人は、そのまま森の奥へ進んでいく。
どちらが先でもなく。どちらが導くでもなく。
ただ、同じ方向へ。
同じ速さで。
足音が、わずかに響く。それだけが、やけに現実的だった。
それ以外のすべてが、少しずつ曖昧になっていく中で。
(……いい場所だ)
ここにいることの方が、自然に思える。
考えたわけではない。
ただ、そう感じた。
***
森の外縁。
空気が、明らかに違っていた。
踏み出せば届くはずの距離にある木々が、どこか遠くに引いて見える。
奥へと続くはずの地面は、影に沈み、その先の起伏を掴ませない。
風が抜ける。
だがその流れは、森の手前でわずかに揺らぎ、奥へは真っ直ぐに届いていないように見えた。
木々は同じように並んでいる。
けれど、その奥へと続く影は、どこか深く沈んでいる。
「……ここから先か」
低い声。
重装の騎士たちが、森の前に立っていた。
誰も、すぐには踏み込まない。視線だけが、奥へ向けられる。
「報告は、ここで途切れている」
別の男が言う。
「……目撃情報は」
「白に近い金の髪。碧の瞳」
短く、返る。
沈黙。
「……似ている、というだけだ」
「確証はない」
それでも。
「……可能性はある」
誰も否定しない。
──できない。
風が吹く。
森の奥から流れてくるそれは、どこか冷たかった。
「……行くぞ」
号令が落ちる。
一歩、踏み出す。
その瞬間──森の空気が、わずかに歪んだ気がした。
誰も、それを言葉にはしない。……言葉にした瞬間、何かが崩れる気がしていたから。
ただ、分かっている。
ここは、自分たちの知る場所ではない。
それでも──進むしかない。
騎士たちは、森の中へと足を踏み入れた。
その奥へ。
まだ見ぬ“何か”を、確かめるために。
……それが何であるのかも分からないまま。




